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「黒」が醜悪とされる世界で、怪物と恐れられた皇帝の孤独な夜を、押し強めな辺境伯令嬢が丸ごと愛して夜明けに変えるまで  作者: みこち


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第39話:夕暮れの回廊と、不器用な二人

エルヴィス視点です。

『相手を思う気持ちは、言葉にしないと伝わりませんのよ?』


 サロンで義姉上にそう告げられた瞬間、胸の奥を鋭く突かれたような衝撃が走った。

 私は兄上を守るという大義名分を盾にして、ただ「兄上に拒絶されること」を恐れ、言葉を惜しんでいただけだったのかもしれない、と気付かされたからだ。

 完璧な皇子と言われながら、一番大切な肉親に対しては、どこまでも臆病で卑怯だった。


 ――変わらなければならない。


 兄上を誰よりも深く愛する義姉上が、私にそのチャンスをくれたのだから。


 話し合いを終えたその日の夕暮れ。私はいつもより少ない供を連れ、皇宮の回廊を歩いていた。

 すると、前方から見覚えのある黒い服を纏った人影が歩いてくるのが見えた。


 ――兄上だ。


 いつも通りの冷静沈着な佇まい。けれど、昨夜の晩餐会で私が義姉上に近づいたせいで、その漆黒の瞳の奥には、いつも以上に硬い光が宿っているように見えた。


(……すれ違う。いつもなら、ここで形式的な一礼だけをして通り過ぎる)


 心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。

 拒絶されるかもしれない。冷ややかに一蹴されるかもしれない。

 けれど、ここで言葉を惜しめば、私は一生、兄上の隣を歩くことはできない。


 一歩、また一歩と距離が縮まる。

 すれ違う直前、私は意を決して足を止めた。


「――兄上」


 私の声に、兄上がピタリと足を止めた。

 向けられた視線は驚くほど冷ややかで、心臓がキュッとすくむ。


「……何か用か、エルヴィス。昨夜の件なら、私はまだそなたを許したわけではないが」


 氷のように冷たい声。普段の私なら、ここで取り繕うように笑顔を見せて立ち去っていただろう。けれど、今日だけは違う。私は深く息を吸い込み、兄上の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「その件について、謝罪をさせてください。……昨夜の私の振る舞いは、あまりに非礼が過ぎました。本当に、申し訳ありませんでした」


 私が深く頭を垂れると、兄上が一瞬息を呑む気配が伝わってきた。

 いつもなら自分から積極的に話しかけることをしない私が、周囲に護衛がいるこの回廊で、声をかけ、頭を下げたのだ。兄上は自分と私の共を下がらせた後、酷く戸惑ったように声を潜めて言った。


「……何を企んでいる、エルヴィス。そなたが私にそんな態度を取る理由がない」

「企んでなどいません。……私はただ、昨夜の非礼を謝りたかったのと、ずっと言えずにいた本心を、兄上に伝えたかったのです」


 兄上は怪訝そうに眉をひそめ、漆黒の瞳で私をじっと見つめた。


「……なぜ、今更そんなことを言う。そなたは長年、私を避けていただろう。それが今になって急に本心など、にわかには信じがたいな」

「……実は今日、ロクサーナ様に諭されたのです」

「……?」

「相手を思う気持ちは、言葉にしないと伝わらないんだ、と。昨夜、大広間で彼女を試すような真似をしたのは……その、かつて、兄上の婚約者候補だった女性たちが、次々と私に色目を使い、平然と兄上を裏切ろうとした過去があったからです。私はそれがずっと許せなかった。それに、周囲が私たちを好き勝手比較して兄上を悪く言うせいで、私の存在が兄上を傷つけ、煩わせてしまうと……兄上に、嫌われてしまうのではないかと、ずっと怖かったのです。だから……」


 私は一度言葉を区切り、ほんの少しだけ苦笑を浮かべた。


「だから、兄上の側に突如現れた彼女がどんな人間か、どうしても自分の目で確かめずにはいられなかった。……結果は、私の大敗でしたが。彼女は私を、まるで羽虫でも見るような目で見ていましたよ。私の誘惑など一寸の価値もないと、ただ真っ直ぐに兄上だけを想っていらした。……あんなにも強く、気高い方を婚約者に選ばれた兄上を、私は心から尊敬します」

「……そうか、ロキシーが……」

「ええ。本当に、手厳しい義姉上です」


 私が「義姉上」と呼んだ瞬間、兄上の纏う冷たい空気が、和らいだのが分かった。

 私は最後に、ずっと胸の奥に閉じ込めていた、一番伝えたかった言葉を口にした。


「兄上。私は騎士です。皇位に興味はありません。私はただ……誰よりも努力され、聡明な兄上が、正当に評価される世を望んでいます。そして、兄上に幸せになってほしい。……それだけが、私の本心です」


 夕日に照らされた回廊で、沈黙が流れる。

 兄上はしばらくの間、静かに私を見つめていたが――やがて、ふっと大きなため息をついた。その顔には、いつもの冷徹な皇帝の仮面はなく、優しい兄の表情が浮かんでいた。


「……本当に、不器用な男だな、そなたは。だが、それは私も同じか」

「え……?」

「過去の婚約者候補たちのことなど、私は微塵も気にしていない。ただ私は、私の側にそなたがいることで、周囲から『怪物の弟』と後ろ指を指され、そなたの評価が下がってしまうことを恐れていた。だから、私から距離を置くべきなのだと、自分に言い聞かせていた。……だが違ったな。私はただ、こんなにも身近に私を想ってくれる者がいたことにも気づかないほど、殻に閉じこもり、周りが見えていなかったのだろう……すまなかった」


 兄上の口から語られた意外な本音に、目を見開いて驚く私に、兄上は微笑みかけた。


「……ロキシーに教えられたよ。勝手に傷ついて、勝手に諦めていたのは、この私の方だったと」

「私たちは、似たもの同士なのかもしれませんね」


 私が照れ混じりに返すと、兄上はふっと低く笑った。

 その笑顔を見た瞬間、子供の頃、まだ呪いだ何だと周囲に言われる前に、いつも私に見せてくれた優しい兄上の記憶が鮮やかに蘇り、胸の奥が熱くなる。


「……昨夜の件は、ロキシーの顔に免じて不問に処そう。だが、次に彼女を試すような真似をすれば、皇弟といえど容赦はしない」

「肝に銘じます。……それから兄上、今度、また二人でゆっくりとお茶でもいかがですか? 政治の話抜きで」


 兄上は少しだけ驚きつつも、すぐに呆れたように、けれど優しく口元を綻ばせた。


「……考えておこう」


 そう言い残して、兄上は再び歩き出した。

 すれ違いざま、私の肩をポン、と優しく叩いて通り過ぎていく。

 遠ざかっていく背中を見送りながら、私は自分の胸に手を当てた。


 心臓はまだ緊張で小さく震えていたけれど、長年胸を締め付けていた重苦しい冷たさは嘘のように消え、視界がパッと晴れ渡っていくような心地だった。


(ありがとう、義姉上。お陰で少しだけ、勇気が出せました)


 オレンジ色に染まる回廊の向こう、兄上の進む道が、いつもよりずっと明るく見えた。


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