五十八話 勘定
こういった時に使える、俗に言う“気が利いた言葉”というものを生憎と持ち合わせていない事に対し、弥代はどうしたものかと下唇を軽く噛み締めずにはいられなかった。
そうし、て。
多分無理だろうな、と分かっていながらも一応は助け舟を求めるような形で右隣の彼の名前を一つ。勿論、彼以外の他の誰にも届かぬようなか細い、小さな声で口にした。
「どうすりゃいっかな、千方?」
「……………………、分からない。」
「うん、だよね。」
返答までに費やされた間があまりにも顕著だ。
ほれ見たことか、とある意味予想通りの返しをしてきた彼に尻目に、それを見事当ててやった自分をいくらか賞賛してやりたい気持ちも山々なのだが、まぁ、そんな冗談に現を抜かせるほどの余裕はありっこない。
そんなのが端からあったのならば、こんな状況には陥って居やしないの、だから。
「どうしよっか、相良さんの事さぁ。」
「……分からん。」
音数が減っている。それの意味する処は彼でもお手上げという、何よりの証拠ではないか。
昨晩どうやら相良は、運悪く掏摸に遭ってしまったらしい。
らしい、というのは何も、当人がそのように述べている事を弥代や春原が信じていない、疑っているから出てきているというわけでは断じてなく。
それは単――に、
「で、ですからそのッ、前金を支払った段階では持っていたのは主人も見て居られたではありません……っか。
帳簿にも聢と、この様に記されているのが何よりの」
「いやいや、赤い兄ちゃんやぁ?
帳面にはたしかにこがぁ書いてあるけどもぉ、こりゃまぁ客がどこの者かを残しとくための代物であって、金の勘定に何を書いとったところで、そげなもんが信用ならんことぐれぇ、分からんちゅうこたぁ無ぁがなぁ?
宿の使い方もよう分からん、ええとこの坊じゃあるまぇし、ええ歳した大人が、払うとらんもんを払うたなんて、そげな嘘ぁつくもんじゃなかろうが。」
聞く耳を持っていない、というよりは中々に埒が明かない対応をしてくる旅籠屋の主人が他ならぬ原因だ。
会話の節々にかなり強い抑揚(いや、訛りだ)がいっぱいいっぱい感じられはするのだが、耳馴染んだ言葉で相良が受け答えをしてくれているものだから、それが挟まることによって相手が何を言っているのかをある程度は把握することが出来る。
いや、しかし。相良の倍以上は舌を捲し立ててみせる旅籠の主人なもので、全部が全部、向こうの言い分を拾い、頷いてみせるのはどうにも難しい。
相手の言わんとしている全容が見えてこねば中々に、良かれと思い口を挟んだとしても、逆に相良を困らせる展開へとなりかねない。
昨日立ち寄った茶屋において、感情的になり喚きたててしまった失態が、その後の相良とのやりとりを含め、それらがまだ色濃く残っているがために些か足踏みを弥代はしてしまい、言葉を一つ切り出すにしても思い留まってしまう、きっかけがあまりにも無い。
そう、何かしらのきっかけさえが有りさえすれ、ば―――
「相良、」
痒いところに丁度手が届く、という表現は違うだろう。が、パッと弥代の中で浮かんだ言葉はそんな、浮かんだ当人が的外れかもしれない、と感じずには居られない言葉だった。
一歩を踏み出す。子どもは首を突っ込むんじゃないと言われた手前、大人しく草履を脱いで小上がりで寛ぎまではしないが足を伸ばしていた弥代とは正反対に、大ぶりの葛籠を背負うだけでなく、普段であれば相良が背負っている刀なり長物が包まれた風呂敷を担ぎ、草履を脱ぐでもなく。
小上がりの直ぐ近く、弥代の傍らに近い位置でただ立っていただけの彼が、その一歩を踏み出した。
背負っていた葛籠を地べたに下ろし、それなりに整頓されている中を何やら物色するような動きを見せた後、目当ての物を見つけたのか、薄い包みを手に取り差し出し――、
「三ツ江絹から、金銭で何か問題が生じた場合に渡すように、と言われた品があった事を思い出した。」
「弥代のおかげ、だ。」
包みの中身は一分判であった。
どうしても退っ引きならない状態に、金銭面で問題が生じた場合にのみ渡してほしい、と言われたものだから、相良がいる限りそんな事態は起こりえないだろう、と春原は考えていたそうだ。
