五十九話 嫌悪
食器が擦れあう音というものは、意識せずとも聞かねばならない側に立たされるようになると、なんとも不愉快な、あまり気持ちのいいものではないのだな、と弥代は思い知る。
まさかこんな時に、ここに来てこれ迄の自分の行いを、振る舞いは同じ席で食事をしていた者を不快にさせていたのやもしれぬと気付く羽目になるとは思わなかった。というか、思わされる事が起きようとは先ず思うまい、最早そんな域の話だ。
否、“音”だけではない。
なんというか、もう……目に付く全部が全部、というのが正しいかもしれない。眼前の、大股を開くだけに留まらず片膝を立てて、膝頭を肘置きに見立てるようにして寛いでみせる。
パッと見ただけでも、一目見ただけであっても随分と肌触りの良さそうな、上等そうな汚れ一つなかった白地の着流しを緩く着崩している男は、自分の服がどれほど汚せようとも気にする素振り一つ見せることはなく。気の赴くまま、といった様子で箸さえも満足につかうこともない儘、手掴みで皿の上から物を摘んでは口元に運ぶといった動きを繰り返している。
好みの味を見つけたような反応を示した後は決まって、指に纏わりついたものを、直接指を咥えて音を立ててみせるだけでなく。挙句、盛られていた皿そのものを両手に抱え、弥代の方からは呷るような動きを見せるのはきっと。恐らくは皿の表面をそのまま舐めでもしているのだろう。見ていて気持ちのいいものとは言い難い。
此方からは見えぬことをせめてもの救いという風に捉えるべき、か。あまり想像もしたくない絵面であったりを、かれこれどれぐらいになるだろうか(少なくとも三、四回は店の者によって皿が下げられてというのが繰り返されている)、目の当たりにせねばならない状況に弥代の厭気はかなり、最高潮にまで昇りつめつつあった。
辛い、本当に辛いったらありゃしない。
どうして自分はこんな、見ず知らずの男に付き合わされる形で飯屋に今こうして居らねばならないのかさえも弥代は分からなくなりつつあった。
元々はそう……だ。
自分を置いて行ってしまった相良と春原が戻ってくるまでの間、四文銭でどうやって時間を潰すかと考えていた道すがら。全てをまだ読める自信はないものの、ふと目に止まった高札場に掲げられた字がどれぐらい読めるようになったのかを試してみようと足を止めたその時、突然足首を掴まれたのだ。
(ッぶな、思い出しただけでチビりそうだ止めとこ。)
ゾワリ、背筋を一瞬にして駆け上る。
しっかりと羽織には袖を通しているし、肌を出しているというわけでもないのに寒くなると腕にフツフツとしたものが見られる、擦った時に気付くことが多いアレに近い感覚を味わいながら、弥代は軽く腕を摩ることでそこはかとない気持ち悪さを拭うことを試みた。
結果は、言うまでもない。
そもそもの話、他人の足首を掴まれるような事なんてのは先ず先ず起きっこない事だ。相手がまだ四つん這いになって這い回ることしか出来ない赤子ならまだしも、それだって掴むという動作をしようものなら大人がそれを抱え持ち上げるものだから、やはり足首を掴むなんて事はどう考えても、早々に起こっていいような事ではない。
況してや見ず知らずの赤の他人に、だ。あっていい筈がない、白昼堂々、道の往来で起こっていいような事では間違いなくなかった。
「ンあれぇ、食べないのぉ?」
前置き一つなく、いきなり目の前に伸びてきた手にビクリ。弥代の肩は大きく跳ね上がってしまった。
テラテラした指先に纏わりついているのは唾液に他ならないだろう。そんな手が自分を掴むわけではないにしろ、弥代の目の前にあった皿の上から握り飯を摘んでみせた。
やはり、見ていて気持ちのいいものではない。
「いや、てかそもそも……あのッ、金は持ってねぇってアンタさっき俺に言ってなかったっけ?」
「んぇえ、金ぇ?
