五十六話 図に乗る
分かった、事がある。
腿裏に回した一本腕で体を支える。
もう片方の腕は膝頭と顎の間に持ってきて、机などないのに器用に頬杖でもつくような格好をしてみせながら、軽く体を前後に揺らしつつ、弥代はそんなことを得意げに考えていた。
『…………相良か?』
『あぇ、……口に出てた俺?』
『違う。』
一瞬、ギュッと窄められる口元は拗ねたヘソを曲げた子どものように映った。けれども少し早足気味に後を追う、「相良を見ていた。」という言葉にすぐさま気を取られ、弥代は口角だけでなくハッキリと、自分の頬が弛むのを感じながら、それを深く噛み締めた。
『相良さんって本当に煩いよな!』
聞こえだけならとんだ悪口になってしまうがそんなつもりなど全くない。
証拠というのは目に見える形がなくては説得力に欠ける、などと言うのは正しく、今しがた弥代と彼・春原の間で二、三度その名が挙がった相良の言葉だ。
残念ながら、当人の耳にこの会話が届いていた場合、そんなつもりはなかったのだと、どれだけ弥代が繕う言葉を並べ立てようとも、それが通じないことは目に見えている。
だから出来るだけ、要らぬ会話まで聞こえる自信があるだなんて胸を張っていた相良に決して届かぬよう、限界ギリギリまで絞ってみせた声量で、弥代は左手で同じように大きな体を縮こまらせている春原にだけ聞こえるぐらいの大きさで言ってやった。
『そう……だな。時折、俺でも煩いと感じる、事はある。』
『訊いてもねぇこといっぱい喋ってさぁ、一度じゃ覚えきれねぇ事ばっか一気に話してくるもんだから困っちまうよなぁ?』
『覚えきれなかったと言えば、機嫌を悪くする。』
『そうそう、それそれ。広いデコしてっからさぁ、分かりやすいんだよなぁ、あの寄った瞬間とか特に。』
『見逃したことはない。』
『やっぱ千方スゲェのな、俺なんか数えられるぐらいだよ。』
分かりやすいってのに見逃しちまうなんて惜しくて嫌ンなるぜ、とでも、鈍い春原でも分かりやすい愚痴を弥代が溢そうものなら、彼は自分を慰めるような言葉を絶対に紡いでくれるという確信が今の弥代にはあった。
だからそうだろうと分かった上で続けることはせず、弥代は彼から視線を逸らし、
『静かな相良さんってやっぱ慣れねぇよなぁ。』
目を呉れるのは、体の正面の、その先。
右手には細々とした、自分にしか勝手の分からない、それ専用の道具になる為に人に立っていられるのは困ると言った前置きがあったからこそ、人が寄り付かぬようになっている。
茶屋に入る入り口の邪魔にはならぬ位置、格子窓と壁を背にし、いつぞやの様に目の前の包丁に意識を集中させて、刃先を丁寧に整えてみせる、その姿を視界に収めた。
『それが悪いとか、そういうんじゃねぇんだけど、さ――』
口数が、やはり多い。
でもその実、本心から言いたい事はずっと少ないんじゃないか、と弥代はそんな事を思う。
普段から言葉の多い相良は多分、言いたい事を言う為に、ずっと長い長い準備をしているよう、な。
『相良さんって、他人だとかそんなに好きじゃないんじゃないのかな?』
誰かと接している、口を開いている時の相良はとても活き活きとしている。相手が圧倒させるぐらいの勢いで喋り倒し、話す隙を相手に碌に与えてやることなく詰め寄り、それで首を縦に振らせるような事だってしてしまう男だ。
そんな男を捕まえて、他人が嫌いだとか、本心は言葉が少ないだとか、そんな、勘違いも甚だしいと一蹴されてしまいそうな言葉を並べてみせるのは、相良とは全く真逆、の
『どう思う、千方?』
表に出てくる言葉が最小限なのに、引き出そうと思えばいくらでも出てきそうな彼を横に据えているからこそ、で。
「弥代は凄いな」と、優しく紡がれる。今は引き出そうという気分にはならないというのに、紡がれた言葉の奥に込められてそうな思いであったりを、弥代は好き勝手思い浮かべながら、やっぱりそうなんだ、と結論付けてみた。
弥代は、この頃が楽しくて仕方がない。
山城国を、西条家を出立して半月。
旅路に関しては相良に一任しているものの、道中で文句の一つ二つなんてのは我慢が出来るものではない。思い返しても日に二、三は漏らしていたものだから、それが半月(否、なにも毎日毎日必ずしも漏らしていた、というわけでは決してないの、だが)ともなると思い返すだけでキリがない。
『では、山陰街道で出雲国へは出られるのでしょうか?』
西条家を出立するその日の朝、朝の内に旅支度を済ませ、出発が夜になるものだから日中に寝ておこうとした弥代に問い掛けてきたのは、当然のように弥代に懐っこかった稲葉隆棋だ。
