第3話
あの暑苦しい筆頭聖騎士に庭の片隅を貸してから、三日目の午後を迎えていた。
私がカフェで粗塩をぶちまけたあの日から数えれば、四日目にあたる。
私は居間の窓辺に置いた肘掛け椅子に身を沈め、刺繍枠の布地からふっと視線を上げた。
窓ガラスの向こう、石灰で引いた白い線のさらに外側で、ガブリエル・フォン・ルクスが黙々と斧を振るっている。
パァン、と乾いた快音を立てて、太い丸太が真っ二つに割れた。
彼は額の汗を袖で拭うと、割ったばかりの薪を寸分の狂いもなく裏手の薪棚へと積み上げていく。ここ二日間というもの、彼は私の懸念をよそに、驚くほど忠実に言いつけを守っていた。
初日に「大声がすでに空気ではありませんのよ!」と叱りつけて以来、彼は庭でただの一度も大声を出していない。
朝、私が窓を開ければ、白線の向こうで胸に手を当てて無言のまま深々と一礼する。昼間は伸び放題だった裏庭の雑草を根こそぎ抜き、夕方には一冬分はありそうな薪の山を築き上げた。もちろん、屋敷の建物には指一本触れず、私から半径五メートルの距離もきっちりと保っている。
「……本当に、言われた通りに働いておりますわね」
私の周囲でゆらめく紫黒の瘴気が、満足げにふわりと揺れた。
どうせ一日も経たずに「やはり解呪を!」と白線を踏み越えてくるか、慣れない雑用に音を上げて王都へ逃げ帰るかのどちらかだと思っていたのに。筆頭聖騎士という肩書は伊達ではなく、一度口にした約束は意地でも守るつもりらしい。
そう思いながら刺繍針を刺し直した時だった。
窓の外がにわかに暗くなり、冷たい風が庭の木々をざわめかせた。
ぽつり、と窓ガラスに大粒の水滴がぶつかる。
次の瞬間には、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が庭を叩きつけ始めた。
「まあ、ひどい通り雨ですこと……」
立ち上がって窓から外を覗き込むと、庭の隅に張られた白い天幕が激しい風雨に煽られていた。
あそこは少し土地が低くなっている。みるみるうちに芝生の上を茶色い雨水が流れ、天幕の裾から中へと浸水し始めていた。
ガブリエルは薪に防水布を手早くかけ終えると、ずぶ濡れになりながら天幕の周囲に水路を掘ろうとしゃがみ込んだ。しかし雨脚は強まるばかりで、彼の金髪は額に張り付き、白銀の胸当てから滝のように雫が垂れている。
それでも彼は、私が引いた石灰の白線だけは絶対に越えまいと、天幕の脇から一歩もこちらへ近づこうとしなかった。
「……馬鹿ですわね。あんな水浸しの場所で意地を張って」
私は小さくため息をつくと、刺繍枠をテーブルに置いた。
玄関脇の傘立てから黒い雨傘を一本抜き取り、自分の読むための革装の本を小脇に抱えて、屋根のある広々としたテラスへと出る。
テラスの石畳の端から、雨の庭に向かって傘を差し出し、声を張った。
「――そこの筆頭聖騎士様! 聞こえておりますか!」
雨音の中で、ガブリエルがばっと顔を上げた。雫を弾きながら立ち上がり、白線の向こうで姿勢を正す。
「何用だろうか、ヘレナ嬢! 薪なら濡れないよう処置を終えたぞ!」
「薪の心配はしておりません! あなたの天幕、底が水に浸かっておりますわ!」
私はテラスの石柱の端――私がいつも座る籐の長椅子から、ちょうど五メートル以上離れた軒下の一角を指差した。
「ここ二日間、あなたが約束を守って静かに働いていたことは認めてあげます。ですから、雨が止むまでの間だけ、このテラスの軒下の端に入ることを許しますわ! そこなら私から五メートル離れておりますから、早く来なさい!」
ガブリエルが目を瞬かせた。
彼は自分の濡れそぼった姿と、私が指差した乾いた軒下を見比べ、それからぱあっと顔を輝かせた。
「ほ、本当か!? しかし、白線を越えることに――」
「特例です! 風邪でも引いて作業が遅れたら、私の庭が片付かないでしょう! つべこべ言わずにいらっしゃい!」
私が傘の先で促すと、ガブリエルは「かたじけない!」と短く応じ、大股で庭を横切ってきた。
彼はテラスの石段の端へ上がると、雨の吹き込まない壁際にぴたりと背をつけた。
私が傘を閉じて定位置の長椅子に腰を下ろすと、彼との間にはきっちり五メートル強の距離が空いている。私の『嗤う魔女の呪い』の瘴気がかすかに届く境界線だが、彼の強靭な神聖魔力は相変わらずそれを涼しい顔で受け流していた。
ガブリエルは足元の石畳が濡れているのを気にしたらしく、一歩も動かずにその場で直立した。
少しでも身じろぎすれば白銀の具足がカチャリと鳴る。彼はそれに気づくと、なんと両手で自分の胸当てと腰の剣の留め具をぎゅっと押さえ込み、金属音が一切出ないように固定したのだ。
私が膝の上で革装の本を開くと、ガブリエルが何か言いたげに口を開きかけた。
