五十四話 不干渉
「あぁ、気の所為などではありませんでした。
まさか……、まさかこの地に私以外の方が足を運ばれていようとは思いもしませんでしたわ。」
出会い頭に流暢に口を開いてみせる相手など、大抵は碌でもない者が殆んどだ。
予め言葉を用意し、偶然を装うかのように距離を縮め近づき、割り込む隙を窺う。それらを企ててみせる相手がまともである筈がない。
何も、自分達の目の前に姿を現した初対面の女を、出会って早々にそうである、と決めつけているわけではない。ただ、自分がそうであるからこそ、初対面の、腹積もりの分からぬ相手などは特に、注意を怠ってはならぬ、と。
この場において誰よりも自分が大人であり、春原と弥代を導く為に前に出て、少しでも早く場を把握せねばならない。
それこそがこの旅路における、相良の役割というものだ。
「それは私どもも同じで御座います。
此処に辿りつくまで、道中で人とすれ違う事はなかったものですから、まさかこの様な場所で人と出会い、剰え相手の方から声を掛けらるなど、思ってもみませんでした。」
声の高さからして男ではなさそうだ。
深く笠を被っているものだから表情が簡単に窺えそうにないものの、声色から落ち着きが見て取れる。妙齢のうら若き女性……、という事もないだろう。
ただ装いにだけ目を向けるのなら、禅宗の僧が旅をする際に袖を通すとされる、雲水と呼ばれる類によく似ている。
となれば被っている笠も竹を削り作られている網代笠に、黒衣も質がいいことだろう。袈裟文庫は持ち合わせいないようだが、首からぶら下がる頭陀袋がやはり独特であり、尼の類ではないか、と相良は憶測を立てる。
禅宗の尼など、別に大して珍しい存在ではない。
山城国を始めとした畿内一帯など、それらが紡いできた歴史は途方もなく長く。自分たちが今居合わせているこの播磨国にも禅宗の寺院が数多く存在していた筈である。
姿が必ずしもあるわけではない、神への信仰が根強いこの島国おいては、島国発祥とされる浄土真宗の方がやはり広く浸透しているが、神という存在そのものが薄れつつある(榊扇の里や、山城国は除き)時代においては、神頼りではない、西方より海を渡り伝わったとされている禅宗の方が深く知れ渡っていることだろう。世の流れというものはいつ何ときも変わりゆくものだ。
「えぇ、そうでしょう。
このような辺鄙な山奥に好き好んで足を運ばれる方などおりませぬ。
もし、仮にいたとしてそれは、この地に明るくない他所の旅の御人ばかりでしょう。」
抜き身の、何も纏わぬ手が笠の縁が微かに持ち上がる。
「この地は血に染まりすぎております故、皆様は速やかに立ち去られることを私は奨めます。」
日の目に晒された女の目元は、ひどく爛れていた。
菊花開、霽月の徒路 二十九話
生まれは花街になります。
誤って客の子種で孕んでしまうなど、腹の内で十月十日、赤児を気遣うというのは、客を取ることでしか満足に飯を食うことが叶わない弱き身としてはあってはならぬ事です。
幼くして両親に売り飛ばされた身でありながら、私の母はそういった、あってはならぬ事に手を染め、私を産み落としてみせたのです。
『お前の母親はね、人を欺くのが上手いもんで本当に手を焼かされたものだよ。』
老体であるというのに煙を吹かすのを一向に止める兆しを見せない女郎の遣手婆は日々、幼い私が店の手伝いに忙しなく駆けずり回っていると、話し相手を称して甘い飴を無理やり食わせながらそんな愚痴を延々と流しておりました。
肥立ちが悪く、満足に産んだ赤児をその腕で抱けもせずに、血の繋がった家族を得ることにひどく飢えていた母が亡くなったことを誰よりも恨んでいたのでしょう。
他の禿には秘密だよ、と言って握らされた銭の、薄汚さといったら、百緡に差すにしても他の銭まで汚されてしまっては困りものであるから、と。軽く拭えでもすればそれで汚れなどは取ることが叶うはずであるのに、それさえもせずに押し付けるように、この世で最も恨んでいる女の娘に押し付けてくるのですから、余程母のことが嫌っていたのでしょう。大変難儀な人でした。
『お前さんはウチの店で貰ってやる事になったんでな、恨まねぇでくれよ?』