五街道である、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道はどれも江戸・日本橋を起点としているが、何もこの世に街道と呼ばれるものはそれらだけではなく、それ以外にも多くあるのだと彼は優しく教えてくれた。(そういえば桑名宿と宮宿を繋ぐ、七里の渡しで船に乗るか陸路で進むかの時にも、相良と絹の会話の中に、さやろだか、さや道なる言葉がチラホラと出てきていた気がしなくもないが、弥代はあまり深く覚えていない)
『いえ、山陰街道の方が確かに出雲国へ出られるのであれば比較的平坦ではありますが、私はお勧めは出来ませぬ。』
『はぇ、何で?』
それは確、か―――
「ねぇねぇ相良さん、“すがたなきかみがみ”って、なんなの?」
道沿いの所々に半分以上が埋まっていて退かすにしても手間が掛かってしまうのだろう、荷馬車が速度を出して進むには不便しそうだな、と先の東海道を馬を使っての旅路を思い返しながら。
それの上に乗っては降りてを繰り返し前に進みながら、なんとなしに弥代は気になったものだから、ふとそんな事を相良に訊ねてみた。
「……どこでそれをお聞きになられましたか?」
「んっとねぇ、隆棋が言ってたんだけど――」
『弥代様のように強い“色”をお持ちですと、因幡国を介します山陰街道はごく稀に、姿なき神々に見初められた“色持ち”が神隠しに遭い、二度と帰って来れぬという言い伝えが存在しておりまして……、』
――みたい、な?とあまり自信はなくウロ覚え混じりに弥代は気になるに至ったきっかけを、相良に訊ね返されたものだから素直に述べてみせた。
「……えぇ、そうですか。また稲葉家の嫡男なのですね? そうですか、そう……でしたかッ!」
とても、複雑そうな反応だ。
弥代は思わず今登ったばかりの石の上から降りて、眉間の皺を解そうとしているのか寄せようとしているのかすら分からない手付きでいる相良から慌てて逃げるように、春原の後ろへ隠れた。
「なんか最近の相良さん怒ってばっかじゃね? ンなに短くなかったじゃんかよ、どうしちまったんだよ?」
「自覚がお有りでないッ‼︎」
人目を気にしなくてはならない、目立つような事はしてはいけないとそれはそれはしつこいぐらい道中言われたというのに、日が経つにつれて誰よりも目立つようになっているのは間違いなく相良だ。
怒ってばかり、というのも間違っていない筈だ、と弥代は思う。
だって弥代が知っている相良は、確かに声は大きいし誰よりも張り上げてみせるが、進んで怒りを露わにするような大人ではなかった。
余裕を持って、自分の主張を押し切るのに淡々と言葉を並べて、相手が根負けするまでしつこく粘る。自分が決めたことに対し、譲歩すること考えを端から持ち合わせちゃいない、どちらかといえば弥代があまり、得意としない大人の、信用ならず何を考えているのかが分からない、そういう大人であった。
しかし、いつの頃からか。そんな相良が感情を露わにするようになってきた。日の目を見るのは主に怒っている時ばかりではあるが、怒っているのかも分からない状態で無理をしてほしいわけではないので、弥代としてはとても助かっているのが現状だ。
でもこうして、間違っても自分に怒りの鉾先が向きそうになると弥代は決まって春原の後ろへと隠れるように逃げてみせ。
「別に隆棋、悪い奴じゃねぇのにな。」
ね、千方。と、顔を覗き見ながら弥代は春原に語り掛ける、も。
「…………。」
「……。」
「……誰だ?」
「あ、覚えてねぇのね?」
弥代はそこで一旦、話を区切った。
菊花開、霽月の徒路 三十一話
国境の警備を目的として建てられる事が関所というものは多いそうなのだが、山城国に立ち入る際に世話になった逢坂関から一変。
国境に建てられるというのなら大和国や播磨国だけじゃない、弥代達が半月ほど時間をかけて歩いた出雲街道の道中にあった備前国やら美作国の、その堺にあっても不思議じゃない筈なのに、それらしいものは全くなかった。
挙げ句、久しぶりに相良の口から「そろそろ関所ですよ。」と声を掛けられ、随分お目に掛かるのも久しぶりだな!という気持ちで指し示された方へと弥代が目を向ければ
「ボロボロ……だね。」
一目見れば弥代に限らず誰がどう見たっておんぼろだ。
関所というのは名ばかりで、山城国の逢坂関のように駐在している門番がいる、というわけでもない。
「なんですか、縁遠い行いばかりであった筈でしょう貴女?」
