五十七話 人となり
「弥代は凄いな。」
その言葉に、嘘偽りなどあるわけがない。
間が挟まってしまうことなく、すんなりと自分の口を突いて出てきたものに対し、春原がそれを疑問に思うことは間違いなく起こりえない。
ただ、自身の奥でその事実を深め往く。
(そうだ、相良は他人がそれほど好きではない。)
“他人”という言葉の線引きは曖昧なようでいて、しかし相良にとってのそれは非常に分かりやすく、顕著すぎるほど存在してしていることを春原は知っている。
だから、こそ――
恐らくはまだ相良にとっての、他人という枠組みの中から脱しきれずにいる弥代自身がそれに気付けたことを、春原は心の底よりそれ、を―――
順調に進もうものなら、姫路より出雲街道は終着点となる出雲大社までの旅路は、行き来にあまり慣れ親しんでいない商人であろうとも十日もあればそれでお釣りが来るだろう、と。そのように説明をしたのは、紛れもなく相良自身であった。
距離であったり、それに係る時間というものに春原は当然の事ながら興味はない。立ち寄らねばならない理由があるから、その目的の為にただ足を運ぶのみ。
相良曰く、山城国において一時世話になっていた西条家の前当主・西条銀嶺より用事を頼まれたらしい。
用事と言っても他愛ないものだ。指定された小包程度の、腕一本で余裕を持って抱えることが出来る程しか大きさのない包みを、出雲国に暮らすという知人に届けてほしいという難解なものではなかった筈、だ。
『まさかこれ程までに日を有することになりましょう……とは、』
春原から言わせれば、それは弥代の髪の“色”が目立つこと恐れ、街道沿いに進む手筈であったというのに、日中の人気の多い時間帯は人目を避けるように道から逸れたりという、余計な行動が多かったからだ。
足を止めることなく、目的地を目指し前に進めばただそれだけで良かったのではないか、という言葉は当然呑んだ。
相手は、自分の思慮の浅さだけでは到底辿りつくことの出来ない、多くを同時に抱え込んでも頭を働かす事に長けている相良だ。彼なりの考えがある上での行動に春原が特別口を挟むような事はない。(思うところがあった、とただそれだけの話だ)
その為、西条家を出立する際に、出雲国までの旅路を見越し渡されたという路銀は道中で底が見えかけ、歩みを止め、立ち寄った宿場町なりの適当な店先を拝借し、手慣れた様子で包丁研ぎを相良は始めた。
『貴方は何もせず其処で待っていなさい。』
武蔵国に居座るようになる以前、妖を退いてほしいという依頼を耳に方々へと足を運び、それを成すだけの繰り返しの日々の中。
命を危険に曝すのに対し、到底釣り合わぬ額しか渡されぬ事は少なくなく。それも次の依頼が見つかるまでの間に雨風を凌ぐための宿や、飢えを凌ぐための食事でやはり底を尽きてしまうのは数え切れず。
そうなれば決まって、相良は自身が背負う、それ以外に使い道のないただ重いだけだろう荷を広げ日銭を稼いだ。手を貸すことは、求められていない。
この一時、が。
一人、ただ待たされるその時間が、春原は甚く好きではなかった。どうして、も。
それは――
『…………此処に、居て……ね?』
(揺らぐ、赤を、自分と大差ない背で必死になって隠すように覆い被さる)
それ、が――
『絶対、朝になるまで起きちゃ駄目、だよ。』
(母と同じ名を騙り続けるお前がそうまでして、己を犠牲にしてまで俺を守ろうとしてみせるその理由が、その意味がどうしても俺には)
それがどうして、も――
『おやすみ、千方。どうか、おやすみ。』
(戸が閉まり往く、離れてしまう温もりの何を意味するのかを知らぬわけがなく。だから、こそ。だからこそ手を俺は伸ばしたと、いう……のに)
「…………。」
要らぬ、余計なものが入り乱れた。
何がきっかけであったかも分からぬまま、意図せず掻き乱れてしまった心を、春原は一人持ち直す。
