第34話:彷徨う右手と、すれ違う夜
ロクサーナ視点です。
殿下とのダンスを終えてノクス様の元へと戻った私を、彼はひどく穏やかに迎えてくれた。
一刻も早く誤解を解きたかったけれど、その表情があまりにも穏やかだったこと、そして何より私たちが合流したのを合図にするかのように、次々と挨拶を求める貴族たちが押し寄せてきてしまった。
「陛下、本日の建国記念および婚約発表、誠におめでとうございます」
「ロクサーナ様、先ほどの素晴らしいダンス、見惚れてしまいましたわ!」
途切れることのない貴族たちの賛辞に、私は淑女の笑みを貼り付けたまま、生殺しのような心地で応対を続けることしかできない。ノクス様に視線を送っても、彼は優しく微笑み返すだけで、その漆黒の瞳の奥に潜む本心を覗かせてはくれなかった。
結局、一度も本音を切り出すタイミングのないまま、きらびやかな建国記念晩餐会は幕を閉じた。
私たちはようやく、皇宮内にある私の自室へ辿り着いた。
重厚な扉が閉まり完全に二人きりになった瞬間、私はノクス様の服の袖をきゅっと掴んだ。今度こそ、あのダンスフロアでの誤解を解かなければならない。
「あの、ノクス様! 皇子殿下とのダンスの時のことですけれど、あれは違――」
「ロキシー」
私の言葉を遮ったノクス様の声は、ひどく静かだった。
彼は私の手をそっと解くと、優しく椅子に座らせ、私の前に膝をついた。
「……すまない、ロキシー。私は皇帝だ。国のためにも私たちの婚約を取り消すことはできない。公の場ではこれからも私の婚約者として、いずれは皇妃としてそなたには振る舞ってもらう必要がある。……だが」
ノクス様は一度言葉を詰まらせ、何かに耐えるように、長い睫毛を伏せた。
「……心の底まで、私に縛られる必要はないんだ。エルヴィスを……恋人として、裏で逢瀬を重ねることを許そう。あいつは悪いやつじゃない。きっと、そなたを幸せにしてくれる」
「…………え?」
頭の中が、真っ白になった。
今、この人は何と言ったのだろう。私が、ノクス様以外の男を恋人にする?
脳が、言われた言葉を理解することを拒んでいる。
(どうして……?)
殿下の誘いを受けたから?殿下と踊ったから?殿下に話しかけたから?
(私のことが、嫌いになってしまったの……?)
私の心には、最初からあなたしかいないのに。
あなただけが、私の心を動かす光なのに。
あんなに、好きだと言ったのに。
「……ノクス様、どうしてっ、そんな……っ」
叫びたかった言葉は、喉の奥でつかえて音にならなかった。
代わりに、大粒の涙が目から溢れ頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちる。悔しくて、悲しくて、どうしようもない感情に視界が涙でめちゃくちゃに歪んでいく。
「……っ!ロキシー?」
私の涙を見た瞬間、彼はひどく動揺し、弾かれたように立ち上がる。その大きな手が私の頬を濡らす涙を拭おうと、差し伸べられた。
――けれど。
その手は、私の肌に触れる寸前でピタリと躊躇うように止まった。
私がその手を掴もうと、涙を拭って顔を上げようとした、その時。
最悪のタイミングで扉が叩かれた。
「――失礼いたします、陛下。宰相様が至急お耳に入れたいことがあると、執務室でお待ちです」
側近の、非情な呼び出しの声が室内に響き渡る。
ノクス様はビクリと肩を揺らし、彷徨わせていた手をそっと下ろした。そして最後にもう一度だけ振り返って、
「……行ってくる。おやすみ、ロキシー」
そう言い残し、ノクス様は足早に部屋を出て行ってしまった。
パタン、と扉が閉まる。
誤解が解けないまま、重苦しい静寂だけが部屋に取り残された。




