第十話:決断の刻(鳥羽伏見前夜)
# 第十話:決断の刻(鳥羽伏見前夜)
## 一
慶応三年(一八六七年)十月。
十五代将軍・徳川慶喜による「大政奉還」が断行され、二百六十年続いた徳川幕府の政権は、形式上、朝廷へと返上された。
しかし、歴史の激流は止まらなかった。徳川の権力を完全に削ぎ落とそうとする薩摩・長州の主戦派と、巻き返しを図る旧幕府勢力の対立は激化。翌慶応四年正月、ついに京都郊外・鳥羽伏見の地で両軍が激突し、戊辰戦争の火蓋が切って落とされた。
天下の趨勢を握る大名たちが激動の京都に集結し、あるいは日和見を決め込むなか——。九州の雄・佐賀城本丸の大広間には、異様な静寂が満ちていた。
畳の上には、佐賀藩の重臣たちが居並び、中央には数千枚に及ぶ「日本全土の兵糧・補給線データ」と、精錬方が算出した「東西両軍の戦力比較表」が広げられていた。
「鳥羽伏見の初戦、錦の御旗を掲げた新政府軍(薩長)が、旧幕府軍を破った模様にございます!」
報告をもたらした佐野常民の声が響く。志佐家老をはじめとする重臣たちが、身を乗り出した。
「薩長が勝ったか! ならば我が藩も、一刻も早く薩長に味方し、朝廷への忠誠を示すべきでは!?」
「いや待て! 徳川の底力はこんなものではない! 江戸にはまだ巨大な海軍と旗本八万騎が残っておる。下手に動けば、我が藩が挟み撃ちにされるぞ!」
薩長か、幕府か。日本中が二つに割れて血を流すなか、佐賀藩内でも土壇場での激論が交わされていた。
ただ二人、藩主・鍋島直正と神代泰親だけが、冷ややかな目で見取り図を見つめていた。
## 二
「泰親」
直正が重々しい声で問いかけた。
「世間は我が藩を指して『肥前の妖怪』と呼ぶ。薩長と幕府の潰し合いを高みの見物し、勝利した側にすり寄る汚い日和見主義者だとな。……お前はどう思う?」
泰親は直正に向かって静かに頭を下げ、顔を上げた。その瞳には、十五年前の長崎警護の日から変わらない、冷徹なまでの「計算」だけが宿っていた。
「殿。日和見などという生ぬるいものではございませぬ。我が藩は、この日のために『力』を殺してきたのです」
泰親は立ち上がり、大広間の壁に掲げられた巨大な日本地図を指差した。
「見てご覧なさい。長州や薩摩は京都で勝利を収めましたが、弾薬の補給線は途切れがちになり、資金は底をつきかけております。一方の旧幕府軍も、最新兵器の運用方法を知らず、ただ勢いに押されて逃げ惑うばかり」
泰親の言葉が、大広間に静まり返る。
「双方とも、思想と感情で戦い、自らの首を絞めております。……ですが我が佐賀藩は違います。三重津には完全国産の蒸気船艦隊が控え、倉庫には数十万発の弾薬と、世界最強の『アームストロング砲』が完璧な状態で出撃を待っております」
泰親は直正の前まで歩み寄ると、その場に両手を突き、深く平伏した。
「殿。問わせていただきます」
十五年間、幾度となく繰り返されてきた、あの問い。
「薩長の引き立て役として後から追いかけ、ただの『勝ち馬に乗った大名』で終わりますか? それとも、この圧倒的な火力と技術で東西の戦争を圧倒的な速度で終結させ、明治の新しき政府において『誰も逆らえぬ絶対的な主導権』を握りますか? ……殿、どっちでいきますか? 選択の時です」
## 三
重臣たちが息をのんだ。直正は、ゆっくりと座から立ち上がった。その全身から、長年隠し続けてきた「覇者」のオーラが溢れ出す。
「泰親……答えなど、最初から決まっている」
直正は不敵な笑みを浮かべ、大広間の全家臣を見渡した。
「全軍に命じる! 我が佐賀藩は、朝廷(薩長)の陣営として戊辰戦争に介入する!」