意味が分かりません、と鋭い言葉を浴びせられては出かかった言葉も一気に出てき辛くなってしまうというもの。別に、大して期待をしていたとか、そんなわけじゃない。そんなわけではないんだ。
ただ、出雲街道の始点の姫路からではなく、三日月宿から始まった道中。宿場町はそれなりに多くあった気がするのだが、やはり弥代の髪色が目立ってしまうという、最早聞き慣れすぎた理由で旅籠屋を使えない日が多かった。
此処に至るまで半月程時間が掛かった旅路の中、薄っぺらく硬い床でも雨風の心配をする事なく満足するぐらいまで眠れた日は、三日もなく。
(別に……ちょっとぐらい寛げたりするかな?とか、期待してたわけじゃねぇし。)
どこも同じ待遇を受けられると思っているわけじゃない。でも、逢坂関の時のように、自分に非があるわけでもないのに何らかの理由で、それで関所越えが出来なくって。道中、懐を心配することなく出されたものを享受するだけの、気持ち少し優しくしてもらえたり、なんて事が、
(……だから違ぇし。)
なにも寛げる機会が一度もなかったとか、そんな事はない。宿場町を、旅籠屋を使えない反面、日中は大人しく振る舞うように努めた上で、目立ちすぎないのを条件に街道沿いの茶屋なりに立ち寄り、飯だけでなく茶にあり付く事が出来た。(毎度ではないが相良の機嫌がいい時は甘味を注文してくれる事だってあった)
でも、長居はやはり禁物で。
(ゆっくり出来るんじゃねぇかって、俺がしたかったのはそっちの方だもん。)
始点の姫路から、終点の松江までその距離は凡そ五十里程度。
十を越えると一気に指だけでは手が回らずに難しくなるものだから、どれぐらいの感覚であるか、というのも実のところ弥代はあまり掴めてすらいないのだが、東海道のそれが最初から最後までで百二十うん里。
東海道の全長の半分にも満たない距離を、先の道中以上に時間を掛けて進んだというのは決して急ぎ足ではなかったのだが、まぁ、自分なんかでは到底理解しきれない、きっと大人にしか分からない事情というものがあるのだろうな、と。そこまで至り、考えるのを弥代は止めた。
そうし、て。
先刻、わざわざ手まで叩いてみせ相良が言った通りまでは結局のところ難しかったが、因幡国と隣接している伯耆国の、出雲国の目前に位置する宿場町・米子宿を通過に成功した。
「そういえば、さ――」
やはり山城国ほどしっかりとしているわけではない。
国境にそれらしい柵だったり、やたらめったら高い建物があるわけでもない。ちょっとだけ身なりの整った人が二、三人道の端の方に立って、道行く人を見守っているだけであった。
そんな光景を尻目に、あんな風なことを言ってはいたものの、出雲街道の終点である松江までは目指しはしないのだろう?という旨を弥代は相良に確認しつつ、ついでと言わんばかりに今日の朝の内に訊ねていた、結局答えを聞きそびれてしまった疑問を改めて振ってみることした。
「あのさ、“すがたなきかみがみ”って結局なんなの?」
「……今、聞きますか?」
「んぇ、だって気になるもん。」
「せめて道中でもう一度訊ねてほしかったものです。」
「今の言い方だと俺が悪いみたいに聞こえんだけどさぁ!」
だよなぁ千方!と、すっかり慣れた調子で味方を得ようと、弥代は後ろを振り返り、春原に話しかけようとした。
が、
「いい加減に止しなさい弥代さん。」
顔の前に手が差し出される。
それ以上前のめりに出ることが出来ない、少し喉を逸らすような体勢で弥代は動きを止め、それをしてきた相手の方を見遣った。
「……な、に?」
「目を瞑るにも限度がある、と。それだけの事です。」
言うて、相良は引き下がる姿勢を見せなかった。
「ぇ……えっと」
それなりに人の通りもある場所だ。此処から国の外に出立するもの、偶々道中の者も勿論いれば、逆に外から帰ってきたであろう格好をした者もいる。
各々が自身に纏わることで手一杯。これより暫しの別れになるからか、わざわざ見送りに足を此処まで運んでいるような様子を見せる者もいるのだから、ある意味、下手に声を荒げたりすることなく淡々と、馴染めるぐらいの声量で話す程度であれば目立つことはない。
次に同じような事をしようものならしっかり注意をせねばならない算段でいた相良にとっては、この場でその機会が巡ってきたのは言ってしまえば好都合である。
上半身を前に突き出して、張り上げた声のまま後ろにいた春原相手に距離を詰めようとしていた、それを掌一つ挟みこむことで制してみせ、相良は弥代と目を合わせたまま口を開いた。
「なにかにつけて春原さんを巻き込むのは止しなさい。」
