第73話:心の羅針盤と、公爵令嬢の夢
薄紫色の野原での誓いから一夜明け、ついにヴァルハイト領を発つ日の朝がやってきた。
「ロキシー、身体にはくれぐれも気をつけるのよ」
「分かっておりますわ、お母様。短い間でしたけれど、とても幸せでした。……お父様も、お兄様も、お元気で」
お父様は太い腕で目を覆って号泣している。お兄様は「何かあったらすぐに手紙書けよ」と私の頭を乱暴に撫で回した。演習場から駆けつけてくれたレオンや騎士団のみんなも、笑顔で大きく手を振ってくれている。
彼らの温かい見送りを受けながら、私はノクス様と共に再び馬車へと乗り込んだ。馬車の中、私の左手の薬指には、世界で一番美しい指輪がきらめいている。
行きと同じく、丸二日をかけた帰路の旅は、ノクス様のぬくもりを隣で感じているだけで、飛ぶように過ぎ去っていった。
ーーそうして私たちは、再び皇宮へと戻ってきたのだった。
「ロキシー、長旅で疲れただろう。今日はゆっくり休むといい」
「ありがとうございます、ノクス様」
ノクス様と書斎の前で一度別れ、自分の部屋で旅の衣装を解く。こうして皇宮に戻ってくると、未来の皇妃としての緊張感が肌を包み込んだ。
翌日、私は皇宮に併設された庭園へと足を運んでいた。ヴァルハイトへの滞在中、エレオノーラ様と手紙のやり取りを重ねる中で「皇宮に戻られたら、ぜひまたお会いしたい」と約束を交わしていたからだ。
「ロクサーナ様!お久しぶりです。ヴァルハイト領での滞在はいかがでしたか?」
約束の時間に現れたエレオノーラ様は、以前のどこか張り詰めた完璧な公爵令嬢の雰囲気とは違い、生き生きとしたミントグリーンの瞳を輝かせていた。
「とても充実した時間を過ごせましたわ。エレオノーラ様もお変わりないようで安心いたしました」
あたたかい紅茶が運ばれてくると、私はふふ、と微笑んで彼女を見つめた。エレオノーラ様は運ばれてきた紅茶を一口飲むと、小さく息を吐いた。
「今日伺ったのは……ロクサーナ様に、以前お話しした私の夢について聞いていただきたかったのです」
エレオノーラ様は一瞬だけ緊張したように背筋を伸ばし、意を決したように真っ直ぐ私を見つめて語り始めた。
「この国において、貴族の女性が、それも公爵家の娘がこのようなことを望むのは、無謀で恥知らずと言われるかもしれません。ですから、ずっと誰にも言えず、心に秘めておこうと思っていたのです。ですが……私、小さな頃からずっと、皇宮の『魔導研究所』に勤めるのが夢だったのですわ。そこで魔石の研究をして、新しい魔道具をこの手で作る研究者になりたいのです」
「魔導研究所の研究員、ですか?」
私は驚きに目を丸くした。
この世界において、貴族令嬢の栄誉は『立派な家に嫁ぎ、良妻賢母となること』。
女性が働くこと自体が稀である上に、令嬢が職を持つということは、実家や夫に甲斐性がないーーつまり「我が家は貧乏です」と周囲に宣伝しているようなものなのだ。当然、そんな大それた望みに良い顔をする者はまずいない。
かくいう私も、ノクス様と出会っていなければ今頃は騎士になっていたはずなので、間違いなく世間から後ろ指を指されるルートを爆走していたわけだが。
皇宮の魔導研究所といえば、帝国の重要な戦略物資である最高品質の魔石が集まる最高国家機関だ。
人間そのものには固有の魔力がないこの世界において、インフラや武器のすべては魔石のエネルギーで賄われている。どれだけ精密に、かつ高出力でそのエネルギーを引き出せるかは、本人の持つ潜在能力と、血の滲むような努力の掛け算で決まる。
つまり、どれだけ潜在能力があろうが、能力があるだけでは魔石は扱えず、その逆も然りだ。
一歩間違えて繊細な出力コントロールに失敗すれば、大出力を宿した魔石による重大な破損事故や、最悪の場合は命を落としかねない危険も伴う。
