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『殿、どっちでいきますか? 選択の時です』 〜佐賀と福岡、長崎警護の表と裏。アームストロング砲で幕末を覆した男の記録〜  作者: 松本 俊介


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第二話:黒田の家訓と鍋島の執念

# 第二話:黒田の家訓と鍋島の執念


## 一


安政元年(一八五四年)春。


佐賀城下の北端、多布施(たぶせ)の地に、巨大な煙突の聳え立つ異様な建設現場があった。


「反射炉(はんしゃろ)」——鉄を高温で溶かし、大砲を鋳造するための巨炉である。


立ち上る黒煙と火の粉のなかで、神代泰親(くしろ やすちか)は泥と煤(すす)にまみれて指揮を執っていた。


「火力を落とすな! 耐火煉瓦の隙間から熱が逃げているぞ! 漆喰の配合を練り直せ!」


泰親の叫び声に、職人や若い蘭学者たちが必死に応える。しかし、現場を包むのは焦燥感であった。オランダの書物を頼りに手探りで作る炉は、試運転のたびに耐火煉瓦が崩落し、内部の鉄はドロドロに溶けるどころか半焼けの塊(かたまり)にしかならない。


「神代どの! また三号炉の煉瓦が熱に耐えきれず割れました! もう手持ちの煉瓦が底をつきます!」


叩きつけられる報告に、泰親は歯噛みした。西洋の書物には「耐火煉瓦を用いる」としか書かれていない。だが、どんな土をどんな温度で焼けば耐火煉瓦ができるのか、肝心な部分は一切秘匿されているのだ。


「金の無駄遣いだと言ったのだ!」


現場に乗り込んできたのは、佐賀藩の保守派家老・志佐官兵衛であった。苦々しい顔で建設現場を見回すと、泰親に吐き捨てるように言い放つ。


「すでに藩の金蔵からは三千両以上の金が消えた! 出来上がるのは煉瓦のゴミ山ばかりではないか! 福岡藩を見よ。黒田の殿様は、オランダから直接『蒸気船』をお買い求めになられたそうだ。金さえ払えば本物が手に入るというのに、なぜ我が藩はこのような泥遊びに膨大な金を捨てる!?」


泰親は目を血走らせ、志佐を睨みつけた。


「家老職……異人から買い叩いた船や大砲で、真の自立ができとお思いか!? 弾薬の一発、部品の一ネジに至るまで買い手に握られれば、いざという時に首ねっこを掴まれるのは我らです! 我らの手で鉄を溶かし、我らの手で削り出してこそ、天下に誇る『佐賀の武力』となるのです!」


「屁理屈をいうな! これ以上の失敗は許さん。殿には炉の凍結を進言する!」


志佐が捨て台詞を残して去っていく。泰親は崩れ落ちた耐火煉瓦の破片を強く握りしめた。煤けた手の隙間から、赤い血が滲む。


(焦るな……計算しろ。西洋の技術とて、この地球の物質で作られているのだ。解けない試練などあるはずがない……!)


## 二


数日後。泰親は、長崎警護の申し継ぎのため、長崎・出島の対岸にある福岡藩の役所を訪れていた。そこで泰親を待っていたのは、意外な人物であった。


福岡藩第十一代藩主・黒田長溥(ながひろ)その人である。


「お主が佐賀の神代か。噂は聞いているぞ。多布施で妙な煙を打ち上げているそうだな」


長溥は四〇代半ば。薩摩藩島津家からの養子であり、「西洋の科学知識に通じた賢公」として名高い人物であった。その佇まいには、いかにも名門の大名らしい気品と知性が漂っている。


「長溥様……。福岡の当番、ご苦労様にございます」


「苦労どころではないわ。浦賀に続き、長崎にも異国の影がチラつく。我が藩の重臣どもは『幕府の指示を待て』の一点張りで、何も決められん。……神代、佐賀の反射炉を見せてはもらえんか?」


長溥の瞳には、純粋な知的好奇心が宿っていた。


泰親は静かに首を振った。


「申し訳ございませぬが、反射炉は我が藩の最高機密。たとえ福岡の殿様といえど、お見せすることはかないませぬ」


「ふっ、堅いことを言うな。我が藩とて手ぶらではないぞ」


長溥は手元の文箱から、一冊の和訳書を取り出した。オランダの最新軍学書を、福岡藩の蘭学者が翻訳したものである。


「我が福岡藩は、長崎警護の強みを生かし、日本で最も早く西洋の書物を収集してきた。これにはオランダの最新砲術が書かれている。どうだ、佐賀の反射炉の知見と、我が藩の知識を交換せんか?」


一瞬、泰親の心が揺れた。福岡藩の持つ蘭学資料は、間違いなく超一流であった。


しかし、泰親は長溥の顔をじっと見つめ、問いかけた。


「長溥様。ひとつお尋ねいたします。仮にその知識を用いて、福岡藩で素晴らしい大砲が完成したといたしましょう。……長溥様は、その大砲を幕府の許可なく発射することができますか?」