十を迎えた歳に、遣手婆は亡くなりました。死ぬ間際まで亡き夫の形見だという、どこからどう見てもそこいらの出店で安値で買えそうな、ボロボロの煙管で煙を吹かしていた、店の者がもう吸うのは止した方がいいと、良かれと思って声を掛けていたというのに、それらに冷水を引っ掛けて喚き散らかしといった具合を示していた程ですから自業自得しか言いようがありません。
店を買い取ったのは通りの向かいに別の店を構える楼主でした。
この手の店の主人というものは女の稼ぎで飯を食うような、人の人生で上手い飯が食える立場にあるというのに、何故か矢鱈と先立たれた伴侶が忘れられず、といった事が不思議と多いようで。
十になるまで世話を焼いてくれた遣手婆もまたそうであったという事を思い返しながらも、明日明後日だけではなくその先もずっと生きていたい一心が強く、私は楼主の情の深さを知っていながらも、それに取り入る術を幼くして画作してみせました。
意外、と思われますでしょうか。いえ、意外などという事はございませぬ。遊女というのは何も客を取り寝るばかりではなく、客をどれほど愉しませることが出来るか、教養を身につけておらねば成り立たぬものなのです。美貌のみでは飯にあり付けるものは限られてますので。
生まれながらにして遊郭で育った立場を、客を取るとなればどのように取るのか、店の値の張る姉らがどのように客を籠絡させ、金を貢がせてみせるのかを四六時中間近で学んだ身であったものですから、いくら操を立てていようとも傾かせるのは容易いことでした。手応えがないと少々残念に思った程でございます。
『本当にいいのかいおいらなんかが最初の客で……、』
楼主の寵愛を受けようとも、店にいる限りは客を取らねばなりません。それは仕様のない事。このような狭き世界に生まれ落ちてしまったのですから、いつかがただ訪れただけだと、覚悟は疾うの昔に出来ておりました。
出来て、いたのです。
『ごっ、ごめんなぁ。痛いんだろう、こういうのはさぁ?』
初めての客は、楼主に選んでいただきました。
楼主は幼き私に手を出さない、大変意気地のない、それでよくその肩書きを名乗れるな、というあまりにも情けない男でした。
自由にしてやれなくてごめんな、と高値の付く櫛を、私が無くしたと溢す度に新しいものを用意し、まるで飼い猫の毛繕いでもするかのように私の髪を梳くのです。
そんな事を望んでいるのではない、と私は常々憤りを抱え続けずにはいられませんでした。
そんな楼主が選んだ初めの客は、言ってしまえば案の定とでも言いますか、女を買うのが初めてだけではなく、女を抱くというのも初めての、楼主のそれが可愛く見えてしまうぐらいに意気地のない、男であることそのものを思わず疑いそうになってしまうぐらい、どうしようも、なく……。
『どうなんだい、最近の彼とは?』
次第にそれを嫌気を差すようになりました。手を出してくるわけでもなくただ傍にいる事を、最初の客以外と過ごさずに済むように、と彼が店に顔を見せに訪れる時間意外はろくに部屋から出ることも許されなくなり、どうなのか?問われた処でろくな言葉が出てくることもなく。
良いのではないか、と返せばそれで満足げに頬を緩ませるその顔が、私は心底嫌いでございました。
『でぇじょうぶだ、お春。
お前さんはおいらがぜってぇに幸せにしたる。なんにも気にしるこたぁ無ぇからなぁ。』
消し忘れた火が回ったのではないか、と火消しの連中が口々に話しているのを尻目に。
肝が小さいくせして随分と恵まれた体を持て余している彼が、力の加減を忘れて骨が軋んでいるのかと錯覚をしそうになるほど強い力を込めて抱きしめるもので、私は夢でも見ているのかという感覚に溺れました。
火を消し忘れなどありはしない。何故なら楼主は自分で煙を焚くのを好んではありませんでした。
目の付く場所で店の女達が洒落込んで嗜んでいれば、それに目くじらを立てて割り込み、火を消すようにと声を荒げるような人でしたので。
では――――きっと、火鉢が倒れでもしてしまったのでしょうね。
主人は煙草を好いていたとは思われたくなく、私は火消し達に向かってそんな言葉を掛けてやりました。
