第4話
雨上がりの翌昼、別邸の門前に一騎の早馬が滑り込んできた。
私がカフェでガブリエルに遭遇した日から数えて、五日目のことである。
庭の木陰で剪定鋏を手にしていた私は、慌てて生垣の陰に身を潜めた。もちろん、私から半径五メートルの範囲には紫黒の瘴気が立ち昇っているが、門扉からは十分な距離がある。
馬から降り立ったのは、神殿騎士団の制服を着た眼鏡の青年だった。
庭の隅で乾かした天幕を張り直していたガブリエルが、すぐに気づいて鉄柵の門の外へと出ていく。
「ガブリエル! やはりここにいたのか!」
「ルーカス副団長、わざわざ王都からどうしたのだ」
ガブリエルは昨日の教訓を覚えているらしく、少し抑えた声で応じた。だが、ルーカスと呼ばれた副団長は額の汗を拭う余裕もなく、険しい顔で詰め寄った。
「どうしたではない! アシュフィールド伯爵令嬢の解呪はどうなった! 神殿の上層部が『たかが呪い一つに筆頭聖騎士が何日かけているのか』と毎日うるさいのだぞ!」
「むう……ご苦労をかける」
「上層部はな、名門伯爵家の娘を鮮やかな奇跡で救い出し、神殿の威信を王都中に知らしめる功績を早く持ち帰れと督促しているのだ! さあ、今すぐ解呪を済ませて私と帰還しろ!」
生垣の後ろで、私の眉がぴくりと跳ねた。
神殿の威信を示す功績。つまり、私の平穏な暮らしを壊してでも、上層部とやらは自分たちの宣伝材料が欲しいというわけだ。反吐が出るほど身勝手な言い分である。
だが、門の前に立つガブリエルは、太い腕を組んで静かに首を横に振った。
「断る、ルーカス。私はまだ王都へは戻らない」
「なっ……なぜだ!? お前の神聖魔力なら、その令嬢の呪いなど一瞬で焼き払えるはずだろう!」
「力の問題ではない。ヘレナ嬢ご本人が、解呪を望んでおられないのだ」
ガブリエルの言葉に、ルーカスは信じられないものを見るように目を見開いた。
「本人が望まないだと? 馬鹿を言え、呪われて喜ぶ人間がいるものか! 嘆願書を出した伯爵閣下も解呪を求めておられるのだぞ!」
「家に何を求められようと、苦しむのも暮らすのもご本人だ! 本人が望まない救済など、ただの暴力に過ぎない!」
熱がこもりかけた声を、ガブリエルは自分で咳払いをしてぐっと落とした。ちらりと屋敷の方を気遣うように一瞥してから、真面目な顔で同僚に向き直る。
「私は彼女と約束したのだ。無理強いはせず、この庭で働きながら対話を続けると。まだ彼女と話すべきことがある。上層部には『筆頭聖騎士の判断で現地調査を継続中だ』と伝えてくれ!」
「お前というやつは……! これ以上長引けば、いくらお前でも立場が悪くなるぞ!」
「構わん。どれほど叱責されようと、彼女の静かな時間を踏みにじるよりは百倍マシだ」
ルーカスは頭を抱えて深い溜息をついたが、ガブリエルの頑固さをよく知っているのか、「……あと数日しか誤魔化せんからな!」と吐き捨てて馬に飛び乗った。
蹄の音が遠ざかっていく。
ガブリエルはしばらく街道を見つめた後、何事もなかったかのように門を閉め、白線の向こう側へと戻って再び薪棚の整理を始めた。私に恩を着せるように報告してくることすらない。
私は生垣の陰から出て、剪定鋏を籠に戻した。
ここ数日、彼は本当に一度も白線を越えず、私の読書の邪魔もせず、言いつけた庭仕事を完璧にこなしてきた。そればかりか、今のように神殿からの督促を一人で引き受け、私を矢面に立たせないよう追い返してみせたのだ。
「……お人好しにもほどがありますわ」
私は小さく呟くと、屋敷の厨房へと足を向けた。
厨房の五メートル手前で声をかけると、マルタがひょいと顔を出した。
「マルタ、お湯を沸かしてあります?」
「ええ、お嬢様。いつでもお茶を淹れられますよ」
「では、茶器を二人分と、とっておきのアールグレイを配膳台に出してちょうだい。私が自分で淹れますから」
