第88話:微かな希望と、僅かな灯火
ノクス視点です。
血の海に膝をつき、私は震える手で彼女の身体へと手を伸ばした。
泥と血に塗れた彼女の手に、そっと自分の手を重ねる。
ーーひどく、冷たい。
生命の熱が急速に失われつつあるその感触に、視界が真っ暗に染まりかけた瞬間、途切れ途切れではあるものの、僅かに彼女の胸元が上下に動いていることに気がついた。
(まだ息がある……!)
その事実を理解した瞬間、真っ白にフリーズしていた私の頭に、理性が急速に戻ってきた。
弾かれたように彼女の身体を抱き起し、真っ赤に染まった衣服の裂け目を確認する。
これほどの血を流しているにも関わらず、致命傷とおぼしき傷口は、なぜか既に塞がっていた。
『誰か』が治癒をしていたのか。傷が塞がっているからこそ、彼女の命の灯火はギリギリのところで留まっていることを悟る。
(死なせない。絶対に……!)
「陛下ぁっ……!」
直後、静寂を切り裂くように背後から甲高い悲鳴が響いた。
「恐ろしい魔物が……!急に現れて……ロクサーナ様が私を庇って……っ!……ヒッ!?」
パニックになりながらも、なんとか状況を伝えようとしている聖女の言葉が、喉の奥で引き攣った。
私はゆっくりと振り返り、目の前で泣いている聖女に対して、魔物すら本能で逃げ出すほどの狂気的な殺気を向ける。
私の視線を真っ向から受けた聖女は、ガチガチと歯の根を鳴らして凍りつき、その場へへたり込んだ。
「……状況は後で聞く。今はロキシーを助けるのが先だ」
低く、喉を焼き切るような声が自身の口からこぼれ落ちる。
ーー今すぐ腰の剣を抜き、この女の首を刎ね飛ばしてしまいたい。
そんなどす黒い衝動が全身を駆け巡ったが、私は奥歯を噛み締めてその衝動を抑え込んだ。今ここでこの女を斬っても、ロキシーは助からない。
それに、彼女がこんな目に遭った原因を、吐き出させなければならない。
「……エルヴィス!!」
「……っは!!」
周囲に転がる凄惨な死体の山と、血の海に倒れるロキシーに息を呑み、呆然としていたエルヴィスを呼び、命じた。
「この女を拘束しろ。結界の破損、ならびにこの事態に関わっている疑いがある。牢屋へ放り込んでおけ」
「御意!」
「……」
聖女はただ、静かに突きつけられた命令を受け入れていた。
私の尋常ではない空気を察したエルヴィスたちが、即座に動いて聖女を押さえつける。
私は再びロキシーへと向き直ると、慎重に、優しくその身体を抱き上げた。
その信じられないほどに軽い体に、胸が締め付けられるような苦しみを感じながら、私は歯を食いしばり愛馬へと飛び乗った。
自身の腕の中で力なく揺れる彼女の身体を、落ちないようにマントでしっかりと包み込む。
「ロキシー……私を置いて行かないでくれ……」
血の気を失った白い頬へ顔を寄せ、祈るように囁く。
馬の脇腹を強く蹴りつけると、私たちは宮廷医師の待つ皇宮へと向けて全速力で駆け出した。
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