『見て、旦那様が気に入って連れ帰ってきたんですってよ、あの不気味な目をした女。』
髪を持ち上げ、髷を差すのに髪の手入れを怠ったことはなかったものですから、私の中でも髪は唯一誰かに誇れるものでございました。
ただそれも、客の前に出るための身支度でしかなく。
楼主が選んだ彼以外の客を取ることもなかったもので、見せる相手も彼以外には居らず。ただ髪の長い、目を覆い隠すほどの不気味な女にでも映ったのでしょうか。
店の女連中は、結局のところは助け合いがなくてはなりたたぬものです。横の繋がりや、誰がどの客の相手が実のところは苦手であるかなど、そういうのを知っていた方が立ち回りというものは、それを処世術とし、上手くこなせばなりませぬ。
それが何処かこの世の当たり前であると思っていた、そうであることが当たり前の世界で生きてきたものでしたから、外で生まれ育った者が自ら軽率に軋轢を生むような言葉を口にするとは俄かには信じ難く。
気に入られよう、という腹積もりがあったわけではんく、単に面倒ごとを増やさぬように、火種になりうるものは小さい内に水を掛けて決してしまおうと出方を窺うようになりました。
しかし、彼によって迎え入れられた屋敷の中、時間が経つにつれて私の居場所というものは大変狭まっていき。挙句、二度と辛い思いはさせないから、などと手を取り目を見て言われ、広い屋敷ではありましたが外に出られぬ生活を送ることになりました。
それならまだ、まだ店にいた方が多くを知れたものだ、と。思わずにはいられないぐらい窮屈で、大変息のし辛い、そんな日々を私はあの屋敷で送ることとなったのです。
この地より速やかに立ち去ることを奨めます、などと言ってのけた女であったというのに、それが突然、弥代が発した、「今日も結局野宿なの?」という発言を気に様子が一変した。
出家をし、剃髪をし法衣に身を包み女であることを、俗世と一線を画し尼へとなった身であるというのに、まるで子を憂う母のような反応を示したのだ。
姿を見せ暫く、一定の距離を保っていた足が急に動く。その足が幼い声を漏らした方へと進む。相良はそれを止めようとしたが、目元が激しく爛れた、恐らくは目が見えておらぬ相手だ。割って入らずとも、距離感を掴めぬままその足取りは止まるだろうと高を括った。
だが女は、あろうことか春原の羽織を掴み、体の半分を彼の背中へと隠している弥代の目の前で静かに膝を折り、それだけでなく弥代の空いた方の手を取り、表情を和らげてみせた。
『飴はお好きかしら?』
飴などというものは酒造りが主体の酒屋から生まれる副産物であることが多い。
四六時中持ち歩いているのだろうか?とそんな事をついつい考えてしまった相良を他所に、腰からぶら下げる小さな巾着の口を緩め、中から不格好な形をした、鼈甲の塊を取りだし、女はそれを弥代に与えてみせた。
『泊まれる場所をお探しなのでしたら、私がいつも使っている家を案内いたしましょう。
もし良ければの話、ですが。』
得体の知れぬ相手だ。その誘いを受ける理由を、生憎と相良のみであれば相良は持ち合わせていなかった。しかし状況はそうではなかった。
『…………相良、』
それまで口を開くことなく、静かにただ弥代に羽織の裾を掴まれ大人しくしていた春原が、なんのきっかけもなく口を開いた。そして、
『悪い者ではない。』
そう、断言したのだ。
そう……だ、女が姿を見せたその時から、春原は決して女を警戒する姿勢を見せなかった。そして恐らくは、相良が枝木を掻き分けれて近付いてくるよりも前からその存在に春原は気付いており。分かっていた上で相良を呼ぶでもなく静観をしていた事になる。
挙句、自分の後ろにいる弥代に対し距離を詰めても、自らの巾着から出したものを弥代に手渡し、それを弥代がなんの疑いもなく自然と口の中に運んでみせるのすら、春原は止める素振り一つ見せず黙していた事となる。
そうして、相良は渋々ながらも女の誘いに乗ることとしたの、だが――
「お恥ずかしい話、俗世からは一線を画した身であるものの、やはり思いいれというものが強いのか。
