第60話:少女の初恋と、噛み合わない歯車
58話のブランシュ視点です。
「はぁ、はぁ……っ! うそ、どうして……!」
広場へ続く石畳を、私はワンピースの裾を必死に掴みながら走っていた。心臓が早鐘を打ち、喉の奥が焼けるように熱い。振り返れば、夕日が迫る路地の向こうから、下卑た笑い声をあげる男たちの足音が追ってくる。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
生まれ育った隣国では、私は『聖女』として常に厳重に守られ、神殿で大切に育てられてきた。どこへ行くにも大仰な護衛がつき、大衆の目を集めてしまう窮屈な日々。だから……。
――一度でいいから、本で読んだ普通の女の子のように、自由に街を歩いてみたかった。
その願いがどうしても諦めきれなくて、私は一番信頼している従者兼護衛を何とか説得し、周囲には完全に内緒で、友好国である帝国の、聖なる街と言われるこの美しい観光街ルミエラへとやってきたのだ。
ルミエラに着き、街を観光している間は、初めてのこと尽くしで胸が高鳴って仕方がなかった。お忍びのためのフード付きマントを深く被り、市場へとやってきたまでは良かったのだ。
けれど、信頼する従者が私の買い物の支払いを済ませてくれている間、その賑やかさに目を奪われてしまい、物珍しさにほんの少し近くを見回っていただけなのに、気がついた時にはあまりの人の多さに一瞬で迷子になってしまっていた。
おまけに、物珍しさにキョロキョロとしていた私は、ガラの悪い男たちに目をつけられてしまったのだ。
「おい、お嬢ちゃん。一人旅か?いい店知ってるから、俺たちと遊ぼうぜ」
「っ嫌です……!」
私が後退りしたその時、男の一人がニヤニヤと笑いながら、私の頭を覆っていたマントのフードを強引に剥ぎ取った。
「あ……っ!」
「!……へえ、隠してるから見せられねえツラしてるのかと思えば、とんでもねえ上玉のお嬢ちゃんだな。おい、余計に帰したくなくなっちまったよ」
光の下に晒された私の素顔を見て、男たちの瞳に邪悪な熱が走る。いくら拒絶しても、男たちは下卑た笑みを浮かべたまま、今度は明確に私を連れ去ろうと、力尽くで腕を掴みに距離を詰めてきた。
恐怖で身体が震えそうになるのを必死に堪え、私はフードを被り直し、一瞬の隙をついて夢中で男たちの隙間をすり抜けると、がむしゃらに大通りへと走り出した。それが、この鬼ごっこの始まりだった。
「嫌……っ! 来ないで!」
視界が開け、美しい妖精の彫刻がそびえ立つ噴水広場へと飛び出す。沢山の人がいるこの場所なら助かると思ったのに、男たちは周囲の目も気にせず、怒号を上げながら追いかけてくる。
「おい、待ちやがれ! ちょっといいツラしてるからって、気取りやがって!」
涙で視界が滲む。誰か、誰か助けて。
縋るような思いで前を向いた直後、私は正面から歩いてきた、長身の人物へと猛スピードで衝突してしまった。
「っ、不審者――!?」
誰かが鋭い声を上げる。衝撃で私のマントのフードがハラリと後ろへ滑り落ち、風が私の髪を揺らした。
あまりの勢いに反動で転んでしまうと思った私の身体は、誰かの逞しい腕によって受け止められていた。
「っ……!」
息を呑み、恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは、フードを被り、上質なマントを羽織った長身の、冷たい空気を纏った男性の胸元だった。
「おい! 人の女に何手ぇ出してんだ!」
追いついてきた男たちが、私に荒々しく掴みかかろうとする。
その瞬間、目の前の男性は私の肩を大きな手で掴むと、私を守るように、自分の背後へと庇った。
「……喧しい」
地を這うような、低い声。
直後、何が起きたのか私の目では追えなかった。
男たちの拳をかわしたと思えば、気づいたら男たちは地面に倒れていた。それくらい、一瞬の出来事だった。その時の風圧が男性の深く被っていたフードをバサリと後ろへ撥ね退ける。
ーードクン。
その顔を見た瞬間、胸が高鳴り、私の胸の奥で、カチリと運命の歯車がはまった音がした。
(ああ、この方だわ……。私がずっと求めていた、私の運命の人……!)
夜の美しさをそのまま溶かし込んだかのような、艶やかな黒い髪。そして、すべての光を惹きつけるような深い漆黒の瞳。
彫刻のように整ったその美貌は、神々しいまでに恐ろしく、そして、今まで見たどんな男性よりも素敵だった。
「ひっ……!? こ、皇帝……!?」
「何故ここに……!」
「きゃあぁっ! 」
周囲から悲鳴のような声が上がる。皇帝……ノクス・ルシウス・シルヴェスタ皇帝陛下!
隣国の神殿で暮らしていた私でも噂は知っている。冷酷非道で恐れられ、近づくものすべて呪われる黒の皇帝だと。
けれど、地面に倒れて呻く男たちを見下ろすその圧倒的な強さと、私を庇ってくれた広い背中に、恐怖など一ミリも湧かなかった。ただひたすらに、彼という存在が放つ強烈な光に、魂ごと奪われていくような熱い衝撃だけが身体を駆け巡っていた。
彼は冷たい瞳で、私を一度だけ一瞥する。
「怪我はないな。あとは私の部下に任せる。すぐにこの場を離れろ」
「あ……待って、ください……!」
去ろうとする背中に、私は焦がれるような思いで声を絞り出した。せめて自分の名前を知ってほしくて、この気持ちを伝えたくて。
「あの……私はブランシュと申します。助けていただいて、本当に……ありがとうございました」
女神に例えられる私の美貌は、彼には一切通用しなかった。私の名前を聞いても、眉一つ動かさず、ただ事務的に冷たく言い放たれる。
「礼はいい。……行くぞ」
それだけを言い残すと、陛下は護衛たちに処理を丸投げし、一度も、ただの一度も振り返ることなく、足早にその場を去っていってしまった。
残された私は、胸の上にそっと手を当てる。
ドクドクと、今までにないほど激しく心臓が波打っていて、おさまる気配がまったくない。触れた頬は、自分でも驚くほど熱くなっていた。遠ざかっていく、その後ろ姿を、私はただじっと見つめ続ける。
冷たくあしらわれてしまったけれど、不思議と悲しくはなかった。むしろ、私のために手を差し伸べ、背中で守ってくれたあの瞬間のぬくもりが、今も鮮烈に心に焼き付いている。
(ノクス様……)
これまで多くの人から向けられてきたのは、崇め奉るような、どこか遠い視線と、下心の透ける歪んだ視線ばかりだった。けれど、あの方は私を特別視することなく、ただ守るべき一人の人間として、絶望から救い出してくださった。
胸の奥から、じんわりと温かな、けれど止めようのない強い感情が溢れてくる。生まれて初めて知る、胸が苦しくなるほどの高鳴り。これが、本で読んだ「恋」というものなのだろうか。
「……あの方に、もう一度お会いしたい」
ぽつりと、祈るように言葉が零れ落ちる。
一度冷たくされたくらいで、諦めることなんてできない。だって、この広い世界で、私たちは運命で巡り会えたのだから。これは神様がくれた、きっと特別な導きに違いない。
「ふふ……」
夕暮れが街を包み込んでいく中、私の心には、ただ一人の男性を想う、どこまでも純粋な初恋の灯火が、消えることなく灯り続けていた。
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