事実、懐が心許なくなりそうだと分かった時点で、相良は慣れた手付きで、桑名宿なりでもやっていた包丁研ぎなりで路銀が底を尽きてしまわぬように調整を――管理をしていた。
榊扇の里に討伐屋が移り住んでくるよりももっと以前、武蔵国に看板を構えるよりも前の、二人で旅をしていた頃からそれは変わらないのだという。
長年、任せっきりで何事も問題が起きたことはなかったのだと言われてしまえば、それは春原に限った話ではなく、弥代であってもそんな事は起こりえないだろう、と考えた事だろう。
それが出来るぐらい、今の弥代は相良に対し(一方的、な)信頼がある。
「……いえ、しかし助けられた事に代わりはありません。私が不甲斐ないばかりに御二人には迷惑、を」
「いい、いい! そういうの要らねぇってば相良さん! 俺らただ待ってただけだし、なんなら千方みてぇに何か出来たわけじゃなくって、俺はただ待ってただけだしさ!」
言っていて、少しだけ悲しくなる。
そうだ、きっかけさえがあれば動けると弥代は構えていたというのに、結局は前もってがあったからどうにか良い方向に事が転じてくれた、それだけだ。
正直、春原の「弥代のおかげ」という言葉を掬い上げてやる事が出来なかったぐらいには、なんの役にも立てていなかった事を弥代は痛いほど分かって、いる。
前の晩、相良が湯を浴びに部屋を離れている間の、春原との会話があったものだから余計に、だ。
この短時間で浮かんだ言葉を引っ張ってくるのなら、またこれも違うことだろうが、とても“歯痒い”。
否、先の的外れな当てはめよりはずっと、今の方が限りなく正解に近いはず、だ。
相良の望むように、相良が求めるそれを叶えてやれるように努めたい、もう最近はずっとそんな事を考えているというのに、自分のそれは結局のところ空回りばかり、儘ならない。
でも、事実そうなのだ。覆りようはない、覆ってくれないから弥代は悩むしかない。どうした、ら。どうすれば自分は相良の役に立てるのだろうか――、と。
掏摸に盗られたのは西条家で用意された紙入れだったそうだ。
恐らくは、“家紋”なるものが西条家の主人が持つ“色”を意識してか黄色い糸で丁寧な刺繍が施されていた紙入れの事だろう。
家紋に関しては、満月が用いられているとはいうが、丸と角張った四角が描かれているだけで、月を含めてもいざ何を意味しているのかまでは弥代では全く分からない。大変値の張る、やたらと肌触りが良かったぐらいしか弥代は覚えていない。
「……えっ、でもさでもさ、その中に全部入れてたってわけじゃないんでしょう? ほら、扇堂家からだって前に言ってたさ、あの表面ツルツルしてたヘンテコな巾着だって持ってたわけじゃん。」
疑問を口にしながら弥代は歩幅を早める。勿論、相良の反応を窺うため、だ。
あまり長く触れてはいけない話題だろうという事ぐらい分かってはいるが、ただ昨晩に掏摸に遭ったというだけで有り金が底を尽きてしまった、なんて事は考え難い。
何より、出雲国に至るまでの道中で稼いでいた路銀だって、包丁一本で五文。弥代の見ていた限りでも二十本にまではいかないぐらい(それでも十五本以上はあった)は研ぎ直しをしていた筈だ。
正直、十分すぎるぐらいの稼ぎにはなっていたと思うのだが、やはり旅籠で飯にもありつけるとなるとそれなりにいい値になってしまうという事だろうか。
播磨国より続いていた出雲街道の、国境を越えたことによって街道というよりは盛えている街並みが続いているような、雰囲気だけなら榊扇の里にどこか近しい。
人の集まる場所というものは中々にピンからキリまでなど、と―――
「ねぇねぇ相良さん、ピンからキリまでのピンとキリって何なの?」
「先の問いに答えている最中に違う質問を重ねてくるんじゃありません貴女という人はッ⁉︎」
歩みを止めるに留まらず、振り向きまでして至近距離で喚かれては耳奥に声が響いて溜まったモンじゃない。
「だって気になっちゃったんだもん。」
「この旅において私がどれほど貴女に我慢を覚えなさいと言ったのかお忘れで⁉︎」
