第58話:夕暮れの時計塔と、運命の悪戯
前半ノクス視点、後半ロクサーナ視点です。
ルミエラの領主館での視察公務は、予定通り夕刻前にすべてを終えた。今回の旅は未来の皇妃の故郷への挨拶という名目だが、ルミエラへの公式な視察でもある。そのため私の周囲も厳重な近衛兵の警護で固められていた。
「陛下。ロクサーナ様は先ほどハーブ店とお菓子屋を回られた後、夕日を見るために時計塔のふもとでお待ちです」
影からの報告に、私の口元がわずかに緩む。一刻も早く、あの愛おしい温もりに触れたかった。
「分かった。今から時計塔へ向かう。……広場を突っ切る方が早いな」
私は視察用の軍服のままだと目立つため、上から全身を覆うフード付きのマントを羽織り、ロキシーの待つ時計塔へと移動を始めた。早足に石畳を歩き、街の中心にある『妖精の噴水広場』へと差し掛かった、その時だった。
「嫌……っ! 来ないで!」
「おい、待ちやがれ! ちょっといいツラしてるからって、気取りやがって!」
美しい妖精の彫刻から水が湧き出る、噴水のすぐ目の前。
賑やかな広場の喧騒を切り裂くように、鋭い悲鳴と下卑た男たちの怒号が響く。
直後、死に物狂いで逃げてきたその少女が、私の進行方向へと猛スピードで飛び出してくる。
「っ、不審者――!?」
後ろにいる近衛兵が制止しようとしたが間に合わず、少女は凄まじい勢いで、私の胸へと激しく衝突した。
「っ……!」
あまりの勢いに、私はとっさにその身体を受け止めたが、衝撃で相手のフードがハラリと後ろへ滑り落ちる。
現れたのは、光を浴びて白銀に輝く髪と、吸い込まれそうな神秘的な銀の瞳を持った、美しい少女だった。
「っ、ごめんなさい……!」
ーードクン。
少女の顔を見た瞬間、私の胸の奥で、心臓が奇妙に跳ね上がった。まるで私の意思とは無関係に、身体がこの少女を「何か」だと認識したかのような、不可解で酷く不快な衝撃だった。
周囲の男も女も、彼女のあまりの美しさに見惚れ、息を忘れたように目を奪われている中、その中で一人、私は胸の奥に生じた違和感を押し殺しながら、聞き覚えのある少女の容姿に、微かに眉をひそめた。
――この特徴的な髪の色と瞳。我が国とは友好国である隣国の『聖女』が持つ色に酷似している。もし本人だとしたら、なぜこの街に……?
「おい! 人の女に何手ぇ出してんだ!」
「……喧しい」
追ってきた男たちが掴みかかろうとした瞬間、私は少女を背後にかばい、前へ出た。無駄な騒ぎは起こしたくなかったが、友好国の要人かもしれない者を放り出すわけにはいかないし、何よりロキシーの元へ急がねばならない。無駄な時間を取られたくはなかった。
男たちの拳を最小限の動きでかわし、容赦なく剣の柄を男たちの鳩尾へと叩き込んだ。その際の風圧が私のマントを激しく揺らし、深く被っていたフードをがバサリと後ろへ落ちた。
光を浴びて露わになったのは、夜を溶かしたような漆黒の髪と瞳――この帝国の絶対君主たる、私の容姿だった。
「ひっ……!? こ、皇帝……!?」
「何故ここに……!」
「きゃあぁっ! 」
一瞬で地に伏した男たちの呻き声と、私の正体に気づいた周囲の通行人たちから、恐れ慄くような悲鳴が上がった。
騒ぎがこれ以上大きくなる前に、私は背後の少女を一瞥する。
「怪我はないな。あとは私の部下に任せる。すぐにこの場を離れろ」
「あ……待って、ください……!」
自分のフードを深く被り直し、背を向けようとした私を、少女が引き留めるように声を上げる。彼女の頬は赤く染まり、その瞳には明らかな熱情が灯っていた。
「あの……私はブランシュと申します。助けていただいて、本当に……ありがとうございました」
(ブランシュ……やはり、本人か。だが、私を見ても怖がらないとは、流石は聖女といったところか。いや、ただの世間知らずか……)
その女神に例えられる美貌に見つめられても、私の心は一ミリも動かなかった。私を動かす光は、この世にただ一人しかいない。
「礼はいい。……行くぞ」
面倒ごとになる前に処理を護衛に丸投げすると、私は残りの護衛を伴い、ロキシーの待つ時計塔へと向かって足を進めた。背中に少女の熱い視線を感じながらも、一度も振り返ることはなかった。
ーーー
「やっぱり美味しいわ!」
私は今、店主に教えてもらった『妖精の隠れ家』で購入した、妖精の羽を模したサクサクのパイを頬張っていた。バターの香ばしい風味が口いっぱいに広がり、幸せな気持ちになる。
本当は、街のシンボルである『妖精の噴水』でノクス様と待ち合わせをしたかったのだけれど、時間が足りなかったのだ。ノクス様の視察がいつ終わるかわからないし、噴水に立ち寄ってから街の一番高い時計塔へ向かうとなると、どうしても一番美しい夕暮れの瞬間に間に合わなくなってしまう可能性があった。
それに、よく考えたらあの噴水は「ここで出会った二人は運命で結ばれる」というジンクスだ。
(私とノクス様は、もうとっくに出会って結ばれていますもの)
そう思ったら、なんだか可笑しくて。だから私は先に一人で噴水を眺めて満足したあと、ノクス様には「時計塔のふもとで待ち合わせましょう」と影を通じて伝えてもらったのだった。
時計塔のふもとにある小さな展望テラス。
そこから街を見下ろせば、白磁の街並みが少しずつ、聞いた通りの美しい黄金色に染まり始めている。
「ロクサーナ様、そろそろノクス様がいらっしゃる時間ですね」
「ええ。ふふ、早くお会いしたいわ」
買い込んだハーブティーの紙包みをヴェラに持ってもらいながら、私は遠くの石畳を見つめる。一刻も早く会いたくて、胸が高鳴る。
けれどその時、私の胸の奥で、なぜかチリッと小さな、説明のつかない奇妙な胸騒ぎが走った。
(……?)
まるで、今この瞬間に、私の知らないところで何かが変わり始めてしまったかのような――。
「あ、ロクサーナ様! あちらからノクス様が!」
少し経った後、ニナの声にハッとして視線を上げると、夕日の逆光を背に受けて、見慣れた漆黒の影がこちらへと歩いてくるのが見えた。私は妙な胸騒ぎを振り払うようにパッと笑顔を浮かべると、彼を迎えるために一歩を踏み出した。




