第四話:筑前の志士と肥前の技師
# 第四話:筑前の志士と肥前の技師
## 一
安政五年(一八五八年)。
江戸幕府が大老・井伊直弼のもとで「日米修好通商条約」を無勅許で調印し、時代は「安政の大獄」という吹き荒れる吹きだまりへと突入していた。尊皇攘夷の熱気は、京や江戸のみならず、九州の地にも激しく波及していた。
長崎・出島の対岸にある料亭の一室。重苦しい空気のなか、二人の男が対峙していた。佐賀藩精錬方の神代泰親と、福岡藩の熱血漢・平野国臣である。
「神代どの! まだそのような鉄くずいじりを続けておられるのか!」
平野は激しい手つきで酒盃をあおぐと、泰親を睨みつけた。
「井伊直弼の暴挙を見よ! 朝廷を軽んじ、異国に国を売り渡し、尊皇の志士たちを次々と処刑しておる! 今や日本全国の志士が京に集い、幕府を倒すべく立ち上がろうとしているのだ! なぜ佐賀藩は沈黙を守る!? なぜその圧倒的な軍備を携えて、共に幕府へ反旗を翻さぬ!?」
泰親は静かに盃に酒を注ぎ、一口含んでから答えた。
「平野どの。京で志士たちがやっているのは『政治』という名のお祭り騒ぎです。一時の感情で刀を振り回し、刺客を放って人を斬る……それで国が救えますか?」
「お祭り騒ぎだと……!?」
平野の顔が怒りで真っ赤に染まる。
「言葉を慎まれよ! 我らは国を思い、命を捨てて戦っておるのだ! 長州の吉田松陰先生も、薩摩の有村兄弟も、命を賭して義を通そうとされている! それに比べて貴様ら佐賀藩はどうだ! 藩主の鍋島直正公は『肥前の妖怪』と恐れられ、日和見を決め込んでおるではないか!」
## 二
泰親は溜め息をつき、懐から一冊のノートを取り出した。そこには、ヨーロッパにおける戦争の歴史と、兵器の進歩に関する密かなデータがびっしりと書き込まれていた。
「平野どの。あなたがた志士が尊敬する吉田松陰先生は素晴らしい思想家だ。……だが、彼が下田でアメリカの黒船に密航しようとして捕まったのを覚えていますか?」
「それがどうした!」
「彼は黒船に乗り込み、何を見ようとしたのか。異国の『思想』ですか? 違います。あの黒船を動かす『大砲と蒸気機関』という現実の圧倒的な力です。松陰先生は、思想だけでは国を守れぬと知っていたからこそ、命懸けで技術を学ぼうとしたのです」
泰親はノートを閉じ、平野をまっすぐに見つめた。
「あなたがた福岡の志士は、長州や薩摩の熱に浮かされ、刀一本で天下が変わると信じ込んでいる。……ですが、あなたがたが京で人を斬っている間に、異国は蒸気船を量産し、大砲の射程を二倍に伸ばしているのですぞ。政治の議論で、異国の砲弾は防げませぬ」
「くっ……! 理屈ばかり捏ねおって!」
平野は刀の柄に手をかけたが、泰親の冷徹な眼差しに圧され、拳を握りしめて畳を叩いた。
「福岡の我が殿(黒田長溥)もそうだ! 蘭学はお好きな癖に、幕府の顔色ばかりを気にして我ら志士の言葉に耳を貸さぬ! だから我が藩は、薩摩や長州から『気骨のない事なかれ主義』と見下されるのだ!」
「長溥様が動かないのは、賢明だからです」
泰親は平野の言葉を切り捨てた。
「徳川家康公以来の黒田家の義理だけではない。準備なき挙兵が、藩を、そして日本を滅ぼすことを知っておられるからです」
## 三
同じ頃。福岡城・舞鶴城の本丸にて。福岡藩主・黒田長溥は、庭園を眺めながら深く溜め息をついていた。
「……殿。また脱藩者がでました」
家老が申し訳なさそうに頭を下げる。