「なに言ってんのさ、忘れるわけないじゃんそんな事!」
「どこで胸を張ってみせるのですか貴女という人はッ‼︎」
口調が荒々しくなっていくというのに本心から怒っているとか、そういうわけではないのだから本当に不思議なものだ。
相良は怒るととても静かに、口数を減らし、表情も、また……。
「なんていうんだっけ、事なきを得た? 一件落着の方がしっくり来るんじゃないかなぁ? そう直ぐに怒らないでさぁ!」
「ほじくり返すような真似をした人の口から到底出ていい言葉ではありませんねぇ⁉︎」
「ハハっ、相変わらず声デケェ〜!」
菊花開、霽月の徒路 三十三話
終着地点となる出雲大社まで続く出雲街道ではあるが、出雲国に踏み入ることで街道沿いの道というものはとても賑やかなものへと変貌した。
いっそ街道の終着地店は先刻離れたばかりの安木と呼ばれる地でいいのではないか、なんて弥代は考えてみせるのだが、自分の安易な考え一つでそういった物は変わりっこない事を弥代は理解していた。
「あ、でもアレなんだ。
次のあだかえって処はさっきまでの安来ってとこと違って、“宿”って字が入ってんだね?」
相変わらず紙を与えられる事はないものの、すっかり他と比べれば薄い造りをした硯に対し、水で濡らした矢立を走らせるのも随分と慣れたもの。
時間が経って乾きさえしてくれればそれで、真っ新に書き跡さえも消えてしまうのだからとても便利なものだ。
といっても真ん中に堂々と字を書くのは弥代ではなく専ら相良の役割だ。弥代はそれを見てちょんちょん、と隅の方で真似をしてみたり、軽く相良の筆跡を擦るばかり。
字の書き順、に関しては最初に書くのを見せてもらい、それを思い出してみるので限界だ。一日にいくつも一気に教えられるなんて事があったとして、多分五字ぐらいで弥代は音を上げてしまうことだろう。
今まで知らずとも構いやしないと過ごしてきた時間が仇となっている。挽回をする(相良に少しでも認めてもらう)為にも、道中を利用してのついでだとしても学べる貴重な機会を棒に振るようなことをしてはならない。
それが当たり前となりつつある今日この頃、出雲街道は安来の次となる出雲郷宿という変わった読み方をする地について弥代は相良に質問を投げ掛けた。
「えぇ、そうですね。この先の出雲郷宿のあだかえとは、
産土神・|阿陀加夜奴志多岐喜比売を祀り始めたとされる集落が存在していた事が起源とされ――」
「え、なん……あだかや……きひめ?」
「いえ、全て聞き取られる必要はありません。
……そう、ですね。阿太加夜神社にて祀られている神の名が由来というだけで。この地特有の変わった読み方でしかない、と。その程度を覚えていただければそれで何も問題はない、そういうものだと割り切ってもらえればそれで宜しいか、と。」
「あっ……、うん。」
そう言われてしまえば頷く他に手はない。
怒っている、という感じはしない。でもなんだか、妙に距離感がある、ちょっとした棘が、ある。
元からこんなであったろうか?を思わず考えずにはいられないぐらい、少なくとも目に付くような返しをされてしまったものだから、小さく弥代はたじろいでしまった。
本当に、急だ。
「…………。」
否、そんな事はない。
棘がある、距離感があると感じる機会はこれまでも度々あった筈だ。これが初めて、などという事は断じてない。その代わりにあるのは、先刻も感じていたものに非常に近しい。
そういった点において、にのみ目を向けてみると、もしかしたら自分は上手く振る舞えているのだろうと感じる。
弥代がなにを考えているか、その心の内をある程度、言葉にせずとも読むのに長けている相良相手に、弥代が相良の事をどう考えているのかを気付かれていない様子、なのは。
そんなのは、そんなものは何の腹の足しにもなってくれない。そんなものを求めているわけではないのに、でもそれは、それがそうであるからこそ、弥代は相良の前では子どもらしく振る舞えている部分もあるものだから一概にどうとは言えないのが現状というわけだ。