「ま、巻き込んでなんかっ、」
「傍から見れば随分ですよ。」
目を瞑り続けるのが難しくなるぐらいには、と続ければ途端に分かりやすく、弥代は口をひん曲がらせた。
なにも相良は怒っている、わけではない。
弥代のこれまでの、直近の癖になりつつある行動が目に余る、とそれを注意しているだけだ。
「するな、と言っているのではありません。限度があると、そう、私は言っているのです。」
正直、慣れた流れではある。
本来なら榊扇の里を出立したその時から、三人での旅路が当たり前になる筈ではあったのだ。
それがなんの巡り合わせか、弥代と面識がある商人見習いの三ツ江絹の手を借りる形となり、東海道の道中の大半は四人と馬二頭の旅路となり。大津宿からの道のりは短いものであったが、稲葉家の嫡男・稲葉隆棋とも一時を共に過ごすことになった。
里を発ってから早いもので一月以上が経過しようとしているのに、当初から想定されていた三人で過ごした時間は半分にも満たない。
そんなものだから山城国を、西条家を出立した直後から度々見られた、弥代の春原に対するそれらはあまりにも、これまでの二人の距離を知っている、それなりに長く見てきた相良からすれば混乱を招くものであったから、慣れるまで当分時間が掛かるかもしれないと考えていたわけだが。
「たかだか半月。
たったそれだけで見慣れてしまう、それが当たり前になりつつある貴女の春原さんに対するその振る舞いは、あまりにも度を越していると言えるでしょう。
それそのものを“止めろ”と言っているわけでは決してありません。多少なりとも改めていただきたく、こうして私は言葉にしているのです。」
間に割り込むように差し出した手を、その内側を弥代の前へと向ける。
「如何でしょう?」
「……分かったよ。」
若干の間はあったものの、返ってきた言葉は素直なものであった。
「――それで、なにを訊きたいと仰っていましたでしょうか。“姿なき神々”について……で間違いありませんね。」
国境が近い店というものはいくらか大きい造りをしている事が多いような気がする。
暖簾を潜り敷居を跨いだその先、随分と奥行きもある店内は、草履を脱げば簡単に腰を落ち着かせることが出来る小上がりの座敷が右手にあるだけではなく、脚の長い椅子が十個ほど。
他にも手頃に腰掛けることが出来そうな脚が短く、机を囲うよう。しかし全く窮屈そうには見えないように用意されており、ザッと見渡しただけでも脚長の椅子と同じ数だけ客が居合わせていた。
長物の荷を持ち合わせている旨を、弥代や春原に変わり普段通り茶屋の店主に相良が話すことで、倒すことが出来る小上がりの座敷に上がって暫く。
注文を終えて、湯気がくっきり見える茶を前に腹を括り、恐る恐る弥代が舌を伸ばした時にはもう、店の者が抱える盆の上には大ぶりの丼が三つ鎮座していた。
予め客足が増えてもすぐに出せるようにでもしているのだろうか。作り置きの汁なんてものは冷えてしまって、油が浮いているだけのやたらと塩っぱくてあまり弥代は得意ではないというのに、冷たいなんて事なく、出来立てとして出されたのを疑うことなく平らげることが出来そうな、そんな仕上がりだったもの、で。
「そ…………、そう、それッ!」
返しにほんの少しだけ手こずってしまった。
思わず箸を盆の上に戻すことなく、握りしめたまま相良を弥代は指差してしまったものだから、「箸を置きなさい。」の言葉をすんなりと受け入れる。
ついでに、気付いている上で絶対に見逃されたであろう、ついつい癖でやってしまう(だってその方が楽なのだ)立膝を慌てて弥代は寝かせ佇まいを改めてみせた。
「うん、それ。それだよ相良さん俺がずっと気になってたの。
”すがたなきはみばみ”……だっけ?」
「以前から思っていたのですが、貴女あまりにも適当に音で物を覚えすぎではありませんか? “はみばみ”などというものはありません。“姿なき神々”です。」
そういう時ばかり自信に満ち溢れるのはもう抜けきらない癖なのでしょうね、と呆れ混じりの声が届く。
「そうですね、先ほどはあまりにも突然、なんの心の準備をする間もなくいきなり稲葉家の彼の名前に動揺を隠しきれず、ひどく取り乱してしまいましたが……。
遅かれ早かれ、この地・出雲国では”姿なき神々”を耳にされる機会も決して少なくはない事でしょうし、弥代さんに限った話ではなく春原さんもまたこの地は初めてとなるわけですから一度簡単にお教えするのも悪くはな」
「なんでぇお客さん方ぁ、出雲国に来らーだん初めてな御人が居らんかぇ?