疲れが溜まってでもいたのだろうか。やけに鮮明な、瞼を閉じて思い出すものよりもずっと繊細な。あまりにも暇を持て余していた、することがなかったものだから立ちながらいつの間にか寝ていたのかもしれない。となると、先の、自身の心を酷く掻き乱したそれは、夢の類であったかもしれないと考え、至る。
で、あるのなららば――。
(そう……か。)
覚えのある言葉だけでない、覚えのない言葉も共に聞こえたような気がしたのはきっと、やはり気の所為である、と春原はそう自分へと言い聞かせることに成功した。
菊花開、霽月の徒路 三十二話
『俺らに、ちょっと任せてよ?』
その発言は誰がどう聞いても、これから何かを為出かす者の発言だ。平生の相良であれば瞬時に言葉の意味を理解し、相手が余計な事を起こす前にどうにかこうにか食い止める、それを阻止することも出来たであろうが、今日は駄目であった。
今日、というか此処の処は本当に出方が遅れがちである。何も気が緩んでいるからとかではない、深く考えるのを沈ませ過ぎて、戻ってくるのに時間を有してしまう。
し、これまではそんなに頻繁に気に掛ける必要などなかった事だ。
未だ慣れていない、弥代が些細なことでも問題を起こしたりと、それに振り回される、それを未然に防ぎきるのに対し、経験があまりにも浅すぎるのだ。
榊扇の里に移り住んでくる以前は、行く宛のない旅を一人で長い間していた、そんな日々を送っていたというのが嘘であったのではないか、と思えてしまうぐらいに、下手な世渡りを目の当たりに相良はこの半月ほどで数えきれないぐらいしてきた。
だから今も――、今も余計なことをする気である、というのはその一言、たった一言で十分すぎるほど分かったのだが、目が合う、耳打ちから目があった次の瞬間には、悪戯をこれからするのだと言わんばかりの子どもっぽい表情を、口を横に引き伸ばし笑ってみせ。
「弥代さ――」
呼び止める、袖を引き止める間さえも与えられることなく、弥代は動いた。
指先の空いている手袋は、確かに寒い時期になると先が悴んでしまって不便に感じることもなくはないが、意外にも何かを隠したり取り出したりする時には便利なものだ。
指の本数分、しっかり穴が空いてもいるものだし、穴周りを引っ張ればちょっとぐらい大きいものだって自然と掌の上で転がすことが出来る。
よく着物の袂部分に物をしまい込んだり、帯の内側だったりに隠したり合わせの部分なりに仕込んだりを耳にはするが、一々その場所に手を伸ばさなくてはならないのを考えれば、手の内で全てが済んでくれるもので、弥代としては楽なのだ。
榊扇の里で暮らすようになる以前は、両の掌の古傷を隠すのに、適当な布をぐるぐる巻きにしてそれで過ごしていたが、あの頃から手の内に何かしら使えそうだと思ったものを一つ、紛れ込ませておくのは何も変わっていない。(何も常に何かしらを持っているわけではない、偶々手頃なものがあればそれを握り込んでいるだけだ)
そして今日は偶々、本当に偶々持ち合わせがあった。だからそれを、相良より先に春原に声を掛けた時に、彼にだけ見えるようにチラッと手の内を見せ、彼がそれに気付いた反応変わりに掌から再び目を合わせてくるのに弥代は満足し。
そうして、相良に前もって声を掛けたのだ。
否、なにも誰かを傷付けようという気はない。ただちょっと、いつまで続くのかも分からないこの場を、目の前で延々と続いている芝居なのだかなんなのか分からないそれをとっとと終わらせたいだけであり。
細長い、管の先に口を付けて高い音を鳴らす道具を手にした男が、時折足踏みをする、その足が地に触れる瞬間を見計らい、弥代は手袋の内側に隠し持っていた平たい小石をその場所目掛けて弾き飛ばした。
「ぉあ……ッ⁉︎」