自身を律せねばならぬと頭では分かっているのですが、どうにも子どもを前にしますと未練が疼いてしまい、こうして世話を焼いてあげたくなってしまうものです。」
それはもう、言葉通り、何から何まで、だ。
目が見えぬのだと言っていた割に、勝手はよく理解しているものだからと言い残し家の中で寛いでいるように言われ半刻ほど、体の疲れを取るのに座り込んでいれば、どこから用意したのか簡単な湯の支度が出来たなどと声を掛けてきた。
寒くないかい、熱い内に早くお入りなさい、などと言って、弥代を急かし、湯気の立つ風呂桶の中に服を脱がすのを手伝った後、実に手際よく沈めてみせた。
弥代が関わることで春原が特別動こうとしない、それを止めようとしないのなら弥代に害はないのだろう、と。相良は先のやりとりもあったものだから勿論それらも止めたりという事はしなかったのだが、弥代が湯から出たこともとんとん拍子に、いつの間に用意をしたのだろう?と思わずにはいられない調子で事は進んでいき。
「子どもがお好きだというのはよく分かりました。態々言わずとも見ていれば分かりますとも。」
「せめてお父君からお許しを貰っておくべきだしたね、申し訳ございませんお父君。」
生まれてこの方、身に覚えのない話だ。
何故今日初めて出会った、まったく知らぬ事だらけの相手から誤りしかない言葉を受け取らねばならないのかが相良には分からず、相手が目の見えていない事をいいことに、口角が引き攣るのを隠せなかった。
「……まぁ、冗談はさておき。」
(冗談でいま片しましたかこの人?)
膝元ですっかり身を委ね、髪を優しく梳かれる感覚に微睡んでみせる弥代を見下ろしながら、声を漏らす女は室内という事もあり笠は被っていない。笠の下は案の定剃られており、先の彼女自身の発言と当初の相良の見立て通り、そういった世界に身を置いている立場の者であることが分かった。
信仰によって神や人ならざる存在が生きる同じ世で生きる存在でありながら、異なる、独立した規律の中で自らが悟りに至る修行を重ねる立場にいる存在だ。住む世界がまるで違う。
そんな立場に在る者が、宛ら母のような振る舞いを子どもの身である弥代に、施しを与えるというのはとても、いや、かなり妙である。
「ふふ、嘘であっても構いません。
私はこの子がいる限り、あなた方に危害を加えようなどと、物騒な考えを持ち合わせることは出来ませぬ故。」
「それは、弥代さんが居なければ私共二人程度でしたらどうとでも出来ると、その様に捉えられる発言に聞こえますが、私は一体どのように受け取るのが正しいのでしょう。参考までにお聞かせ願いたいものですね。」
「刀をお持ちの男を二人相手になど、私のような非力な僧がどのようにすればお相手出来る考えに至れるのでしょうか? 私の方こそお聞かせいただきたいものです。」
それは埒の明かぬ返しだ。
相良の発言を受けて、それに対し動揺の欠片すら見せない、纏う【気】そのものに激しい波が見られるというわけでもない。
この場において非常に安定しきっている相手の様子に、相手は目が使い物にならいというのが分かっていながらも、相良は妙な焦りを覚える、が。
「……もぅ、掻いてくれんの終わり、なの?」
「あらあら、どこを掻いてほしいんだい。教えてくれないと分からないまんまで困ってしまうねぇ?」
嘘ではない。
今は外の湯桶に春原が浸かっているものだから、室内には相良と弥代に女の組み合わせだが、今の状況で女が嘘を口にするその理由が、一々嘘を言わねばならない理由が相良には検討もつかない。
否、子どもが好きだと見ればわかるものを態々口にまでする。弥代を子どもだと疑うことなく接し、警戒心を全て掻い潜るのに成功を収め、弥代を子ども扱いしてみせるそれら全てを、芝居であると相良は思いたくないだけかもしれない。
「何か、聞きたいことでも御有りの御様子ですね。」
「私も湯をいただいた後、弥代さんが寝入ってから頃合いを見てお訊かせ願いたいと考えております。」
「えぇ、寝静まったあとでしたら私はいくらでも構いませんよ。」
子どもはいっぱい寝るのが仕事ですので、と溢す。その顔はやはりどこまでも母にしか、相良には見えなかった。
『お春、何故だい?