そのため、精密な制御技術と高い潜在能力を持つ男性貴族だけが籍を置くことを許される、男社会の象徴のような場所なのだ。
そこに、淑やかで守られるべき存在、とされる公爵令嬢が足を踏み入れ、自ら研究者として魔道具を作りたいなど、既存の社会常識からは到底考えられない天変地異のような話だった。
「カシアン様との婚約が破棄され、公爵令嬢という型に押し込められていた時、ふと思い出したのです。私が自分らしく輝いていたのは、いつだったかしら、と」
エレオノーラ様は、愛おしそうに自身の遠い記憶を手繰るように目を細めた。
「まだ十歳にも満たない幼い頃、魔導具作りが趣味だった祖父の書斎に忍び込んだことがありましたの。そこで、祖父が実験のために光らせていた、小さな魔石を見たのです。暗闇の中でそれ自体が自立して、何色とも言えない美しい光を放ち続けている姿に……幼い私は、激しく心を奪われました」
彼女はそっと自分の胸に手を当て、瞳をきらめかせた。
「私は、誰かに美しく飾られる宝石になりたいわけではありません。あの時の魔石のように、自ら輝き、誰かの生活を豊かにして、大切な人を護れるような、そんな存在になりたいのです」
エレオノーラ様は拳を小さく握りしめ、不安そうに俯いた。
「やはり……変でしょうか」
「とんでもありませんわ!!」
私は身を乗り出し、彼女の手をぎゅっと包み込んだ。
「……っ!」
「とっても素敵です、エレオノーラ様!自分の進むべき道を自分で決めて、誰かのために学びたいと願うそのお姿、私は格好良くて美しいと思いますわ!」
「ロクサーナ様……っ」
「常識なんて、関係ありませんわ。エレオノーラ様が本気でその夢を追いかけるなら、私は全力で応援いたしますわ!」
私が満面の笑みで言い切ると、エレオノーラ様の澄んだ瞳から、堪えきれずに一粒の涙がハラリと零れ落ちた。けれどその顔は、とても晴れやかに輝いていた。
「……ありがとうございます、ロクサーナ様。そう言っていただけて、私、勇気が出ましたわ」
エレオノーラ様は涙をそっと指先で拭うと、少しだけ照れくさそうに私を見つめた。
「……実は、初めてお会いした時は少しだけ、打算もありましたの。皇帝陛下に深く愛されている貴女の存在を、心のどこかで後ろ盾のように思って近付いていました。そんな自分が恥ずかしくて……。でも、ロクサーナ様とお話ししていくうちに、私は貴女様というお人柄そのものに、確かに救われたのです」
彼女は重ねられた私の手を、今度は自分の方からぎゅっと握り返してきた。
「この先、家名に敷かれたレールの外へ飛び出せば、私は公爵家から勘当されるかもしれません。そうなれば、未来の皇妃であるロクサーナ様を支えるには、何も持たない、ただの平民になってしまう……。それでも……それでももし許されるなら、私と『友達』になっていただけますか?」
一人の少女として紡がれたその言葉に、私の胸は温かい気持ちでいっぱいになった。
最初は打算だったかもしれない。でもそれは私だって同じだ。私だって最初にお茶会の誘いを受けた時は、公爵令嬢である彼女との繋がりを作っておこうという打算が少なからずあったのだから。
それでも私という人間を見て「友達になりたい」と手を伸ばしてくれたことが、何よりも嬉しかった。
「もちろんですわ、エレオノーラ様!私の方からも、ぜひお友達になっていただきたいですわ」
私は満面の笑みで、彼女の手をさらに強く握り締めた。
窓の外から差し込む暖かな光が、私たちのテーブルを優しく照らす。彼女もまた、自分の足で立ち、自分の光で世界を照らそうとしている。
常識に囚われず、自分の心に従って未来に進む同志がここにも一人。彼女の夢がこれからどんな発明を生み出すのか、私はワクワクとした胸の高鳴りを感じながら、彼女の熱い想いに深く耳を傾けるのだった。
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