四十九話 懸念
「出立が今宵というのは誠でしょうか弥代様ッ⁉︎」
弥代に言わせるなら、ほれ見たことか、といった具合だ。
絹に羽交い締めにされている隆棋という最近そこそこ見掛ける機会の多かった組み合わせを尻目に、なんやかんやで一緒に居て相性は悪くはないのだろうな、と弥代はそんな事を考えてみた。半ば現実逃避だ。
向き合わねばならない問題からこれでもかというぐらいに目を逸らして、別のことを考えて、向き合えない理由を適当に拵える。
「夜遅ぇ分、寝られる内に寝ときてぇんだけどダメかな?」
「では部屋を御用意いたしましょう。」
「ん、あんがとね四方さん。」
「お気になさらず。」
控えめにペコリ頭を下げて(会釈、というらしい)、西条家に仕えている女中頭の四方喜代子が部屋を後にするのを、その後ろ姿を弥代は見送った。
口に出していないが、彼女が一昨日ぐらいにやっと名前を知れた女中頭であるという確信はない。でも始終同席をしている絹がチラチラと頻りに彼女の方を気に掛けたり、彼女の顔色を窺うような反応を度々見せていたので、絹よりも立場が上の、頭が上がらない存在である事に違いはなく。
十日にも満たない短い間ではあったが、事あるごとに何かと世話になる事が多かった顔であったから間違ってはいないだろう、と弥代はそう思いたい。
(いや……よ、訊けば教えてくれねぇなんて事ぁないだろうけどもよ。にしても今更ってのは流石にいくら何でも程があるだろって話だ。)
弥代の我儘のために新しく布団まで敷かれた部屋は、春原と相良が借りている部屋の直ぐ真隣。間に壁はなく、襖を開ければそれで隣の部屋に簡単に入ることが出来てしまう部屋であった。
西条家の屋敷は、この間に弥代達が世話になっていた西条銀嶺の屋敷の他、百合の生家である本邸と、此処より二回りほどこじんまりとした別邸の三つあるそうだ。 その中でもこの西条銀嶺が隠居生活を送るという屋敷は丁度真ん中。本邸は此処の部屋数の倍はあるそうで、敷地内には二階建ての家屋なんかよりも屋根が高い蔵が二、三棟は建てられているそうで弥代では想像もつかない。まぁ、そもそも屋敷の部屋数自体、全部でいくつあるのか弥代は把握出来ていないのだし元も子もない話ではあるのだが。
しかし部屋が隣になった、襖を開ければそれで隣の部屋と繋がるとなれば弥代はそれを開けずにジッとしている事は出来ず、案の定といった様子で断りも入れずに開け放って、そうして目当ての二人を見つけるなりそんな話を始めた。
「あ、そういや結局昨日は教えてもらえなかったけどさ、屋敷ってどこからどこまでを言うのか教えてくれよ相良さん!」
「私はまだこれから準備が残って」
「ええぇ、ヤダヤダ! ちょっとぐらいお話しようよぉ!」
「教えてくれと言ったと思えば話しを強請る……、なんなんですか貴女という方は本当にっ、」
そんな言われ方は酷すぎる。弥代はカチンと頭に来たもので部屋の敷居を跨ぐなり、相良ではなく春原に標的を定めて問いを投げ掛けた。
「聞いたか千方っ⁉︎ 今のはあんまりだと思わねぇか、俺ンなの言われなきゃなんねぇぐれぇ悪いことしたかな⁉︎」
「……分からない。分からない、が、弥代が悪いことをしたとは思わない。」
「分からねぇってのはなんだ? 相良さんの言ったのに対して俺があんまりだって言ったことか?」
「そう、だ。あんまり……というのはよく分からない?」
「あんまりってのは酷い、傷付くような言葉を言われたって意味でな」「弥代は傷付いたのか?」「そう、俺今相良さんの言葉ですっげぇ傷付いたの!」「そう、か。……相良、弱い者いじめは良くない。」「面倒な事になりましたねぇええコレはッ⁉︎」
菊花開、霽月の徒路 二十四話
扇堂家の屋敷を出立した際に似ている。弥代はそんな事を思いながら縁側に腰を落ち着かせていた。
相も変わらず地面に足は届かないものだから、足をぶらぶらと揺すって、相良が西条家の人間との話しが終わるのを一人待つ。
否、訂正する。一人、ではない。扇堂家の時とは違って今弥代の目の前には春原がいる。
かれこれここ数日の間は、屋敷の女中らが手配してくれた服に大人しく袖を通していなかったものだから、気持ち的には久しぶりに目にする、自分や相良と並んでみるとそれなりに近しい色合いに見える、瞳の“色”に近しい青っぽい色味のモノを身に付けがちな彼にしては大変珍しい、秋色の装い。