どうし、て……どうしてその子をおいらに抱かせてはくれんのだい?』
かれこれもう長い付き合いになります。
初めて義父によって設けられた席でお会いした、心優しい、青さが切っても切り離せない、世の汚さもまるで理解していない彼に初めてお会いしたのは私が齢十二を迎えて間もない頃。
お前の“色”は時に人を狂わしてしまうものだから、と閉ざされた狭い世界でそれはそれは大切に育てられてきたものです。
神職の血筋を受け継いでおり、幼き頃から心を強く保つ術を、どの様にすればそのように在れるのかを教わってきたからかは分かりませんが、分け隔てなく誰にでも優してくれる、私の持つ“色”を不気味がることなく快く受け入れてくださる彼が、私は誰よりも愛しておりました。
しかし、私の育ての親であった、義父に引き取られるまで十年もの歳月気に掛け続けてくれた祖母の事がありました。
それがとても、私は恐ろしかったのです。
最初の内は大丈夫であったものも、時間が経てば少しずつ駄目になってしまう。私が持って生まれてしまったという、自分自身では満足に見ることも叶わぬそれが、多くの人を狂わせてしまうというのが分かっていましたから、私は一人芝居ばかりが日に日に上達していくのを感じるほど。
こんな狭い世界でも、明日明後日で終わらぬ、日々がずっと続いてくれるだけなら、どうかそれだけで構わない、と。私が愛した、私に良くしてくれた心優しい彼等がただ生きてくれるのならそれ以上を望むことはないのだと、そればかりを強く望んでいたのです。
ですから、義父が亡くなった時はえも言えぬ感情にただただ苛まれたものです。
火の不始末などする訳がないのです。あの方は女郎屋の楼主でありながら、実の妻と年端もいかなかった娘を店の女が嘗て消し忘れた煙草の火で失っていたのですから。
義父は、祖母の腹違いの弟であったそうです。
遊郭などというの実に狭い世界なのです。隣合う、もしくは向かい合う店同士の誰彼が実は何かしら繋がりがあって、などというのは、少なくとも私が育った地ではなにも珍しいことではありませんでした。
そんなであるものですから、あれ、も。私を産んだ母は幼くして店に売られ、というのもきっと。
でなければ人目を避ける、私の“色”に狂わされる人を増やさぬ為だけとはいえ、祖母は私に飴だけでなく、簡単に布で拭えばそれで汚れなんてあっという間に取れる駄賃まで渡したりなどする意味はどこにもなかったのですから。
です、から――
『お待ちください、旦那様っ!
