第2話
翌朝、小鳥のさえずりで目を覚ました私は、窓掛けを少しだけ開けて庭を見下ろした。
一晩寝れば、昨日のあれは質の悪い白昼夢だったと笑える気がしていたのだ。
だが、芝生の片隅には、朝露を弾く真っ白な軍用天幕が堂々と聳え立っていた。
その横では、白銀の胸当てを外した軽装で、ガブリエル・フォン・ルクスが朝の素振りに励んでいる。ぶん、と風を切る聖剣の音がここまで届きそうだ。
「……夢ではありませんのね」
私はため息をつき、紫黒の瘴気をゆらめかせながら食堂へと向かった。
食堂の入り口からきっちり五メートル離れた廊下の定位置に、車輪付きの配膳台が置かれている。老家政婦のマルタが、湯気の立つ紅茶のポットと焼きたてのパンを並べ終えたところだった。
母方の祖母の代からこの別邸に仕えるマルタは、私の『嗤う魔女の呪い』が及ぶ半径五メートルの輪を決して踏まない。私が呪われてこの家へ移り住んで以来、こうして距離を測って配膳台を押し出し、私が引き取る手順がすっかり日常になっていた。
「おはようございます、お嬢様。お庭にずいぶん大きな白い茸が生えておりますねえ」
「ええ、マルタ。とてもやかましい毒茸ですわ。今から引っこ抜いてまいります」
私が離れた位置から声を張ると、マルタは皺深い目元を細めて「やれやれ、お嬢様のお茶が冷めないうちにどうぞ」とだけ言い、厨房へと下がっていった。
私は紅茶を一口飲んで喉を潤すと、玄関の閂を抜き、扉を大きく開け放った。
「――そこにいる筆頭聖騎士様! 聞こえておりますわね!」
朝の空気を裂く私の声に、素振りをしていたガブリエルがぴたりと動きを止めた。
彼は汗を拭いもせず、輝くばかりの笑顔でこちらへ向き直る。
「おお、おはようヘレナ嬢! よく眠れただろうか! この屋敷の庭は空気が澄んでいて実に清々しいな!」
「清々しくありません! あなたのせいで目覚めは最悪です!」
私は玄関の石段の上に立ったまま、びしりと鉄柵の門を指差した。
「昨日は日が暮れていたから見逃しただけです! ここは私の屋敷の敷地ですわ。不法侵入で衛兵を呼ばれたくなければ、今すぐその目障りな天幕を畳んで、門の外へ出なさい!」
ガブリエルが目を丸くした。
彼は私が張ったままの濃い瘴気と天幕、そして私の険しい顔を交互に見た。何か熱く反論してくるかと思いきや、彼はふっと眉を下げ、驚くほど素直に頷いた。
「……わかった。君の言う通りだ」
「えっ?」
「主の許しなく居座ったのは、紛れもなく私の非礼だ。すぐに撤収する!」
ガブリエルは言葉通り、見事な手際で天幕の杭を抜き始めた。
布を折り畳み、支柱を革袋に収め、背嚢を背負うまでわずか数分。彼は芝生に開いた杭の穴まで靴底で丁寧に均すと、本当に鉄柵の門をくぐり、公道側へと出ていってしまったのだ。
ガチャン、と門扉が閉まる。
あっけにとられた私は、石段を降りて門の手前まで歩み寄った。ただし、門扉にいる彼からきっちり五メートル手前の位置で足を止める。
鉄柵の向こう側で、大荷物を背負ったガブリエルが直立不動の姿勢を取り、深々と頭を下げた。
「昨日は実にすまなかった! カフェでの乱暴狼藉、ならびに帰宅した君を追いかけ回して恐怖を与えたこと、弁解の余地もない!」
朝の通りに、朗々とした謝罪の声が響き渡る。
「……ずいぶん素直に退きましたわね。また『セーフだ!』とかなんとか屁理屈をこねるかと思っておりましたけれど」
「一晩、夜風に当たりながら自分の振る舞いを振り返ったのだ! 苦しむ人を救いたいあまり、私は君の言葉を聞く耳を持とうとしなかった。騎士として恥ずべき独善だったと反省している!」
顔を上げたガブリエルの碧眼は、昨日と同じくらい真っ直ぐで、一点の曇りもなかった。裏表のなさだけは本物らしい。
「ひとつ伺いますけれど。昨日、カフェで私は名乗っておりませんわよね? なぜ私の名前と、この別邸の場所を知っていたのです」
「ああ、それについては神殿に届いていた書類で知ったのだ」
「書類?」
「うむ。先月、アシュフィールド伯爵家から神殿本部へ『呪われた娘が郊外の別邸に引きこもっているので、高位の聖騎士を派遣して解呪してほしい』という正式な嘆願書が出されていてな。街で見かけた君の瘴気がその記述と一致したため、あのような突撃をしてしまった!」
私はこめかみを押さえた。
あの実家、私を体裁よく厄介払いしておきながら、余計なことをしてくれたものだ。どうせ呪いが解けたら、また面倒な縁談の駒に引き戻すつもりなのだろう。
