第9話:不審な妹と、物陰の戦慄
お兄様視点です。
6日目の夜会。
私、ガレス・ヴァルハイトは、きらびやかな大広間の壁際で、完全に気配を消して一人の令嬢を凝視していた。――我が愛すべき妹、ロクサーナである。
ここのところ、ロキシーの様子が明らかにおかしい。
毎晩のように夜会の途中で姿を消すのは、退屈しのぎに夜風に当たっているだけだと思っていた。だが、昨夜(五日目)のあいつは、ドレスの裾をたくし上げて髪が乱れるのも構わずに、まるで戦場に遅刻した戦士のような顔で庭園へ爆走していったのだ。
しかも、料理長から「今夜はロキシー様がお肉を引き取りに来られませんでした」と報告まで受けた。あの肉大好きなロキシーが、夜食を忘れてまで必死に会いに行きたい相手がいる。
(……間違いない。帝都のモヤシ野郎の誰かが、うちの可愛い妹をたぶらかしている!)
実家の権力目当ての狸か、それとも見た目だけの軟弱男か。どちらにせよ、ヴァルハイトの冬を越せないような男なら、この俺が拳一つで叩き出してやる。
そう心に決めて監視を続けていると、ロキシーが周囲の目を盗み、するりと大広間を抜け出した。
「よし……行くか」
俺は音もなく、妹のあとを追って夜の庭園へと足を踏み入れた。
ーーー
「ルシウス様、今夜はちゃんとお肉を持ってこられましたわ!」
庭園の奥、大理石のベンチの前でロクサーナは嬉しそうに声を弾ませていた。
隣に立つのは、一切の光を吸い込んだような漆黒の礼服を纏った背の高い男。
茂みの物陰に潜んだ俺は、その男の背中を睨みつけ、いつでも飛び出せるように拳を握り締めた。
(おいおい、真っ黒な男じゃねえか。どこの物好きな貴族だ?
さあ、こっちを向け。その軟弱な面を拝ませて――)
「そなたが無事で、こうしてまた会えたなら、肉などなくても私は構わなかったのだがな」
男が低く、酷く心地よい声で囁きながらゆっくりと横顔を月光の下に晒した。
その瞬間。俺の心臓は、ドクン、とあまりの衝撃で跳ね上がった。
(……は?)
彫刻のように整った美貌、暗闇をそのまま切り取ったような黒髪。そして、帝国の誰もが恐れ、近づこうとしない、あの圧倒的な威圧感の権化。
(皇帝陛下……!?!?)
ノクス・ルシウス・シルヴェスタ陛下。このシルヴェスタ帝国の絶対権力者であり、冷酷無比と恐れられる『黒の皇帝』その人だ。
なぜ陛下がこんな場所にいる? いや、それ以上に、なぜうちの妹と二人きりで、あんなに甘ったるい雰囲気を醸し出しているんだ!?
「そんなこと言わずに、召し上がってくださいませ。最高に美味しい部位なのですから。ほら、あーん、ですわ!」
「……美味い」
陛下が。あの冷血で女嫌いと噂の皇帝陛下が、妹の手から大人しく肉を食わされている。しかも、その顔は見たこともないほど愛おしげに、優しく蕩けていた。
あまりの光景に、俺は物陰で白目を剥きそうになるのを必死に堪えた。
殴り込みに行くどころではない。今ここで俺が見つかったら、ロキシーとのプライベートな時間を邪魔された陛下からどんな恐ろしい私怨の報復を受けるか分かったものではない。
「ロクサーナ。一週間の夜会も、明日で最後だ」
「ええ……。寂しいですわね。ルシウス様と毎晩会えるこの時間が、ずっと続けばいいのに」
ロキシーが寂しそうに視線を落とすと、陛下はその大きな手で妹の腰を引き寄せ、壊れ物を扱うように優しく、けれど強く抱きしめた。
「終わらせはしない。私はそなたを絶対に手放さない。……明日、必ず身辺を整理して、そなたと共にいるための準備を整える。だから、明日の夜もここへ来てほしい」
「もちろんです、ルシウス様。約束ですわ」
二人が幸せそうに見つめ合う中、物陰の俺は戦々恐々としていた。
(身辺を整理して、私のものにする……!? 陛下、それ完全に『本気』のやつじゃないですか……!! おーい、ロキシー、お前、自分が誰を捕まえたか分かってんのかーー!!)
夜風が冷たく吹き抜ける中、俺は声を押し殺して心の中で盛大に絶叫するしかなかった。
明日、何かが起きる。それも、我がヴァルハイト辺境伯家を根底からひっくり返すような、とんでもない嵐が――。




