第六話:試射の煙、鉄の咆哮
# 第六話:試射の煙、鉄の咆哮
## 一
万延元年(一八六〇年)春。
桜の舞う季節、江戸で激震が走った。大老・井伊直弼が、江戸城桜田門外にて水戸の浪士らに襲撃され、討ち取られたのである。「桜田門外の変」——。幕府の権威が失墜し、日本中が倒幕と尊皇攘夷の嵐に飲み込まれようとしていた。
だが、その狂乱から完全に隔絶されたかのように、佐賀・有明海に面した築地の試射場では、重苦しい緊張感が漂っていた。
海に向かってずらりと並べられた、三門の巨大な黒い大砲。佐賀藩精錬方が総力を挙げて完成させた、日本初の「完全国産・十八ポンド鉄製反射炉砲」である。
「風速、三ノ節! 標的、沖合一千間の浮き標!」
観測役の蘭学者が叫ぶ。神代泰親は、試射場の小高い丘の上に立ち、単眼鏡を覗き込んでいた。その隣には、羽織袴姿の藩主・鍋島直正、そして佐賀藩の重臣たちが固唾をのんで見守っている。
「泰親」
直正が静かに声をかけた。
「江戸では井伊大老が討たれ、世はまさに血の海だ。幕府の役人も、薩長の志士も、刀を振り回して大騒ぎしておる。……我が藩が注ぎ込んだ数万両の金が、この三門の大砲に化けた。見せてみよ。『佐賀の答え』を」
「はっ」
泰親は手を高く掲げ、一気に振り下ろした。
「火蓋を切れ! 撃て――っ!」
## 二
ズドォォォォンッ!!
天地を揺るがす地鳴りのような爆音が轟き、大量の白色の硝煙が視界を覆い尽くした。衝撃波が試射場の砂浜を揺らし、立ち立っていた重臣たちの何人かが思わず腰を抜かして転がった。
「ひ、ひぃぃっ! なんだこの音は! 腹の底まで響くぞ!」
「まるで雷が落っこちたようだ!」
直正は微動だにせず、単眼鏡を構えて煙の先を注ぎ込んだ。一千間(約一・八キロメートル)沖合に浮かべられた、木製の標的船。
その数秒後——。
ドォォォンッ!
標的船の真横で巨大な水柱が立ち上がり、続いて二発目の砲弾が標的の胴腹を正確に捉えた。木片が派手に弾け飛び、標的船は一瞬にして傾き、有明海の露と消えた。
「め、命中! 一千間の標的を完全に粉砕!」
観測役の歓声が響き渡る。重臣たちは呆然と海を見つめ、やがて「おお……!」というどよめきが湧き起こった。
従来の青銅製大砲の射程は、せいぜい五百間(約九百メートル)。その二倍以上の距離を正確に撃ち抜き、しかも一撃で船を沈める威力。
「見たか……」
直正は単眼鏡を下ろし、唇を震わせた。
「これが……我が佐賀藩の鉄だ。これが、科学の力だ!」
「殿!」
先代から仕える老臣が、感極まった様子で直正の前にひれ伏した。
「見事でございます! これさえあれば、異国の黒船とて恐れるに足りませぬ! 我が佐賀藩の武名は、天下に響き渡りましょう!」
しかし、歓喜に沸く周囲の中で、泰親だけは一人冷めた顔で煙の収まる砲身を見つめていた。
## 三
「神代」
直正が泰親の元へ歩み寄った。
「不満そうな顔だな。一千間の目標を完璧に撃ち抜いたのだぞ? 何が気に入らんのだ」
泰親は煙の吹き出す砲口を指差した。
「殿。お喜びのところ水を差すようで恐縮ですが……これはまだ『おもちゃ』に過ぎませぬ」
重臣たちの歓声がぴたりと止まった。
「おもちゃだと……!? 狂ったか神代! 今の威力が目に入らんかったのか!」
志佐家老が怒鳴りつけるが、泰親は意に介さず直正に語りかけた。
「殿。今お見せした大砲は、砲口から球形の弾丸を込める『前装式・滑腔砲』に過ぎませぬ。一発撃つごとに砲身を掃除し、弾を込め直すのにどれほどの時間がかかりますか? 二発目を撃つ間に、異国の最新鋭艦なら三発、四発と叩き込んできます」
泰親は胸元から、イギリスで実戦配備が始まったという「アームストロング砲」の断面図を取り出し、直正に見せた。
「我が精錬方が目指すべきは、これです。砲身の後ろから円筒形の弾丸を込め、内部の螺旋によって弾丸を回転させて飛ばす『後装式・旋条砲』……。これならば射程は三千間(約五・五キロメートル)を超え、連射速度は三倍。精度は寸分違わぬものとなります」
直正は図面を喰い入るように見つめた。
「後部から弾を込める……? それでは、発射の爆発圧力で砲身の後ろが吹き飛んでしまわんか?」
「左様。ゆえに、寸分の狂いもない精密なネジ切り技術と、さらに強固な鋳鋼の製法が必要となります。これを完成させるには……これまでの倍以上の予算と、新たな機具の導入が必要です」
「た、戯けたことを!」
志佐家老が泡を吹いて叫んだ。
「すでに藩の財政は破綻寸前なのだぞ! 今の大砲で十分だ! これ以上、精錬方に金を注ぎ込めば、我が佐賀藩は戦う前に倒産する!」
## 四
重臣たちの猛反対の声が渦巻くなか、泰親は直正の前にひざまずいた。
「殿。選択の時です」
泰親の声が、静かに試射場に響いた。
「今出来上がった大砲で満足し、他藩に威張って終わるか。それとも、さらなる地獄の予算投資を断行し、世界最高峰の『アームストロング砲』を完成させて、幕末の世の『絶対的な支配者』となるか。……殿、どっちでいきますか?」
重臣たちが息をのむ。直正は、黒煙の漂う有明海を見つめた。その脳裏には、長崎警護の現場で事なかれ主義に終始する福岡藩の姿や、京の街で徒党を組んで刃を振り回す薩長の志士たちの姿が浮かんでいた。
(政治の議論、思想のぶつかり合い……そんなものは、この一発の鉄の咆哮の前に吹き飛ぶのだ)
直正はゆっくりと振り返ると、不敵な笑みを浮かべた。
「志佐よ」
「は、はっ!」
「わしの蔵にある茶器と書画をすべて売り払え。それでも足りねば、家臣たちの俸禄をさらに二割減らせ」
「と、殿ぉぉっ!?」
「泰親!」
直正は泰親の肩を力強く掴んだ。
「アームストロング砲とやらを作れ! 誰も追いつけぬ『真の化け物』になってみせよ! わしが全責任を負う!」
「ははっ!」
同じ頃、福岡城では——。桜田門外の変の報せを受け、幕府への対応を巡って過激派と保守派が激しい罵声を浴びせ合い、藩の意思決定が完全に停止していた。
「技術の限界」を突破しようと突き進む佐賀藩。「政治の泥沼」に足をとられ、身動きの取れなくなる福岡藩。二つの藩の運命の差は、築地の浜に轟いた鉄の咆哮とともに、決定的なものとなっていった。
(第七話へ続く)