逸れされてしまった視界に、無理に映り込もうとは思うまい。今はまだ、思ってはならない。
出雲街道は安来より出雲郷宿までの距離はそれほど離れていなかった。
旅籠屋での揉め事があった割に、安来を出立することが出来たのはお天道様が頭の天辺を過ぎるまで十分すぎるぐらい時間が残ってそうな頃合いであった。
「少し、目立ってしまいそうですね。」
「んぁえ?」
なんならどこからか響いているかまでは分からなかったが、榊扇の里にいた頃のように鐘の音が一、二回聞こえた程度。九つか八つ刻の音が鳴らされた程度しか経っていやしないぐらいに弥代は思っていたのだが、食事にありつく事が出来る茶屋であったり飯屋にとってそれぐらいの時間というものは中々に迷惑であったようだ。
出雲郷宿の適当な茶屋に滑り込む、店を選んでいる余裕すらなく。なんなら店先の暖簾を一旦下ろそうとする店の者に相良は声を掛け、嫌な顔をされるだけでなく小さく舌打ちまで喰らった程だ。
食うもん食ってとっとと出ていけ、と言わんばかりの視線を受けながら食う、余り物を適当に丼に盛ったような遅めの昼餉はあまり美味しくはなかったのだが、そんな事も言ってられない。そうして平らげ終えて、早々に店を後を出て直ぐ、相良がそんな言葉を掛けてきたのだ。
自分に向けられた目線だ、自分以外に彼がそれを発した理由があるはずがない。何に対して目立ってしまうと言ったのだろうか、は考えるよりも早く分かった。
「“色”、もう目立つようになっちまった?」
「いえ、屋内から屋外に出る際に見え方次第では、といった具合でしょうか。」
頭巾の裾を摘む。他の人の目に触れないように俯き気味の体勢を弥代は取るも、いつの間にか背に伸ばされた手によって、背中を押される。
「それでは逆に人目を惹いてしまいかねません。
街道とは違い常に人の目があるのですから、あまり隠しすぎる素振りもよくはありませんね。」
手を考えねばなりませんね、と相良は続けた。
右利きである彼のそれはきっと癖だろう。考え事をする、深く頭を働かせる時になると決まって右手の人差し指を顎へと添えるようにして目を細めてみせる。
唸り声を上げることはせず、道の往来からは逸れた場所で暫くそんな素振りを見せた後、相良は意外にも弥代の髪色を優先するのではなく、西条家からの頼まれ事を先に片すこととし、それを口にした。
手を考えねばなりませんね、等と言い出すものだから、てっきりそれについてこれから話す事になるだろうと弥代は考えていたのだが、そう話が展開することはなかったのだ。
ただ後者を片す上で、弥代の髪色は場合によってやはり目を惹く、相手次第ではあるが聡ければ気付かれてしまう事もありえなくはないという事で、それほど余裕があるわけでもないというのに駄賃と称され、丁度手元にあったのだろう(先ほど昼餉を頂戴した店で勘定をする際に釣り銭として渡されでもしたのだろうか)四文銭を一枚手渡された。
要するに――、
(留守番ってところかな……)
弥代と春原が飯を食うのに集中していた間、春原が道中背負っていた葛籠から折り曲げた紙を取り出し広げ、それに目を通していたのは気付いていた。恐らくはあの時点から店を出たら西条家からの方を先んじてどうにかしようと検討をつけていたのかもしれない。
し、昨晩に掏摸に遭って盗られたという紙入れは戻って来ず仕舞いだ。春原が念の為に、と三ツ江絹から渡されていた分があった事で一旦は事なきを得られたものの、それが底を尽きてしまえば本当に二進も三進も行かない状況になってしまうことだろう。
それを回避する為にも、先ずは旅の資金の調達というわけだ。西条家と縁のある両替商相手であれば通じるという両替手形を元手に、出雲国より更に西方、本土から少々海を渡った先にあるとされる旧国を目指す。
弥代の髪色が、練り粉の残数だってそこまで余裕があるわけでないのだから染め直すような余裕はない。
それらを加味すれば先に西条家からの頼まれごとを片すのも、自分を一時この場に置いていくという考えも筋は通っているように弥代は思えてくる。
ただ、でも……
(四文ぽっちで何が出来るってんだよ?)
