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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
中篇・菊花開、霽月の徒路(全50話)
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五十五話 愉快

「――(つぐ)嗣定(つぐさだ)。」

 ごめんねぇ、と続く。

 聞き慣れた(おと)が彼女より(つむ)がれるのをもってし、やはり今回も、九条(くじょう)嗣定は自身の手を添えてやることしか出来ない、己の弱さにあまりにも途方のない苛立ちを抱えつつ、それでも彼女の望むが(まま)に触れ合うこととした。



 幾夜(いくよ)、こんな関係を続けねばならぬのか、と。そんな事を考えるのを、()うの昔に嗣定は放棄した。

 自分のような、上の者らだけで得られるものは取り尽くしてしまった、残りものとすら呼べるものも何もありはしない、生家(せいか)以外に(たい)して誇れるものもありはしない。

 よくて自分の意見など目を向けられることもないまま、家の道具として使いまわされる、そうしてどうにか生かしてもらえる程度にしか思ってはいなかったものだから期待――など。

 そんなものは(よわい)六つを迎える頃には総じて諦めを覚えていたものだから(母の温もりを求めて泣き喚こうとも、腹を痛めて生んだ幼子のそれさえも一度たりとも()られぬ(まま)、泣き()むまで誰一人と手を差し伸べてはくれぬ世だ)、覚えるまでもなく(はじ)めから()りはしないものと受け止めるのがとても心が軽く()れた。そのような答えを幼くして導き出してしまったものだから当然の(ごと)く、嗣定という子どもには(した)しく(せっ)することが出来る、歳の近い子などというものは()らず。

 それで良い、と。それで構わないのだ、と。誰になにも寄せることなく、自分はただこの生が続く限り、与えられたことだけをただ(こな)すだけで十分であった筈、なのに――

『それでは、これからどうぞよろしくお願いしますね嗣定(つぐさだ)。』

 ()らぬものを、彼は知ってしまった。






 (つい)えた夢を知っている。

 母となる道を、(すべ)を奪われた彼女を慰める為、他に使い道のないそれを彼はただ捧げているに過ぎない。

 西側に建てられた、母屋(おもや)から遠く離れた部屋には陽が差し込むのが遅く、どうしても時間が掛かる。

 窓を開けようかを迷うも、()うに(こよみ)は物静かなものへと移り変わったあとだ。朝方の、陽も満足に差し込まぬ場所の外気などというものはさぞ身を突き刺すことだろう。

 昨晩、(ねや)をともにした、今も隣で寝入る彼女の穏やかな顔が視界に収れば、(はな)からあったわけではない気はすっかりと()りを(ひそ)めてみせた。

 彼女が起きてしまわぬよう物音一つ立てることなく、嗣定は寝台より体を起こす。足裏がひんやりとした床に触れる頃には、枕横に置いている括り紐を手に取り、そうして慣れた手付きで、彼女の代わりに伸ばす後ろ髪を軽く()わう。慣れて、しまいたくなかった事、だ。

 五十を目前に(ひか)(いま)だに前に進みきることなく、こんな風に夜を明かすことしか出来ない、二十年以上の歳月が経つというのに色濃く残り続けている傷を(ふさ)いでやることすら出来ずにいる。

 陰鬱とした気持ちに襲われるのは今に始まったことではない。ただ今日は、今日この時は特にその()がどうにも強く。(くつが)えりようのない、言い(のが)れのしようがない目に見える物ばかりが散りばめられている、あの頃と然程変わり映えのない部屋の中。

 いっそ、陽が部屋にまだ差し込まぬ時間であるのならもう一度ぐらい目を瞑ることも許されはするのではないだろうか、と。(みずか)らが彼女に触れていい筈がなく、あくまで布越しに(とど)め。布団を掛け直した(のち)、深く(まぶた)を落とした。



「おはよぅございますぅ、(つぐ)兄様ァ!」

 足袋(たび)を履いていないのだろう、わざわざ目も向けずとも耳障りな音を派手に立てながら背後から此方(こちら)へと近付いてくる存在に、嗣定は平生(へいぜい)(よそお)うのに(つと)めた(のち)、後ろへと体を向けた。

「おはようございます、重真(かざね)殿。」

 最低限の返しだ。それ以上自分から言葉を紡ぐ気を、特にこの男に対しては、嗣定は一切持ち合わせていない。

「えぇ……、えぇ、ご機嫌よろしゅうというヤツにございます嗣兄様。

 この頃は特に……、まるで何時(いつ)ぞやの(すず)姉様のように御姿をあまりお見掛けしないものでございましたから、一体何方(どちら)に行かれてしまったものかと、(わたくし)とても心配をしていたのでございますよぉ?」