えぇ、おとっちゃんやぁ。神様のことぉ知りたい言う坊ちゃんらが店に寄らしゃったよぉ! 手止めたってこっち来てなぁげてやぁ!」
目元に皺を寄る瞬間を、弥代はハッキリと目にした。
――ドンドン、ドンドンドンドン、ドン、と太鼓を打つ音が広い店内に響き渡る。
弥代の目の前にはいつの間にやら、本当に最初は茶屋の給仕の年若い娘と、店の店主と思しき少しばかし老いた男の二人だけだったというのに、店に偶々居合わせていたのだろう、出雲国で生まれ育ったのだろう数人がが太鼓の他にも、大きいものから小さいものまで様々な道具を手に取り、それで思うがままに音を奏で始める事態だ。
さっきやっと教えてくれそうな前置きを並べていた相良なんて、それはそれはもう……なんと、いうか。渋い顔をしている。
分厚めの硝子板越しに、どこを見ているのか分からない目をしている。
話に割り込んで来られた時は一瞬にして一気に寄ったはずの皺が、全くこれぽっちも寄りそうな気配すらなく、遠いなにかにただ目を遣るだけの、そんな目をしている。
それだけ見ればいくらか面白そうに弥代は見えなくもないのだが、前後というか今に至るまでの一部始終を見ていたのでそうも言ってられない。
(あ、アレだよ。……ほら、触らぬ神に祟りなし、って結構有名な言葉がさぁ。)
目の前で“姿なき神々”というものは――なる説明がされる一方、神でもなんでもない一端の人間を、たとえそういう諺だとしても相良に当て嵌めるのは些か。拭いきれない、なんとも言えないなにかが確かにあるのだが、弥代は潔く目を瞑ることとした。多分、これが一番正しい。
そうして、弥代は相良の目が自分へと向いていないのをいいことに、ずっと同じ姿勢でいるのは面倒だと立膝をし、挙句右隣にいる春原にほんの少しだけ凭れかかるような格好を取り、目の前で行われるソレに集中することにした。
「古く、この地・出雲で語り継がれて来た神々の偉業、逸話というものは―――」
耳を、意識を傾けていないとわけではないが、それでも時折すっぽ抜けてしまう、関心を示ないとすり抜けてしまうものが多い。
左隣に座る相良が全くといっていい程に興味を示さない話など尚更だ。でもわざわざ、なんで本当にそうなったのか、その意図だとかを弥代程度では、全てを察すことは難しいだろうが余所者をもてなそう、自分たちの知るものを知らないという相手に知ってもらおうとする真っ直ぐな姿勢は、嫌いにはなれない。
だから拾える範囲で弥代は努力をすることにした。
そんな中、弥代でも知る神の話などというのはやはり限られてはしまうが、そこそこ有名な、大半の者が知っているのではないかと思える“神無月”と言葉が出てきた。
“神無月”は十月の呼び方の一つだ。
一から順番に十二の月が並んだ方が明らかに分かりやすいはずなのに、どういうわけか全部の月には、十月のことを神無月と呼ぶのと同じに、似たような全く違う呼ばれ方が存在している。
「あー、アレでしょ? 神様がなんかどっか行っちゃう、留守にしちゃう月だからってんで、神の居ない月でその、神無月、だっけ。」
「おうおう坊ちゃんは賢いねぇ!