話すのに夢中になっていた相手だ。今まで普通に踏めていた足元に余計なものがあって足を踏み外したとなれば体勢が崩れてしまうのは目に見えている。
後ろへと倒れそうになる男の、しかし男が倒れ込むよりも早く、それを防ぐのに動く相手がいた――春原だ。
弥代が小石を弾いてみせた、男の足がそれを踏んで体勢が傾き始めたのと同時や、それよりも若干早く、見越した上だろうか春原は動き出し、後ろへと倒れそうになった体を腕を掴み手前へと引くことでそれを阻止してみせたのだ。
しかし、弥代はそれで終わらない。春原が男の腕を掴み、倒れるのを阻止してみせたその横で、自分が先ほど手元から弾いた小石を、足を使って蹴り飛ばす芝居をする。そうし、て――
「鼠だ――ッ‼︎」
小石よりもずっと小さい砂利を撒き、店の隅っこ――壁の方へと叩きつける。
「鼠だぁ⁉︎」「ええ、見たかぇお前さんら?」「なんか丸っこいのが居たよぉには見えたけど鼠だったかぁ本当に?」「見間違えなんじゃぁ……」
「いたって鼠が! 掌ぐれぇの、そこまでデッカくないヤツがッ‼︎」
相良は頭を抱えていた。
「――えぇ、ですので子どもの悪戯に御座います。えぇ、本当に……はい。皆様のご厚意を無碍にするような真似を此方の者がしました事、深く叱り、二度とこの様な事はせぬようしっかりと叩き込んでおきます故……、いえ本当に、大変申し訳ございませんでしたッ‼︎」
頭を押さえつけられて、そのまま畳に額を擦り付けられる。
どうしてこんな事になったんだろう、と思わずにはいられず、でも相手が相良なものであるから反抗などすることなく、大人しく、甘んじてそういった事をされるのを受け入れてみせるのだ、が――
(腑に、落ちねぇ……)
そのまま畳の上でうつ伏せのまま居座ってやったって良かったものを、自分で体を起こす意思が弥代にない事を察してか、強引に首根っこを引っ張られて、今度は無理やり体を起こさせられる羽目となる。何一つ面白くはない状況だ。
そんなであるものだから持ち上げた顔の表情といったら、という具合なのだが、案の定鋭い指摘が飛んでくる。
「貴女っ、なんですかその顔はっ⁉︎」
「だってぇ……」
「誰のせいで私が謝ってるかお分かりで……ッ⁉︎」
それを持ち出されたら原因は十二分過ぎるぐらい自分にあることを弥代は認めるが、でもそれとこれとでは話が違う。しかし今この場において、相良がどうにか事を収めてくれた手前、それを再びどころか三度(そう、三度だ)引っ掻きまわすような事はあってはならない。
表情を作る、汐らしい芝居や振る舞いなんてこれぽっちも得意じゃないのだ、と言いたくなる気持ちを押し殺して、弥代はやっと自分の口から謝罪を述べてみせた。
事なきを得たわけじゃない。そんなものが得られていたのなら店から出て空はどっぷりと暮れてなんていない筈だ。
長く正座をさせられていたものだから満足に自分一人の足じゃ前に進むことが出来ず、春原の腕に引っ付くことで前へと引っ張ってもらうことでどうにか弥代は前へ進めていた。
「あんがと千方。」「構わない。」
短い、すっかり慣れつつあるやりとりだ。
いつもであればここから弥代は春原の言葉を更に引き出そうとしてみせるのだが、今日はそんな気持ちには残念ながらなれない。
理由は……勿論、それしかない。
前に目を呉れて、こちらを見向きもせずに陽が沈む方へと無言で進む、相良の背中を見遣る。
表情を伺わずとも、声色を耳にせずとも、その後ろ姿だけで怒っ
ているのだろう事が、嫌でも分かる。
『なにかにつけて春原さんを巻き込むのは止しなさい。』
『傍から見れば随分ですよ。』
『するな、と言っているのではありません。限度があると、そう、私は言っているのです。』
『たかだか半月。
たったそれだけで見慣れてしまう、それが当たり前になりつつある貴女の春原さんに対するその振る舞いは、あまりにも度を越していると言えるでしょう。