……んあぁ、持ってないねぇ。だからあんな処でさっき倒れてたわけだしねぇ?」
「金もねぇのにこんなに飯……その、どうすんのさ? 俺だって持ってねぇって、さっき散々言ったよね?」
「言ってたねぇ。……さてはてどうしたものかねぇ?」
間延びした独特な喋り方がどうにも癪に障る。
いつの間にやら横並びに、肩を貸してくれだのなんだの強引に腕を回され、あれよこれよという間に気付いた時には知らぬ飯屋で同じ卓を囲むように座らされていた。
なにも拒まなかったという事はない、弥代は可能な限りしっかりと抵抗はした筈だ。だという、のに――
「嫌だよ、こんなん無銭飲食ってヤツになんじゃねぇの? 俺、そういうの勘弁なんだけど。」
人から飯を貰うにあたり金が掛かるというのは弥代の中でも当たり前の事だ。金もないのに食える飯なんてあるはずがない。
ないのなら食えないものとして、金の掛からない方法で空腹を凌ぐほかに術はない。榊扇の里での暮らしを始める以前でも、それだけはしてはならない事だと自分に言い聞かせてきた、破った事は一度もない事だ。
「あっ、何。そんなこと気にして食べてなかったのぉ?
嫌だなぁ、そんなの気になんかしなくってもいいのにさぁ、ちっさい肝してんだねぇ君ぃ?」
「肝の大きさは関係なくねぇか?」
「まぁね、腹が空いたままじゃなんとやら……という高尚な言葉をもしかして知らない?
折角注文してしまったんだ、飯は出来立ての、温かい内がいっちばん美味しいんだから。その食べ時を逃すなんて、そっちの方が良くないことだとは思わないかい?
だからねぇ、今は食べるのに、空腹を満たすのに専念するべきなんだよ。先達の言葉なんてのは自分に都合がいいところだけ適当に使って、肖っちゃうのが一番便利なんだからさぁ。
……なぁに、勘定はその時になって困るような事があれば、その時で頭を悩ませばいいのさぁ。」
そうじゃなくって、と続けようとした言葉は一気に呑まれた、言い時を失ってただ弥代の中に残ることとなった。
否、まるで手応えのないやりとりだ。これは自分が何を言っても通じないのではないか、言ったところで無意味なのではないか、と感じたのが正しいだろう。話すという行為そのもに意味の無さを感じてしまうぐらいには何とも自分本位、な。
そう、思った矢先。長々と臆面もなく垂れ流される、あまりにも真っ当そうな口振りでそんなことを言い出すものだから首を傾げながらも、自分が間違っているのではないか?という考えが一瞬でも弥代は浮かびそうになってしまった。
「あぁ、そういえばもしかしなくても俺ってば君にまだ名乗ってなかったじゃんじゃないかなぁ?
俺の名前ねぇ、ちょっと珍しい読み方してんだよねぇ。んっとね、重ねるに真って書いて、“重音”って読むんだぁ。
重ねるに真、ね。だから俺の言葉は全然嘘とかじゃないからぁ、すんなりと信じてもらえるととっても助かるんだよねぇ?」
――ところ、で。と、言葉が続く。
「君はなんていうの? 出来れば俺が今したみたいに、同じように教えてくんないかなぁ?」
「……お、俺?」
「そう、君の名前は?」
「え……っ、えっと、俺は」
考えたこともなかった事だ。否、知らないというわけではない。
自分の名前がどの様な字であるか、というのを弥代は薄ら分かっている。ただ自ら名を意味する字が、どのようであるか、というのを考えた、口にしたことはこれまでなく。でも―――、
『どうか貴女が、多くの人のその人生に寄り添えますように……遍く、広く在れますよう……に。』
だから、そう。
こうして浮かぶという事は、やはり彼女が弥代にとって、そう、なのだろう。
菊花開、霽月の徒路 三十四話
『少々性格に難を抱えては居られますが、決して悪い方ではないのです。』
道中、ほぼほぼ肌身離すことなく背負い続けていた荷の中から状箱を取りだす。
自分がどうしても抱えることが出来ぬ時は、常に春原に代わりに持っておくように伝えており、日に少なくとも二度は時間を見つけ失くしてしまったりという事のないように気を配っていたものだ。
勝手に目を通すような不躾は真似は当然の事ながらしはしなかったものの、内密な関係があるのだろうという事は限られた中でも窺い見ることは出来てしまった。