長溥の笑みが、ぴたりと止まった。


「……なに?」


「幕府が『異国と穏便に済ませよ』と命じたとき、目の前の黒船を撃ち払うお覚悟がおありですか? あるいは、幕府が理不尽な命を下したとき、その大砲を江戸に向けられますか?」


長溥は言葉を詰まらせ、苦い顔で視線を落とした。


「……できぬ。我が黒田家は、筑前五十二万石を預かる徳川の忠臣。関ヶ原にて大権現様(家康)より賜ったこの領地と家格を、我が代で潰すわけにはいかんのだ」


## 三


「それが——佐賀と福岡の差にございます」


泰親は容赦なく言葉を重ねた。


「福岡藩には、優れた藩主様がおられ、優秀な学者も多い。しかし、『黒田の家訓』と『徳川への義理』という巨大な鎖が、皆様の足枷となっている。どれほど素晴らしい技術を手に入れても、最後は『お上の顔色』を見て宝の持ち腐れになさる」


長溥の胸に、刺すような痛みが走った。長溥自身、誰よりもその焦りを抱いていたのだ。


福岡藩の祖・黒田官兵衛は、天下を狙えるほどの智謀を持ちながら、時代の潮流を読んで家康に天下を譲り、黒田家を存続させた。その「賢すぎる保身」が、幕末のこの期に及んで藩の身動きを封じている。


「長溥様。我が佐賀藩には、守るべき誇らしい家柄などございませぬ」


泰親の瞳に、冷徹な火が宿る。


「あるのは、四十六年前のフェートン号事件で幕府に面目を潰され、恥をかかされたという狂気のような執念だけです。だからこそ、我が殿・鍋島直正は、幕府に咎められようと、藩が破産しようと、自前の火力を持つ道を選びました」


長溥は深くため息をつき、手にした洋書を閉じた。


「羨ましいぞ、神代。鍋島殿は……化け物になれるか」


「はい。化け物になってでも、この国を守るお覚悟です」


「黒田は……化け物にはなれん。……いや、なろうとすれば、藩が内側から引き裂かれるのだ」


長溥の脳裏には、藩内で対立を深める「幕府に従うべきだ」とする保守派重臣たちと、「薩長とともに立ち上がるべきだ」と叫ぶ平野国臣ら若き志士たちの顔が浮かんでいた。双方の主張の板挟みとなり、福岡藩は意思決定の能力を失いつつあったのだ。


## 四


佐賀に戻った泰親は、すぐさま有田(ありた)の町へと向かった。伊万里焼・有田焼で知られる、磁器の町である。


「磁器……陶器をつくる窯(かま)か!」


泰親が目をつけたのは、有田の職人たちが何世代にもわたって受け継いできた「登り窯」の技術であった。有田の窯は、一三〇〇度を超える高温に耐えうる特殊な土(陶石)と、熱を内部に閉じ込める巧みな構造を持っていた。


「西洋の書物に頼るから失敗したのだ。答えは最初から、我が肥前の足元にあった!」


泰親は有田の熟練の陶工たちを精錬方に呼び寄せ、有田の土を混ぜ合わせた独自の耐火煉瓦を開発。さらに、登り窯の構造を応用して反射炉の内部設計を刷新した。


安政二年(一八五五年)秋。多布施の反射炉に、再び火が入れられた。


ゴーという地鳴りのような音が響き、炉の内部が眩いばかりの白光に包まれる。


「温度、一四〇〇度を突破! 鉄が……鉄が溶けていきます!」


技師の歓声が響く。炉の底から、ドロドロに溶けた橙色の溶鉄が、まるで生き物のように鋳型(いがた)へと流れ込んでいく。


「成功だ……! 鉄製大砲の鋳造に、成功したぞ!!」


職人たちが抱き合って涙を流すなか、泰親はただ静かに、完成した漆黒の大砲の砲身を見つめていた。


(できた……。だが、これはまだただの『鉄の筒』だ。弾を込めて遠くへ飛ばすだけなら、江戸時代の大砲と変わりはない)


泰親の視線は、すでにその先——イギリスで発明されたばかりという噂の、砲身の後ろから弾を込め、螺旋の溝で弾を飛ばす悪魔の兵器「アームストロング砲」へと注がれていた。


「神代! やったな!」


馬を飛ばして駆けつけてきた鍋島直正が、泰親の肩を力強く叩いた。


「見事だ! これで我が佐賀藩は、幕府にも異人にも引けをとらぬ大砲を手に入れたぞ!」


泰親は直正に向かって深く平伏し、言った。


「殿。お祝いはまだ早うございます。これは始まりに過ぎませぬ」


「ほう?」


「福岡藩は、金を出して外国から船を買い、満足しております。ですが我が藩は、この鉄を使って『蒸気船』も『最新鋭の連射砲』も、すべて自前で作ります。……殿、さらに金を注ぎ込みますか? それとも、ここで立ち止まりますか?」


直正は不敵にニヤリと笑った。


「問うまでもない。我が佐賀の鉄で、幕末の世を焼き尽くしてやれ!」


福岡藩が歴史の呪縛と内部対立に苦しむ横で、佐賀藩の「技術無双」の足音が、いよいよ大きく響き始めていた。


(第三話へ続く)


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