それそのものを“止めろ”と言っているわけでは決してありません。多少なりとも改めていただきたく、こうして私は言葉にしているのです。』
茶屋に入る前、国境を越えて直ぐ、今日の今日指摘を受けたばかりの事だ。割と短い時間で、結構なことを言われた記憶がある。でも、言われればそうであったかもしれない、と思い返すきっかけになる、どれもそんな言葉で。
そんなであるものだから早々に弥代は分かった、とごめんなさいと謝り、これから気を付ける旨を口にしたばかりであったという、のに。
(せめて、もうちょっと時間が空いた後だったらなぁ……)
違う、そういうところがきっとダメなのだ。時間が空いた後ならそれで、などという事はありはしない。直後の出来事だったから相良は怒っていると、そんな訳がない。
「……ごめん、なさい。」
汐らしい声なんて、しようと思って出てくるものではない。
先の店より出る手前に自分の口から出てきたものなんかよりもずっと、自分からそんな声が出たそれそのものが信じられないぐらい、それぐらいずっと、そういった声が絞り出て、きたもので。
あぁ、これで口を利いてもらえなくなったら気が滅入ってしまうのだろうな、というぐらいは、相良をどの様に自分が見ているか自覚のある弥代は肩を落とさずにはいられない。
そうなってしまえば、今この時、今もまだ彼を、春原に縋る付くことでどうにか前に進めている行動もまた、相良を怒らせてしまうような、そんな行為のように思え、て。
違うんだ、と言う資格もない。相良さんも早いところ終わらせて店から出たいんだろうと思ったんだ、と言い出せる空気でもない。道中はお金のことで何の役にも立てなかったし、任せっきりな事が多かったから少しぐらい相良さんの役に立てるような事がしたかったんだ、と言う機会さえきっと与えられない。
足が止ま、って。歩くのも碌に出来なくなってしまって。夕陽が眩しすぎて輪郭以外の色が分からなくなってしまう、こっちを見ているのかも分からない、本当は背を向けているのかさえハッキリと分かっていなかったそれから目を、逸らすように、徐々に視界が、俯いていってしま、う。
「……俺、その」
なにも大したことはない。
誰が怪我をしたというわけでもないし、人にひどい迷惑を掛けたというわけでもない。どちらかといえば迷惑を被っていたのは、頼んでもない絡みをされて、飯時を邪魔されて時間ばかり奪われた自分たちの方で。
だから弥代は、春原だけでなく相良も、三人揃って心の底では早く終わってくれる事を望んでいるんだろうと思って、余計なことをしただけだ。
小石を弾いて、それで足を相手の内の一人が体勢を崩して。でも後ろに倒れ込んでしまう前にそれは春原の手によって防がれて。何もない場所で転びそうになるなんておかしな話だから適当な辻褄合わせに、鼠でも出たということにしてちょっと騒いでやればそれで、それで空気が白けでもして御開きになってくれやしないものか、と。御開きにまでならずとも、頃合いを見計らってそれで店を出る機会を作ったりが出来やしないか、と。それだけ、で。
だから相良が、弥代の首根っこを掴んで一度謝った後、弥代はちょっと口を滑らせた。
『いつまでも分かんねぇ話続けられるこっちの身にもなれってんだよ!』
口を突いて出てきてしまった悪態だ。最近はあまり出てくる事がなくなったものだったというのに、いきなり訳も分からずに相良に首根っこを掴まれて、自分ではなく相良が変わりに謝ったことに対して腹が立った。
今思えばそれは弥代に変わって、弥代よりも上の、大人である相良の役割であったのかもしれないが、それ、でも――
『相良さんが謝るのは違ぇじゃんッ‼︎』
なにも、違わない。なにも、間違っちゃいない。
