第8話:焦燥の夜と、仄暗い独占欲
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
桃色のドレスの裾をこれでもかと掴み上げ、皇城の回廊を全力疾走した私は、ようやくいつもの庭園へと滑り込んだ。
呼吸はすっかり乱れ、髪型も少し崩れてしまっている。
大理石のベンチに目を向けると――そこには、いつも通り漆黒の礼服を纏ったルシウス様が立っていた。
けれど、その佇まいはいつも以上に冷ややかで、周囲の暗闇が固まっているかのように重い。
「……遅かったな、ロクサーナ」
低く、地を這うような声。
いつもなら優しく細められる黒い瞳が、今は感情の読めない冷徹な光を放ち、じっと私を射抜いている。
「ご、ごめんなさい、ルシウス様……っ! 決して、あなたとの約束を忘れていたわけではないのですわ!」
「では、なぜだ。夜会も残すところあと三日。私にとっては、そなたと過ごす一分一秒が……」
ルシウス様は言葉を途中で飲み込み、ギリ、と美しい奥歯を噛み締めた。その瞳の奥にある、気が狂いそうなほどの焦燥と執着に、私の心臓が跳ね上がる。
「……そなたが来ない間、大広間の様子を見ていた」
「え……?」
「白や淡い青色の、いかにも帝都の連中が好みそうな礼服を着た男どもが、そなたの周りに群がっていたな。楽しそうに談笑し、ダンスの誘いを受けていたのか?」
ルシウス様がゆっくりと歩み寄ってくる。一歩、また一歩と近づくたびに、彼の放つ圧倒的な大人の色気と、仄暗さが私を包み込んでいく。
「違います! あれは、実家の権力目当ての狸どもを必死に追い払っていただけですわ! 私が妻になりたいのは、世界中でルシウス様だけだと、昨夜お伝えしたではありませんか……っ!」
詰め寄られた私は、背中が大理石の柱に当たって行き場をなくした。
ルシウス様の両手が、私の顔の横の柱に突かれる。完全に逃げ場のない、彼の腕の中に閉じ込められてしまった。
「……本当か?」
至近距離で見下ろしてくるルシウス様の瞳は、まだ嫉妬で揺れていたが、私は逃げることなく、彼の綺麗な漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「本当ですわ。他の男性なんて、これっぽっちも目に入りませんでしたもの。……それに、ルシウス様に早く会いたくて、私、淑女が見たら気絶するような速さで走ってきたのですから。そのせいで……今夜は、楽しみにしていたお肉の準備すらできなかったのですけれど」
料理長に頼んでいたお肉を受け取る時間すら惜しくて、ただひたすら彼に会うためだけに走ってきたのだ。手ぶらで来てしまった申し訳なさに私が眉を下げると、ルシウス様はハッとしたように目を見張った。
私の必死な弁明と、少し乱れた髪、そして何より自分だけを見つめる金の瞳を見て、彼の中の頑なな氷が、一気に溶けていくのが分かった。
「……そなたというやつは」
ルシウス様は深く、深くため息をつくと、額を私の肩にぽすんと預けてきた。
耳元で聞こえる彼の声が、少しだけ掠れている。
「本当に、心臓に悪い女だ。……来ないのではないかと、あの男たちの元へ行ってしまったのではないかと、本気で生きた心地がしなかった」
「ルシウス様……」
ゆっくりと顔を上げた彼は、そっと私の頬に手を伸ばし、崩れた髪を愛おしげに耳へと掛け直してくれた。その指先が、驚くほど優しくて、熱い。
「肉などなくても、十分だ。私が欲しかったのは、そなただ」
ルシウス様の長い腕が私の腰に回され、ぎゅっと強く抱きしめられた。
桃色のドレスと、漆黒の礼服が重なり合う。この国では「醜い」とされる黒一色の彼の胸の中が、今の私にとっては、世界で一番温かくて、心地の良い場所だった。
「私のロクサーナ。誰にも渡さない……」
トクトクと刻まれる、お互いの速い心音を聴きながら、私たちは夜風の中で、いつまでも抱き合っていた。残り少ない二人の時間を、一滴も零さないようにと確かめ合うみたいに。