「……事情はわかりました。ですが、その嘆願書は実家が勝手に出したものです。私自身は解呪など少しも望んでおりませんし、今の暮らしに心底満足しておりますの。おわかりになりましたら、そのまま王都へお帰りくださいませ」
彼はすでに門の外にいる。このまま私が背を向けて屋敷に入れば、それでこの騒動は終わりだ。彼が無理やり門を壊して入ってくるような暴漢でないことは、今の素直な撤収ぶりを見ればわかる。
ガブリエルは背嚢の革紐を握りしめ、唇を噛んだ。
「……ああ。君が帰れと命じるなら、私はこのまま立ち去ろう。神殿へ戻り、アシュフィールド嬢本人に解呪の意思はないと報告するつもりだ」
「ええ、そうしてちょうだい」
「だが……! 正直に言えば、このまま帰るのは非常に心苦しい!」
ガブリエルが身を乗り出し、鉄柵に顔を近づけそうになって、はっと自分で一歩下がった。
「私は昨日、君の大事なティータイムを台無しにし、スコーンを砂埃まみれにした! にもかかわらず、何の償いもせぬまま詫びの言葉ひとつで立ち去るのは、私の騎士道が許さないのだ!」
「償いなど結構ですわ。二度と現れないことが一番の償いです!」
「それに、神殿の上層部は伯爵家の嘆願を重視している。私が手ぶらで戻れば、私の代わりに別の聖騎士をここへ差し向けると言い出しかねない!」
その言葉に、私の眉がぴくりと動いた。
昨日の彼のようにいきなり剣を抜いて突撃してくる解呪馬鹿が、今後も入れ替わり立ち替わり押し寄せる可能性があるということだ。
「……それは、非常に困りますわね」
「であろう!? だが筆頭聖騎士である私が『現地で調査・対話中である』として留まっていれば、他の者が勝手に派遣されることはない!」
ガブリエルは胸を張り、目を輝かせて提案してきた。
「そこでだ、ヘレナ嬢! 私に昨日の罪滅ぼしとして、この屋敷の雑用と門番をさせてくれないだろうか! 解呪は決して無理強いしない! 君の邪魔にならないよう、庭の隅で静かに働き、不審者や神殿の使いから君の平穏を守ると誓おう!」
私は腕を組み、門の外で熱弁を振るう金髪の青年をじっと値踏みした。
実家や神殿が別の聞き分けのない騎士を送り込んできたら、また一から押し問答のやり直しだ。それに、この別邸は広すぎて、高齢のマルタ一人では庭の草むしりや冬に向けた薪割りまで手が回っていないのも事実だった。
目の前の男は暑苦しくて思い込みが激しいが、先ほど「門の外へ出なさい」と言われた瞬間、言い訳ひとつせず本当に天幕を畳んで出ていった。自分の立てた誓いには真面目に縛られる人間だ。
「……本当に、解呪を無理強いしないと言えますの?」
「誓う! 太陽神の御名と、我が騎士の誇りにかけて!」
「神様や誇りはあてになりませんわ。必要なのは具体的な規則です」
私は玄関脇に置いてあった園芸用の石灰袋を手に取ると、門から少し離れた芝生の上へ歩き、白い粉でくっきりと一本の線を引いた。
「よろしいですか、ガブリエル様。あなたに庭の片隅を貸すのは、今日から七日間だけです。その間に神殿と実家を納得させる手立てを考えなさい。条件が三つあります」
私は指を三本立てて、彼に突きつけた。
「一つ、屋敷の建物内には一歩たりとも立ち入らないこと。二つ、私が許した時以外、この白い線からこちら側へは出ず、私から半径五メートル以内に決して近づかないこと。私の瘴気が効かないからといって、勝手に距離を詰められたら不快ですわ」
「ふむ! 屋敷内は厳禁、白線と五メートルの距離を死守だな! 心得た!」
「そして三つ目。滞在中は庭の草むしりと裏手の薪割りをすべてこなしていただきます。少しでも私の読書やお茶の時間を邪魔したら、七日を待たずに即刻その門から出ていっていただきますからね!」
ガブリエルはぱあっと顔を輝かせ、甲冑が鳴るほどの勢いで敬礼した。
「感謝する、ヘレナ嬢! 必ずや君の期待に応え、空気のように静かに働いてみせよう!」
「その大声がすでに空気ではありませんのよ!」
私が門の閂を外して五メートル下がると、ガブリエルは恐縮したように首をすくめ、大げさな抜き足差し足で庭の隅へと戻っていった。
こうして私は、七日間だけこの解呪馬鹿を庭の隅に置いてやることに決めたのだが――あの有り余る熱量と大声が、本当に私の愛する静寂を乱さずにいられるのか、そこだけが最大の気がかりだった。