だってそれは、そういった関わりのある別の者が代わりに謝らねばならない、罰を受けねばならないというのは今まさに、自分がこんな場所にいるそれと同じことなの、だから。
ふざけ合うような、冗談を言える仲ではない、今日会ったばかりの赤の他人にそんなものが通じるわけがない。分かっていた、そんなの嫌になるぐらいずっと前から弥代は分かっていたはず、なのに。
知った顔の、知った仲で心を許していると言って過言ではない、今の弥代にとって拠り所となってくれる二人とばかり過ごす時間が長かったもので、でも、二人は弥代が怒ったりするような事を口にするような相手ではないものだから、だから……だか、ら
「ごめんっ、なさ……い」
先ほどよりも随分と、同じ言葉なのにたった一回それを絞り出すだけで、顎や喉辺りがグッと重たくなってき、て。
遂に前を向けなくなってしまう。視界に映るのはすっかり、自分の爪先で。いつの間にこんなになってしまったんだろうと気づいた時には、もう―――なの、に。
「顔を上げなさい。」
ただ屈むだけ、じゃない。
肩に触れられて、正面にあった夕陽から目が逸れる。そうする事で一気に、これまで見えなかった相手の顔がよく見え、て。
「いつまで泣いているのですか貴女は。」
「だって……俺、」
「まったく……、本当に世話の焼ける人ですね、貴女という方は。」
顔をやや強引に拭われる。
あっ、これは知っていると、思い出すのはどれも母親を怒らせて道端とかで散々泣き喚いた後の子どもが、親に慰められている、弥代が経験したことのない、そういうアレ、だ。
でも、けど、前にも一回……だけ似たようなことがあった事だけはちゃんと、弥代は忘れて居らず。
それは、言ってしまえば一月程前の出来事よりも前にあった事だから、それを思えば相良が弥代へと接してくるその態度そのものは何も変わってなんかないのだろう、とそう思えてしまう。
変わったのは他でもない弥代自身、弥代から見る相良の態度というだけ、で。
言葉を尽くしてくれる。向き合い、此方が話すのをジッと待ってくれる。目を見て、手を取って、どれだけ言葉が出てくるのに時間が掛かろうとも俺から離れないでいてくれる。
「んぁえ……ぅう、」
だから弥代は、まだ相良の内側へと入り込めたわけではない。
それが嫌というほど分かってしまった。
旅籠屋に湯がある方がどちらかといえば稀だ。
五街道の中でも一番栄えている、人の通りが多い東海道であっても全ての宿場町に風呂付きの旅籠屋があるわけではない。そういったものは多すぎると売り上げというものが分散してしまうらしい。
宿の特徴として掲げる店あったり、懐に余裕があり大枚を叩く客が頻繁に使うからと用意している(道中で足どめを喰らった大井川の川越のその前夜、世話になった旅籠にはそれはそれは立派な湯浴み場が設けられていた)旅籠屋もあるそうだが、やはりその数は少ない。
旅籠屋に世話になるにあたり、どうしても湯を浴びたいとなれば湯札を貰い、それを手に宿場町近くの湯屋に足を運ばねばならない。
それも、必ずどこの宿場町にもあるというわけではないのが辛いところらしいのだが、どうやら出雲国は他とは違うようだ。
『本当によろしいのですか、私だけが行くなどと……』
播磨国より出雲街道を介し出雲国へと、その地に踏み入ると空気は一変。宿場町の栄え具合がまるで違った。宿の主人曰く、出雲国の街道沿いの宿場町であれば必ず一つ二つは湯屋の看板は掲げられているという。
『いいよ、俺らそんなに汗掻いてるとかじゃなねぇし、俺はほらやっぱ髪の事もあんじゃん。もう言われなくたって分かってるからさ、相良さんだけでも良かったら行ってきてよ。』
『そう……だ。一先ずは出雲国へと着いたのだか……ら、今日、だけでも……相良は休むべき、だ。』