屋敷で過ごす間も袴姿が多かったものだから、八月とはいっても下旬の最後の日――九月を目前にして着流しに羽織一枚というのはとてもじゃないが弥代の目には寒そうに映った。
そして、それは声になって出ていたのだろう。
呼ばれた、と。声を掛けられたと思った春原は足元の草花に向けていた視線を弥代へと向け、「寒くない。」と口にした。
「……でも、それ一枚じゃねぇの着流しってことはさ?」
「コレ……は、一枚で着るものではない。中にも着ている。一枚では流石の俺でも寒い。それは厳しい。」
「あ、なんだ着込んでるのかそれ。じゃぁ問題ねぇか!」
「そう、だ。」
長続きのしようがないやりとりを、似たような長さのやりとりをかれこれ既に何度か繰り返している。都度、間に時間が挟まるものだから、二つ前には何を話していたか、といった感じに時間が進む。少なく見積もってもこれで四、五回目。
必要以上、ではないのだろうがあまり長く待たされるのは好きじゃない。本来は夜は床に着いて寝入るものなのだ。日中の内に予め多めに寝たとしても、自然と夜は眠たくなってしまうものだ。
手持ち無沙汰。何もする事がないとなれば、それは抗いようのない事。自分は悪くない、悪いのはそういう風に出来ている体と、眠たくなるまで待たせる大人達のやりとりの長さだ。
弥代は頬杖を付きながら溜め息を溢す。これ以上待たされていたらその内、吐きこぼす息すら空っぽになって出てくるものが出てこなくなるのではないだろうか、なんてヘンテコな考えが頭に浮かぶ。
「弥代、」
「あぇ、なに呼んだ?」
「呼んだ。」
「珍しいな、お前の方から話しかけてくるなんて?」
「そう……か?」
「そうだろ、俺がいっつも話振ってばっかじゃん?
……で、何? なんか用があって呼んだんじゃねぇの?」
「それはそう、だ。…………弥代、は。」
歯切れが悪いどころじゃない。自分でも口にしようとしている言葉にまるで自信がない、とでも言いたげな様子だ。
なにか思う所がなきゃ、用もなしに誰かを呼ぶなんてことを春原がする筈がない事を、弥代は分かっている。
「言いてぇことあんならちゃんと言えよ。どうせ時間はまだまだありそうだしさ、気長に待っててやるからよ俺。」
距離が空いたままは良くない。一昨日にもしたように縁側からそのまま弥代が小さく手招けば、春原はなんの躊躇いもなく弥代の隣に腰を落ち着かせた。
「立ちっぱなしより座ってた方が楽じゃねぇか、疲れちまうだろうずっとってのはさ。」
「確かにそうだ。」
「だろ? それに……さ。」
背を逸らし、縁側に腰掛けた事で弛んだ、春原が背負う荷の方に弥代は目を呉れた。
「やっぱし重くねぇか? もう一、二回り小せぇ葛籠にでも入れ替えてもらってさ、俺も半分ぐらい背負うぞ?」
「大丈夫……だ。」
いつになったら相良が戻ってきて出立になるのかが分からない状態だ。その間もずっと葛籠を背負ったままというのは重荷になるだろう。
弥代は春原を気遣いつつ、中に何が入っているのかを聞かされていないもので中身が気になりながらも中は覗かない、勝手に開けないという小さな口約束を春原と交わし、一旦預かるという形でその背中から下ろすことに成功した。
そうして目一杯、限界まで伸ばした腕の中にそれを囲ってみせようとするも、春原の背中と同じぐらいの大きさをした葛籠であるものだから弥代はあっさりと断念した。
しかし、変わりに両腕と両足の四本を使って大きな荷を、間違っても落としてはしまわぬように支えることにした。
「飯と着替えだけにしちゃ重てぇよなやっぱ?」
「秋は一気に冷え込むものだ。冬になれば寒さで亡くなる者もいると聞く。」
「あー、そういや北目指した時も館林さんがでっけぇの背負って来てたよなぁ。アレって榊扇からずっと背負って来たんだよな、すげぇよな館林さんって力持ちで。」
「俺が持つと言った。」
「持たせてもらえなかったんだ!」
「館林よりも俺の方が力持ちだ。」
「んへへ、そうなんだぁ。」