大方、遠縁の血筋といった処ではなかろうか。
西条家とは先先代より山城国で急速に知れ渡ったとされる、歴史の浅い青物問屋であり、相良の持ちうる知識の中でも、その名が出てくるのは畿内ではなく北陸道の、信濃国であった。
北陸道特有の音韻が先代の、既に隠居生活を自らの意志で送っている銀嶺より感じられた事はないものの、銀嶺の母の生まれが山城国よりも西であると、世間話の要領で聞かされた。
自身の身の上を話す気は一向に起きない――躊躇いの心持ちが強くあった相良にとって、それは大変ありがたい話の一つではあったが。今にして思えば、知りたいと強請ったわけでもない他愛もない世間話から、此度のように勝手に憶測を立ててしまうという行為そのものが。
不躾なそれよりも遥かに失礼に当たる気がし、いくらかの後めたさを覚えずにはいられなかった。
「確と受け取りました。」
傍に控えていたものが主人に代わり状箱ごとを受け取る。視界の端にそれを収めた後、相良は銀嶺に性格に難があると言わせた件の相手を静かに見据えた。
色狂いの、ようだ。
目を瞑るべき、気付かなかった芝居をするべき場だ。この場にやはり弥代を連れて来なかった、あの場に一時でも置いて来ることを選んだ自身の判断は間違っていなかった。
薄暗い十二帖以上はありそうな部屋の中、距離がある事で目立つ“色”であっても幾らか誤魔化しようのある瞳だけでなく、殆ど“色”も持たぬと呼べよう髪に、男の身であるからこそ気に留めずに済む、やり過ごせるというもの。
なにも珍しい話、ではない。
近親者や親類に“色”も持つ者がいる血筋であれば、特に。
それを糺せる様な資格を、相良は持ち合わせていない。だから時に、不道理な行いがどれほど繰り広げられていようとも、見てみぬフリをせねばならな、い。
そう、だ。そもそも自身が都度感じるそれは、自身が“色”を持つ側の、搾取される側である、不当な扱いを甘んじて受け入れねばならない立場であるからこそ芽生えた憤りに過ぎず、元来“色”を持たぬ側の人間はそれを感じたりという事自体が起きぬのではないか、とすら思え、思い、そのように言い聞かせてみせどうにか、どうに、か相良はこの場を何事もなくやり過ごそう、と
「――して、遣いの者らよ。」
吸い終えた煙草を盆にでも返したのだろう。
金物同士がかち合った時特有の、銅鐘を撞くよりもずっと高い音が、天井が高い造りをしている広間に響き渡り、用件を終え早々にこの場を立ち去ろうと内心躍起になっていた相良の足取りは止まった。
本来であれば屋敷の主人たる男が部屋を後にするのを見届けた後、西条家の遣いとして上がらされている立場の自分達は腰を上げねばならないわけだが、悠長に煙草を吹かすばかりで口を利く様子を見せぬ相手にいつまでも時間を割くのは惜しく。
状箱を托した屋敷の者にその旨を伝え、今しも部屋の敷居を跨ごうとした時の呼び掛けであった。
一歩、前へと出る。
同席を頼んでいた春原に自分の背を見せるようにして、相良は声を返した。
「如何なされましたか?」
「否……、主等、銀嶺の遣いではあるそうだが、それ以前に東国の、あの“色”を多く囲うとされる水神が棲まうという扇の遣いであるそうではないか?」
ひくり、目元が揺れる。
屋敷の主人たる、恐らくは西条銀嶺の遠縁の血筋にあたるであろう、花田家の当主を相良に目を向けた。
陽の当たらぬ座敷の奥まった位置に居座っているものだからか、眼孔に落ちる影がより一層、色濃く映る。
銀嶺が未だ還暦を迎えていないのに対し、花田家の当主たる男は、見たところ四、五十そこそこは迎えていそうな、歳を重ねることでいくらか態度に余裕があるように見受けられるが、やはり両脇に携えている“色”がどうにも、といった具合に、相良の思考を遮る、良からぬ方へと着地させてくれる。
それを、そうだ、と。その様に解釈をするのは自分が“色” を持つ存在であるからこそだと頭では分かっているのだが、今しも受けた言葉を含め、どうしたって悪いようにしか受け止めることが出来ない。
起伏の少ない、平坦な【気】だ。初対面であると同時に、感情の読めぬ、交わした口数も少ないとなってくると、いくら視ることが叶う自分であろうとも、普段であれば汲めるものも碌に汲めやしない。