旅籠を利用する客に、と配られる湯札はそれだけでなにも湯屋を使えるわけではない。番台に腰を据えている番頭に別で金を支払わねばならない。大人だから子どもだからと取られる金に違いはなく、
『それならここは……道中、路銀を稼ぐのに汗水を垂らしていた相良が使う……べき、だ。』
最初は本当にたどたどしい一押しではあった。
もっともっと、なんて弥代が何度か春原の背中を叩いてやれば、口数の少ない春原ではあるが、なんだかいくらでも出てきそうな雰囲気を醸し出しており。それ以上を叩くつもりなんてこれぽっちもなかったのだが応援気味に弥代が拳を握ってみせると、自分が頷かぬ限りはそれが暫く続きそうだとでも思ったのだろうか、相良はあっさり首を縦に振った。
そうして、「分かりましたから!」と少々声を荒げ、部屋を後にした。そういう処がチクリ、胸に刺さる。
「良かったな千方、こっからは暫く宿なしの方が難しそうだって、そういう事だよな?」
「……そういう事だろう。野宿出来る場所を街道沿いに探す、方が難しい……筈、だ。」
「ん、やっぱりそういう事だよな!」
金掛かっちまうけどさ、そんなに離れてわけじゃねぇんだよな、と弥代が溢すのに春原はコクリと頷いてみせた。
「西条家を出る際、相良が屋敷の者と話しているのが聞こえた。
目的地は此処・安来の一つ先、出雲郷だ。」
「なんだ、やっぱじゃぁ直ぐじゃん。」
其処に着いて、約束の荷とやらと西条家と関わりのある相手に渡すことが出来ればそれで。それで相良は西条家から両替商相手に使えるという手形を借りることが出来るようになっているらしい。
その西条家からの手形さえあれば、この先の旅路で懐にそんなに気を遣う必要はなくなるそうだ。
「扇堂家と繋がりがある……そうだ。旅で掛かった金に関しては、後に扇堂家から払われる手筈になっている、らしい。」
「無駄遣いはすんなって感じか? そっか……いや、そうだよな?」
なにも使える金が増えたからと豪遊をしようというわけではない。
自分の元々の目的地と、相良が目指したいという場所が同じだと分かったあの晩、西条家の屋敷を出立する前にあった春原とのやりとりから、弥代は考えていた。
『相良さんが行きたい……なら、俺は』
揺らいだ。
相良の古い知り合いだという、兄弟子であたる旭堂南亭から旧国の鬼神についての話を聞かされた時から弥代の目的はずっと揺らいでいた。
確かに、弥代は間違いなく扇堂家の屋敷を出立するにあたり、何処へ向かいたいかと訊ねられた時に、古峯の二人から教えられた、二人の師に当たるというあの女に会いたい(当時は会いたい、とただそれだけでは決してなかったが)と口にした。
しかし道中、掛川宿に立ち寄った晩の相良とのやりとりを踏まえ、自分は本当に旧国を、あの女に会いたいというただそれだけの為に目指さねばならないのか、を考えるようになっていた。
だから都度、そういった事を思い起こす度に、いくらか言葉が詰まるだけではなく、頭の中もこんがらがってしまう事はあったのだが。あの女はきっと、絶対に弥代が知っていることよりもずっと、今はもういない彼女の事を知っているのは間違いなく、て。
それを、知りたい。彼女がどうして死ななくてはならなかったのかその理由を、本当に死ぬ以外に道はなかったのか、を弥代は知りたいと思ったのだ。なの、に―――
『危ねぇん……だって、』
諦めかけた。
別に、いいじゃないかと弥代はそう思った。
やっと得られた、自分の手を取ってくれる、見捨てずに傍にいてくれる存在を失うのが怖くなってしまった。
同じような事を薄ら自分は彼女に求めていて、でももうこの世にいない、失った彼女の事を知りたいという為だけに、今得られたものを失う可能性を、そうと分かった上で歩み続けるのが怖くなってしまった。
行かずともいい、と。知れなくたって構わない、と。
