第五話:関ヶ原の呪縛(福岡藩の葛藤)
# 第五話:関ヶ原の呪縛(福岡藩の葛藤)
## 一
安政六年(一八五九年)秋。
江戸幕府による「安政の大獄」の手伸びは九州にまで及び、尊皇攘夷派の志士たちは捕縛の恐怖に怯えていた。
福岡藩脱藩の志士・平野国臣は、幕府の追手を逃れて京都から博多へ潜伏していた。夜陰に紛れ、筑前・舞鶴城の目と鼻の先にある密会所に身を寄せた平野の元に、一人の男が足早に姿を現した。福岡藩主・黒田長溥の側近であり、開明派として知られる藩士であった。
「平野! なぜ戻った! 今、藩内は過激派の志士を炙り出そうと、保守派の家老どもが目を光らせておるのだぞ!」
側近の叱責に対し、平野は鋭い眼光で言い返した。
「逃げ隠れするために戻ったのではない! 殿にお目見えし、直訴するためだ! 薩摩の西郷吉之助(隆盛)どのや、長州の桂小五郎どのとも気脈を通じておる。今こそ福岡藩五十二万石が挙兵し、倒幕の急先鋒に立つべきだ!」
側近は苦々しい顔で頭を振った。
「無理だ、平野。殿は……長溥様は、お前たちの熱意には理解を示しておられる。だが、我が福岡藩黒田家が倒幕の旗を掲げることなど、天地がひっくり返ってもできんのだ」
「なぜだ! 殿は蘭学に秀で、海外の情勢もご存じのはず! なぜ幕府の顔色ばかりを窺うのだ!」
側近は深く息を吐き出すと、重々しい口調で語り始めた。
「……関ヶ原だ。関ヶ原の呪縛が、我が藩の首を締め続けているのだ」
## 二
慶長五年(一六〇〇年)。関ヶ原の戦い。
黒田官兵衛・長政親子は、徳川家康を天下人とするため、八面六臂の活躍を見せた。長政は東軍の合戦で最大の功績をあげ、官兵衛は九州を一瞬で平定してみせた。
しかし、その「あまりにも出来すぎた軍略」は、かえって家康の激しい警戒を招いた。
『黒田に隙を見せれば、天下を奪われる』
家康の猜疑心を察した官兵衛は、己の野心を完全に封印し、長政に遺言を残した。
「我が黒田家が生き残る道はただ一つ。徳川への絶対の恭順と、目立たぬことだ」
筑前五十二万石という巨万の領地を賜りながらも、黒田家は幕府から常に「下剋上の潜在的危険分子」として監視され続けてきた。ゆえに歴代の福岡藩主は、幕府の機嫌を損ねぬよう、藩内に異端の思想が芽生えることを極度に恐れ、事なかれ主義を貫くしかなかったのだ。
「我が藩の『事なかれ主義』は、軟弱だからではない」
側近は血の滲むような声で言った。
「黒田家を存続させるため、二百五十年間叩き込まれてきた『生き残りの知恵』なのだ。今、薩長とともに幕府に逆らえば、徳川の天下を築いた黒田家が、真っ先に『朝敵』『叛逆者』として潰される!」
平野は拳を握りしめ、畳に爪を立てた。
「知恵だと……? それはただの『怯え』だ! 黒田官兵衛公の智謀は、そのような保身のためにあったのではないはずだ!」
「理想だけでは家臣とその家族、五十二万石の領民を守れんのだよ!」
二人の議論は平行線をたどった。福岡藩は、歴史の重圧と「徳川への義理」という目に見えない鉄の鎖によって、完全に金縛り状態に陥っていた。
## 三
その頃、福岡城下の港(博多津)の船着き場に、佐賀藩の高速船が滑り込んでいた。船から降り立ったのは、神代泰親である。精錬方の技術開発に必要な特殊な鉱石と薬品を、博多の豪商から密かに買い付けるために訪れていた。
買い付けを終えた泰親は、博多の街外れにある茶屋で、偶然にも変装した平野国臣と再会した。
「神代……貴様、また佐賀から買い出しに来たのか」
平野は暗い顔で泰親を睨みつけた。泰親は淡々と茶をすすりながら答えた。
「平野どの。お顔の色がよろしくない。幕府の追手に怯えながらの潜伏は、心身に毒ですな」
「黙れ! 追手など怖くはない! 俺が悔しいのは……我が福岡藩の甲斐性のなさだ!」
平野は絞り出すように言った。
「なぜ我が藩は動けんのだ! 薩摩の島津も、長州の毛利も、幕府に反旗を翻す覚悟を決めつつあるというのに、なぜ我が黒田家だけが関ヶ原の昔話に怯え、足踏みをしているのだ!」
泰親は茶碗を静かに置くと、平野をまっすぐに見つめた。
「平野どの。薩摩の島津も、長州の毛利も、関ヶ原で徳川に矛を向けた『敗者』です」
「……何?」
「関ヶ原で負けた薩長には、徳川に対する二百五十年来の『怨念』がある。だからこそ、倒幕という暴走に躊躇がない。しかし、福岡藩黒田家は関ヶ原の『勝者』であり、徳川幕府の設計者の一人です。自分たちが作ったシステムを自分壊すことなど、簡単にできるはずがないのです」
平野は絶句した。泰親の言葉は、福岡藩の抱える病巣をあまりにも正確に突いていた。
「平野どの。あなたがいくら熱弁を振るおうと、福岡藩は動きません。動けないのです。思想で藩の歴史は変えられませぬ」
## 四
泰親は立ち上がり、懐から一枚の図面を覗かせた。
「我が佐賀藩・鍋島家もまた、関ヶ原では西軍(敗者)に就き、冷や飯を食わされた過去があります。ですが我が殿・鍋島直正公は、徳川への怨念にも、過去の栄光にも囚われなかった」
「……どういうことだ?」
「『過去』を議論する暇があるなら、『未来の兵器』を作ればいい。力さえ持てば、関ヶ原の恩義も怨念も、すべて過去の遺物に変えられる。それが佐賀のやり方です」
泰親は港へ向かって歩き出した。
「平野どの。思想に殉じて死ぬのも武士の道かもしれん。……だが、生きて技術を磨き、時代を上書きする道もある。覚えとおかれよ」
平野は去り行く泰親の背中を、ただ黙って見送るしかなかった。
数日後。福岡藩主・黒田長溥のもとに、平野国臣が再び脱藩し、京都へ向かったという報せが入った。長溥は城の天守から、佐賀の方角……多布施の空に立ち上る煙を見つめていた。
「神代よ……」
長溥は呟いた。
「黒田の家訓を破れぬ我が藩の悲劇を、お前は冷笑しているのか。それとも、哀れんでいるのか……」
関ヶ原の呪縛に縛られ、自縄自縛に陥る福岡藩。過去を捨て、狂気のような科学技術の錬成へと突き進む佐賀藩。長崎警護をともに担った二つの雄藩の格差は、もはや修復不可能なほどに開き始めていた。
(第六話へ続く)