春様はそちらへは行っておりませぬ、私めがご案内をい致します故、どうか……どうかソレを床に置かれて、どうか此方へ……ッ‼︎』
息を殺すことしか出来ませんでした。
何故、どうしてこの様なことが起きてしまったのかが私にはまるで理解出来ませんでした。
なにが、なにがいけなかったというのでしょう。
誰よりも心優しい彼をああまで変えてしまったのは、一体誰なのでしょうか。
自分の口を塞ぐのではない、まだ生まれて間もない赤児を、瞼さえも自力で開けることすら叶わない、泣くことでしか自分の存在を示すことが出来ない赤児の口を私は必死に塞いでやりました。
徐々に、徐々に腕の中で震える体が弱まっていくのを感じながら、早く彼が、彼がこの場を離れてくれるその時を、その時ばかりは強く、強く望まずにはいられず。嗚呼でも、腕の中の赤児の潰えてしまいそうな灯が、我儘だと分かっていながらも消えてしまわないでください、とも、欲深く多くを願ってしまったのです。
――そうし、て。
赤児が息を吹き返したその時、私は打ち震えました。
疾うの昔に諦めていた命です。彼が屋敷に仕えていた幼馴染であった彼女に言われるがまま、それでも刀を手放すことはなかったのでしょう、屋敷を出、段々と人の気配が薄れていくのを感じた頃になってから、赤児は息を吹き返してくれたのです。
誰に言うでもなく、届ける相手など、それに込められた意味など誰も分からぬだろうに、ありがとうと言葉を溢し、私はその場に赤児を抱え蹲ることしか出来ませんした。
しかし、いつまでもそのままで居ていい訳がありません。私を置いて行かず、息を吹き返してくれた赤児を見捨てられるわけがなく。
私はその子を抱えたまま、彼が出て行った表とは反対の、屋敷の裏手にある山に逃げ隠れました。
ずっと遠く、彼が追ってこれない、彼が追いつけないどこか遠くへ、この子を、彼と私の間に生まれた尊き命だけでもどうかせめ、て――――
「なるほど、そういった経緯があったのですね。」
長年の謎がやっと解けました、と言って女は自身の胸を撫で下ろす動作をしてみせた。
傍らで耳を澄ましてなければ聞き逃してしまいそうなぐらい小さな寝息を立てて寝静まる、弥代に掛けた薄っぺらい布団が寝返りで裏返るのを気付き次第直しながら。
本当に見えていないのかを疑いたくなるほどはっきり、と。捲れた側から直ぐに手を伸ばし、それを掛け直してみせるもので、どうすればそのような芸当が出来るのかをいっそ相良は訊ねたい気持ちでいっぱいだ。
「……ふふ、実際の目が見えぬ分、私は大変耳がよくなったのです。五感というものは誰しもが生まれ持ち備わっているものですが、それが一つでも欠けるというのは問題ですので。そうなると他の感覚が鋭き、持たぬものを補えるだけの力を発揮するの、だとか。
……誰であったかは思い出せませんが教わったことがございます。」
「名が上がらぬ話のどこを信用すればよろしいのでしょう、甚だ疑問ですねぇ?」
まるで此方の心の内を読んでいるかのような物言いではないか。人の身を脱している、人が生きる時間では至ることが出来ない域に達しているといった様子でもない、纏う【気】そのものが大変素直そうな相手なだけに相良は既に数えきれないぐらい頭を悩ましていた。
それに、彼女は長年の謎が解けた、と言いはしたが、なにも相良は以前弥代から聞かされた中途半端な話を、更に細部の明確ではない部分を端折って述べてみせただけだ。
仮に相良自身が何も知らなかったとして、中途半端に端折られた穴あきだらけの話を聞かされたとしても、何のことやらと肩を竦め、無知を装い態とらしく続きを促した事だろう。
が、出会った当初の口振りや、長年一人でこの地に足繁く通い、人の住まわなくなった荒廃した集落に滞在をするなどという、普通では考えられもしない行動を取る、恐らくは何かしらの情報を彼女が持っていたとしたのなら、彼女自身の口から先のような言葉が出てくるのも、納得出来なくはない。
「…………お知り合いでも?」