 目と鼻の先。腕を一つ正面へと伸ばせば男の胸倉など容易に嗣定には(つか)めてしまう。

 一生届かぬ位置に餌をぶら下げ、それを必死になり求める家畜の(さま)に手を叩き喜んでみせていた悪童(あくどう)の頃と同じ。二十年以上()つというのに変わらない、変わらぬ本質(やり口)を前に、そうと分かった上での振る舞いに一々(じょう)じてやる――(きょう)じることで嗣定が得られるものなど何一つありはしない。

「気を(わずら)わせてしまい申し訳ございません重真殿。

 先の秋口より度々(たびたび)(おうぎ)の動向を気にせねばならなかった為、少々慌ただしい日々が続いており。」

「ええ? そんなの嗣兄様が気にされる事じゃ無くないですかァ?

 (アレ)は物好きで働きもしない、(ろく)な成果も挙げられない無能な義兄上(あにうえ)に一任してる事なんだからぁ、嗣兄様がわざわざ首を突っ込まれる必要なんてどこにもありはしませんでしょうに?」

 詰めようのない距離を詰められれば、良しとした覚えなどありはしないというのに、纏わりついてくる。

 挙句、それほど(ひら)きがあるわけではないというのに、目線よりも若干下に見える旋毛(つむじ)はどこまでも(わざ)とらしく。他人を見下す態度を(しめ)しておきながら、下から()め付ける彼の癖に他ならない。

 叶うのならば今すぐにでも纏わりつく腕を振り払い、一刻も早くこの場から立ち去り、視界にその姿を収めることもなく、関わったこの時の記憶さえも忘れさって何事もなかったかのように振る舞いたいものだ。

 が、それがそう簡単に叶わぬことを嗣定は嫌というほど知っている。

 先ほど彼自身の発言で触れた義兄(ぎけい)の藤原秋滿(あきみつ)や、今朝方部屋の前で別れて以降まだ顔を見ていない近衛(このえ)五鈴(いすず)とは歳の頃が近かったというだけの理由で幼い頃からの付き合いとなる。

 三人の狭い輪の中に、彼・藤原重真(かざね)が割り込んでくるようになったのはかれこれ三十年ほど前の事。

 数えで三十七になる男の三十年ほど前などというのは、まだ年端もいかぬ年齢であったが、十以上歳の離れた自分らが手を焼かされるばかりの悪童で。

 特に、嗣定を怒らせる事が多かった。

『フハハッ、だって秋滿兄様も鈴姉様も(しか)るの下手くそなんですもの。腹の底から怒ってないのがバレバレ、あんなのは叱った内になんか入りはしませんよ嗣兄様。

 僕はですねぇ、生温いのは昔っから好みじゃないんですよぉ?』

 あの人じゃぁ話が違ってきますけどねぇ、などと添えられる言葉は口癖に近い。嗣定の逆鱗に触れ、悪事(あくじ)ばかりを働き言うことを全く聞かずに面倒事を巻き起こす。

 やれ、手が滑って姉様の髪を切ってしまっただの。

 やれ、転がっているのにさえ気付けなかったから秋滿兄様の化粧筆を踏みつけ折ってしまっただの。

 やれ、嗣兄様が大事にしていた姉様から貰ったという括り紐を、(あやま)って焚き火に放り投げてしまっただの。

 他者に強く当たる経験の少ない二人に代わり、三人の中で歳だけでなく上背(うわぜ)のあった嗣定が彼を叱ることは多く。時に、踏み越えられたくない一線を踏み越えるのみならず、好き勝手に踏み荒らすような真似をされた際にはひどく、(おのれ)(うち)で抑えきれなかったものが一斉(いっせい)に吹き出してしま、い。

「全く、嗣兄様もつまらない大人になられたものですねぇ?

