第三話:精錬方(せいれんかた)の産声
# 第三話:精錬方の産声
## 一
安政三年(一八五六年)春。
佐賀城下・多布施の精錬方は、もはや「異界」の様相を呈していた。
立ち上る何本もの煙突からは絶え間なく黒煙が吐き出され、巨大な水車が重い音を立てて回っている。敷地内には、ガラスの精製炉、薬品を調合する実験室、蒸気機関の雛形を動かす実験場が所狭しと立ち並び、日本全国から集められた優秀な学者や技術者たちが昼夜を問わず議論を戦わせていた。
その中心に立つ神代泰親の元に、一人の青年が挨拶に訪れた。佐賀藩の若い藩士——佐野常民である。
「神代どの。精錬方の総監をお命じいただいた佐野にございます。……圧巻ですな。まさか我が藩が、ここまで西洋の科学を網羅した研究機関を作り上げようとは」
「佐野どの、感心している暇はありませぬぞ」
泰親は図面から目を離さずに言った。
「大砲を鋳造するだけでは意味がない。砲薬となる黒色火薬の品質を高める『化学』、砲身を精密に削り出す機具を作る『機械工学』、そしてこれらを運ぶ『蒸気船』の製造……すべてが一つに繋がって初めて、国を守る武力となるのです」
佐野は目を輝かせた。のちに日本赤十字社を設立し、日本の近代技術を牽引することになるこの青年もまた、泰親の描く巨大な「技術立国」のビジョンに強く共鳴していた。
「薩摩や長州の志士たちは、京で『尊皇攘夷』のシュプレヒコールをあげておるそうですが……」
佐野が苦笑いを浮かべる。
「彼らの言う『攘夷』は、竹槍で黒船に挑むようなもの。真の攘夷とは、敵と同じ、いやそれ以上の技術をこの手で生み出すことに他なりませぬな」
「その通りです。……ですが、我が藩の『内なる敵』は、薩長よりも厄介ですぞ」
泰親が視線を向けた先——精錬方の門前に、黒塗りの駕籠が横付けされていた。
## 二
駕籠から降り立ったのは、佐賀藩の財政を預かる家老・納富であった。
納富はハンカチで鼻を覆いながら、黒煙の漂う精錬方の中へ足を踏み入れると、泰親と佐野に向かって鋭い視線を投げかけた。
「神代、佐野。殿の御意とはいえ、増長が過ぎるぞ」
納富は懐から分厚い大福帳を取り出し、畳の上に叩きつけた。
「この三年間で精錬方が費やした金は、すでに数万両に達しておる! 藩の借金は膨れ上がり、家臣たちの俸禄(給料)すら削減を余儀なくされているのだぞ! 領民からも『佐賀の殿様は異国の悪魔に魂を売った』と怨嗟の声があがっている!」
「納富様」
佐野常民が庇うように前に出た。
「これは将来の日本に必要な投資にございます。現に、反射炉による大砲の鋳造は成功し——」
「大砲一基で腹が膨れるか!」
納富が一刀両断する。
「福岡藩を見よ! 黒田の殿様は、無駄な研究機関など作らず、長崎の商人を通じてオランダから直接蒸気船を購入されたそうだ! 金さえ払えば、今日にでも本物の船が手に入るのだ! なぜ我が藩は、完成するかどうかもわからぬガラクタ作りに、藩の命運を賭ける!?」
納富の指摘は、ある意味で正論であった。当時、福岡藩や薩摩藩は、海外から完成品の武器や船を買い付ける「輸入路線」をとっていた。手っ取り早く軍備を整えるには、それが最も効率的だったからだ。
しかし、泰親は冷ややかな笑みを浮かべた。
「納富様。金で買った技術は、金の切れ目が縁の切れ目にございます」
「なに……?」
「異人から買った船が故障したとき、誰が修理するのですか? 異人の技師を買い、異人の部品を買うのですか? それでは永遠に異人の奴隷ではありませんか! 我らが欲しいのは『兵器』そのものではなく、兵器を自前で生み出し、修理し、進化させ続ける『技術力』そのものなのです!」
泰親は納富に一歩詰め寄った。