「おおおっ……!」
家臣たちからどよめきが起こる。しかし、直正の言葉はそこで終わらなかった。
「ただし! 薩長の家臣として従うのではない! 我が藩のアームストロング砲隊と蒸気船艦隊を前線に投入し、東日本の敵をすべて『我が藩の火力』でなぎ払う! 薩長にも、幕府にも、我が佐賀の鉄の威力を思い知らせてやるのだ!」
「はははっー!!」
同日。かつて長崎警護をともに担い、歴史の葛藤の中で自滅していった福岡藩黒田家からは、静かな使者が訪れていた。「乙丑の変」で優秀な人材を失い、動乱の主導権を完全に失った福岡藩主・黒田長溥からの密書であった。
そこには、ただ一言、こう書かれていた。
『我が藩が選び損ねた未来を、どうか肥前の鉄で切り開かれたい』
泰親は密書を静かに閉じ、北の空を見つめた。
(長溥様……。黒田家が守ろうとした『歴史』も、平野どのが死に場所として選んだ『思想』も、すべて呑み込んで、我らは未来へ進みます)
## 四
慶応四年五月、上野戦争。
江戸・上野の山に籠もる旧幕府勢力「彰義隊」に対し、薩長軍は攻めあぐね、苦戦を強いられていた。その停滞を破ったのは、遅れて戦場に到着した佐賀藩の「アームストロング砲隊」であった。
「神代どの! 照準、上野山黒門! 距離、一千五百メートル!」
佐野常民の叫び声とともに、試射を重ねに重ねた漆黒のアームストロング砲が、雷鳴のような咆哮を上げた。
ズドォォォォンッ!!
従来の滑腔砲では到底届かない遥か遠方から、精密誘導された砲弾が彰義隊の陣地を正確に粉砕。わずか半日の砲撃で、上野の山は平定された。
続く北越戦争、会津戦争においても、佐賀藩の圧倒的な火力と最新の軍医・補給システムは戦場を支配し、戊辰戦争を圧倒的な速度で終結へと導いたのだった。
## エピローグ:明治新政府の影の主導者
明治二年(一八六九年)。東京。
新政府の設立とともに、薩摩の大久保利通や長州の木戸孝允らが政治の表舞台に立つなか、実質的な「国の骨格(インフラ・財政・技術・法制)」を握ったのは、佐賀藩出身の男たちであった。
のちに大蔵卿として日本の鉄道・通貨制度を築くことになる大隈重信。のちに初代司法卿として法治国家の基礎を作り上げる江藤新平。のちに日本赤十字社を設立し、技術と医療の近代化を推し進める佐野常民。
そして——新政府の殖産興業・軍事技術の最高責任者のデスクには、一人の男が座っていた。神代泰親である。
部屋の窓からは、東京湾を行き交う国産の蒸気船と、煙突から煙を上げる近代的な工場群が見えていた。
「神代どの」
部屋に入ってきたのは、新政府の官吏となった佐野常民であった。
「薩長の方々が『薩長閥』を作ろうと政治闘争に躍起になっておりますが……大丈夫でしょうか?」
泰親は書類から目を上げ、静かに微笑んだ。
「放っておきなさい、佐野どの。彼らが政治の権力闘争に酔いしれている間に、我々は日本の『鉄道』を敷き、『電信』を張り、『鉄鋼と軍備』を完璧にする」
泰親は窓の外、広がる日本の青空を見つめた。
「政治は変わる。政権も倒れる。……だが、我々が築いた『技術と制度』は、この国が存続する限り絶対に消えない。薩長が表面の主役を演じるなら、我ら佐賀は……この国の『骨格(影の支配者)』となればいいのだ」
泰親の手元には、亡き鍋島直正から賜った、アームストロング砲の小さな螺子が置かれていた。
「殿……選択の刻は、終わり申した。これよりは、我が佐賀の築いた技術が、この国を未来へと運んでまいります」
遠く港から打ち鳴らされる祝砲の音が、新しき時代の到来を告げるかのように、晴れ渡った東京の空に高く響き渡っていた。
(了)




