第35話:枯れた涙と、譲れない光
パタン、と冷淡な音を立てて扉が閉まる。
「…………なんなのですの、一体」
ぽつりと呟いた声が、涙のせいで情けなく震える。
私の前で膝をつき「他の男と逢瀬を重ねることを許そう」などと言い放った彼の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
(本当に……私を嫌いになってしまわれたの?)
涙を拭おうと差し伸べられた、あの大きな手。触れてくれると思ったのに、私の肌に届く寸前で躊躇うように止まり、そのまま下ろされてしまった。
(……もう、私に触れてもくれないの?)
考えれば考えるほど、胸の奥が冷たい泥で満たされていくような絶望感が押し寄せる。私を嫌いになったから、だからあんな風に、物分かりのいいふりをして私を他の男に譲ろうとしたのだ。そうに違いない。
だって、本当に私のことが好きなら、あんな風に手放せるはずがないもの。
ーー嫌われた。ノクス様に捨てられてしまう。
そう思った瞬間、心臓がヒュッと縮まり、また大粒の涙がポロポロとドレスを濡らした。
けれど、ワンワンとひとしきり泣きじゃくり、涙が枯れかけた頃、私の胸の奥底から悲しみとは全く別の、怒りのような感情がふつふつと湧き上がってきた。
「……ふざけないで」
ぐい、と乱暴に涙を拭い、私は椅子から立ち上がる。
涙で霞む視界の向こう、姿見に映る私の顔は泣き腫らしていて見ていられない。
(何が『私といるよりもそなたを幸せにしてくれる』よ!?)
思い出すだけで、今度は怒りで頭が沸騰しそうだった。
私の心を動かせるのはノクス様だけだと、彼にだけ惹かれているのだと、あんなにも言葉と態度で伝えてきたはずだ。それなのにあの男はなんだ。
こちらの気持ちも確かめず、勝手に悲劇のヒーローになって、あろうことか実の弟に私の寝室のパス(愛人権)を発行するなんて、正気の沙汰ではない。
「ノクス様のバカ! わからずや! いけず……っ!!」
誰もいない静かな部屋で、私は思いきり叫び散らした。
いけず。本当にいけずだ。涙を流している婚約者に触れもせずに去っていくなんて、嫌がらせにもほどがある。
だいたい、ノクス様は私の気持ちを舐めすぎですわ。
私の心は、安っぽい譲り合いの精神で右から左へ受け渡せるような軽いものではないのだ。
嫌われていたとしても、この溢れるほどの愛でもう一度全力で惚れ直させてみせる。
私はドスドスと足音を荒げながらクローゼットへと向かい、動きやすい夜着へと着替えを始めた。
まだ夜は明けていない。
今頃、ノクス様は執務室で宰相たちと大真面目な顔をして国政の話をしているのだろう。ならば、会議が終わって彼が自室へと戻る時間を狙って突撃して差し上げますわ。
まずは、きちんと話し合って誤解を解くところからね。
(待っていらっしゃい、ノクス様。私の、このヴァルハイト仕込みの往生際と諦めの悪さを、骨の髄まで思い知らせてやりますわ!!)
私は決意に満ちた目で、深夜の廊下へと続く扉を見据えた。
ーー今夜は、寝かせませんわよ!
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