第一話:長崎警護のふたつの顔
第一話:長崎警護のふたつの顔
一
嘉永六年(一八五三年)七月。
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れたという報せは、波紋のように西の果て、長崎の地まで波及していた。
真夏の陽射しが容赦なく照りつける長崎港外、神ノ島海軍台場。
佐賀藩士・神代泰親は、汗で額にへばりつく前髪を拭いもせず、単眼鏡を覗き込んでいた。視線の先には、湾内に静かに錨を下ろしている巨大な黒い影——プチャーチン率いるロシア艦隊の軍艦があった。
「すさまじいな……。浦賀のペリーだけではない。ロシアまでがこの長崎を狙って押し寄せてきおった」
泰親の傍らで、ため息をついたのは福岡藩の年配武士である。
長崎の警護は、幕府の命により佐賀藩と福岡藩が一年交代で担う決まりとなっていた。今年度は福岡藩の当番であり、佐賀藩は番外として警備の協力を補助する立場にある。
福岡藩の台場を見渡せば、藩士たちは皆、甲冑を身に纏い、古風な火縄銃や青銅製の大砲の横で固くなっていた。顔にはあからさまな動揺と困惑が浮かんでいる。
「神代どの、我が藩の家老首座からは『余計な摩擦を起こすな。幕府の差図を待て』と厳命されておる。だが、もしあの黒船が砲撃でも仕掛けてきたら、この古砲で防ぎきれると思うか……?」
福岡藩士の問いに、泰親は単眼鏡を静かに下ろすと、冷ややかな声で答えた。
「防げませぬな。一発も届かずに、この台場ごと木っ端微塵に吹き飛ばされます」
「な、なに……!?」
「あちらの軍艦に積まれているのは、最新式の滑腔砲……いや、おそらくは旋条砲(ライフル砲)も含まれておりましょう。射程も威力も、我らの火縄銃の延長にあるような大砲とは桁が違います」
泰親は二五歳。佐賀藩の長崎警護役の末席に連なる青年であったが、その眼差しには他の武士のような「異人への恐れ」や「尊皇攘夷の熱狂」はなかった。あるのは、冷徹なまでの「数字と計算」だけである。
「政治がどうの、幕府の面目がどうのと議論している間に、相手の艦砲が一発撃ち込まれれば終わりです。……武士の意地では、鉄の弾は止められませぬ」
泰親がそう呟いたとき、背後から重々しい足音が響いた。
二
「――相変わらず、可愛げのない物言いをするな、泰親」
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
質素な羽織姿ながら、隙のない立ち姿。眼光は鷲のように鋭く、醸し出す威圧感だけで周囲の藩士たちが自然と平伏する。
佐賀藩第十代藩主・鍋島直正であった。
「殿……! このような前線にまでご足労なさるとは」
「黙っておれ。長崎の風を直接吸わねば、世の中の動きは見えん」
直正は泰親から単眼鏡を受け取ると、ロシア艦隊をじっと見つめた。その表情には、恐れも怒りもなく、ただ貪欲なまでの「観察」だけがあった。
「泰親。福岡の陣営はどうだ?」
「は。黒田家はお上(幕府)への遠慮が勝ちすぎております。幕府の許可なく動くことを恐れ、陣術も武装も二〇年前のまま。志士気取りの若者が『叩き斬る』と息巻くか、上層部が『平穏に立ち去るのを祈る』かの二つに一つでございます」
直正はふっと鼻で笑った。
「黒田は……いや、筑前五十万石は『関ヶ原の呪縛』から抜け出せんのだな」
直正の言葉には、深い歴史の裏打ちがあった。
慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の戦い。福岡藩の祖・黒田官兵衛と長政親子は、圧倒的な軍略で天下の趨勢を動かした。しかしそれゆえに、徳川家康から深く警戒された。黒田家は生き残るため、「徳川への絶対の恭順」と「藩風の保身」を血の掟として叩き込まれてきたのだ。
対して、我が佐賀藩・鍋島家はどうか。
かつて主家であった龍造寺家からの実質的な下剋上によって成立した藩である。常に周囲から「謀反の疑い」「下剋上の悪名」の目を向けられ、幕府から潰されないためには「誰も文句を言えない圧倒的な実力と実績」を示すしかなかった。
「黒田は徳川の顔色を伺い、自らの手足を縛っておる。……だが、我が鍋島は違う。誰も守ってくれぬからこそ、己の力で化け物になるしかなかったのだ」
直正は単眼鏡を泰親に投げ返すと、長崎港の全景を見渡した。
「泰親。嘉永より四十五年前、文化五年の『フェートン号事件』を覚えているか」
「忘れるはずもございません」
イギリス軍艦フェートン号が長崎港に不法侵入した際、警護当番だった佐賀藩は太平の世に慣れきり、守備兵を勝手に減らしていた。結果、手も足も出ずに異人の言いなりとなり、当時の佐賀藩主は謹慎、長崎奉行は切腹という未曾有の屈辱を味わった。
「あの屈辱の日から、我が佐賀藩の時間は止まっておるのだ」
直正の目が、ギラリと怪しい光を放つ。
