五十三話 尼
色褪せて、忘れてしまいそうになった事なんか一度たりともありはしない。
だからこそ見覚えのある景色を、その昔に視界に収めた事がある光景を前に弥代の足は一時、分かりやすく縫い留められ。
「……、」
そうして、弥代は駆け出した。
それはただ見覚えがあるというだけにしては鮮明だ。
物覚えにはそれなりに自信があるのに未だに過去の事なり、思い出せない部分が大半だというのはどうにも説得力に欠けてしまうだろうが、それでも先に見た景色は、光景に弥代はあまりにも心当たりがあった。
全く、寸分違わず同じ、という事はない。
ただそれでも、当時の名残りを感じずにはどうしてもいられない、最後に見た時からもうずっと、五年以上が経っている筈なのに面影があるという事は、それを自分が感じたというのは紛れもない事実なのだから。だから弥代は、弥代はそれに気付いてしまった時にはもう、その足を止める事は出来なかった。
意志に反して、ではない。頭の中はまだ整理が追いついてくれやしないのに、心の内はザワザワと騒ぎ立てているというのに、それよりもずっと早く、自分の中の答えはとっくのとうに仕上がっていた、と。きっとそれだけの事、で。
駆け出す、その先に弥代の知るものがあるのだと、それを知る為に、それを一刻も早く確かめる為に、確証欲しさに弥代は駆け出した。
だから、足元に目が向けなかった。
「――ぁ、」
躓、く。たった一つにそれまでの勢いは全て削がれてしまい、意識が狭まっている、視野が狭くなっているからこそかやけにゆっくり、と。地面に倒れ込みそうになるのを、それを防げる術が生憎と弥代は思い付けずにいた。だか、ら――
だから、後ろから伸びてきた、自分の腿と同じぐらいは太い腕が胴へと回される、それが何を意味しているかを理解するのには時間を有した。
「……かた?」
「怪我はないか、弥代?」
ペタリ、座り込む。
躓き、派手に前に転がりそうになっていた体は、後ろから回された力強い腕によって後方へと引っ張られ、それをしてきた相手と一緒に地べたにお尻をつけることで全てを免れた。
自分は余程の勢いで駆け出したのだろう。今もずっと胴に回された後方の、背中越しに自分を抱えている彼――春原の、深く食い込んだ腕や指なりに弥代は目が行き納得をした。
此処は人が住むことのない野山である。
人里からはそれなりに離れた、人の手が加えられることのない、加えたくとも安定した場所が少なく、正しくは住みたくとも住むことに適さない地だ。
辺りをよく見もせずに突き進めば、続くと思っていた地面がそこだけ無かったなんて事もなくもない。現に、弥代の記憶が正しくばこの辺りは一本、大きな木が立派な根を地面に張り巡らせており、根の隆起は激しい。
それに身を預けてどれぐらいを過ごしたかは覚えていないが、弥代が二、三人いて腕を繋いでもきっと囲いきれいなぐらい大きな木であったものだからとても、とても大きかった事だけは確実だ。
そして、石にでも躓いたと思ってはいたがそれは違ったわけだ。弥代が勢いをつけて躓いたのはその立派な木の根だった。
「どうされたというのですか?」
明確に、自分へと向けられた声掛けであるというのが分かる声色を耳にし、ピクリと弥代の肩が揺れる。
そうして背中越しの、自分よりもずっと厚みのある体に手を掛けて、更に後ろの方から此方へと歩み寄ってくる相良へと弥代はしっかりと意識を向けた。
「ご、ごめん俺っ、焦っちまって……なんか?」
「何ですかその歯切れの悪さは。駆け出した張本人がそんなになる理由が、どこにあるというのでしょうか?」
そう、だ。確かにおかしな話、だ。でも事実、弥代の足は弥代が理解するよりもずっと先に動き、駆け出した。
駆け出さずには居られ、なかった。
「お話し……いただけますね?」
「……うん、」
どう……話したものか。
弥代は春原に後ろから抱えられ地べたに座り込んだまま話し始めた。
「婆ちゃんと、爺ちゃん……が、」等と、先同様に始終歯切れ悪く口開く弥代を軽く見下ろしつつ、その話に耳を傾けつつも自分の知り得る限りの弥代の来歴を照らし合わせるようにし、自分の為だけの補間をし始めた。
六年ほど前、今の弥代がほぼ初めて関わったとされる、“色”を持たぬ老夫婦が存在していたという話は、既に八月十五日までの間に直接、全容には程遠いだろうが掻い摘んで弥代本人の口から聞いている。
老夫婦が暮らしていたという集落が、山奥の、四方を山々に囲まれているような、陽が当たらねば暗い地であり、雪解けにはとても時間が掛かったというのも。
その地が恐らく、は駿河国よりも西に位置した場所にある、というのも。
『夕焼け……俺、あんま好きじゃなくって、』
三ツ江絹が手綱を握る荷馬車に乗せてもらい、東海道の終着点・三条大橋がある山城国を目指す際、夕暮れ時になると決まって、気に入っていると豪語してみせた御者台から離れ、夕陽に背を向けるように後方へと弥代は逃げてきていた。
『眩しくって、目開けてらんないの……と、やっぱり赤、そんな好きじゃねぇの。』
弥代――が、“赤”を意図して避けているのは今更触れずとも分かりきっている事だ。(だというのに紅葉よりもずっと鮮やかな、秋そのものを身にでも纏っていると錯覚しそうになる、翳ることを知らぬ彼女にべったりである、それは今は置いておく。)
今になり、扇堂家で出立の前に仕立てられた装いの、たかだか襟元と帯にさえも、自身が特に直接身に付けることを嫌悪する様子を見せる程。
自ら進んで選ぶことも、夕陽の色にさえも恐れをなして逃げの姿勢を見せるそんな過剰な弥代は正しく、日毎に夕暮れ時になると背を向けて逃げずにはいれなかったそうだ。
『――なんだ坊主、昔山城国で何か悪さでもしでかしたのかぁ?
