第52話:ありのままの愛を
皇宮の私室に戻るなり、部屋の中は一気に慌ただしさに包まれた。ヴェラとニナがすぐに湯浴みの準備と着替えの手配を進めてくれている。
衣装部屋に入り、ふと姿見を見てハッとした。
ーーそこには、見るも無惨な私の姿が映っていた。
髪は乱れ、顔やお気に入りの乗馬服の胸元から両手にかけては、あの青年の赤黒い血がべったりとこびりついている。
ヴァルハイト領の戦場では見慣れていたはずのその姿は、皇宮の豪奢な鏡の中では、とてつもなく生々しく、美しい宮殿の景色には不釣り合いなほどに異様だった。
(……やったことは、後悔していないわ)
あそこで動かなければ、あの青年は死んでいたかもしれない。ヴァルハイトの誇りにかけて、正しいことをした。
そう、思っているはずなのに。
人の生死に立ち会った反動なのか、胸の奥からは不安が迫り上がり、思考は急激にマイナスな方向へと傾いていった。
ーーこんな私を、ノクス様には見られたくない。
いくら「黒」を纏い、恐れられ嫌悪されていたとしても、彼は皇帝だ。その周囲には常に最高峰の美しく洗練された令嬢たちがいて、それが当たり前の景色だったはずだ。
それに対して今の私は、帝国の貴族が尊ぶ理想の令嬢からはあまりにもかけ離れ過ぎている。普通の令嬢は、人助けのためとはいえ、なんの躊躇もなく平然と怪我人の応急処置をしたり、他人の血にまみれたりしない。
(ヴァルハイト領にいた頃は、平気だったのに……)
血にまみれた姿を誰に見られても、令嬢らしくないと思われても、何も思わなかった。それがあの場所での日常であり、務めだったから。
それなのに、ノクス様の前では、理想の令嬢になれない自分を、こんなにも惨めで、恥ずかしいと思ってしまうなんて……。
私はそっと、まだ血の痕が残る掌を抱きしめるようにして、その場に蹲った。
きっと彼は第一騎士団からの知らせを聞き、私を心配してすぐにここへ駆けつけてくれるだろう。
けれど、今だけは会いたくなかった。こんな、血まみれで汚れてしまった姿も、怯えている弱い私も、見せたくなかった。
ーーノクス様の前では、いつも笑顔で堂々としている、強い私でいたかったから。
その時、部屋の外から足音と共に声が聞こえてきた。
『お待ちください、陛下。今、ロクサーナ様は――』
『退け。ロキシーの様子を確認しに来ただけだ』
『ですが、陛下……っ』
『退けと言っている!』
ヴェラとニナが制止する声を、地を這うような厳しい一喝が切り裂く。
直後、部屋の扉が前触れもなく開いた。
「……っ、来ないで……! !」
「……ロキシー?」
自分の汚れた姿を思い出し、私はさらに丸まって顔や手を隠そうとした。ノクス様の目に今の自分がどんな風に映っているのかを想像すると、たまらなく怖かった。もし幻滅されてしまったら、彼の目に少しでも冷たい陰が見えたら、……彼の愛が離れてしまったら、私は。
ーーきっと、二度と立ち上がれなくなってしまう。
ノクス様は長い足で距離を詰めると、迷わず膝をつき、私をその腕の中へ強く抱きすくめた。
「っ……、!!離して……!」
「離さない。絶対に離すものか。……どうしたのだ、ロキシー」
「……っ」
彼が関わると、いつだって脆くなってしまう自分がいる。無言でなおも彼から離れようとした私の顔を、ノクス様は心配そうに、けれど強引に上向かせた。
涙と血でぐちゃぐしゃになったみっともない顔を見られるのが嫌で、すぐに俯こうとした私の唇は、彼によって塞がれた。
「……っん!?」
深く、熱いキスだった。
不安をすべてかき消していくような、ノクス様の香りと体温が、私の口内から脳裏へと一気に広がっていく。
一度、二度と角度を変えて口づけを交わすうちに、パニックを起こしていた私の頭は、強制的に真っ白にさせられていった。
ようやく唇が離れたとき、私は彼の胸に気弱にすがりつくことしかできなくなっていた。そんな私を、ノクス様はそっと包み込む。
「もう大丈夫だ、ロキシー」
降ってきたのは、どこまでも優しい声だった。
その声に、止まったはずの涙がまた溢れてくる。
「……どうして、!こんな私っ、見てほしくなかったのに……!」
「どんなそなたでも、そなたはそなただ。私が、そなたを嫌うとでも思ったのか?」
「だって……っ!こんなぐちゃぐちゃな私なんて、幻滅したはずだわ!」
「そんなわけないだろう。自分が汚れるのも厭わず、騎士を助けたそなたを誇らしいと思いはすれ、幻滅などあり得ない」
ノクス様はそう言うと、涙で濡れた私の頬にそっと手を添え、愛おしそうに親指でその涙を拭った。
「それに、ドレスを纏うそなたも、剣を振るそなたも、血にまみれていたとしても、強くても、弱くても、笑っていても、泣いていても……何があっても、私の愛は揺らがないーー信じてくれ、ロクサーナ」
その言葉に、ずっと胸の奥で張り詰めていた最後の糸がプツリと切れた。
「ノクス、様……っ、ノクス様……!私、ごめんなさい、っ!こわかったの……!、こんな私を見たら、あなたの愛が離れていってしまうんじゃないかって……それが何よりもこわかったの……っ!」
ノクス様は溢れる愛おしさを堪えるように、優しく私の体を腕の中へと閉じ込めた。
「もう怖がらなくていい。そなたへの愛が離れることなど、永遠にないのだからーー」
背中を大きな掌であやされながら、私は彼の胸で声をあげて泣いた。