今この時、この時間が、この三人で過ごす旅路が長く、願うのならずっと続いてほしい、と弥代はそう願ってしまった。
だというの……に。
『……相良、は。弥代が行きたい、と願うのに旧国、へ。旧国……に、行かねばならない、と。それは嘘じゃな、い。だ、だが……、弥代が行きたい、と言わなくとも、相良はずっと前、から……旧国に行きたいと言っていた。
だ……から、弥代の性では、ない。弥代だけじゃな、い。』
『それ…………は、』
『だか――ら、』
手を取られた。
『旧国に行きたいのは相良の意志……だ。』
「ビックリしたよ、本当にあん時はさ。」
まさかそんな言葉が出てくるとは思ってなかったものだから、直前に思わず胸ぐらを掴んでしまった事を含め、弥代は彼の言葉にただただ混乱をした。
が、結局そのどれもが、いつも、の。弥代の事を何よりも常に優先してくれる、気にかけてくれる彼のその言葉と大差のない言葉であると理解出来るなり、意外にもすんなりと受け入れることが出来てしまい。
『じゃぁ……さ、』
挙げ、句―――
『手伝ってよ、相良さんの叶えてあげる、の。』
旧国に行きたいと思うのは、相良の意志だそう、だ。
弥代が行きたくないと思っても、弥代がそれを止めようと言い出しても聞き入れてもらえない、相手にしてもらえないわけだ。そうだと初めから知っていたら弥代はそんな馬鹿な事を口にはしなかった。相良の為を思うのならそんな言葉は、間違っても口になんてしなかった。
(相良……さん、)
嫌われたく、ない。出来ればずっと、一緒にいて欲しい。
手を取って、導いて、間違っていることをしてしまったらキチンと目を見て、正面から向き合って、そうして言葉を掛けてほしい。
期待をしてしまった、から。
居心地の良さを知ってしまった、から。
一度味わってしまったそれを手放さなくてはならないのが惜しい。
相良の目的が、旧国に至り、その後どうしたいかを弥代はまだ知らない。春原の口からもそれは出てきていないことから、彼もきっと知らないのだろうと思う。(春原は弥代に嘘を言わない)
だから、だからこの先、春原も知らないという相良が旧国に行きたいと望むその理由を、せめて春原よりも先に知ることが出来れば、それはちょっと、だけ……
(俺のこと、許してくれたことになったりしないかなぁ……)
宿から拝借したという簡易的な地図を広げて、この先の道のりを、聞いた情報をどうにか組み直して分かりやすいように心掛けて、ゆっくりだが教えてくれる、その声に耳を傾けながら、弥代はそんな事を考える。
字は、相変わらず読めない。
弥代に出来ることは限られている。
世話を焼いてもらうばかりで、自分一人で出来ることなんて本当に少ないけど、でも役に立ちたいと思う。
役に立って、それで未だに相良と自分の間に存在している、やけにくっきりとしたその一線を、これまでは踏み込んではいけないものだと思ってグッと堪え続けていたそれを、踏み越えたいと、欲深く考えてしまう。
そしたら、そうしたらもっと余裕がきっと生まれて、それ、で。それ、から―――、
「――弥代、」
自分を呼ぶ声に反応する。
「楽しいか?」
「……ん、すっごく。」
絶対に離したくない、手放したくない時間がある。
上手くやろう、相良さんが気に入ってくれるように、どうか振る舞おう。
弥代はそう考える。
自分の短所を痛いほど思い知った。良かれと思った行動が逆に相良に迷惑を掛けてしまうことを弥代は知った。だから、今日のような事はもう止めよう、と。相良の意志をどうすれば尊重することが出来るかを弥代はただ、考え。
そうし、て。
「相良さん、ゆっくり出来てるといいね。」
「……湯冷めする前には帰ってくる、だろう。」
「…………ない」
あぁ、どうしてこんな事になるのだろうか、と。
相良は寒空の下、堪えきれず頭を抱えた。