待っててやるからよ、なんて言ったくせして、という気持ちはある。でも春原と交わす他愛もないやりとりが、どうにも弥代は嫌いじゃない、と。彼を下の名前で呼んでやるのが慣れ始めた頃からそのように感じるようになっていた。
なんという、か。口数はやはり少ない。それなのに、少ない言葉の、発せられた言葉の奥に時々見え隠れしている、言葉にはなれなかった何か……、そういったモノが窺えるとこれが楽しくなってしまう。
楽しくなって、それで前からずっとこんな付き合い方をしていたのではないか、とそんな事をついつい考えてしまう。
意外、にも。これが初めてではないと思えるぐらい、どういうわけかこの付き合い方が、接し方を彼にするのが弥代は妙に懐かし、く。可笑しな話だと、そんなのは他でも弥代自身が誰よりも分かっている。でも、そんな風に感じたという、それそのものをなかった事になんてのは弥代には出来そうになく。
「……あの、さ。」
だからこれを、こういった接し方を、関わり方をこれからも彼に、春原千方を相手に続けていければ、と心の奥底で弥代は願わずにはいられないの、だが。
「俺に言いたいことあったのに、結局俺が好きにずっと喋ちゃってるゴメンな。」
弥代は―――、
「でも、忘れちゃわねぇ内に、先に言っときてぇことあっからさ。先……に、言ってもいいか?」
弥代は、続けた。
他愛もない会話を続けるのはなんとも心地がいい。いつまでもこんなのを続けていたい気持ちでいっぱいいっぱいになってしまう。楽しくて楽しくて仕方がない。でも、でもだからこそ、それは前もって言っておかなきゃならない事、で。
だから、だから弥代は――、
「危ねぇん……だって、」
三日前、街中で百合と絹と逸れてしまい迷子になった際、偶然大通りを一人で歩いている相良を見かけ、弥代はその背中を追わずにはいられなかった。
追いかけたその先で、相良は兄弟同然に育った、信頼のおける数少ない相手だという、講釈師の旭堂南亭(本人は南亭の他に、ゆきむら《、、、、》と言う名をどういうわけか名乗っていた、が)と顔を合わせ、相良なんかよりも物覚えがとても良いという彼から、旧国と南に棲まうとされる鬼神に纏わる話を聞かされた。
『危ねぇで済む話じゃねぇんだ、賢いお前さんの口から分からねぇなんて、そんな聞き分けのねぇ言葉が出てくるわけねぇだろう、なぁ志朗?』
『人がどうこう出来る存在じゃねぇんだよ、南に棲まう鬼神様ってのはなぁ。』
『余計だってのは百も承知だ。でも言わせてくれ、言わねぇで行っちまうなんて事がありゃ俺は耐えられねぇよ。』
『だから、な――志朗。』
『旧国に行くってのは止めてくれねぇか?』
一緒に過ごした時間は一年足らず。でも二人とも“色持ち”で、名前に同じ字が偶々入っていたからなんていうとてもくだらない理由で、南亭は十も下の相良気に掛け、常に声を掛けていたらし、く。
血の繋がりもなけりゃ、長い時間を掛けて築く信頼だとか、そういった立派で高尚なモノは何一つないのだけども、相良に可愛げがあったというわけでもないのに、歳の離れた弟なんかがいたのならそういった、生意気な奴なんだろう、と。相良が座敷から離れている間に、南亭はそんな話を弥代にしていた。
それに、「相良さんも似たようなことを言ってたよ」なんて、流石にさっき初めて会ったばかりの相手に言うのはどうにも気が引けて。そっか、ぐらいで軽く流した
でもその後、相良が戻ってきてから行われた、相良の当初の目的通り、鬼神に纏わる話が南亭の口から聞かされたが、そのどれもは到底人の手が及びそうにないものばかり、で。
ただ相良は、相良自身の口から南亭という男は、相良にとって数少ない信頼が出来る相手である、というのだから、南亭の、旧国に行かないでくれ、という忠告、は――
その場にずっと居合わせていた、話の一部始終を聞かされていた、鬼と呼ばれる人ならざる存在でありながら人の世で当たり前のように暮らしている弥代からしても規格外、自分なんかでは同じようなことが出来そうな気がまるでしない、そんな話を聞かされたものだから、その存在にその時になって恐れを抱かずにはいられなかった。
否、違う。
弥代が恐れたのは何も、鬼神の存在だけではない。
弥代が最も、なによりも一番に恐れたの、は……
帰ろうって言ったら、相良さんどうする?
