第1話:夜の庭園と、美しき怪物
前半ロクサーナ視点、後半ノクス視点です。
「あー……っ、生き返るわ! ドレスってどうしてこんなに肋骨を締め上げるのかしら」
きらびやかな光が溢れる城の夜会会場から抜け出し、ロクサーナはふぅ、と深く息を吐きながら、夜の庭園へと足を踏み入れた。
お尻まであるウェーブがかった茶髪に、夜でも爛々と輝く金色の瞳。帝国の基準で言えば、中の上程度の、とりたてて目立たない令嬢。それが19歳になったロクサーナの社交界における評価だった。
普段はドレスの代わりに動きやすい服をまとい、淑女の嗜みよりも剣の素振りや魔物との戦いに明け暮れている彼女は、今回が人生初めての夜会参加だった。
おまけに辺境育ちゆえ、帝都のドロドロとした噂話や政治のパワーバランスなど、何一つ耳に届いていない。
「……ふう、ちょっと歩きすぎてしまったかしら。すっかり静かになってしまったわ」
締め付けられる胸元を落ち着かせようと歩いているうちに、気がつけば周囲に人影はなくなっていた。背後からは、遠くかすかに音楽が聞こえるだけ。
月明かりだけが照らす静寂の庭園の奥、大理石のベンチが佇む場所に、その人はいた。
「――誰だ」
低く、地を這うような冷徹な声。
びくりと肩を揺らしたロクサーナは、声のした方を振り返って
――呼吸を忘れた。
ベンチに腰掛けていたのは、一人の男性だ。
長身に、仕立ての良い漆黒の上着。細身ながらも服の上から分かる、鍛え上げられたしなやかな肉体。
そして何より。
月光に照らされたその人は、夜の闇をそのまま紡いで作られたかのような、見事な『黒髪』を長く伸ばしていた。
瞳に宿るのも、光を一切反射しない『漆黒』。
男の顔の造形は、まるで女神が彫り上げたかのように端正で、息を呑むほどに整っていた。そして女性的でありつつも、顎のラインや切れ長の瞳、そして身にまとう威圧感からは、間違いなく男性であることを感じさせた。
(……綺麗……)
ロクサーナの胸が、ドクンと大きく跳ね上がった。
幼い頃から、周囲と好みがズレている自覚はあった。みんなが白や銀を褒めそやす中、自分だけは深みのある色や、夜の静けさが好きだった。
けれど、目の前にいる男性は、次元が違った。
圧倒的な、美。
この世にこんなに綺麗な人が存在するなんてーー。
一目惚れだった。
今回の夜会参加は「そろそろ婚約者でも探してはどうか」という両親の勧めもあったが、まさかこんな理想の王子様――いや、夜の王様のような美しい人に巡り会えるなんて。
ーーー
一方、男――シルヴェスタ帝国の若き皇帝、ノクス・ルシウス・シルヴェスタは、酷く不機嫌に眉をひそめていた。
人前に出るのが億劫で、夜会も早々に抜け出してきたというのに不届き者が紛れ込んできた。
生まれながらに『醜く、恐ろしい怪物』として忌み嫌われてきたノクスは、今まで婚約者としてあてがわれた令嬢たちも、皆、自分の顔を見た瞬間に悲鳴を上げて気絶するか、泣き叫んで逃げ出した。
目の前の女も、どうせすぐに恐怖で顔を歪めるのだろう。
ノクスは冷ややかに、突き放すような声をかけた。
「立ち去れ。夜会会場はここから左に曲がった先だ。二度とここへは来るな」
しかし、女は逃げ出すどころか頬をぽっと赤く染めて、ただこちらを見つめている。
「……綺麗……」
その口から零れ落ちたのは、恐怖の悲鳴ではなく、うっとりとした吐息だった。
「は……?」
ノクスは思わず、間の抜けた声を漏らした。
何を言われたのか理解が追いつかない。綺麗? 誰が? この呪われた黒一色の私が?
ノクスの怪訝な声で、ようやくロクサーナはハッと正気に返った。
帝都のマナーなど頭から吹き飛んでいる彼女は、胸の高鳴りのままに、ぐいぐいと男との距離を詰める。普通、令嬢の側から見ず知らずの男に言い寄るなどあり得ないことだが、今のロクサーナは猪突猛進状態だった。
「……! も、申し訳ありません、名乗らず失礼いたしました! 私、辺境伯当主が娘、ロクサーナ・ヴァルハイトと申します」
ロクサーナはドレスの裾を持ち上げ、精一杯の淑女の礼カーテシーをする。そして、上気した顔を上げて、ドキドキしながら漆黒の瞳を見つめた。
「あの……お名前を、伺っても……?」
ノクスは、あまりの異常事態に完全に毒気を抜かれていた。
奇妙な者を見るかのような目で、ロクサーナを凝視する。
「……私を知らないのか?」
「申し訳ありません、今夜の夜会が初めての参加でして……。あの、お声をかけてしまって、ご気分を害されましたでしょうか?」
目の前の女がしょんぼりと眉を下げる。嘘を言っているようには見えなかった。本当に、この女は自分が『呪われた黒の皇帝ノクス』であることを知らないのだ。
ノクスは自嘲気味に口元を歪めた。
ならば、この女の狂った目を正気に戻してやろう。自分がどれほど醜く、恐ろしい怪物であるかを教えてやればいい。
「……ルシウスだ」
自身のミドルネームを名乗る。
周囲からは、黒髪黒目のくせに光をもたらす『ルシウス』などと何の皮肉だ、と陰口を叩かれ続けてきた、大嫌いな名前。
だが、ロクサーナの顔は一瞬でパッと明るくなった。まるで夜明けの太陽が昇ったかのように。
「ルシウス様! 『光』を意味する、とっても素敵な温かいお名前ですわね!」
「っ……!」
ノクスは息を呑んだ。
この女は今、なんと言った? 黒一色の自分を見てまっすぐに、光の名前が素敵だ、と言ったのか。
「……そなた、私が恐ろしくないのか。この、黒髪と黒目が、醜いとは思わないのか? 光を尊ぶ世界で、私は……」
試すように、あえて顔を月光の下へと晒す。
だが、ロクサーナは不思議そうに首を傾げた。
「? はい、全く。むしろ、とっても綺麗だと思いますわ。まるで吸い込まれそうな、深い夜のようで……。夜があるからこそ、光が引き立つのでしょう? 私は、ルシウス様のお姿も、そのお名前も、すごく素敵だと思います!」
まっすぐな、一切の曇りもない金色の瞳がノクスを射抜いた。
世界中から否定されてきた自分の存在と名前を、目の前の少女は、なんてことのないように肯定する。
「っ……」
25年の人生で、ただの一度も言われたことのない言葉。
ノクスは言葉を失い、思わず胸元を抑えた。心臓が、ドクドクとうるさいほどに脈を打っていた。
――夜会は、これから一週間続く。
常識知らずの辺境伯令嬢と、世界に拒絶された孤独な皇帝。
月明かりの庭園で、二人の狂おしい恋の歯車が、静かに、しかし力強く回り始めた。
・名前の由来について
◆ノクス・ルシウス・シルヴェスタ:
ノクスはラテン語で「夜」や「夜の女神」を表す。ルシウスは光をもたらす、の意味。皇子の誕生に誰もが光をもたらすと期待したが、生まれたのは黒のノクスという皮肉。
◆ロクサーナ・ヴァルハイト:
ペルシャ語由来で「夜明け」「輝く光」を意味する。




