第62話:一人の男と、親心
ノクス視点です。
パタン、と静かに扉が閉まり、愛しい婚約者と、その母、そして兄ガレスの気配が廊下の向こうへと遠ざかっていく。
途端に、つい先ほどまで部屋を満たしていた穏やかな空気は霧散し、応接間は水を打ったような静寂に包まれた。
ソファーの向かい側に座るヴァルハイト卿――ハラルドを見やる。
その筋骨隆々の強靭な体躯からは、先ほどまでの穏やかな空気は完全に消え失せ、代わりに国境を守る大貴族としての重厚な覇気が、その鋭い眼光から静かに放たれている。
「さて、二人きりになったな」
私は背もたれに深く身体を預け、低く告げた。
「ヴァルハイト卿。ここからは視察の話に入る前の一時の無礼講だ。堅苦しい言葉遣いも、過度な礼節も捨てて構わん。臣下としてではなく、ロキシーの父親としてのそなたの本音を聞かせてくれ。今ここで何を言おうと、決して不敬の罪には問わぬと約束しよう」
私の言葉に、ハラルドは驚いたように目を見開いた。だが、すぐにフッと自嘲気味な笑みを漏らし、改めて背筋を伸ばした。
「……ありがとうございます。その前に一つだけ、娘をよろしくお願いしますと言った先ほどの言葉に嘘はありません。そして異論もございません。ですが、陛下のお言葉に甘えて、一人の父親として、不躾ながら本音を失礼いたします」
ハラルドは一呼吸置き、真っ直ぐに私を射抜いた。
「陛下。……貴方は賢帝であられるが、同時にその『黒』のせいで敵も多い」
その言葉に、私は否定も肯定もせず、ただ先を促すように視線を返す。
「本音を言えば……ロキシーには、皇宮というあまりにも堅苦しく、常に陰謀が渦巻いているような『皇妃』などという立場にはなって欲しくなかった。どこか辺境伯の分家の男や、我が領の気心の知れた騎士にでも嫁ぎ、このヴァルハイトの地で、生涯のんびりと笑って過ごして欲しかったのです」
大粒の拳をぐっと握り締めながら、ハラルドは胸の内を吐き出すように言葉を続けた。その声には、辺境伯当主としてだけでなく、娘を案じる親心が滲んでいる。
「あの子は、美しく着飾って淑やかに微笑んでいるよりも、剣を握り、野山を駆け回っている方がずっとあの子らしくいられるでしょう。皇宮の権力争いに巻き込まれ、あの子のあの天真爛漫な輝きが曇ってしまうのではないかと……私は心配で堪らないのです」
父親としてのハラルドの必死な訴え。それは、私が『皇帝』という呪われた椅子に座っている限り、常にロキシーに付き纏うリスクそのものだった。
だが、私の答えは最初から決まっている。
「……そなたの言うことは、至極真っ当だ」
私は静かに口を開いた。
「私も、ありのままのロキシーを愛している。淑女の仮面など被らず、自分の意志で真っ直ぐ前を向く彼女に、私は救われたのだからな」
頭の片隅に、私の前で見せる彼女の様々な表情が浮かぶ。笑った顔も、怒った顔も、泣いた顔もーーそのすべてが愛おしい。
「だが、ハラルド。私はもう、彼女無しでは息をすることさえできないほど、ロキシーを愛してしまった。……今更、他の誰かに譲るなど、天地がひっくり返っても不可能なのだ。絶対に手放すつもりはないし、もし、ロキシーの心が私以外に向いたその時はーー私は、自分の心臓と共に彼女の心臓を剣で貫くだろう」
ドク、と胸の奥の傲慢な独占欲が跳ねる。私の瞳に宿るであろう狂気的な熱量に、ハラルドの身体が一瞬、硬直したのが分かった。
「皇宮の狸どもがどれほど汚らしく蠢こうと、どんな手段を使ってでもロキシーを守り抜いてみせる。……まあ、当の本人は、ただ一方的に私に守られているだけなのは不満なようだがな」
ふっ、と自分でも驚くほど甘い笑みが溢れてしまう。ハラルドは私のその表情を見て、呆気にとられたように数度瞬きをすると、いつもの豪快な笑い声を響かせた。
「……フハハ!そうでしょうとも!あの子はただ守られるだけの弱い子ではありません。しかし、驚きましたな。一国の皇帝陛下をそこまで狂わせるとは、我が娘ながら大した魔性だ」
その瞳には、まだ心配の色が残りつつも、穏やかな色が灯っていた。
「いいでしょう。そこまでの覚悟をお示しいただけたのなら、このハラルド、これ以上は何も申しませぬ。改めて陛下、娘をよろしくお願いいたします」
「ああ。約束する」
私たちは男同士の、そして家族としての無言の契りを交わすように、深く頷き合った。
「さて、ヴァルハイト卿。ここからは仕事の話をするとしよう」
私が声音を皇帝のものへと切り替えると、ハラルドもまた、辺境伯としての顔に切り替え、姿勢を正したのだった。
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