それは踏み込んだ質問に他ならない。するべきではない、訊ねるべきではないという事ぐらい相良は理解していたが、しかしここに来て要らぬ、暫くはずっと鳴りを潜めていた筈のものが頭角を表してくる。
危害を加えるつもりはないといった女の言葉を、決して鵜呑みにしているわけではない。だがこれまでの、弥代に対する態度を目の当たりにして、子が寝静まるのを待って話を訊かせてはもらえないかと頭を垂れた姿が、この一晩のみであれば信用してもいいのではないか、と相良はそのように考えた。(あるいは、春原が湯から上がり戻ってくるまでの僅かな間だけでも、だ。)
「えぇ、昔この地に、産まれて間もない我が子を置いて立ち去りました。」
顔に触れる、その手はよくよく見てみると目元と同じようにひどく爛れているのが分かる。
「二十年以上前のことです。
今はこんなですが、私は運悪く、“色”を持って生まれてしまった為、それはそれは苦労を致しました。
そんな“色持ち”の女が、誰に頼れるでもなく子を身籠り、無事に生めたとしても“色”を持たぬ赤児を女手一つで、どう育てることが出来ましょう。
ですから私は、あの子をこの集落に置いて立ち去ることにしたのです。
私が傍にいるよりも、遥かにそちらの方が子の為になる、と。そう、分かっていたからです。」
目は、自らの手で焼きました、と続く。
「我が子の成長を見ることすら叶わない、あの子の為などと宣いて、自分の身一つ満足に守ることすら叶わないのを言い訳に、我が身可愛さに生まれて間もない赤児を手放した女です。
そんな女にこの世を映す資格がどこに御座いましょうか。
元を辿ったとしても、この瞳に“色”などを宿し生まれさえしなければ、瞼を開きさえしなければ、光を知らねばそうはならなかった、欲深くなってしまいさえしなkれば全てを失わずには済んだのではないか、と思わずにはいれるばかりの人生を私は送ってきたのです。
ですので、そこに迷いはありませんでし、た。」
この後に及んで出てくる大法螺に辟易する。
いいではないか、これが最初で最後の出会いになる相手だと分かった上で、この地で初めて出会う他者を相手に過去にやっと目を向けたというのに、自分が救われたい一心から目を逸らし続けた現実を、ありもしないものを作り上げてみせた、そればかりが滲んでしまう。
積み上がり、あとは崩れるのみであった後悔によって、身はもう滅んだも同然。
最期の最期にこうして、この集落がどのようにして血に染まったのかを知れて、我が子の行く末を知れて良かったと、女は思わずには居られなかったのだ。
これで思い残すことは、もう、有りはしない。
朝になった気配を感じ、相良は目を覚ました。
屋内の囲炉裏の火はしっかりと灰に埋もれ、軽く灰箸を手に取り掻き分けるもご丁寧に火種すら見当たらない状態となっていた。
昨晩の女とのやり取りを思い出し、溜め息を一つ。
寝入っていた自分と弥代とは違い、夜通し起きていただろう春原が、太い柱に背中を預ける形のまま固まっているのに目をやり、彼女がその後どうなったのかを訊ねると、春原は首を横に降った。
「日が昇り初めると、外に出て行った。」
もう一刻以上前の事だ、と言葉が続く。
「そう……でしたか。」
とっくの昔にすっかり寝入ってしまった弥代を託され、此方に背を向けた女の表情は、囲炉裏の火を受けてやけに明るくはっきりと見えた気がしたのだが、目覚めた今になるとそれも記憶が曖昧だ。
妙な女、であったという事だけはしっかりと覚えている。
それ、から――
(あの時、弥代さんを私が起こしていれば、彼女の結末は変わっていたのでしょうか。)
そこまで詳細に聞かされたわけでもない。
相良が知っているのはただ、弥代が世話になったというこの集落で育った老夫婦には、歳の離れた息子がおり。
その息子が嫁に貰ったという娘が、確か……
『兄ちゃんの嫁さんには、もう家族がいなかったんだってさ……、だからやっと家族を作れる、家族になれるんだってすっげぇ喜んでたって、爺さんが教えてくれたんだよ。
なの、に―――』
相良は一人、目を閉じた。




