番外編:ガラスの長崎と黒い鉄
**慶応三年(一八六七年)。**
長崎・出島のオランダ商館の夜。
異国の洋酒の香りが漂う一室で、佐賀藩精錬方の神代泰親は、テーブルに並べられた美しいガラス製品を見つめていた。
フラスコ、ビーカー、精密なレンズ、そして色とりどりのギヤマン(ガラス器)。
「神代さん、相変わらずガラスばかり見ていますね」
声をかけてきたのは、**二十代の若き俊英・大隈八太郎**(のちの大隈重信)であった。
「大隈どの。ガラスをただの飾り物だと思っていませんか?」
泰親は透明なフラスコを光にかざした。
「この透明な容器がなければ、強力な酸やアルカリといった化学薬品を安全に混ぜ合わせることはできませぬ。ガラスのレンズがなければ、顕微鏡も単眼鏡も作れず、砲撃の照準を合わせることもできぬ。……西洋の科学技術の根底には、常にこの『透明なガラス』があるのです」
「なるほど」
大隈はニヤリと笑った。
「だからこそ、精錬方では大砲だけでなく、理化学薬品やガラスの自前製造にまで命を懸けているわけですね」
二
大隈重信は、佐賀藩の蘭学塾「致遠館」で英語と西洋学問を学びながら、長崎で外国人と交渉を行う気鋭の若手であった。
「ですが神代さん」
大隈は椅子に身を沈め、腕を組んだ。
「どれほど素晴らしい大砲や船を作っても、それを動かす『国づくりの仕組み』が古くさいままでは意味がありません。幕府のような古い封建制度のままでは、せっかくの科学技術も宝の持ち腐れになりますぞ」
「……ほう」
泰親は大隈の顔を見返した。
「君は、政治を変えたいと言うのかね? 大隈どの」
「変えたいのではない、『作り直す』のです!」
大隈の瞳に熱い火が宿る。
「イギリスやアメリカを見てごらんなさい。蒸気機関という『技術』と、議会や通貨、貿易という『仕組み(制度)』が合わさって、初めて世界を支配する強国となっている。大砲を作るだけでは片落ちです。この日本全土に鉄道を敷き、紙幣を流通させ、誰もが自由に商売できる『新しい国の仕組み』を作らねばなりません!」
三
泰親は思わず笑みをこぼした。
「若いな、大隈どの。……だが、実に頼もしい」
泰親は窓の外、長崎港に浮かぶ外国船の明かりを見つめた。
「私や佐野(常民)どのは、鉄を溶かし、大砲を作る『職人』に過ぎぬ。どれほど強力なアームストロング砲を作っても、それを使って時代を切り開く『政治家』がいなければ、ただの物持ちの良いオタクで終わってしまう」
泰親は大隈の肩を叩いた。
「大隈どの。私は殿(鍋島直正)とともに、誰も文句を言えぬ『最強の火力』を完成させる。……君はその威力を背景にして、新しい日本の『骨格(仕組み)』を創り上げなさい」
「任せてください!」
大隈は胸を張った。
「薩摩や長州の志士たちが刀を振り回して暴れている間に、私は英語と経済を学び尽くします。あやつらが幕府を倒したあと、『さて、どうやって国を治めればいいんだ?』と頭を抱えたその瞬間に、私がひょいと表に出て、すべてを取り仕切って見せますよ!」
「ははは、相変わらず口の減らない男だ」
四
夜が更け、出島の街に船の汽笛が響き渡る。
「神代さん」
大隈が真顔で言った。
「福岡藩の若者たちが、また長州の志士と密会していたそうです。……彼らは『命を捨てて義に殉じる』ことが武士の誇りだと信じ込んでいる。悲しいことです」
泰親は静かに目を閉じた。
「死んで名を残すのは易い。だが、生きて泥にまみれ、技術と制度を積み上げて未来を作るのは、果てしなく苦しい道だ。……我らは、苦しい道を行こう」
「もちろんです」
二人が掲げたグラスが、カチャンと心地よい音を立てて重なった。
のちに、明治新政府において「大蔵卿」「首相」として日本の通貨・鉄道・教育制度(早稲田大学の創設など)を爆発的なスピードで整備し、日本の近代化を実質的に成し遂げる大隈重信。
その巨人の背後には、幕末の闇のなかで黙々と「鉄とガラス」を練り上げ続けた、肥前の技師たちの執念が脈々と息づいていたのである。
(番外編・了)
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