第65話:黒の皇帝と、赤の騎士
「ーー楽しそうだな、ロキシー」
低く、美しい声が訓練場に響いた瞬間、その場の空気が一変した。
鉄門の前に立っていたのは、お父様との視察話を終えたノクス様だった。
陽光を吸い込むような長い黒髪に、冷徹な光を宿した漆黒の瞳。ただそこに佇んでいるだけで圧倒的な皇帝の覇気が訓練場全体を支配していく。
「ノクス様!お話はもう終わられたのですか?」
私が木剣をニナに渡し、嬉しさのあまり駆け寄ると、ノクス様は表情をふっと和らげ自然な動作で私の腰を引き寄せる。
「ああ。ここに居ると聞いたのでな」
「来てくださって嬉しいですわ!懐かしくて、少し手合わせをしていたのです。……あちらにいるのが、ヴァルハイト騎士団の騎士たち、そして私の幼馴染のレオンです」
私が紹介すると、レオンをはじめとする騎士たちが一斉にその場に片膝を突き、頭を垂れた。
「ヴァルハイト騎士団副団長、グレイにございます。皇帝陛下におかれましては、此度のご来訪、一同心より歓迎いたします。本来であれば団長がご挨拶すべきところ、不在にしており申し訳ございません」
副団長が厳かに深く頭を下げた後、隣に並ぶレオンが続いた。
「……ヴァルハイト騎士団、レオンにございます」
レオンは完璧な騎士の礼を取っている。
けれど、レオンが頭を下げた瞬間、ノクス様の漆黒の瞳がわずかに細められた。ノクス様の腕にぐっと力がこもり、私の身体がさらに密着させられる。
「……そうか。ロキシーが世話になったようだな」
声は驚くほど穏やかだが、気のせいか、ノクス様の全身から冷たい空気が放たれているような気がした。
(ノクス様、どうして不機嫌そうなの……!?)
「あの、ノクス様!以前お話しした『夜になると星が降るように近くに見える高台』を覚えていますか?今夜、ノクス様をそこへお連れしたくて……一緒に、行ってくださいますか?」
上目遣いでそうねだると、ノクス様は毒気を抜かれたように小さく息を吐き、私の頬を愛おしげに指先で撫でた。
「そなたの誘いを断る理由などない。今夜は二人きりで、星を眺めよう」
「はい……!嬉しいですわ」
周囲にたくさんの騎士たちがいることも忘れ、私たちは甘い微笑みを交わし合う。
よし、これでノクス様の機嫌も直ったはず。そう安堵して、ノクス様と共にその場を立ち去ろうとした、その時だった。
「ーーお待ちください!陛下!」
静寂を引き裂くようなレオンの声に、私が驚いて振り返ると、レオンは立ち上がりまっすぐにノクス様を見据えている。
「不敬を承知で、お願いがございます。……俺と、手合わせをしていただけないでしょうか」
「「「!?」」」
「なっ……レオン!?あなた、何を言ってるの!?」
私は思わず叫んだ。周りの騎士たちも驚いてレオンを見ている。
相手は帝国の頂点に立つ御方だ。一領地の騎士が気安く勝負を挑んでいい相手ではない。不敬罪を問われてもおかしくない暴挙に、私の心臓はバクバクと激しく警鐘を鳴らす。
しかし、ノクス様は動じることなく、ただ冷徹な瞳でレオンを見つめ返した。
「私が断ると言ったら?」
「……ロクサーナ様を、未来の皇妃としてお連れになる御方がどれほどの強さなのか。この地を守る騎士として、確かめさせていただきたいのです。もし、俺が一本でも取れたならーー」
レオンの言葉の先を、ノクス様は片手を上げて遮った。
その唇が、どこか愉悦を孕んだ笑みに歪む。
「面白い。そなたの無礼、その心意気に免じて不問に処そう。ーー来い。私が直々に、身の程というものを教えてやる」
ノクス様はニナが差し出した木剣を、大した興味もなさそうに片手で受け取った。
訓練場の中央で、ノクス様とレオンが対峙する。
レオンは私との手合わせの時とは比べ物にならない、殺気すら含んだ鋭い構えを見せていた。
「ーーいきます!」
レオンが地を蹴った。先ほどよりも遥かに速く、重い一撃がノクス様の脳天めがけて振り下ろされる。
しかしーー。
パァンッ!!!と、鼓膜を突き破るような強烈な打突音が響き渡った。
「が、はっ……!?」
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
レオンの放った渾身の一撃は、ノクス様が微動だにせず繰り出した一振りの前に、木剣ごと容易く弾き飛ばされていたのだ。
それだけでは終わらない。
弾かれたレオンの体勢が崩れた刹那、容赦のない追撃の横薙ぎが、レオンの脇腹を正確に、そして強烈に打ち抜く。
ドォン!と鈍い音がして、レオンの身体が数メートルも真横に吹き飛び、地面を激しく転がった。
「レオン!」
圧倒的としか言いようがなかった。
レオンだってヴァルハイトで上位クラスの騎士なのに、ノクス様の前では、まるで赤子のように簡単に薙ぎ倒されてしまっていた。
体力作り用の基本の木剣ですらこの実力差なのだ。もしこれが、魔石を施した魔導剣を利用した実戦に近い試合だったら、レオンは一撃を交えることすらできず、文字通り手も足も出なかっただろう。
(レオン、大丈夫かしら……!?でも……でも……っ!)
幼馴染の体調を本気で心配する気持ちはある。あるのだけれど。私は、初めて見るノクス様の戦う姿から、目を離すことができなかった。
無駄を一切排した、完璧な太刀筋。容赦のない、けれどあまりにも強くて美しいその姿に、私の胸の鼓動はかつてないほどに高鳴っていた。
(格好いい……っ!どうしましょう、信じられないくらい格好良すぎるわ……!)
ノクス様の新たな一面に、私の目は完全にハートマークになっていた。
「ここまでのようだな」
ノクス様は息一つ乱さず木剣をニナに返すと、冷ややかに地面を見下ろした。
そこには、脇腹を押さえながら膝をつくレオンの姿があった。
レオンは激しく咳き込みながら、弾き飛ばされた自分の木剣を見つめ、これ以上ないほど悔しそうに歯を食いしばっている。
圧倒的な実力の差。そして何より、ロクサーナの目が自分ではなく、あの黒い皇帝に完全に奪われているという現実。
その両方に、レオンは打ちのめされていた。
ノクス様は、膝をつくレオンの傍らにゆっくりと歩み寄ると、私には聞こえないほどの低い声で何かを囁いた。そして、まだ目を輝かせている私の手を取り、今度こそ訓練場を後にしたのだった。
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