「他藩がどう言おうと構わん。我が藩は、二度とあのような恥を晒さぬ。異人を追い払うためなら、悪魔の技術であろうと飲み込んでみせる」
三
その日の夜。長崎の丸山遊郭に近い一画にある料亭にて、泰親は一人の男と向き合っていた。
福岡藩士・平野国臣である。
のちに幕末の乱世を駆け抜けることになる熱血の志士だが、今はまだ福岡藩の下級役人に過ぎない。しかしその瞳には、燃えるような情熱が宿っていた。
「神代どの! なぜ佐賀藩は沈黙を守っておられるのか!」
平野は盃を畳に叩きつけるように置くと、泰親に身を乗り出した。
「浦賀に黒船が来、長崎にロシアが来たのだぞ! 今こそ神州日本の武士が立ち上がり、帝をお守りし、異人を打ち払う(攘夷)ために結集すべき時ではないか! 我が福岡藩の若手も、長州の志士たちと連絡を取り合い、決起の機会をうかがっている!」
泰親は冷めた手酌で酒を口に含むと、静かに言った。
「平野どの。気勢をあげるのは勝手だが、何で異人を斬るおつもりか? 伝来の日本刀で、あの黒船の鉄板が切れるとお思いか?」
「な……! 斬れるかどうかではない、気魄だ! 武士の義と、国を思う誠心があれば――」
「誠心では、敵の砲弾は撃ち落とせませぬ」
泰親は懐から一枚の和紙を取り出し、膳の上に広げた。
そこには、泰親が出島のオランダ人から密かに入手した、西洋の最新鋭大砲の断面図が精密に描かれていた。
「これが何かお分かりか? 従来の砲とは違う。砲身の内部に螺旋状の溝が掘られ、弾丸が回転しながら飛ぶ。これにより、射程も命中率も従来の三倍以上に跳ね上がる。……異人は、科学という『理』で戦争をしているのです。精神論で勝てる相手ではない」
平野は図面を見つめ、言葉を詰まらせた。しかしすぐに顔を赤くして叫んだ。
「そのようなカラクリに頼るなど、武士の道にあらず! 福岡の殿(黒田長溥公)も蘭学はお好きだが、肝心なところで幕府の目を気にされて動かれぬ。だからこそ、我ら志士が草莽より立ち上がるのだ!」
「志士が立ち上がって、国が救えますか」
泰親は図面を折りたたみ、懐に収めた。
「福岡藩が血を流して政治の季節に酔いしれている間に、我が佐賀藩は『鉄』を焼きます。刀を捨て、科学を手に取る。それが我が藩の選んだ道です」
「……話にならん! 貴様らは冷血な機械か!」
平野は吐き捨てるように立ち上がり、部屋を去っていった。
一人残された泰親は、静かに酒を飲み干した。
(平野どのの言いたいこともわかる。……だが、時代はもう『個人の勇猛』を求めてはいないのだ)
四
翌日、佐賀城本丸。
長崎から戻った鍋島直正の前で、泰親は一枚の書状を差し出していた。
「殿。精錬方の設立、ならびに『鉄製反射炉』の建設予算、お認めいただきたく存じます」
大広間に集まった佐賀藩の重臣たちから、一斉に怒号が飛んだ。
「狂気の沙汰だ! 鉄を溶かす炉など、どれほどの金がかかると思っている!」
「ただでさえ我が藩の財政は火の車だぞ! 農民や町人を苛み、武士の俸禄を削ってまで、そのような妖しい南蛮の仕掛けを作るというのか!」
「福岡藩を見よ! 幕府の言いなりで波風を立てず、賢く立ち回っておるではないか!」
重臣たちの罵声を受けながらも、泰親はピクリとも動かなかった。ただまっすぐに、上座に座る鍋島直正の目を見つめていた。
直正は静かに手を挙げ、騒がしい大広間を静まり返らせた。
「泰親。家老たちの言う通りだ。これを作れば、佐賀藩の金蔵は完全に空になる。失敗すれば、我が鍋島家は破産し、幕府から言いがかりをつけられて改易(潰される)されるやもしれん」
直正の鋭い視線が、泰親を射ぬく。
「それでも、やるか?」
泰親は深く平伏し、朗々とした声で言い放った。
「殿。選択の時です」
大広間の空気が凍りつく。一介の若輩に過ぎぬ青年の言葉に、重臣たちが息をのんだ。
「徳川の庇護にすがり、福岡藩のように事なかれ主義で怯えて暮らしますか? それとも、藩の全財産を賭けて『世界最強の火力』を手に入れ、幕府すらひれ伏す天下の覇者となりますか? ……殿、どちらでいきますか?」
沈黙が、大広間を支配した。
一分。二分。
やがて——鍋島直正の唇が、不敵な笑みの形に歪んだ。
「くく……ははははは!」
直正は豪快に笑い声をあげ、畳を力強く叩いた。
「決まっているだろうが! 徳川の犬になって死ぬくらいなら、化け物となって世界を驚かせてやる! 泰親、全財産をやろう! 鉄を焼け! 大砲を作れ! 我が佐賀藩の運命、すべてお前の計算に預ける!」
「ははっ!」
この日、佐賀藩の、そして日本の運命が大きく旋回した。
薩摩や長州が政治の裏工作に走り、福岡藩が幕府への義理と志士の暴走に揺れていたその裏で——佐賀藩は、日本史上初となる「完全国産の鉄製大砲」の建設へと突き進むことになったのである。
(第二話へ続く)
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