第九話:三重津海軍所と黒船の進水
# 第九話:三重津海軍所と黒船の進水
## 一
慶応二年(一八六六年)春。
有明海に面した佐賀藩の拠点・三重津。潮の匂いと石炭の煤煙が入り混じるその港に、巨大な木造の船体が姿を現していた。佐賀藩が精錬方の総力を挙げ、三年以上の歳月と巨費を投じて建造した日本初の国産実用蒸気船——「凌風丸」である。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。
船体の中央に設置された国産のシリンダーが重厚なピストン運動を繰り返し、外輪が有明海の泥水を力強く掻き分けていく。黒煙が空高く立ち上り、船首が波を切り裂いて進む光景に、岸壁に集まった数千人の佐賀藩士や領民から割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「動いた……! 外国から買った船ではない! 我が佐賀の鉄と、我が佐賀の職人の手で作った蒸気船が動いたぞ!!」
甲板の上で風を受けながら、佐野常民が感極まった面持ちで叫んだ。その隣に立つ神代泰親は、手元の時計で船速を計測しながら、静かに頷いていた。
「出力、予定通り。蒸気漏れもなし。……佐野どの、これで我が藩は『陸の火力』だけでなく『海の脚』を手に入れましたな」
三重津海軍所——そこは単なる船着き場ではなかった。船を建造するドック(修船場)を備え、蒸気機関の製造・修理工場、操縦士の訓練所までを網羅した、日本初にして完璧な「近代海軍基地」であった。
他藩が莫大な金を払って外国から中古の蒸気船を購入し、部品不足や故障で港に置物にしている間に、佐賀藩は自前の技術で船を作り、直し、運用する「真の海軍力」を確立させたのである。
## 二
その三重津の様子を、密かに見つめる二人の男がいた。一人は、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)。もう一人は、長州藩の木戸準一郎(孝允)。薩長同盟を密かに結び、いよいよ幕府との全面対決(第二次幕長戦争・倒幕)へ向けて動き出していた二人は、佐賀藩の真の姿を確かめるべく、変装して三重津を訪れていたのである。
ドックに鎮座する凌風丸の精悍な姿、そしてその甲板にずらりと据え付けられた、漆黒の重砲群——。
「……すさまじか」
西郷がポツリと漏らした。太い眉が固く寄せられている。
「薩摩もイギリスから船や大砲を買い集めてきたが……佐賀は桁が違う。ここでは、船のネジ一つから大砲の火薬に至るまで、すべて自分たちの手で作っておる。……自前で兵器を補給できる藩と戦うことほど、恐ろしいものはない」
木戸準一郎もまた、冷や汗を拭いながら深々と溜め息をついた。
「長州が下関で外国船に叩きのめされ、薩摩が鹿児島を焼かれている間、佐賀は高物決め(日和見)を決め込んでいると誰もが笑っていた。……だが、笑っていたのは我らの方だったのだ。佐賀は遊んでいたのではない。『完璧な牙』を研いでいたのだ」
木戸は、三重津の目抜き通りを平然と行き交う佐賀の若い技術者たちを見つめた。
「我が長州の若者は、京都で刀を振り回して死んでいった。……だが佐賀の若者は、生き残って蒸気機関の構造を学び、大砲の精度を上げていた。どちらが『真の国を思う志』か……ぐうの音も出ん」
## 三
二人は、三重津の視察を終えた神代泰親を捉え、港の近くの茶屋へと誘い入れた。
「神代どの」
西郷が大きな体を折り曲げ、泰親に向かって深々と頭を下げた。
「無礼を承知で頼みます。薩長は近く、幕府と天下を分かつ大戦を交えます。……どうか、佐賀藩のその圧倒的な火力と海軍力を、我ら薩長に貸してはくださらんか! 佐賀が味方に就いてくだされば、天下の勝敗は一瞬で決します!」
木戸も身を乗り出した。
「薩長と同盟を結び、新しき日本の中心となられよ! 鍋島直正公にも、そうお伝えいただきたい!」
二人の熱い眼差しを受けながら、泰親は急がず茶を一口すすった。
「西郷どの、木戸どの。お気持ちはありがたい。……ですが、お断りいたします」
西郷の目がカッと見開かれた。
「なぜだ! 幕府の腐敗は目に見えておる! 異国が迫る今、日本を一つにまとめるには倒幕しかないはずだ!」
「倒幕か、幕府の維持か……それはあなたがたの『政治の都合』に過ぎませぬ」
泰親は二人の顔を交互に見つめた。
「我が佐賀藩が蓄えてきたこの火力と技術は、日本人同士が血を流し合う『内輪揉め』のために作ったものではございませぬ。異国の列強が日本を呑み込もうと狙っている今、日本国内で精力を使い果たしてどうしますか」
木戸が唇を噛みしめた。
「では、佐賀はどちらにも就かず、傍観するおつもりか!?」
「傍観ではありませぬ」
泰親は静かに立ち上がった。
「薩長と幕府が戦い、双方が疲れ果てたその時……我が佐賀藩は、誰も文句を挟めぬ『圧倒的な仲裁者』として戦場に降臨いたします。どちらに与するかは、我が殿・鍋島直正が決めることです」
## 四
西郷と木戸は、去っていく泰親の背中を、ただ茫然と見送るしかなかった。
「……化け物じゃ」
西郷が呟いた。
「薩摩も長州も、幕府も……あやつらの手のひらの上で踊らされているだけに過ぎんのかもしれん。佐賀を敵に回してはならん。絶対にだ……」
その夜。佐賀城本丸にて。泰親は藩主・鍋島直正に、西郷・木戸との密会の内容を報告していた。
「……そうか。薩長が尻尾を振って頼み込んできたか」
直正は満足そうに顎を撫でた。
「殿。大政奉還、そしてそれに続く薩長と幕府の全面戦争(戊辰戦争)は、もはや避けられませぬ。……福岡藩は『乙丑の変』で自滅し、もはや九州で頼りになるのは我が藩のみ。幕府も薩長も、我が佐賀藩の『一言』に日本の命運を託すことになります」
直正は立ち上がり、窓の外……三重津の方角を見つめた。そこでは、進水したばかりの凌風丸が、月光を浴びて黒々と輝いていた。
「泰親。わしが長年演じてきた『肥前の妖怪』の仮面を脱ぐ時が来たようだな」
「はい、殿」
「全軍に命じよ。アームストロング砲を陣列に配備し、三重津の艦隊に出撃準備をさせよ。……薩長と幕府が最後の泥仕合を始めたその瞬間に、我が佐賀藩の『答え』を突きつけてやる」
「ははっ!」
激動の幕末史が、ついに最終局面——佐賀藩が歴史の表舞台へと躍り出る「運命の決断」へと向かって加速し始めていた。
(第十話・最終話へ続く)