少し不服、だ。
否、懐に余裕がない中の四文銭だ。一文無しで見知らぬ土地でほっぽり出される、置いてかれるなんて事がないだけ十分すぎるぐらい優しい、気遣いがあってこその銭だとは思うのだが、ここの処それなりに多くを学ぶ、触れる機会が増えてきつつある弥代だからこそ分かった事がある。
それは、四文ぽっちでは満足に腹を満たすのだって難しいという事、だ。
飯屋の蕎麦が安くて一杯十五文そこいら。味や量であったりに我儘を言わない、安い店を探そうと思えば一杯十文の店だってなくもない。
でもそれは元の、大体これぐらいという相場というが十五文ほどであるからこそ、ちょっと下を見ることで出来る値というだけの話であり。
弥代が相良に渡されたそれは四文銭が一枚。四文銭で出来ることなど、団子が釣り銭なく丁度一串買えるのみなのだ。
足りるだろうか、とそんな事を考える。
どれぐらいで相良と春原が帰ってくるかは分からない。
八つ刻にわざわざ暖簾を下げてしまうような茶屋は少ないとはいえ、本当に食えて団子一本だ。そこに茶を付けるような贅沢は望めそうにない。
二人が戻ってくるまでの間、団子一本で凌げる気は、残念ながら弥代は全くしなかった。
(余裕……、なかったんだろうな。)
きっと、そうだったんだ、と自分に言い聞かせる。
早々に弥代をこの場に置いてすたすたと歩み出してしまった相良と、それに相変わらず無言のまま付いていくのみだった春原の、踵を返して以降二人と目が合う暇すらなかった程。
道中において一旦底は尽きかけてしまっても、それでも路銀を稼ぐことでそれを回復させる事が出来た。決して大きな額ではなかったろうが、それでも稼いだそれで数日を凌ぎ、旅籠屋を利用するだけの余裕もあったぐらい。翌日には街道の次の目的地に辿り着けて、と当初からの西条家の用事というのを難なく済ませられるぐらいの見立てぐらいはあった事だろう。
それが急に崩れ、一時凌ぎではあるが資金を得られたとしても、賄いきれる範疇など高が知れている。
挙句、道中にやたらと弥代の髪の“色”が目立ってしまうことを常に気に掛けていた相良、は―――
(なんかしらがあるんだろうな、多分。)
正直、掛川宿以降の道中においては、髪を隠す必要などなかった。
相良が気に掛け始めたのは、逢坂関で強すぎる“色”を持っているが故に、山城国にすんなりと立ち入ることが出来ず、“結界”と呼ばれるものに(確か、榊扇の里にも同じようなものが在るのだと聞かされたことがある)阻まれてしまう事が起きてからだ。
山城国での他の土地とは異なる、“色持ち”に対する態度。“色”を持つ存在に対する、迫害などではなく快い待遇。
榊扇の里そのものを治めている扇堂家が代々“色”を持っているから、神仏・水虎の加護を受けているからというのに条件だけなら近いだろう、などと相良は弥代に教えてもらった通り。なんなら山城国では国の主人そのものが、人ならざる存在、現人神様などと呼ばれているらしく。それが“色”を持っているからこそ、“色”を持つということは尊ばれる存在、山城国では神に等しい信仰の対象とされているといった背景があったそうで。
畿内――と呼ばれる一帯ではその考えがある程度定着している、というのもあるらし、く。
なにより、も。
『東の生まれを象徴する“色”は目立ってしまう事、この上ないでしょう。』
そういった考えが浸透している、としても、其処とは違う地の“色”を持った者がわざわざ訪れる、という事そのものに突っかかってくる相手は少なからず存在するのだとも相良は言っていた。
これまでの道中は、自分たちと同じように“色”を持つ絹や、大津宿からの短い付き合いになる隆棋もいた手前、それを指摘する事は難しかったのだと言いながら、自分だけでは上手く出来ない練り粉を、髪全体に満遍なく馴染ませてくれた。
“色持ち”のことをそれほど良くは思っていなかったものの、自分には大変良くしてくれた、深い愛情を注ぎ接してくれた今は亡き父を持つ純真そうな彼女。
“色持ち”という存在は尊ばれるべき存在である、とその考えをなに一つ疑う余地のない環境で生まれ育った、気配りが大変上手な、人をよく見ている彼。
そんな二人の前では口にするのは些か躊躇してしまったのです、と溢す相良の指先に妙に力が籠っている事に弥代は気付いてはいたが、気付かない芝居をしたのだ。
相良はそういった事に聡く反応を示すことを、弥代がそれに気付いてしまう事を、恐らくはあまり好いていない。
だから極力、相良が居る場ではそれから目を背けるように心掛けるように振る舞っているのだが、先のことを含め随分と、まぁ上達が出来たのではないか、とそんな事を考えながら一枚きりの四文銭を掌で握りしめる。