 昔のように馬乗りにでもなって、殴ってくださたって俺は(、、)構いませんのにぃ。」

 自分で立つことを止めた、縋り付くことでどうにか立っているのがやっとな寄りかかる姿勢のまま。

 嫌悪以上のものを(いだ)くのはあまりにも相手の掌の上だ。

 そうだと分かっているからこそ、何を言われようとも嗣定は平生(へいぜい)を崩さぬよう(つと)めてみせた。この場から早々に、一刻も早く立ち去りこの様な関わりはなかったと、そう振る舞いたくとも、此方が先に折れてみせる行為は結局のところ彼を喜ばせる結果へと繋がってしまうことが分かっているから、だからこそ嗣定、は――

「あのねぇ、嗣兄様――」











 見上げた空は、どことなく他の季節に見るそれよりもとても澄んでいるように見えるものなのだ、と。

 それがどうしてそんな(ふう)に見えるのかまでを弥代(やしろ)は当然の事ながら知らないのだが、そんな話を教えてくれたのは桜が散り()えてしまった頃に亡くなったと聞かされた、同じ長屋(ながや)に暮らしていたしがない物書きの彼であった。

 扇堂家の屋敷の門番を若くして任されるようになった吉田の長男と歳が同じで、似ても似つかない性格をしているように弥代には見えていたが、どういうわけか仲が良く。

 (した)しかった物書きの彼が亡くなってしまった事を、それなりに門番の彼は引き摺っているような様子を見せていたものだが、今になってふと思い返してみると、弥代は彼がどのように亡くなってしまったのかを知らない。

 それほど深い関わりがあったわけではないし、ただ同じ長屋横丁で暮らしていたというだけ、顔を合わせることがあれば(たが)いに名前は知っているから名を呼び合って挨拶を()わす。言ってしまえばそれだけの、その程度の関わりしかなかったのだが、でも、なんて此処にきて思い出すのは、まるで春の終わりに亡くなってしまった彼を結果だけ見れば追うかのような形で先々月の暮れに、亡くなってしまった彼女の事、だ。

 冬の(かん)、雪解けの時節(じせつ)までと世話になった古峯(ふるみね)()って半月足らずで榊扇へと帰ってきた弥代は、自分の暮らす長屋の部屋に戻ってくるなり早々、部屋の中に半裸状態の男が寝転がっていた事に驚きを隠せず、夜遅い時間帯であったというのにお構いなしに声を張り上げ、悪びれる様子も見せずに引っ付いてくる彼女を払いのけようと躍起になりながら夜の里を歩むこととなったのだが、

『やぁ、弥代君じゃない、か……。あぁ、君だったんだね。てっきり……、いや、人の気配があったものだからてっきり彼女かと思、って。その、突然ごめん……ね。』

 翌日の事、だ。

 弥代が榊扇の里に帰ってきたその翌日、彼が弥代の部屋を訪ねてきたのだ。弥代ではなく彼女――詩良(しら)に用事があって。

 詩良に会いに来たという物書きの彼・石蕗(つわぶき)(みのる)は、なにやら随分と手の込んだ、(むら)一つない丁寧な造りの櫛を抜き身のまま大切そうに握り締めており。

『これを、渡しておいてくれない、かなぁ?』

 今にして思えば、それ、は―――



「ねぇねぇ相良(さがら)さん、変なこと()いてもいい?」

「この頃、貴女が私に(たず)ねることなど大抵は変なことでしょうが。訊ねるなと言ったところでしつこく訊いてくる分際だというのに、建前だけはしっかり身に付けられたものですね、感心(かんしん)せざるを得ないです。」

「ね、ね、聴いてた千方(ちかた)? しっかり身に付けられて、だって! 俺ってやっぱ地頭はそこそこ良いんじゃねぇかなぁ? だって日だってそんなに経っちゃいねぇのに、しっかり(、、、、)、だってよぉ!」

「……そうか、それは良かったな。」

「ンフフッ、良かった良かった!」「なにも良くありませんし、本題は何処(いずこ)へ?」

 行ったり来たりの歩幅は憎たらしいぐらい(かろ)やかなものだ。

 目立つ“色”を隠す為の頭布は、三日前に()()を使い髪を黒く染め直したばかりであるから被る必要などこれぽっちもないというのに、頭に(かぶ)るというの感覚を気に入ったのか、浅く被ってみせ足取りと同じ感覚で愉快に揺らす。

 訊きたいことがあるからと一時(いっとき)並んだと思った姿は、此方が皮肉を込めた言葉を送った時にはもう、数歩後ろの彼の真隣に並んでおり。器用にも並ぶ彼に対し形だけ耳打ちに似た事をしてみせ、(しま)いには子供らしく口元を引き伸ばす無邪気な笑みを浮かべてみせた。

 此方に訊きたい事があったと口火を切って直ぐの事だ。口を挟む資格が自分にはあるはずだ、と強めに相良が割り込めば、この頃はすっかり穏やかになりつつある目付きはそのままに、驚きに目が丸くなる。

