四十六話 泥濘
朝から降り続いていた雨は、部屋に持って来られた昼餉を平らげる頃には止んでしまった為に、部屋に引き篭もる理由を弥代は奪われた。
首根っこは掴まれないだけ幾分かマシだろうが、これ以上ぐだぐだしていればその内きっと何かしらされる羽目になるだろう、と。嫌々ながらもどう、にか部屋から廊下へ、と。
布団……、は。
「部屋に出んだから布団ぐらいは許してくんね?」
「だから駄目ですってば……」
やはりどうにも儘ならない。
食事時は必ず広間で顔を合わせていただく。
西条銀嶺の客人として屋敷の世話になっている弥代と春原は勿論ながら、その他は銀嶺の孫娘である西条百合に、直接西条家の人間で無いにも関わらず、弥代の身の回りの世話をさせて欲しいのだと連日顔を見せている稲葉隆棋。
あとは西条家において商談であったりの仕事が無い時は、住み込みの女中らと同じ仕事を任されている三ツ江絹で五人。
揃って、いただきます、と手を合わせるのがここ数日でよく見掛けた光景だ。
相良が西条銀嶺の屋敷よりもこじんまりとした別邸で世話になり始めての事なので、かれこれ今日で五日目になる。が、なにも日に三食、同じ顔触れが毎度必ずしも揃う、という事はなく。
二日目に春原と外に出た時だったり、昨晩の夕餉だったりも弥代は居らず、座布団に空きはあった筈、だ。
だから別に無理して広間に顔を出し、揃ってから食べなくてもいいじゃないか、と心のどこかで弥代はそんな事を少しだけ考えていたのだが、どうやらそれはあまり良いことではなかったようだ。
「そんなに怒られるような事、してなくねぇか俺?」
左隣で空となった軽い盆を両手で持ち上げる絹に対し、弥代は腑に落ちない、納得がいかないといった不機嫌な様子を一切隠すことなく、誰がどう聞いたとしても不満を露わにする、そんな言葉を投げ掛けずにはいられなかった。
眉間に皺を寄せて、目尻を釣り上げればそれは普段から絹がよくしている表情に近いものがあるが、なにも絹は普段から不満を常に抱えているからそんな顔をしているのではないそうだ。
元々の顔の造り、今は亡き父・三ツ江文左衛門の娘にあたる、三ツ江知世の顔立ちを真似て歳を重ねているためにその様に見えるだけなのだ、とかなんとか。
しかしこの瞬間、この時はそうではなかった。
「いいえ。どうしても顔を出せない、と。退っ引きならない……それこそ外に出られていた等といった理由があってなのなら仕方がないことですが、顔を合わせることが出来るのでしたら一緒に食べるべきなのです。」
「へいへい……。」
否、なにも一緒に食べたくなかった、とかいった理由では決してない。ただちょっと、今日は誰かの顔を見て飯を食いたくなかった、そういう気分ではなかったと、ただそれだけなの、だが。
恐らくは、育ちの違い、というヤツだろうか。
思い返してみれば榊扇の里を出立して間もなく、西側の門を出て早々、里を出たのが確か八月の十日とかそれぐらいで、今日が下旬の二十八日であるものだから、大体二十日はなんやかんや過ごしている事になるわけ、だが。度々絹は食事に関しては厳しい――何かと口を挟んでくる回数が多くあった。
腹が減ってしまったのを膨れさせるためのただの食事に、そんな細々とした作法であったり、姿勢であったりなんていうのは。
相良の件があってから弥代も多少なり……、本当に多少ではあるが以前よりはマシになっている部分もあるだろうに、それなのに絹からの口出しが減っている、という気が弥代はあまりしない。
(まぁ、俺が悪いのに変わりはねぇぐらい分かってんだけど、な。)
勿論自覚がないことはないし、自分に非があることぐらい、それぐらい弥代だって分かるし認めている。でもちょっと、だけ。そんなに怒らなくたっていいじゃないか、という気持ちを多めに交えて、不服そうに絹を睨みつける。
(いや、さっき揶揄ったのに対して怒るんなら分かるけどよ、飯一緒に食わなかっただけでンなに怒るのはなんか違ぇじゃんかよ。)
調子が狂う。
元より、今日は昨晩の相良との中途半端な、思い出したくてもあまり思い出せない(思い出したくないだけかもしれ、ない)やり取りが、こう……ずっと頭の中の大半を占めてしまっていて、他の事柄に対して考えを割く余裕すら弥代にはそれ程ない状態なのだ。