本来であれば必要以上に言葉を交わす気も起きないが、一応は銀嶺より授かった頼まれ事の、預かった書状を渡さねばならなかった相手だ。
声を掛けられた手前、それに反応を少しでも示してしまった今。それを無かった事としやり過ごす事は礼儀を欠く行為となってしまう。許されない事、だ。
「はい、仰られました通りに御座います。我々は東国より参りました、扇の遣いです。
扇より銀嶺様に、と書状を預かったついでに、と。以前より西方へは足を運ぶ機会を窺っていた旨を、もてなしていただいた際に少々溢してしまいました処、提案をいただきこの様に、馳せ参じた次第となります。」
判断材料は極めて少ない。読めぬものをどう読もうものかを頭の隅に追いやりつつ、それでも。失礼のない様に慎重に、当たり障りない言葉を相良は選ぶように努めた。
「水神の加護故か、扇の里には“色持ち”が多く生まれるというのは誠か?」
「出雲国だけでなく、山城国を含みます畿内一帯同様に信仰深い方々が棲まう地ではありましょう。
なにぶん私自身も“色”を持つ身ではありますが、かの地で生まれ育ったわけではない為、遣いなどと御役目を頂戴し此方方へと足を運ぶ役割を賜りはしましたものの、それほど詳しく、多くを存じているわけではないものでして。
花田様の知り得たいことに対し、望む答えをお伝え出来る自信は持ち合わせておりませぬ。」
暗に、これ以上を言葉を交わす意志がないことを滲ませる。相手は出雲郷においてそこそこ名が知れている花田家の当主だ。また、山城国に留まることを知らず、畿内一帯で知られる青物問屋の大棚である西条家とも繋がりのある相手だ。
その元を訪れる商人や、他所の土地の者などは多く、言葉を交わし慣れていない、相手の意を汲み慣れていないというのは先ずない筈――だ。
「これは一体、どういった状況でしょうか弥代さん?」
振り、向かずとも。目を合わせずとも、表情を見ずともどのような態度でいるかの大方の予想が付いてしまうというのは、それが便利な時も勿論あるにはあるだろうが何というか、覚悟が要るもの……だ。
と、予期せず。前触れの一つもあったもんじゃなくいきなり声を掛けられたと思った次の瞬間には肩に手を置かれ、弥代の体は後ろへと引っ張られた。
それ、で。スルリ肩に回されていた、まだ知り合ってそれほど経っているわけでもない男の腕はすんなりと、弥代から離れていくの、だが。後方に控えていた春原の手によって体を支えられながら見遣った視界には、横顔だけでもそうだと分かるぐらいの怒気をしっかりと孕んだ相良がおり。
支えるのみで食い込むことのない指先が、ほんの少し前は食い込んだ指の、自分を後ろへと引っ張った存在がやはり春原ではなく相良であった事に弥代は気付けたの、だが。
口を開く、機会そのものを失ってしまう。
そう、それぐら――い。
「弥代、」
呼ばれて、目が向く。
振り向いてみれば相良同様に、どことなく険しい表情を珍しく浮かべる、重たい前髪の奥で静かに眉間に皺を寄せている春原の顔があった。
普段、それほど顔に出すことのない男なだけあり、やっと弥代はいま自分が居合わせていた相手が拙い相手であったのだというのが理解出来た。
否、端から可笑しな相手であるという事は理解出来ていたのだ。でも、此方が警戒をしていても、絶妙な、入りっこないと思っていた隙間と呼べよう部分にぬるり捩り込んでくるように、ピッタリと体を寄せられ逃げ道を奪われ、と。
異様な存在であるというのは重々、頭では分かっていたのだが逃れる機会そのものを見事に失い続けていた、というのが正しいやもしれない。
言い訳を述べたいわけではない。だから弥代は大人しく、春原に体を支えられたまま、自分で立てないというわけではないが、少し彼の方へと自重を傾けてみせながら前方に――相良の後ろ姿へと目を向ける。
忙しない、矢鱈とドクドクと心の臓が脈を打っているのが分かる。きっと、いつだって同じぐらい脈は打っている筈だろうに、こういった時ばかり、心の余裕がない時にばかりそれを拾えてしまうのは正直邪魔でしかない。
ギュッと、羽織の上から強く胸を掴みながら弥代は行く末を、この場を相良がどう治めるのかを見守る事とした。




