第81話:忍び寄る悪意と、甘い毒
前半はロクサーナ視点、後半は第三者視点です。
「……では、公の場では今まで通り『陛下』とお呼びすれば、次からはもっとお話ししても大丈夫ということですよね!」
私の忠告にも無邪気にパッと表情を輝かせる聖女様。
その純粋な熱量と可愛らしい反応に、周囲の若い貴族たちはすっかり毒気を抜かれ、どこか微笑ましそうな視線を送っている。
(……いや、そうじゃない……と言いたいけれど、この無垢な瞳を見ていると、なんとなく通じない気がする……)
思わず心の中で小さく苦笑いを浮かべた、その時だった。
「……そろそろ引き上げる」
それまで私の隣で静観していたノクス様が、声を低く響かせた。そして、その場から一歩踏み出した瞬間ーー周囲の貴族たちが、引きつった悲鳴を上げて一斉に大きく後ずさった。
中には顔を真っ青にして呼吸を乱し、同伴者の腕にすがりつく令嬢までいる。
たとえ皇帝としてどれほど優秀な立ち振る舞いを見せようとも、彼がその場に長く留まれば留まるほど、周囲は恐怖と嫌悪で萎縮してしまうらしい。
ノクス様が早々に退場しようとしたのは、彼なりの配慮なのだろう。
「では参りましょうか、ノクス様」
私はごく自然な動作でノクス様の差し出した腕に自分の手を添えた。
周囲の怯えなどどこ吹く風で、当たり前のように寄り添う私に、聖女様は驚いたように目を丸くする。
「えっ……!?もうお帰りになってしまうのですか?まだパーティーは始まったばかりですのに……」
去りゆく背中を追うように、思わずといった様子で声を上げる聖女様。
ノクス様は足を止め、一言だけ簡潔に伝えた。
「……私が長居すれば、皆の息も詰まるだろうからな。聖女殿は引き続きパーティーを楽しむといい」
聖女様の返事を待つことなく、私たちは静かに会場を後にした。
背後で会場の扉が閉まると、会場の息苦しい緊張感から解放される。二人の足音が静かに響く長い廊下を歩き、やがてパーティー会場の喧騒が完全に遠のいた頃、ノクス様の自室の前へ到着した。
室内へ入り扉が閉まると、待ってましたとばかりにノクス様は私を力強い腕で抱き寄せた。
「ノクス様……っ」
そのままふわりと体が浮き上がり、鮮やかな手つきで部屋の中央にある深々としたソファまでお姫様だっこで運ばれる。
ノクス様は私を抱きかかえたまま腰を下ろし、いつもの定位置ーー彼の膝の上に私を下ろすと、再び私を抱きしめてきた。
「お疲れ様でした、ノクス様」
「ああ……ずっと、こうしてそなたに触れたかった」
私の肩に顔を埋めて甘えてくるノクス様が可愛くて、私は彼を少し引き剥がすと、頬に両手を添えて、自分からその唇へそっと唇を重ねた。
「ん……っ」
短い軽めのキスのつもりだった。……けれど、それが合図になってしまったらしい。私からの口づけを受けた瞬間、ノクス様の瞳にぽっと熱い火が灯った。
「……ロキシー、それは反則だ」
低く掠れた声が響いた次の瞬間、私の体は優しくソファへと押し倒されていた。見下ろしてくる漆黒の瞳には、濃厚な甘さと隠しきれない独占欲が揺らめいている。
逃がさないようにと手首を優しく固定され、そのまま降るような口づけが唇を、頬を、そして首筋を辿っていく。
「あっ、ノクス様……っ」
「ロキシー……早くそなたが欲しい」
「……ふふ、ノクス様のお好きにしてくださいな。私はずっと、ノクス様だけのものなんですから……」
微笑みながらそう告げると、ノクス様は愛おしさを噛み締めるように喉を鳴らし、さらに深々と口づけを重ねてきた。
重なり合う体温と呼吸。