そこに分かりやすく、広間に足を運んで飯にありつく気力がないから、と。そんな事を漏らせば機嫌を損ねた、普段のが比にならないぐらい深い皺を眉間に刻んだ絹が、部屋にわざわざ飯を持ってきたもの、で。
「じゃぁ隆棋にでも渡して代わりに運ばせりゃ、それで良かったんじゃねぇのかよ?」と、此処に来てそんな言葉を吐き捨てたくなったのだが、その発言は今以上に絹の機嫌を悪化させてはならない。
弥代はなにも絹との関係を拗らせたいわけではなく、平たく言ってしまえば、友だち、とまでは言わなくていいがそこそこ、それなりにやは、り。少なくともまぁ、いくらかで構わないのである程度は仲……良く、
『弥代ちゃん。』
正直――否、分かりきっていた、事だ。
弥代はやはり彼女の、数少ない(というか一人しかいない)友人。友だちである彼女・扇堂雪那との一件をひどく引き摺ってしまっている。
そんな、まだ傷付いた部分が治りきっているわけでもない内に、こうして別の相手に対して、そういった関係を求めるなんて行為はそのものがきっと、薄情、だとか。なんかそこら辺の言葉を浴びる羽目になりそうな気がしなくはないの、だが。弥代自身としては扇堂雪那とは別に、これまでの彼女との間にあったのに近い関係を、そういった風に接する事が出来る相手を作れた方が、多少は気持ちが楽になれる、とそんな具合、で。
それ、に。
……それに、どうやら弥代はこれから、あと二日が経った暁――八月三十日の晩には西条家を出立せねばならない。
昼餉の支度が出来たからと声が掛かったことで隆棋が部屋を去った後、弥代の我儘で自分が食べ終えた後だろう、二人きりになって黙々と飯にありつく弥代を無言で見つめてくる絹を相手にし、弥代は焦りを覚えたのだ。
まだこの日々は、相良が戻ってくるまでは当分時間が掛かる、と。もうちょっとだけ、そんなに長くなくとも一緒に居れる時間は残されている、あるんだろうな、と弥代は考えていたの、だから。
そうなのだと分かってしまうと、いつつまでも掛け布団に包まって部屋の中でうだうだと過ごすのがとても無駄に感じた。
だから雨が止んだのを表立っての口実に、弥代が平らげ終えたことで空になった盆を下げるのに部屋を後にしようとする絹に声を掛けて、そうして肩を並べて弥代は廊下へと出たわけ、だが。
「だからさぁ、夕餉ん時はちゃんと一緒に広間行って食うって言ってんだからンなに怒らねぇでくれってばさぁ絹さん。」
「いいえ、この手は一度でも甘やかしてしまっては悪い癖になってしまうと、三ツ江絹は父・三ツ江文左衛門より幼い頃から躾けられてきました故、その訓えを破るような事は何があろうと、決して――」
「えっ? あぁ、やっぱにりそういうの教えてくれたのも三ツ江さん……父ちゃんなんだ。
ちょっと前に相良さんが絹さんの食事をする格好は〜って、結構食い終わってから褒めてた事があったからすげぇな、って。どこで学んだのかなって思ってたんだけどそっか……なるほどなぁ?」
「………………ぇ?」
弥代は少しズルを覚えた。
菊花開、霽月の徒路 二十一話
「――と言うわけで、弥代さんの調子がどうにも可笑しいのです!」
どういう訳だろうか、と隆棋は首を傾げてみせた。
山城国とは異なる、迫害を受ける地からやって来たというのに寛大な心を持つ、“色持ち”という立場にあるにも拘らず尊大な態度をとらない。身の程を弁え、立場を理解した上で言葉を選ぶ、接する相手ごとにキチンと目線を合わせて話してくれる。
そんな弥代に凡ゆる、様々な方向で役に立ち、お仕えしたいと考える隆棋、だ。
弥代の調子がどうにも可笑しいなどと言われてはこんな場所で、いくら西条家の一人娘である西条百合から呼び出された身であったとしてもその御側に逸早く駆けつけ、主人の様子を可笑しくさせているという悩みの種を取り除くお手伝いをしたい、と。隆棋はそんな事を考えずには居られない。
だが――、
「離して下さいませんか、つゆり殿?」
「ウフフ、駄目よ。隆棋くんったら弥代ちゃんの所に絶対行く気でしょう。せめて絹ちゃんのお話を最後まで聴いてからにしましょう。ね?」
「……分かりました。」
袴の後ろ紐を力強く掴まれた状態ではそれ以上どうにかしようという気は沸かない。挙句、山城国に数百とある青物屋をまとめ上げる青物問屋の一人娘に手を上げるような事は避けねばならない。