「ちっ、違ぇんだよ相良さんっ‼︎

 こ……これはそのっ、千方が話し掛けてほしそうにしてたからでッ‼︎」

「嘘をおっしゃい。

 いつ春原(すのはら)さんがその様な事を口にされましたか?」

「だから話し掛けてほしそうに、は別に口にしてなくたって、言われなくても分かるもんなんだよっ!」

「なんですかそれは? では貴女は春原さんが喋らずとも何を考えているのかが分かるというのですか。嘘に嘘を重ねるだなんて見苦しいですよ、早いところ()めなさい。」

 眉間に皺を寄せる。

 自分よりも頭一つ小さい背丈の子供が、そんな簡単に引き下がって溜まるか、と精一杯の険しい表情を浮かべたみせたところで痛くも(かゆ)くもない。

 随分とまぁ、とその有り様の変化を改めて目の当たりにし、先程弥代に直接()びせた、皮肉とは真逆の、純粋にその変わり様に感心を抱かずにはいられない。

 実に、子供らしい。

 見た目相応なそれは、いつぞや相良がそれぐらいだろうと想定してみせた年頃の振る舞いの(まさ)しくそれだ。

 こうまで見事に当たる、とは思っていなかったものだから、徐々に幼い態度を見せてくるようになる弥代に、当然ながら始めの頃はとても困惑したものだが、それもこの頃は次第に慣れつつあった。

 (いや)、慣れもするというもの。

 既に山城国(やましろのくに)を、西条(さいじょう)()を出立してから半月が()とうとしている。

 半月というと、榊扇の里を()ってから山城国に至るまでの時間と然程変わらないのだが、距離を見ればその差は一目瞭然。五街道(ごかいどう)の一つ、東海道(とうかいどう)の江戸・日本橋から京・三条大橋(さんじょうおおはし)が百二十六()程。榊扇の西門付近、酒匂(さかわ)(がわ)より山城国までの距離が(おおよ)そ百里程として。

 しかし今の相良達には先の、榊扇から山城国に(いた)るまで道中四六時中世話になっていた足が――そう、馬がいなかったのだ。

 正直な話、長い徒歩旅に慣れている顔触れではない。

 武蔵国(むさしのくに)において討伐屋の看板を掲げていた頃でも、どれだけ討伐依頼を受けたとしても、徒歩で三日を限界としていた。それも休み休み、移動には人通りの多い街道(かいどう)を選び、最寄りの宿場町まで進んだ(のち)に足を運ぶ事が大半であった。

 武蔵国に居着く、薬師(やくし)の加護を受ける以前は途方もない、一箇所に長く留まるということはせず、方々を春原と二人で渡り歩いたものだが、その旅路もそこまで長いあいだ歩き通しになるということは、なく。

(感覚が掴めぬ、というのは(たん)なる甘え、でしょうね。)

 弥代の変化と、経過した日数を胸の内で照らし合わせながら、相良は一息を()く。

 そうして手を叩く。

「――では(らち)が飽きませんので一旦この話はここで御開きにいたしましょう。

 えぇ、間もなくこの出雲街道も終着点、先日の旅路で言うところの京の三条大橋に当たる場所が、どれだけ遅くとも今日中には辿り着けるというもの。

 いつまでも気を緩めているおつもりですか弥代さん、さぁしっかりお立ちになりなさい、そんな調子でいつまでも居られては春原さんが困らせるだけですよ。」

 えぇーっ‼︎なんて、分かりやすい抗議の声が上がる。

「せめてっ、せめて訊きたかった事だけでも教えてくれよ相良さーんっ!」

「とっととそれだけ訊こうとしなかった貴女に非があるというのになんですかその態度のデカさは?」

 時節はすっかり秋の色に染まりきっている。

 春には(さか)んに飛び()っていた蝶も、目を凝らそうものなら徐々に羽が傷ついているように映る頃。そういえば五節供(ごせっく)を締めくくる重陽(ちょうよう)節句(せっく)にあたる九月九日も疾うに過ぎている。長寿を(もたら)すとされる菊の花の彩りが強く、飾られることが多い時節ではあるが、ふとそれとは別に、

菊花開(きくのはなひらく)、というそうで……)

 重陽の節句がやはり大きいのだろうか。

 この頃が特に見頃でもある菊を指しているのは間違いないことだろう。七十二(しちじゅうに)(こう)などと大層な名で古くよりこの島国の風土(ふうど)(なぞら)えられ呼び(した)しまれるようになったそれへと目を向ける。

 雲一つない秋晴れが、空いっぱいに広がっていた。 






 菊花開(きくのはなひらく)霽月(せいげつ)徒路(かちじ) 三十話 

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