そうそう、この島国に御座す八百万の神々が出雲大社に一同に会すのが他所様で言われちよる神無月で、出雲じゃぁ神様が居られる月なもんだから、神在月っちゅー呼ばれ方をしとるんやでぇ。」
(……やでぇ)
なんだかそれはアレだ。
白髪頭の彼や、討伐屋で一番上背のある彼の言葉尻なんかを弥代は思い出す。絶対に要らぬ事なのだろうが。
「ンッ、…………えっと。
それで、そのやおよろずの神々ってのは?」
「八に百で八百、それに万と書いて万と読む。それで八百万。書いて字の如く、八百万の神々ってのは神様の総称だぁ。」
「神様ってのはなぁ、お天道様から足元に生えてやがる野草の一本一本まで。はたまた家の中の隅々まで、ありと凡ゆるもんに宿るもんだからよ。
それを全部数えるってのも途方もねぇし、神様を数え忘れなんてしちまうような罰当たりな事ぁしちゃあなんねぇかんな、八百万の神々って俺らは呼ばせてもらってる節があんな。」
「ふーん?」
コロコロと人が変わる。
今の今まで道具を手に、変わった音を奏でていた者が変わるがわる口を開き、各々が言いたい事を言い終えたらそれでまた元の動作に戻っていく。
一番最初、店の中に入った時から一緒に居合わせていた、話し込んでいたというわけでもない者同士でも、似たような、根っこはきっと同じなのだろうというのが何となくでも分かる、そんな話し方が続くものだから、この土地の人の大半の中にしっかりと根付いている考えなのやもしれない。
(榊扇の里でいう処の、神仏・水虎はすげぇ、ってのと要するに同じことか?)
だが、弥代の知る神仏・水虎や、はたまた下野国の古峯に暮らし土地神として崇められる神鳴はどちらも見ようと思えば見える存在だ。
元を辿れば、隆棋が話していた事が今になって気になり、いい機会だからとちょっとだけしつこく弥代は相良相手に訊ねただけであり。こんなにも長く引き摺る事になろうとは思ってなかった。
し、良かれと色々と出雲国における神がなんちゃらと話を店に居合わせていた彼らは、あれよこれよと話をしてくれるのだが正直、
(なに言ってんのかさっぱりだわ)
弥代が長年、喋り方に随分と抑揚があるんだなぁ、と感じていたのは、正しくは抑揚などではなく“訛り”、あるいは方言というそうだ。
長く馴染んだ喋り方なのにどういうわけか一人だけ特別変わった話し方をするとかではなく、生まれ育って土地によってそれらは大きく異なるようで、西条家で世話になっている間に絹や隆棋が色々と教えてくれた。
なんなら山城国では、京訛りなる言葉遣いがあるそうなのだが、商家の生まれであったりすると商いで方々に足を運ぶこともあり、変に訛りがあると相手によっては通じないこともあるらしく、耳馴染みがあっても普段から出てしまわないように気を付ける者もいるのだとか。
教えてもらった時はイマイチ、それがどういう意味なのかが弥代には理解出来なかったが、今置かれている状況が状況なだけに、やっとその意味を理解する。
(わっかんねぇんだよなぁ、申し訳ねぇ事にさぁ……)
伝えようという優しさ、だろうか。そういったものは少なからずしっかりと伝わってくるのだが、残念ながら話の合間合間に聞き馴染みのない言葉だったりが挟まる度にそっちが気になって、なんだか重要そうな部分を聞き逃しまくっているような状況がずっと続いている。
自分だけではないはずだ、と信じてちらり右隣の春原に小声で弥代は話し掛けた。
「分かる、千方?」
「…………分からない。」「そっかぁ、やっぱ分かんねぇよなぁ?」
相変わらず言葉が出てくるまでに間があるものの、それでもちゃんと返事をくれるものだから弥代はとても助かった気持ちになる。
話が長引きそうだと思った頃にはすっかり足も崩し終えているから、ずっと同じ体勢で足が痺れてしまったり、運悪く攣ってしまったり、なんてことはない。普段ならそれをありがたいと思うのだが、そうならない日が訪れようとは思ってもみなかった。
「……ねぇ、相良さん。」
コソリ、春原に話し掛けたよりも気持ち大きめの声を出して、しかし目の前の彼らが話すのに夢中になってる頃合いを見計らいつつ、
「俺らに、ちょっと任せてよ?」
そんな言葉を口にした。




