第70話:お忍びデートと、髪飾り
すっきりと晴れ渡った青空の下、私はいつもよりずっと軽い足取りで、ヴァルハイト領の賑やかな大通りを歩いていた。
今日の私の装いは華美なドレスではなく、動きやすい木綿のワンピースにエプロンを合わせた、街で見かける一般的な町娘の格好だ。
そして私の隣を歩く人はーー。
「……そなたのその可憐な姿に並んでも、不自然ではないと良いのだが」
ぽつりと声を漏らしたのは、すっぽりと深いフード付きのマントを羽織ったノクス様だった。
漆黒の髪と瞳を隠すための旅人風の変装で、慣れた様子で自然に街に溶け込んでいるけれど、その気品あふれる佇まいは隠しきれておらず、すれ違う人々が時折「おや?」と振り返っていく。
「とてもお似合いですわ。今日のノクス様は、少しミステリアスな旅の剣士様のようです」
護衛たちは、二人のデートの邪魔をしないよう気配を完全に消して遠巻きに潜んでいる。プロの隠密行動に感心しつつ、私はノクス様の差し出してくれた腕にそっと手を絡めた。
「せっかくのデートですもの、思い切り楽しみましょう?」
「ああ。そうだな」
マントの影から覗くノクス様の美しい唇が、嬉しそうに弧を描いた。
ヴァルハイト領の街は、帝都と比べるとどこか無骨だけれど活気に満ちている。街の周囲をぐるりと囲むのは、魔物の侵入を完全に防ぐための巨大な石造りの防壁だ。
そして街の中心にある大鐘楼の塔には、万が一魔物が壁内に侵入した時に領民に退避を促す、魔導具の『銀響の鐘』が設置されている。
そんな要塞都市でありながら、市場にはたくさんの人々が行き交い、楽しげな笑い声が絶え間なく響いていた。
「本当に素晴らしい活気だな。昨日の視察の際にも感じたが、行き交う人々が皆、生き生きと笑っている」
「ノクス様にそう言っていただけて誇らしいです!……あ、ノクス様! 見てくださいあのお店、お肉の串焼きを売っていますわ!」
香ばしいお肉と甘酸っぱいタレの匂いに、私は思わずノクス様の手を引いて駆け寄った。
「おや、いらっしゃい! 焼き立てだよ!」
元気な串焼き屋の店主から、焼き立ての串を一本買い求める。二人で分けるにはちょうど良い大きさだ。
私は一口かじると、その美味しさに頬が落ちそうになった。
「美味しい……! ノクス様、これ、すごくジューシーですわ。はい、あーん、してください!」
思わず、自分がかじった串をノクス様の口元へと差し出す。
ノクス様は差し出されたお肉をごく自然に口に含んだ。
「……美味いな。味付けもしっかりしている」
「でしょう?北部では濃いめの味付けが主流なんです」
「そこのお熱いご夫婦、お似合いだねえ!おじさんからもう一本おまけしちゃうよ。ほら、冷めないうちに二人で仲良く食べな!」
そう言って、店主はいたずらっぽく笑いながら、もう一本の串焼きを私たちの前に差し出した。
(ふ、夫婦……!)
確かに私たちは婚約者ではあるけれど、夫婦だなんて呼ばれると、急に未来のその関係を意識してしまい、恥ずかしさが一気に押し寄せて頬が赤くなる。
慌てて「夫婦だなんて、まだ……!」と否定しようとした私の肩を、ノクス様がマント越しにそっと抱き寄せた。
「ああ、ありがとう。……とても愛らしい自慢の妻だ。ありがたくいただこう」
「はいよ!」
ノクス様が新しい串を受け取ると、歩き出しながら背後に控える護衛にそっと目配せをした。
主の無言の意図を察した護衛は、店主の手元へ、喜ばせてくれた礼も含めた十分すぎるお代を素早く滑らせる。
私は彼から妻と呼ばれたことが嬉しくてたまらず、歩きながら思わず、ふふ、と笑ってしまった。
「ノクス様ったら」
「本当のことだろう?いずれ妻になるのだから」
クスクスと嬉しそうに笑うノクス様は、普段の皇帝陛下の姿とはまるで違う、年相応の青年の顔をしていて、なんだか私も、わけもなく胸の奥が嬉しさでいっぱいになってしまった。
「この活気ある街や、温かい家族を見ていると、よく分かるな」
「何がですの?」
「そなたの、その明るく天真爛漫な性格がどのようにして育まれたのかがな。皆に愛され、この暖かな領地で育ったからこそ、そなたは強くて優しい人間になったのだと」
「ノクス様……」
私は彼の腕に絡めた手にそっと力を込めた。
家族やこの街が私を育んでくれたように、今度は私が、孤独で冷たかった彼の世界を温かさで満たしていくのだと、静かに誓った。
その後、散策の途中に私たちは可愛らしい露店が並ぶ一角に立ち寄った。
きらきらとしたガラス細工や小物が並ぶ中、私は一つの髪飾りに目を奪われた。
それは、ヴァルハイト領の深い森の木の葉を模した、透き通るような若葉色のヘアクリップ。素朴だけれど、どこか温かみのある美しい細工だ。
「……気になるのか?」
「あ、いえ。綺麗だな、と思っただけですわ。私には少し、可愛らしすぎる気がして……」
そう言って引き返そうとしたものの、名残惜しさにそっと視線を戻してしまった私を引き留め、ノクス様は店主に銀貨を支払うと、その若葉色の髪飾りを優しく受け取った。
「ノクス様……?」
「そなたの美しい髪にきっと似合う。……付けても良いか?」
「ええ、喜んで……!」
ノクス様は私のサイドの髪をそっと掬い上げ、丁寧に髪飾りを留めてくれた。
指先が耳の裏に触れ、くすぐったい気持ちになる。
「よく似合っている。そなたの髪にぴったりだ」
「ありがとうございます……。大切に、ずっと大切にしますわ」
髪飾りにそっと触れながら、私はとびきりの笑みをノクス様に向けた。
二人の時間は瞬く間に過ぎ、屋敷に戻る時間が近づいていく。
楽しい時間はあっという間だったけれど、髪に留まった若葉色の温かな輝きは、二人で過ごした幸せな記憶の証として、しっかりと私の心に刻まれていた。
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