「平野国臣をはじめとする若手藩士らが、長州の過激派と密約を交わし、京都や江戸で暗躍しております。『黒田家も尊皇攘夷の旗印を掲げるべきだ』と、藩内を煽り立てております」
長溥は痛むこめかみを指で押さえた。
「若者どもの気持ちは分からんでもない。だが……今、幕府に反旗を翻せば、徳川に恭順してきた我が黒田家は朝敵として潰される。かといって、幕府の言いなりになって攘夷の志士を弾圧すれば、藩内は割れて血で血を洗う内乱となる……」
長溥の脳裏に、先日訪れた佐賀藩の精錬方の光景が焼き付いていた。佐賀藩では、藩主・鍋島直正の強力なリーダーシップのもと、藩が一丸となって「技術開発」という一つの目標に突き進んでいた。思想の対立など、打ち鳴らされる鉄の音と黒煙の中に吹き飛んでいた。
「なぜ……なぜ我が福岡藩はこうもまとまらんのだ」
長溥は自問自答した。福岡藩には、平野のような熱血漢(政治家)もいれば、蘭学に通じた優秀な学者もいた。しかし、「徳川への忠誠」という藩の根幹と、「時代の変化」という現実の間で、藩の意思決定は完全に麻痺していた。
一方の佐賀藩は、幕府からの評価など端からドブに捨てていた。「他人にどう思われようと、自前の圧倒的な技術を持てば文句は言わせない」という開き直りがあった。
「神代の言った通りだ……」
長溥は呟いた。
「我が藩を縛っているのは、他ならぬ『黒田の誇り』という名の鎖なのだ……」
## 四
安政六年(一八五九年)。佐賀・多布施の精錬方に、一発の快砲が響き渡った。
「命中! ターゲットの標的を完全に粉砕しました!」
試射場にて、佐野常民が歓声をあげる。泰親の指揮のもと、佐賀藩はついに「国産の鉄製十八ポンド反射炉砲」の精度を、実戦レベルにまで引き上げることに成功していた。従来の青銅製の大砲に比べ、射程距離は五割増し、耐久力は数倍。もはや、日本国内で佐賀藩の砲撃技術に敵う者は存在しなかった。
「神代どの」
佐野が興奮冷めやらぬ様子で駆け寄ってくる。
「長州や薩摩の志士たちが、京で幕府の役人と斬り合っているという報せが入りました。時代が大きく動こうとしています。我が藩の大砲を、薩長や幕府に売り込めば、莫大な利益が得られるのでは……?」
泰親は砲身に残る硝煙の匂いを嗅ぎながら、静かに首を振った。
「売り込みなどせん」
「なぜです?」
「こんなもので満足されては困るのだ、佐野どの」
泰親は砲身の内側を指差した。
「これはまだ、昔ながらの『滑腔砲(滑らかな筒)』だ。弾丸は球形で、風に流される。……私が目指しているのは、これではない」
泰親は胸ポケットから、一枚のスケッチを取り出した。先端が尖った円筒形の弾丸と、砲身の内部に掘られた螺旋の溝。
「イギリスで開発されたばかりの『アームストロング砲』……。後部から弾を込め、回転をかけて飛ばす。これさえ完成させれば、敵がどれほど巨大な黒船で来ようと、どれほど大軍で押し寄せようと、一撃で海の藻屑とできる」
「アームストロング砲……。しかし、そのような複雑な構造、今の日本の技術では作れませんぞ!」
「作れないのではない。『作る』のだ」
泰親の瞳に、執念の火が宿る。
「福岡藩の平野どのは『命を捨てて義を通す』と言った。……ならば我々は『知恵を絞り倒して不可能を可能にする』。薩長が政治の泥沼で足をすくわれている間に、我らは世界最高の兵器を手に入れる」
泰親は遠く東の空を見つめた。そこには、尊皇攘夷の熱狂に揺れる京や江戸の町がある。
「殿……選択の時は、もうすぐです」
泰親の呟きは、絶え間なく打ち鳴らされる精錬方の鉄の音にかき消されていった。
(第五話へ続く)