「――って、俺は言ったんだけどさ、相良さん、それには一切返事、してくれなかったんだ。」
葛籠を抱える両腕両足にちょっとだけ力が入る。
確か葛籠は竹刀と同じ竹だったかを細々と編まれて作られた頑丈な籠になっていて。弥代がちょっと力を入れた程度じゃ、そんじょやそっとでは壊れるわけがない事ぐらい弥代だって分かっている。
でも、けど――
「そんじょやそっとじゃなくてさ、本当にどうしようもねぇぐらいの力を加わったらさ、壊れちゃうだろこういうのだって。」
挙句、なんだった……か。
ここまで順を追って思い出した、話したくって話したというのに肝心の、相良に掛けられた言葉だとか、その反応だけは思い出すことが出来ないというのは、やはりそういう、思い出したいと弥代は思っていても、心のどこかでは思い出してはいけないと覆しきれないぐらいの何かがある、みたいで。
「俺は、さ――」
相良さんだけじゃなくて、今はお前もだよ、と前置きを挟む。
「相良さんが行かない、行きたくないって言ってくれるんならそれでさ、それで良いんだよ。だって、危ねぇって分かってて、死んじゃうかもしれねぇって分かっててそれで行って、本当に死んじまうなんてことあったらさ、そんなの絶対に耐えられねぇもん。」
上手く話せているだろうか。
「旅するのに金が要んだろ? 前にさ、宮宿……だったかな、あそこで包丁研ぎって、道具地べたに広げてさ相良さん真剣そうな顔してやってくれたじゃん。アレさ、俺なんかでも出来るかな。出来んなら、そしたらそれで一緒になって俺も稼いで、さ。
…………いや、相良さんほど早く研げるようになるまで時間はいっぱい掛かっちまうだろうけどさ、少なくとも相良さん一人でやるよりは、っていう。一人より二人の方がちょっとでも多く稼げそうじゃん?
そんで千方はさ……、館林さんよりも力持ちってさっき自分で言ってたし、なんかそういう重たい荷物とか運んだりさ。人手なんて余ってる方が珍しいってよく言うじゃん。だから三人でさ、頑張って働けばそれで、そこそこ稼げたりとかもする、ちょっとの間だけでもどこかで世話になって、榊扇の方の……、ほら、俺が出ていかなくちゃいけなくなったほとぼりってのがさ、冷めた頃になって戻って、さ。
で、そんでその、戻ってそっから……その、やっぱりダメだったって、里に俺はいちゃいけねぇってなったら、さ。そん時は、……そん時は潔く一人で出てってやっから……さ。
だから……、だから、えっと……、そのっ、それじゃぁダメ……かなぁ?」
「――弥代。」
いつの間に、か。
いや、もうかれこれ結構長い間、春原が許してくれたのをいいことに弥代はずっと、延々と、あまりにもまとまりのない、しっちゃかめっちゃかな事を長々と口走っていたようだ。
話していたところに急に横槍を入れられることで止められた、というわけではなく。ただ彼は、春原千方はただ一言、弥代の名前を口にした、本当にただそれだけ、で。
否、それだけでは、なく。
葛籠の側面にいつからか押し付けていたらしい額を、ちょっとだけぐしゃぐしゃになった前髪を少し強引に掻き上げられて、「赤くなっていないか?」と、言いながら心配するかのように此方を見てくる。
今さっきまで泣きそうになりながら、寸でのところで鼻だけは鳴らさずにどうにか弥代は持ち堪えていたというのに、そんな事をされて、は。
でも、今日は月の見えない新月であるからきっと、いくら近くで見ようとしたって、細々とした表情、ましてや顔についてしまった痕なんて見えっこない、のに。
不器用を絵に描いたような男、だ。
面と向かって話している相手の心内なんて理解できるだけの頭を持ち合わせちゃいない。
鈍くて、口数が少ないだけに終わらず、言葉選びも配慮に欠けるものが多く目立つ。でも、伝えようとする意志だけは多分、弥代に対してだけかもしれないがそれだけは妙にしっかりと在って。
弥代の真意なんて、弥代がなんで、どうしてなんか分かりっこない筈なのに、そも、だから今日は月だって見えないから、やっぱり表情なんて、それすら見えっこない筈なの、に。