たとえ自身が稲葉家の血筋の、昨今の山城国において貴重な、“色”を持って生まれた、尊ぶべき“色持ち”であろうともしていい事としていけない事の線引きは出来るものだ。
浮かしかけの腰を静かに落とし、一つ小さな息を溢してから姿勢を正す。すれば落ち着きも自然と戻ってくる。主人の身を按じようとも、いくら駆けつけたいと逸る気持ちを抑えきれずとも、自分の誤った行いによって、間違っても火の粉が降り掛からないように努めねばなるまい。隆棋の目指す“お仕えする”というのは、そういう事だ。
「――して。水を差してしまい申し訳ございませんでした三ツ江殿。どうぞ続き、を。弥代様の様子が、とは具体的にどの様な状況でしたでしょうか?」
「貴方は本当に、潔いまでに弥代さんが絡むと駄目になるのですね稲葉隆棋?」
隆棋は笑顔でそれを流す事とした。
「やっぱり寝起きの弥代ちゃんの様子がどうだったかっていうのは、弥代ちゃんのお世話をしてくれている隆棋くんの方が詳しかったりするのよね。
同じ部屋で寝てはいるけれども、起きて直ぐなんていつも手一杯で、おはようぐらいしか掛ける余裕がないもの。」
など、と言葉を選ぶ。
絹、曰く、で、出来るのなら。
納める事が出来るたのなら納めたい処の話ではあったのだが、絹の説明だけではやはり少々不十分な部分が出てくるだろうといった考えがあり、百合はこの場に居座らせることに成功した隆棋が見聞きした、所感にも触れたい旨をそれとなく訊き出そうと試みた。
「えぇ、確かに今朝の弥代様の様子は変、でした。
ですが御本人や四方様の口より、昨晩の帰りが遅かった為に、とお聞きしておりましたのでそれ程は気にはなりませんでした。
目覚められるのも遅かったですし、言ってしまいますと朝を口にさえておりませんでしたので、昼餉の際に広間に姿を見せられないのも、寝坊をして朝を食べられなかった事を恥ずかしがってらっしゃるのだと、ばかり。」
「弥代さんが寝坊ぐらいで恥ずかしがると思っているのですか稲葉隆棋?」
なるほど、と百合は心の中で頷いた。
これは絹だけではなく、隆棋から話を訊き出して良かった、と。自分の見立てが間違っていなかった事を素直に評価する。
昨晩の弥代の帰りが遅かった、というのは今朝になって聞かされた事だ。
昨日は日中、絹と弥代を連れて屋敷を出た。昼過ぎに屋敷を出たこともあり、外でしっかりとした食事をする事はなかったものの、大通りに面した屋台なりから手軽に食べれそうな、歩きながらも口に出来そうな品を二、三見繕い弥代の機嫌を損ねてしまわない様。
絹が望む、弥代との思い出作りであったりというものに協力してやりたい、可愛い妹分の些細な願いを叶えてあげたいな、という一心から百合が提案したのが昨日だ。
しかし肝心の弥代との思い出づくりを、弥代と一緒にもっと遊びたいなんて思っている絹自身の、日頃からよくある余計な発言。要らぬ言葉の性で弥代は分かりやすくヘソを曲げてしまい、立ち寄ろうと思った店の前で絹と一揉めした後、勝手にいなくなってしまうような事があった。
それほど出向いた場所から屋敷までは離れていない、ここいら一帯の道だって然程入り組んでいるわけではないし、複雑な道でもない。迷うなんて起こりっこない、何事もなく弥代は西条家の屋敷に戻ることが出来るだろう、と百合は必要以上に気に掛けることはなかったの、だが――
(本当に手間の掛かる子ねぇ、弥代ちゃんは。)
手間が掛かる掛からないだけで面倒とは思わない。それを遇らってしまうのは勿体無いこと、だ。世の中には遅咲きの人だって存在しているのだから。
し、手塩に掛けたというのに咲かなかったにしても、才がなかったとしても向き合う姿勢というものは、取り組む意志というものは尊重しなくてはならないものだ。
そういうものであると百合は分かっているのだが、ただやはりどうにも、弥代という相手にはそういった姿勢であったりというものが微塵、も。碌に感じられない、将来的に返ってくるものが見えない、期待のしようが、心の寄せようがない、のだ。
否、なにも必ずしも見返りを求めている、見返りがなければ心を寄せたくない、というわけでもない、だが。だとしても、それにしても弥代という者は――というこれらは唯の愚痴……不満に、過ぎず。