聖女様がどれだけノクス様に恋をしていたって関係ない。私を慈しみ熱く求めてくれるこの体温と心を知っているのは、世界中で私だけなのだから。
ーーー
一方その頃、二人が早々に退場した後の歓迎パーティー会場では、取り残された聖女ブランシュを囲み、依然として華やかな賑わいが続いていた。
「聖女様、陛下のお言葉はお気になさらないでください」
「ええ、あのお方は昔からあのように冷血で恐ろしい方なのです」
「お優しい聖女様が、傷つく必要などどこにもございませんわ」
周りの貴族令息や令嬢たちが、困惑した様子のブランシュを慰めようと再び人垣を作っている。
そこへ、カツカツとヒールの音を響かせ、一人の令嬢が歩み寄ってきた。
「まあ、皆様。そんなに取り囲んでしまっては、長旅でお疲れの聖女様が参ってしまわれますわ」
儚げで、どこか守ってあげたくなるような愛らしい声。その言葉に貴族たちがハッとして道を開けると、そこに立っていたのは薄紫のドレスを纏ったラベンダーシルバーの髪の女性だった。
ローゼンベルク公爵家の次女であり、かつてエレオノーラ主催のお茶会でロクサーナに恥をかかされたリリス・ローゼンベルクである。
リリスは周囲の令息や令嬢たちを優雅な仕草で退散させると、ブランシュと自然に二人きりの空間を作り出し、どこか傷心気味に見える彼女に優しく微笑みかけた。
「初めまして、聖女様。私はリリス・ローゼンベルクと申します。美しいお姿を拝見できて光栄ですわ」
「……まあ。リリス様……お気遣いありがとうございます」
「いいえ。……先ほどのロクサーナ様のお言葉、さぞやお辛かったでしょう」
リリスはブランシュの手をそっと取り、痛ましそうな同情の色を浮かべて囁いた。
「ロクサーナ様は、北の野蛮な風習のままに育ったお方。ご自身の地位を守るためなら、聖女様のような尊いお方に対しても容赦なく牙を剥くのですわ。私も、あの方の振る舞いにはずっと胸を痛めておりましたの」
「えっ……ロクサーナ様が……?」
「はい。あのお方はご自身の立場を脅かされるのを恐れるあまり、陛下に近づく方を容赦なく排除なさるのです。先ほど陛下が早々に退席されたのも、きっとロクサーナ様に遠慮されてのこと……。ですが、諦める必要などどこにもございませんわ」
リリスはさもブランシュを心から案じているかのように、優しく語りかけた。
「隣国のみならず、この世界にとって必要不可欠な聖女様がこうして使節団としてこの国へ来られたのも、何かの縁……いえ、『運命』なのですから。聖女様と陛下と結ばれることこそが、我が国にとっても、そして何より陛下にとっても真の幸福なのですわ」
「……っ、運命……」
その言葉に、ブランシュの純粋な瞳がはっと大きく見開かれる。
「ええ。聖女様のその尊い恋心を成就させるためでしたら、微力ながら、公爵令嬢である私が、喜んでお手伝いいたしますわ」
(……北の野蛮な田舎者が、この私に恥をかかせたこと……絶対に忘れないわ)
黒の皇帝の妻になるなど真っ平御免だが、公爵令嬢という高貴な身分である自分を差し置き、あんな田舎上がりの女が『未来の皇妃』として自分の上に立つなど、プライドが許さなかった。
あの忌々しい姉の前でロクサーナに味わわされた惨めな屈辱を晴らすためーーそして未来の皇妃という立場から引きずり降ろすため。
ブランシュの純粋で疑うことを知らない瞳に、毒を注ぎ込むように愛らしく微笑むリリス。
ロクサーナへの復讐に燃える悪意の芽が、聖女の無知な恋心を利用しようと、静かに芽吹き始めていた。
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