まぁ本当は、昨日同様にもう一枚四文銭を手袋の内側に仕込んでいるのだが。
(八文かぁ……)
団子一串なんてあっという間に平らげてしまいそうだが、二串分の注文をしたとして茶が欲しいと店の者に言えば嫌な顔はされないことだろう。
一串に三玉とし、それが二串。茶も一緒に出されて。なんなら今が丁度八つ刻であるのなら、掻き入れ目的に八文で運良く三串、あるいはオマケで餡子が軽く盛られていたり、なんて店もあったりするような、そんな頃合いだ。
ぐるり、立ち尽くしたままであった周囲を見渡す。ここら辺からあまり離れてしまわないように、離れてしまったとしても何事もなく戻って来れるように目印になりそうな物を探す。
一人見知らぬ土地で、此処に戻ってくると言われていたというのにその場を離れすぎて迷子になってしまうなんてのは冗談にしても笑えない、起こり得てしまうような事はあってはならない話だ。
先の山城国で道に迷った時は運良く、丁度近くを相良が通ったからそれを追うことで大事にはならずに済んだが、相良が通らなかったら結構な騒ぎになっていたやもしれない。
端から一人、この後をどうするかを考える余裕のあった弥代だ。頭に血が上るような、大声で喚き散らかしたりという事もなかったものだから落ち着いて、どう過ごせばいいのかを満足に考えることが叶った。
(あまり、離れすぎるのもやっぱ良くねぇよな。)
いつ帰ってくるとかを教えてもらっていないのだから中々に塩梅が難しいというもの。でも、口調からしてそんなに此処から離れすぎている、といった風ではなかった。
(半刻……もありゃぁきっと帰って来るだろう、多分。)
相良が握らせてくれ四文銭を左手に。
ただ、相良からお金を渡される、握らされるのなんてのはこれが始めてなものだから出来るのなら使いたくない気持ちも暫々。
となれば、右手袋の内側から出した四文銭だけでどうにか時間を潰さねばなるまい。
手持ち無沙汰、というのは可笑しいかもしれない。だって掌が空いているというわけではないのだから。でも、することがない、暇を持て余してしまっている、という意味でも使うことが出来る言葉であったのを弥代は思い出しながら。
「別に、店に上がらなくたって団子ぐれぇなら露店でも買って食えるもんな。」
先ほど、相良に払われた頭巾を深く被り直す。一人で過ごすのに頭巾はあった方がなにかと助かる。如何せん、弥代は目付きが悪いのだ。睨んでいるつもりが弥代自身になくても勘違いをされて騒がれるような事は、一人でいる内に面倒事を引き起こしてしまうのだけはどうしても避けねばならない。
じゃないと、また――
(相良さんに……迷惑、掛けちまう)
結局、今こうして弥代が一人で待たされる羽目となっている事も、時間を置いて再度考え直して見ても、やはり何かしら弥代の“色”に問題があるとしか思えてこない。
じゃなきゃ店を出て直ぐ、あの様なやりとりは挟まらなかった筈なのだ。
(でも、案外結構慣れるもんなんだな?)
チラチラと頭巾に収まりきらなかった髪の色は黒だ。自分の視界に当たり前に入り込んでいた、これまでの青い髪とは全く別物(ただ、相良から言わせればそこそこ地の色が目立ち始めているらしい)だ。
一番最初に髪を黒くされたのは、六月の半ばに差し掛かったぐらいの事、で。なんだったか、確か討伐屋で虫の居処が悪くなるような事があっただかで、薬師の伽々里が弥代が世話になっていた長屋で一晩一緒に過ごした翌日だかの出来事だったと記憶している。
初めは本当に慣れなくって、それ一つでなんだか無性にムズムズと。気持ちの、心の折り合いというものが中々付かずにウダウダと過ごしていたが。
「無いのが普通……なのにな。」
口を付いて出てきてしまうというのは、それは答えに近い。
けど、今の弥代はこれまでとは違う。これまでとは違って、弥代だけでない、“色持ち”が持って生まれてしまうという“色”がどの様にして得てしまったものなのか、を薄らとだが知っている。
(でも――、)
相変わらず弥代は親というものを知らない。
よくよく考えれば親がいないで生まれてくるなんてのは、それこそ今までの考えの中で一番可笑しな、当たり前の事だろうに。ずっとそうだと気付くことなく過ごしてきたわけだから中々にありえなさそうな話、だが。
一人になる、というのはやっぱりあまり良くない。誰かと話している時の気楽さがまるでない。グルグルと余計な事に考えを割く余裕が生まれてしまう。考えないようにしていた事にまで意識が向いてしまうのがどうにも怖い。
(早く、戻ってこないかなぁ……)
とりあえず何処か適当な露店の店主にでも声を掛けて、四文銭でどうにか時間を潰す事にし、弥代はその場から歩き出した。