マルタは目を丸くし、それから楽しそうに口元を緩めた。
「おやまあ、お客様用のお茶でございますか」
「お客様ではありません! 庭師兼門番への、当然の労いですわ!」
私はぷいと横を向き、マルタが定位置の配膳台に置いてくれた銀のポットと二つのティーカップを受け取った。
テラスのテーブルでお湯を注ぎ、茶葉がジャンピングするのを待って、香り高い琥珀色の紅茶をカップに満たす。
お盆を手に持った私は、テラスの石段を降り、芝生に引かれた石灰の白線へと歩み寄った。
「ガブリエル様。手を止めなさい」
薪を積んでいたガブリエルが振り返り、お盆を持った私を見てきょとんとした。
「ヘレナ嬢? どうしたのだ、まだお茶の時間には早いが……」
「ええ。ですが、今からあなたにもお茶を差し上げます」
私は白線のすぐ手前で立ち止まり、彼をまっすぐに見つめた。
「あなたがこの四日間、私の決めた境界線を一度も破らず、先ほども神殿の使いから私の静けさを守ったことは知っております。約束を守った働きには、相応の報いを与えなければ私の気が済みませんわ」
「い、いや、私はただ自分の罪滅ぼしとして当然のことを――」
「つべこべ言わないの! 今だけ特別に、その白線を越えて、私から半径二メートルまで近づくことを許します。それ以上遠いと、お茶を渡せませんからね!」
ガブリエルは息を呑み、信じられないというように自分の足元の白線と私の顔を見比べた。
それから、まるで壊れ物でも扱うような慎重な足取りで白線をまたぎ、私の周囲に渦巻く紫黒の瘴気の中へと踏み込んできた。
常人なら五メートルの境界に触れただけで顔面蒼白になり、歯の根も合わぬほど震え上がる精神威圧の呪いだ。
だというのに、四メートル、三メートル、そして私の目の前二メートルまで近づいても、ガブリエルの歩みは少しも揺らがなかった。彼の身を包む清らかな神聖魔力が、私の放つおぞましい呪気をまるで春風のように受け流している。
私がお盆ごと腕を伸ばすと、ガブリエルは一歩踏み出し、大きな両手でソーサーごとカップを受け取った。
「……いいのか? 君の大切な茶器だろうに」
「落とさないでくだされば結構ですわ。さあ、冷めないうちにお飲みなさい」
私は二メートル離れた位置で、自分のカップを口へ運んだ。
目の前で、ガブリエルが立ち昇る湯気に目を細め、温かい紅茶を一口含んだ。次の瞬間、彼の端整な顔が、まるで子供のようにぱあっと明るくほころんだ。
「……うまい! すごくいい香りだ、ヘレナ嬢! こんなに温かくて美味しい紅茶を飲んだのは、生まれて初めてかもしれない!」
「大げさですわね。ただのアールグレイですのに」
呆れたように言いながらも、私の視線はカップを両手で包み込む彼の指先に吸い寄せられていた。
一年前にこの呪いにかかって以来、私は誰ともこんな距離で向き合ったことがない。マルタでさえ五メートル離れた配膳台越しで、お茶を飲む時はいつだって一人きりだった。誰かと一緒に、湯気が冷めない距離で同じ紅茶を味わうことなど、もう一生ないと思っていたのだ。
なのに今、私の濃い瘴気の真ん中で、この男は顔色一つ変えず、心底幸せそうに温かい紅茶を飲んでいる。
「本当に、何ともないのですわね。こんな近くで私の瘴気を浴びて」
「ん? ああ、少しも怖くはないぞ! むしろ、こうして君の近くでお茶をいただけて、胸がいっぱいだ!」
屈託なく笑う碧眼が眩しくて、私は慌てて自分のカップで口元を隠した。
胸の奥が、紅茶の熱とは違う何かでわずかにこそばゆい。
けれど同時に、先ほど門の前でルーカス副団長が口にしていた言葉が、私の耳の奥に引っかかっていた。
なぜ神殿の上層部は、そして彼自身は、そこまで『解呪の功績』というものを背負わされているのか――カップを空にした彼の横顔を見つめながら、私はその理由を思わずにはいられなかった。