餓鬼のくせして度量がある奴じゃねぇか、嫌いじゃねぇぜ俺らはそういうの!』
『し、知らねぇよ! 前に来たことがあったとしても俺……覚えてねぇもんよ、』
先日あった、逢坂関に駐在する門番と弥代のやりとりを思い返す。
山城国を守護される、榊扇の里における神仏・水虎と同等、あるいはそれ以上の存在とされる現人神によって国を囲うように張られているとされる【結界】はその後、門番が早馬に跨がり現人神が棲まうとされる比叡山に向かい、逢坂関周辺の【結界】が緩められることで弥代は再び弾かれて中に入れないという事はなかった。
大津宿で訳あって一時、後々に西条家でもいくらか顔を合わせる機会があった稲葉家の嫡男・稲葉隆棋の口からは、人ならざる存在として一括りにされる妖であったりのそれが、“色”を有する“色持ち”の生まれに関わる、思いの強さが妖の在り方に近しい故に、【結界】によって弾かれてしまうなどの背景があると語ってはいたものの、相良は稲葉の彼の説明よりも門番が口にした、弥代が過去に山城国で何か悪さでもしたのではないか、という可能性の方が濃厚であると当時から考えていた。
というのも、山城国に君臨する現人神――祈々様と呼ばれる存在は相良の知る限り、弥代と同じ【鬼】と呼ばれる存在、だ。
人ならざる存在の中でも、どれほど長く生きているのか。幼少期、知識人である祖父から聞かされた話の中に、度々同じ人物を差しているのだろうと思える存在はいたものの、少なくとも江戸よりも遥か昔、記述の少なさ故にどうしても知識は足りてはおらぬが鎌倉、あるいはそれよりも昔から生きている可能性があるのが、山城国の祈々様と呼ばれる【鬼】だ。
人の身でない弥代が、はたして【鬼】としていつ生まれたのかを今今の限られた情報のみで、憶測のみで断定をしてしまうのはなにも出来ない話ではないが、得策では、あまり賢いとは言えない。
だが、千年ほど生き永らえている存在が、自身と同じ【鬼】である弥代の存在を認知していない筈がなく。山城国で直接、あるいは過去に何かしら弥代が現人神・祈々の怒りに触れるような事があった――と。
否、もし仮にそうであったのなら、一度弾かれた存在を、わざわざ【結界】を緩めて内側に通すような行為、はあまり、にも――
(いえ、一旦はここまでと致しましょう。)
区切る。あまりにも深く、目の前で弥代が話す傍ら、同時に多くのこれまでの懸念点を今になって、声を荒げることもなく今は過ごせるからと安堵し、それらに目を向けてしまうのは弥代にとって失礼だ。
それに、六年前ともなるとそれ以前の、あの日あの場所における春原との件がある。そう、だ。春原が再び、自らの意志でその家名を名乗り、藤原から脱したあの――
「――では、その地というのが恐らくはこの地である、と弥代さんはそうお考えなのですね?」
「う……うん。あの、えっと……こ、このおっきい木の感じ、とか……多分、もうちょっと先に進んだら細いけど、道っぽいのがあって……、」
六年も前に、住んでいた者が皆、たった一夜で手に掛けられた、自分に良くしてくれた老夫婦の命を目の前で奪われたことに対し我を忘れ、四十は居たであろう集落を壊滅させたのは紛れもない弥代自身、だ。
冗談でもそんな事を言うはずがない。嘘など相良じゃあるまいしもっての外だ。疑う余地が何一つ見当たらない。
今の今まで春原の腕の中、転びそうになった状態を助けられたその格好のままであるから胴に腕を回され、ペタリと大人しく地べたに座りこんでいる弥代を、相良は数歩離れたところに立ち静かに見下ろすのみであったが、距離を詰めその場に膝を付いた。
そして――、
「春原さん、道があるか見てきては来れませんでしょうか?」
「分かった。」
余程力を込めて抱えたのだろうか。弥代の帯に不自然に寄っている皺をちらり一瞥した後、相良はそっと弥代の、彼女の背中に手を回した。
「よく、言えました。」
「……うん。」
その場を少々離れた春原が戻ってくるのを、相良は弥代の傍から離れることなく待つこととした。
「どうでしたでしょうか春原さん?」