私がちらりと視線を向けると、彼ははっとしたように自分の口元を片手で覆い、眉を下げて首を横に振った。それから、雨音にかき消されそうなほど極限まで落とした声量で、かすかに唇を動かした。
「……感謝する。お構いなく」
ささやき声というより、ほとんど息の音に近い。
あの日、カフェのテラス席に天を割るような大音声で飛び込んできた同じ人間とはとても思えなかった。
「……ええ。読書中ですから、その音量で結構ですわ」
私は本に視線を戻し、最初の頁をめくった。
ザーザーと庭の芝生を叩く雨音だけが、一定の調べとなってテラスを満たしていく。
しばらくの間、私は文字を追い続けた。
いつもなら、視界の端に他人が入っているだけで肩が凝り、どんな挨拶や世辞を返すべきかと神経がすり減っていたはずだ。伯爵家にいた頃は、サロンで本を開いていても、誰かが近づいてくる足音ひとつで心臓が嫌な音を立てていた。
だが今、五メートル先の柱の陰にいる大男は、本当に石像のように動かなかった。
ただ、時折そちらへ目をやると、彼は濡れた前髪から垂れてくる雫がくすぐったいのか、具足を押さえたまま鼻の頭をひくひくと動かしている。
――ふ、ふえっ……。
不意に、かすかな気配がした。
横目で見ると、ガブリエルが押し寄せるくしゃみの衝動を必死に噛み殺していた。読書の邪魔になるまいと、鼻と口を片手で全力で塞ぎ、眉間に深い皺を寄せて目を見開いている。端整な顔が、まるで酸っぱい木の実を丸呑みしたような奇妙な形に歪んでいた。
ぷすっ、と空気だけが漏れる小さな音がして、彼は涙目になりながらも見事にくしゃみを封じ込めた。
そして何事もなかったかのように澄ました顔に戻り、私と目が合うと、気まずそうに頬を赤らめて視線を逸らした。
「……ぷっ」
思わず私の口から小さな笑みが漏れた。慌てて本の頁で口元を隠す。
なんなのだ、その必死な顔は。筆頭聖騎士ともあろう者が、たかがくしゃみ一つに命がけの顔をするなど、滑稽にもほどがある。
その時、屋敷の奥からことことと車輪の音が近づいてきた。
テラスに面したガラス戸の内側、私から五メートル離れた廊下の定位置に、マルタが配膳台を押し出してきたのだ。台の上には、湯気を立てる乾いた大判のタオルが二枚と、床を拭くための布が積まれている。
「お嬢様、雨脚が強うございますね。そちらの大きな雨宿りの方にも、拭くものを置いておきますよ」
「ありがとう、マルタ」
マルタはガラス戸の向こうから、壁際に張り付いているガブリエルを一瞥し、「おやまあ、ずいぶん行儀のいい濡れ鼠だこと」と小さく呟いて奥へと戻っていった。
私は本にしおりを挟み、顎で配膳台の方を示した。
「ガブリエル様。あちらのタオルを使ってよろしくてよ。そのまま突っ立っていられたら、見ているこちらが寒々しいですわ」
ガブリエルはぱちくりと瞬きをし、それから再び極小の声量で応じた。
「……すまない。ありがたく使わせてもらう」
彼は足音を忍ばせ、具足の留め具を片手で押さえたままの窮屈な歩き方で配膳台へと寄り、タオルを一枚手に取った。
そして元の壁際へ戻ると、やはり布が擦れる音すら最小限に抑えながら、濡れた金髪と首筋を丁寧に拭き始めた。床に落ちた水滴も、もう一枚の布で屈み込んで綺麗に拭き取っている。
私が再び本を開くと、テラスにはまた、心地よい雨音と頁をめくる微かな紙の音だけが残った。
一章を読み終える頃には、あれほど激しかった雨が嘘のように小降りになり、雲の切れ間から淡い夕陽が差し込み始めていた。
私はゆっくりと本を閉じ、長椅子から立ち上がった。
「……ずいぶん静かにできるではありませんか。見直しましたわ」
声をかけると、タオルを綺麗に畳んで持っていたガブリエルが、少し照れたように目元を和らげた。まだ声量は控えめなままだ。
「君がどれほどこの静かな時間を大切にしているか、ここ数日でよくわかったからな。それを壊すような真似は、もう二度としないと決めたのだ」
「その言葉、忘れないでちょうだいね」
私は雨上がりの匂いが立ち込める庭へと視線を向けた。
「明日は晴れますから、天幕と地面が乾いたら、また元の場所へ戻ってくださいね。あと四日間、今日のように静かにしていられるなら、そのまま庭を貸してあげますわ」
「ああ! ……っと、むう、つい声が大きくなった。心得た、ヘレナ嬢」
自分で自分の口を押さえて反省する彼に、私は呆れたように肩をすくめ、屋敷の中へと足を向けた。
他人がすぐそこにいたというのに、不思議と胸の奥は波立たず、読書の余韻が穏やかに残っている。
けれど、この真面目すぎる筆頭聖騎士がこれほど長く王都を留守にしていて、あの面倒な神殿の上層部とやらがいつまで黙っているものか――その小さな引っかかりは、晴れた翌日にすぐ形となって現れることになった。