「有事に至ったとき、福岡藩は部品一つ買えずに港で立ち尽くすことになるでしょう。ですが我が佐賀藩は、傷ついた船を自前のドックで直し、自前の工場で弾薬を補給して何度でも出撃できる。……この差が、数年後にどれほどの価値を生むか、お分かりになりませぬか!」
「き、貴様……口の減らない奴め!」
納富は怒りで顔を真っ赤にした。
## 三
その夜。佐賀城の一室にて、鍋島直正は納富と泰親の双方を呼び出していた。
「殿!」
納富は平伏し、必死に訴えた。
「精錬方の予算を即刻半減してくださいませ! このままでは我が佐賀藩は、戦う前に破産いたします! 保守派の重臣たちも、みな限界を迎えております!」
直正はあぐらをかいたまま、じっと酒杯を見つめていた。その表情からは真意が読み取れない。
「泰親」
直正が静かに問いかける。
「納富の言うことも一理ある。福岡藩のように、他国から買うという手もある。我が藩の財政が底をつきかけているのは事実だ。……お前は、この精錬方にそれほどの金をかける価値が、本当にあると言い切れるのか?」
大広間に張り詰めた緊張が走る。
泰親は直正の正面に座り直し、深く頭を下げた。
「殿。問わせていただきます」
泰親は頭を上げた。その目は、迷いなく直正を射抜いていた。
「他藩と同じように外国から買い叩き、幕府の顔色を伺いながら『中堅の大名』として無難に生き残るか。それとも、破産のリスクを背負ってでも技術を極め、維新の動乱において『世界と対等に渡り合える唯一の藩』となるか。……殿、どっちでいきますか? 選択の時です」
納富が息をのんだ。藩主に向かって「どっちでいくか」などと迫るなど、不敬の極みであった。
「控えよ神代! 殿に向かって何という不遜な——」
「黙っておれ、納富」
直正が静かな、しかし重い声で制した。直正は酒杯を一気に飲み干すと、ぽんと畳の上に置いた。
「納富。我が佐賀藩の家訓を覚えているか?」
「は……『葉隠』にございますか?」
「そうだ。『武士道とは死ぬことと見つけたり』……。だがな、ただ死ぬのではない。『己の信じた道のために、退路を断って狂い咲け』ということだ」
直正の瞳に、爛々と怪しい光が宿る。
「福岡の黒田家は賢い。賢いゆえに、安全な道しか選べん。……だが、我が鍋島家は『化け物』になると決めたのだ。納富、藩の蔵から出せる限りの金を精錬方に放り込め。足らん分は、わしの身の回りの調度品を売り払って作れ!」
「ど、殿……!?」
納富は絶句した。
## 四
数日後。精錬方の敷地内に、新たな建物が起工された。
「からくり堂」——日本初の国産蒸気機関を製造するための工場である。
作業現場に立つ泰親の元へ、長崎から戻った佐野常民が駆け寄ってきた。
「神代どの! 福岡藩の動きが慌ただしくなっております。黒田の殿様が、オランダ製の蒸気船を購入し、長崎に入港させたとのこと!」
「……まだ試運転の域を出ぬ代物でしょう」
泰親は淡々と答えた。
「福岡藩は、ついに念願の蒸気船を手に入れて大騒ぎしております。『これで我が藩も近代化の先頭に立った』と気炎を吐いているとか。……悔しくはありませんか? 我らはまだ、ちっぽけな雛形の蒸気機関と格闘しているというのに」
泰親は、目の前で蒸気を吹き上げて動く小さなピストン機関を見つめ、静かに微笑んだ。
「悔やむことなど何もありませぬ。福岡藩が手に取ったのは『他人の作った完成品』だ。我々が作っているのは『自分たちの技術』だ」
泰親は手を伸ばし、熱を帯びた鉄のピストンに触れた。
「見ていなさい、佐野どの。五年後、十年後……福岡藩の船が部品不足で動かなくなるとき、我が佐賀藩は自前の蒸気船で大海原を駆け巡っている。その時、天下の誰もが知ることになります。……技術とは何か、ということを」
遠く多布施の空に、今日も黒々とした煙が立ち上る。それは、幕末の乱世を揺るがすことになる「佐賀の技術無双」の、確かな産声であった。
(第四話へ続く)




