第2話:夜の庭園と、おかしな令嬢
ノクス視点です。
目の前にいる女――ロクサーナの金色の瞳には、恐怖も、嫌悪も、憐れみすらもない。ただ純粋に、夜の闇に浮かぶ星を見るかのような、うっとりとした煌めきだけがあった。
(……いや、あり得ない。正気か?)
ノクスはすぐに、冷静な思考を取り戻す。
自分は生まれてからずっと、暗殺者や、甘い言葉で近づいてくる間諜に狙われ続けてきたのだ。この女も、帝都の狸どもが送り込んできた新手の刺客、あるいは自分の反応を楽しむための悪質な悪戯に違いない。
ノクスはすっと目を細め、声音に冷たい殺気を乗せた。
「そなた、自分が誰に向かって言っているのか分かっているのか?……その狂った言葉、ただの戯れ言では済まされないぞ」
並の貴族なら、この殺気だけで蛇に睨まれた蛙のように硬直する。だが、この女は怯えるどころか、むしろ熱烈に語り始めた。
「戯れ言だなんて滅相もないですわ! 私は、物心ついたときからみんなが言う色の美しさがピンとこなくて……。お兄様にも『ロキシーの好みは変わってるな』ってよく呆れられていたんですの。でも、今日確信しましたわ。私の目は間違っていなかったって!」
「……何?」
「ルシウス様は、本当に素晴らしいですわ! その長く艶やかな黒髪も、すべてを包み込んでくれそうな深い漆黒の瞳も……とにかく、世界中の誰が何と言おうと、私にはルシウス様のお姿が世界で一番格好良く見えるのですわ!」
また一歩、ドレスの裾を揺らしながらノクスに近づいていくロクサーナ。
普通、初対面の令嬢が男性に向かって『素敵』などとぐいぐい迫るなど、帝都のマナーではあり得ない珍事件だ。
しかし、辺境育ちで脳筋の気があるロクサーナは、止まらない。
「ルシウス様、お顔の造形はまるでどこかの高貴な女神様のように繊細で美しいのに、背が高くて、肩幅もしっかりあって……。ちゃんと男性の格好良さがあって、そのギャップがもう、本当に……!」
「ま、待て。そなた、近すぎる」
ノクスは思わず、一歩後ろに身を引いた。
生まれて初めて、女性の押しに気圧されている。
いつもなら近づいてくる不届き者はすぐに護衛に排除させるか、自らの手でねじ伏せるのに、なぜか彼女を突き放す手が動かない。
ロクサーナはノクスが引いてしまったため、潤んだ金色の瞳で見上げてきた。
「あ……。もしかして、私、しつこくしすぎて嫌われてしまいましたか……?」
キュッと眉を下げ、悲しそうに俯くロクサーナ。
その、夜明けの太陽のように眩しかった表情が曇った瞬間、なぜかノクスの胸が妙にツキンと痛んだ。毒を盛られたわけでもないのに、胸が苦しい。
「……嫌ってなどいない」
ノクスは、無意識のうちにそう答えていた。自分で自分の口に驚く。
「本当ですか!?」
「ああ……。だが、私はそもそも人に近づかれることに慣れていない。夜会の騒がしさも、くだらない人間の視線も……すべてが酷く煩わしいのだ」
少しだけ視線を逸らし、本音を漏らす。
すると、ロクサーナは深く共感したように頷いた。
「分かりますわ!あんなに人が多くて騒がしい場所、息が詰まりますわよね。私も、お兄様が他のご令嬢に囲まれて身動きが取れなくなったので、こっそり逃げ出してきたんです」
くすくすと笑う彼女の姿に、ノクスはいつの間にか、張り詰めていた肩の力を抜いていた。
(本当に、この女は何者なんだ……。私の正体を知っていれば、こんな口の利き方はできないはずだが……)
ノクスは、彼女がヴァルハイト辺境伯の娘だと名乗ったことを思い出す。帝都から離れた、質実剛健を地でいく北の最果て。そこから初めて帝都に来たからこそ、こんなにも真っ直ぐで、無防備なのだろうか。
「あの、ルシウス様」
ロクサーナが、恥ずかしそうに指をもじもじと絡ませながら、上目遣いでノクスを見た。
「夜会は、一週間あるんです。……もし、ルシウス様さえ良ければ、明日も、この場所でお会いできませんか?」
それは、実質的なデートの約束だった。
今まで、気絶されるか泣かれるかしかしてこなかったノクスにとって、それはあまりにも甘美で、信じがたい提案だった。これまで色仕掛けで近づいてきた間諜だって、その目には怯えを宿していたというのに。
「私は見ての通り、不吉な黒を纏う身だ。そなたのような高貴な辺境伯の令嬢が、毎夜このような場所で私と密会しているのが知られれば……帝都へ来た目的である婚約者探しに、泥を塗ることになるぞ」
ノクスは彼女がここへ来た理由を察していた。年頃の辺境伯令嬢がわざわざ帝都の夜会に足を運ぶなど、目的は結婚相手の品定め以外にあり得ない。
だが、ロクサーナは臆するどころか、グッと拳を握りしめてノクスを見つめ返した。
「婚約者を探しに帝都へ来たのは事実ですわ……!でも、他にどんな素晴らしい殿方がいようとも、私の目にはもう、ルシウス様しか映らなくなってしまいました。ーー私は、ルシウス様が良いのです。他の誰でもなく、あなたとお近づきになりたい」
およそ令嬢らしからぬ力強い宣言だったが、その金色の瞳は熱っぽく潤んでいる。ロクサーナは頬を赤く染めながらも、真っ直ぐにノクスを見つめた。
「ルシウス様。明日の夜、温かい差し入れを持ってまいりますわ。……その、よろしければ、ここで一緒に夜食を召し上がっていただけませんか?」
「差し入れ、だと?」
「はい! ……絶対に、待っていてくださいね!」
ロクサーナは悪戯っぽく、しかし満面のひまわりのような笑顔を浮かべると、答えも聞かず、軽快な足取りで夜会会場の方へと戻って行った。
ーー静寂が戻った庭園。
ノクスは一人、大理石のベンチの前に立ち尽くしていた。
「……私しか目に映らない、か。明日、私と一緒に夜食を?」
ぽつりと呟いた彼の口元は、25年の人生の中で、最も優しく、そしてどこか歪んだ形に綻んでいた。
(本当に明日、現れるか試してやろう。もし、私を裏切るような真似をすれば……その時は)
ーーずっと暗い孤独の中にいたノクスの瞳の奥に、どろりとした執着の灯火が宿る。
けれど、恋に落ちたばかりのロクサーナは、彼の胸の内に芽生えた兆しにはまだ気づかないのだった。




