第69話:甘いクッキーと、母の言葉
「……ふぁ……」
窓から差し込む朝の光に目を覚ますと、思ったよりも高く太陽が昇っていた。
急いで時計を確認すれば、普段の起床時間をとうに過ぎていて、なんだかんだ慣れない馬車旅の疲れが出たのかもしれない。
「やってしまいましたわ……」
少し遅めの朝食を済ませた後、私は計画通りクッキーを焼くために料理長のいる厨房へと向かった。
「おや、ロクサーナ様、クッキーですか?お安い御用ですよ」
「ありがとう!」
快く了承してくれた料理長の指導のもと、私は袖を捲り上げてクッキー作りに没頭した。
丁寧に生地を型抜きし、香ばしい匂いとともに焼き上がったクッキーを丁寧にワゴンの上のお皿に盛り付ける。
「よし!クッキーも用意できたし、ヴェラ、ニナ。お母様のところへ行きましょう」
緊張に背を強張らせる二人を伴い、私はお母様の自室へと向かった。扉を開けると、お母様は相変わらず穏やかな微笑みを浮かべて私たちを迎えてくれた。
「あらロキシー、おはよう。どうしたの?」
「おはようございます、お母様。焼き立てのクッキーとお茶をお持ちしましたの。よろしければ、ご一緒にいかがかしら?」
「まあ、嬉しいわ。とっても良い香りね。さあ、座ってちょうだい」
お母様がソファを勧めてくれたので、私はテーブルを挟むようにして向かい側に座った。
ヴェラがすかさず一歩前に出て、慣れた手つきで温かい紅茶を淹れてくれた。ニナも緊張しながら、焼き立てのクッキーを丁寧にお皿に取り分けてくれる。
お母様が嬉しそうにクッキーを一口含み、「あなたのクッキーを食べるのは久しぶりね、サクサクで本当に美味しいわ」と喜んでくれたのを見届けてから、私は本題に入った。
「お母様、今日は皇宮で私に仕えてくれている専属侍女をご紹介したいと思いまして。……こちら、ヴェラとニナですわ」
紹介すると、控えていた二人は綺麗な一礼を捧げた。
「お初にお目にかかります、ヴァルハイト辺境伯夫人。ヴェラ・コンラートと申します。至らぬ身ではございますが、ロクサーナ様を誠心誠意お支えする所存です」
「同じく、ニナ・レンツと申します!よろしくお願いします!」
お母様はそんな二人をじっと見つめ、やがて優しく目を細めた。
「まあ、とても素敵なお嬢さんたちね。これからも娘をよろしくね」
安堵の息を吐く二人に、お母様は「さあ、お茶にしましょう。あなたたちもどうぞ座って」とヴェラとニナに席を勧めてくれた。
ヴェラとニナは戸惑いながらも席につき、恐る恐るお茶を飲んでいる。みんなで小さなお茶会を楽しんでいると、お母様は私にゆっくり話し始めた。
「ロキシー、陛下があなたをどれほど深く愛していらっしゃるかは、見ていればよく分かるわ。けれど、あのお方は皇帝。常に多くの思惑や悪意、そしてその『色』への畏怖に晒されるお立場よ。時には、国のために本意ではない決断を下すこともあるでしょうし、耳を塞ぎたくなるような噂が流れることもあるかもしれないわ」
「……」
「けれどそんな時、あなただけは周囲の雑音に惑わされては駄目。ヴァルハイトの女らしく、どんと構えて、何があっても陛下を信じなさい。あなたのその絶対的な信頼こそが、あのお方にとって、何よりの救いになるのだから」
「……ノクス様の、救い……」
お母様の温かな言葉が、自然とすっと胸に染み渡っていく。
「ありがとうございます、お母様。心に刻みますわ」
その後、お母様の提案で、四人で刺繍をすることになった。
幼い頃から刺繍が得意なお母様に対し、普段は護衛としての訓練に励むヴェラとニナ、そして私は大苦戦していた。
「……うぅ、これはここに刺して……。あれ?……」
「ニナさん、そこはもっと優しく引くのよ。あら、また糸が絡まってしまったわね」
「……できました……!」
「素敵だわヴェラさん、かわいい猫ね」
「……うさぎ、です……」
「ふふ、ヴェラにも苦手なことがあるのね、なんだか親近感が湧くわ!」
針と糸を前にして冷や汗を流す二人の様子が微笑ましくて、私とお母様は思わず声を上げて笑ってしまった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、夕食の時間。食堂には家族全員と、視察を終えたノクス様が集まっていた。
「――やはり、東側の街道の整備は急がせるべきだな。ヴァルハイト卿、手配は任せる」
「承知いたしました、陛下。ガレス、担当者に連絡し、職人の手配をしておきなさい」
「はい、親父殿」
食卓では、昼間の視察を踏まえた執務の話が、ノクス様とお父様、そしてお兄様の間で交わされていた。
「そう言えば、東側の街道沿いには、これからの季節、実りの秋に向けて美しい果樹や紅葉が見られるそうですわね。視察の際、そのあたりはご覧になりましたか?」
ふと私が会話に入ると、ノクス様はそれまでの無表情を和らげ、私を振り返った。
「ああ、街道沿いの果樹園だな。まだ実が青いものもあったが、収穫の時期には見事な景色になりそうだと、ヴァルハイト卿とも話していたところだ」
「まあ、それは楽しみですわね!」
「整備が完了すれば、もっと見通しも良くなるだろう」
その後も、時に私も会話を交えながら、和やかな雰囲気のまま夕食は終わりを告げた。
ノクス様に部屋まで送ってもらう道中。
廊下に響く二人の足音を聞きながら、私は腕に回した手に少しだけ力を込めた。
「あの、ノクス様。明日のご予定は、どのようになっていらっしゃいますか?」
「明日は午前中にヴァルハイト領の地方官たちとの面会が入っているが……午後は、ここでの書類仕事が中心だな。どうした?」
「その……ルミエラでは、結局街をゆっくり歩くことができませんでしたでしょう?なので、もしよろしければ、街を二人でデートしませんか……?」
恐る恐る見上げると、ノクス様は優しく微笑んだ。
「デートか。……そうだな。面会後の二時間程度であれば時間が取れるが、それでもよいか?」
「はい、もちろんです!」
「では、明日はデートに行こう。そなたと一緒にいると、毎日が新鮮で楽しい」
「私もですわ、ノクス様。大好きです」
「ああ、私もだ」
彼の手が私の頬を包み込み、そっと唇が重ねられた。
余韻を残したまま自室の扉の前でノクス様と別れ、部屋に入り扉に背を預けた私の胸は、明日への期待でいっぱいだった。
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