「それは、重要な事か?」
「……は」
思わず、弥代はその胸ぐらを掴んでしまった。
「ぁ……、悪ぃ。」
「いや、構わない。」
何故……何故に、弥代は急に彼の、春原千方の胸ぐらを掴んでしまったのか、どうして自分がそんな行動を取ったのかがまるで分からなかった。
分から、ず。でも本当に急な事だったからか、両足両腕でやっと支えられていた葛籠が少しだけ傾きかけてしまい、慌ててそれを直すのに座り直、し。それから彼の、春原千方の表情を窺おうとするのだが、やはり月明かりのない晩ではどうにも難し、く。
でも、
「怒らねぇよな、お前って。」
「怒る? ……何故、だ?」
「今俺、お前に失礼なことしたじゃんかよ。」
「胸ぐらを掴むのは失礼なことなのか?」
「失礼だろ! だからお前に怒られたって仕方がねぇ」
「そう……か。」
一、息。
「弥代は、自分が失礼なことをしたらそれを認めることが出来る。俺……は、何が失礼で何が失礼でないか、それが分からなくなる時が多い。だから相良をよく怒らせてしまう。
俺には出来ないことが出来る弥代は……とても、凄い。」
「ぇ?」
なにを言い出すのだろう、と弥代は彼を見た。
あ、もしかしたらさっきの、春原が弥代に言いたかったことを今になって、この時になってやっと思い出せたのかもしれない。だから急に……、何度も言葉を詰まらせたり、躓いたりをしながらも思いを言葉に乗せ――て。
「弥代はとても……、とても頑張って、いる。」
距離が詰められる。
「今日……も、日中、文を書いて、いた。」
「あ、アレ……はっ、」
「三ツ江絹だけ、ではない。稲葉……と、西条家の……、、機嫌を損ねてしまわぬように、頑張って、いた。」
「それから……」と、不器用ながらも、物覚えが悪い方だというのに必死に思いだそうとする様子を、その場で指折り数えるも、他にこれという具体的な内容は浮かばない、思い出せないのだろう。
ググッと、重たい前髪の奥の眉間に皺が寄る、その表情が平常時と比べれば険しいものに成っているのがよく分かり。分かる、なり。
分かってしまうなり弥代、は。
「だったらなんだっていうんだよ、この馬鹿が……ッ」
もう随分と、否、彼と二人きりで話をする時にはなるべく出さないように、と心掛けていた、語気が荒めの言葉を乱暴に吐き捨てる。
「だから……その、」
「出かかってんじゃねぇのかよ! とっとといい加減言いてぇこと全部言いやがれってんだっ‼︎」
「ん…………ぁ、んん、」
「だから早く――」
「相良――は、」
目を見開く。
見開いた視界、いっぱいいっぱいに春原の姿を弥代はしっかりと捉え、て。
「……相良、は。弥代が行きたい、と願うのに旧国、へ。旧国……に、行かねばならない、と。それは嘘じゃな、い。だ、だが……、弥代が行きたい、と言わなくとも、相良はずっと前、から……旧国に行きたいと言っていた。
だ……から、弥代の性では、ない。弥代だけじゃな、い。」
「それ…………は、」
「だか――ら、」
手を、取られる。
「旧国に行きたいのは相良の意志……だ。」
「――斯くして、ようやっと彼らはその重たい腰を持ち上げて、旅路を再開させたわけだ。
全く。人様の庭先でいつ面倒事を引き起こすものかと肝を冷やしたものだよ。いつまで居座る気だ、と何度遣いの者を仕向けてやろうか思い悩んだものだか。
……まぁ、思い悩んだと今こうして言っている時点で仕向けることはなかったんだけどもね。
僕ほど寛大な心を持っているとね、大抵のことは許せてしまうのだよ。僕はお前と違って気が長いのさ。
だから、まぁ後少しだろう、よ。
お前があの兄妹に事付けまで頼んでみせた、お前が会いたくて会いたくて仕方のない、東の鬼はもう間もなくこの地に、お前の愛してやまないこの島に辿り着くことだろうよ、芙卯。
そうだ、話をしよう。僕ら三人、先ずはやっと顔を合わせることが出来たことに対し祝福を。それからゆっくり、と。手始めにこの島国の行末についてでも語らってみるのはどうだい?」