掻き分けたばかりの枝木が靱り、元の位置へと戻る。それと同じように自分と弥代の元へと舞い戻ってきた春原に目を向けながら相良は折った膝を早々に伸ばすこととなった。
視線を、感じる。
他でもない弥代が自分を見ているのが分かった上で、相良は決して態度を崩すことなく春原に向き合った。
「道……、と呼べるかは分からないが、踏み固められた通りはあった。」
「そうでしたか。」
ありがとうございます、と小さく言葉を添える。
四方を山に囲まれているといって過言ではない地、だ。その奥地に集落があったとして、その地に棲まう者が誰一人としていなくなってしまえば長年踏み固められることで生まれた軌跡というものも薄れてしまう、誰も足を運ばねばそうなっても不思議ではないだろう。
春原が道として判断をするのが難しかったそれが、人の手によるものではなく動物なりが移動するのに使っていたのなら、中途半端な名残りだけの、道と呼べるかは分からないという言葉が出てくる可能性も大いに考えられる。
「では一旦、“道と思しきものはあった”という事に致しましょう。」
一つ、手を打つ。それで目の前の春原は肯定の意志を示し、今もまだ地べたに座りこんだままの弥代も状況に理解を示す反応を見せた。
手を軽く差し伸べればそれを迷うことなく掴み返してくる。ズキリ、相も変わらず人並みな脆さと切っても切り離せない不便な体には目を瞑り、相良は促すこととした。
「気になるようでしたらお付き合いいたしましょう。
如何なさいますか弥代さん?」
菊花開、霽月の徒路 二十八話
やはり見間違えなどではなかった。
人が使う道とはもう呼べそうにないぐらい荒れた、獣道だと言われた方が納得出来そうな道を進んだ直ぐ先に、弥代は見覚えのある建物の残骸を見つけた。
燃え上がった炎によって屋根は燃え落ちてしまったものだから雨が降っても中は雨晒しにしかならない。
荒屋ではあったが家を支えられるだけの柱はしっかりとしていたの、だ。それも、天辺にあった屋根を失ったことで支えを失ってしまったかのように、元あった長さよりもずっと短、く。地面を這う蔦をいっぱいいっぱい纏って、そうしてそこに在る。
枠組みを全て失ってしまったわけではない、でも何も知らなければそれが元々家であったかもきっと分からないままになってしまうかもしれない、そんな状態だ。
「…………。」
どういう。
一体どんな、どんな気持ちでそれを見ればいいのかさえ、どうにも弥代には分からなかった。
なんの、何も。なに一つ、そんな心の準備なんて出来ていない。
またこうして、もう一度この場所に訪れることになるなんて考えたこともなかった、もう二度と立ち寄る事のない場所とさえ心のどこかで根拠もなく、ずっと弥代はそんな風に考えていた、のだ。
だから、向き合い方が分からない。
でも、分からないのに。
「………。」
分からなかったはずなのに、弥代の足は動いた。
そうかもしれない、と。もしかして此処がそうなんじゃないかと、今になってもずっと褪せた事など一度もない記憶に重なって、そうして弥代の足は紛れもなく動いたのだ。弥代の気持ちなんかよりも体はずっと素直だ。
そして、そんなものだから意識していなくても自然と、顔の真ん中に、キュッと色んなものが寄せ集められるような感覚に襲われてしまう。
顔から遠い場所はもう少し下、胸元にでも全部が集約されているような、不思議な感覚を味わ、い。
目、を。
目を逸らしていいはずがないのに、逸らしたいわけじゃないというのに、少しずつゆっくり、と体は知れず傾きかけ、て。
「…………ぅあ、」
小さな、声が漏れた。
伸ばした手が、色の違う地面に触れる。
火に呑まれた家の中で覆い被さり、まるで老婆を庇うかのように息絶えていた老爺がいた、あれからもうずっと時間は経っているというのに、名残りを求めるようにその場に膝を付く。
走ったというわけでもない、激しく動き回ったというわけでもない。無理をして声を張り上げたというわけでもなく。だという、のに。それなのに、たったそれだけの事で徐々に、徐々に息が、繰り返す呼吸が噛み合わなく、ひどく乱れていく。
涙ぐむことはあっても、心のどこかでもう泣きはしないと思っていた、元々緩くはあった決心がすっかり弛みきってしまって。勝手に溢れてくるものを、それを止める術を弥代は何一つ知ら、ず。
なんだかそれは、いつぞやの事を思い出さずにはいられない。
前に進めた、今まで得られなかった多くを識る機会を得て尚、自分はまだ大して進めていないのではないか、とそう思うことしか出来ない。
ここに来てこんな、こんな風にこの場所に、二人と過ごした場所に偶々とはいえ訪れることになるなんて本心から弥代は思っていなかったのだ。
で、も―――。
けれども、前もってもし此処が老夫婦と過ごした土地だと分かった上で、弥代は自分が自らの意志で進んで訪れたいとは考えなかっただろう事も分かって、おり。
心の隅で、本当に小さくだが来れてよかったのだ、と。自分に強く言い聞かせた。
いくら鼻を擤むのを手伝ってやったところで底が見えないぐらいズビズビと鼻を鳴らすもので相良は手を貸すのを早々に諦めずにはいられなかった。
なにも泣くなとは言っていない。泣きたいのであれば気が済むまで泣けばいいが、それで座り込んだままだったり、手を貸してほしいと求め続けるのを止めてほしい、とそんな処だ。
「さっきは背中摩ってくれたじゃんかぁ!」なんて、全くこれぽっちも威勢の感じられない言葉が投げかけられても構うだけ時間が勿体無い。
六年以上前に壊滅した集落があった地だ。道そのものが廃れ、獣道と化すぐらい人気のない地だとしても、以前弥代の口から聞かされた話を思い返せば、運が良ければ雨風を凌ぐのに使えそうな家があるやもしれない。
遠目に――だが、目を凝らせば燃え落ち残骸しか残っていない嘗ての荒屋よりもいくらか立派な造りをした、六年という歳月が経っても形の残った家があるのではないか、と相良は考え出しつつあった。
「見えますか春原さん?」
「遠くのものを見るのなら俺よりも弥代の方が得意だ。」
「今の状況で任せられそうに見えますでしょうか?」
ぐずっ、とまた一つ大きく鼻の鳴る音がする。
言われて自分の羽織の裾を強く握りしめて傍に立つ弥代へと、やっと春原の目が向く。
それは二ヶ月前の、駿河国での神と対峙した晩が明けた後、弥代に散々な言葉を浴びせられた桜が見せた反応に近く見えるも、まだ彼女の方が可愛げがあったもので目を瞑り、相良は肩を大きく竦めてみせた。
「……任せられ、ない。」
「言い方次第では胸ぐらを掴まれかねませんよ。」
「弥代にか?」
「弥代さんにです。」
「そう……、か。」
しかし、いつまでも此処に居続けるというわけにもやはりいかない。
人気の感じられない山奥ではあるものの、それでも元々人が暮らしていた、その名残りが今も微かに残るような地だ。し、今の弥代の髪色はもう練り粉も殆んど落ちかかってしまっており、これならいっそ全てを洗い流してしまい、また再び黒く仕上げた方がマシと思えるぐらいまで鮮やかなものになっていた。
どれだけ古びていようとも雨風を凌げる家屋の中で一晩を明かせるのも、この野宿続きの数日を鑑みてしまうと非常に魅力的に見えるのだが、やはり弥代の髪色の事を考えるとそうも言ってられない。
これで近くに手頃な水場でもあれば前者も汲むことが出来、大変助かるのだが。
(そう上手くは行きませんでしょう。)
懐の水筒もとうに空だ。水気をしっかりと切った上で封をしてはいるものの、満足に濯ぐことも出来ぬまま長くそのままにしておくのはいただけない。
であるのならば、やはりここは一度弥代の髪を洗い流し、新しく染め直したその足でそのまま一旦人里に降りるなりをして、食糧の補充なり、一時の休息を挟むのも必要なのではないだろうか。
目の前で羽織の裾を掴まれたまま、子ども染みた押し問答のような事をいつまでも続けている二人を尻目に、相良は考え耽る。
そうして、暫く考え事をしていると、ガサリ音が鳴った。
音が大きすぎたという事はない。でも自然と、相良は音のした方向へと目を向けずにはいられず。
その先、に―――
「あぁ、気の所為などではありませんでした。
まさか……、まさかこの地に私以外の方が足を運ばれていようとは思いもしませんでしたわ。」
見知らぬ、一人の女を見た。