でも、弥代と仲良くしたいのだと、それを心の底から望んでいる絹と稲葉家の嫡男という、山城国において尊ばれる、その存在そのものが祝福の証として崇められる、“色持ち”の二人より、裏表のない好意を向けられている、弥代という存在、は――
(妬いているだけ、ね。)
絹と隆棋の二人を前にし、二人があーだこーだと弥代に関して言葉を交わす、この場にいない弥代の様子をただ口にするだけで一喜一憂を分かりやすく見せる様は、外見に似つかわしくない。それこそ絹が実際に生きている年数であったりを考えればそれに近い、随分と幼いものに百合の目には映り。
でも、それ……は。
『ですが弥代様のように“色”を持って生まれてしまった方に、私は肩身の狭い思いをしてほしくはないの、です。』
その言葉に、三日前の自身が発した言葉に嘘偽りはない。
でもその言葉は、一応の体として弥代の名を出し、弥代に対し特別な感情を寄せているのは間違いのない、春原という男に動いてもらう事を目的とし選んだ言葉でもあり。
今、正に。
今この時、百合は絹と隆棋という“色持ち”の二人が実年齢よりも幼い立ち居振る舞いであったりをするのを決して、それを不愉快には感じておらず。どちらかといえばその様子を、正しく、肩身の狭い思いとは一切無縁そうな振る舞いに見え。
どれ……、ほど。どれだけ百合が“色持ち”に対し、肩の荷を下ろしてほしい、と。どうか辛い思いをしないでほしい、と願ったとして、も。百合のそれはどれも根回し、だ。自然な振る舞いで、意図せずに導いてやることは到底出来ない、出来た験しのない事。
純真な、清らか、な。透き通った、心根の綺麗、な。
そんな心の持ち主、を。“色”を持つ、芯のある彼、彼女等のそれが汚れてしまわぬ、よう。
――なに、も。そう在ってほしいと、そのままであって欲しいと手に掛ける、何かと根回しをする自分の行動を止めようと考えることはない。でも、そんな事を考えず、とも。そうしようという考えもなく、自分のいない場においても影響を与えることが出来てしまうというのは、実、に。
(ズルいわ、本当に。)
布団から出るだけでなく部屋からも出ることが出来、更には損ねてしまった絹の機嫌を、どうにかある程度まで戻すことに成功した弥代は、フンフンと小さく鼻を鳴らしながら西条家の屋敷の中を適当に徘徊していた。
世話になる、居座らせてもらうようになってから今日で七日目になるが、あまり一人では中を散策した事はない。絹を始めとした面々。百合に隆棋と屋敷の女中に、時折春原といった具合に、いつも誰かしらが隣に居てくれる事が多く、一人で歩くというのは初めてな気がしてない。
というのも、弥代が平らげおえた盆を厨に戻した後、何やら急用があるからと絹から置いてけぼりを食らってしまったのだ。でもそんなに時間は掛からないだろうから、と。少しすれば戻って参りますのでどうかこの辺りでお待ちを、なんて言われてしまい。
だから弥代は部屋に戻るに戻れない(否、絹にくっつく形で此処まで来てしまったから戻り方を、ただ単純に部屋への戻り方を覚えていないだけである)状況となって、おり。
見覚えはいくらかあるものの相変わらず名前と顔が一致しないものだからなんと呼べばいいのかも分からない、屋敷に住み込みの女中らと時折目があって、ペコリと頭を下げて会釈はするものの、「何かお困りごとでも?」という声掛けには曖昧な返しをするぐらいしか弥代は出来、ず。
とはいえ、廊下から庭に出るという気は、屋内から外へ出ようという気は湧かなかった。だって今日の庭は、朝からずっと雨が降っていたものだから、今はすっかり雨は止んでおり、空は雲一つないぐらい晴れ渡ってはいるものの地面が、土がひどく泥濘んでいるのが見ただけで分かる。
雨が降り止んだ後の土なんてものは厄介だ。
勢いよく踏み込めば、べちゃりと泥が跳ね上がる。乾いた土だって強く踏み込めばそれでぶわりと舞い上がることはあるが、あれは肌を掠めるだけでそんなに気にはならないが、雨の後のたっぷり水気のある泥があまり弥代は得意ではない。
否、ちょっと前にやたらと地面が泥濘んだ場所、で。掛川宿近郊で相良を相手に色々があったあの場所もひどく泥濘んではいたが、あれはもう無我夢中で、得意ではない、好きではないを気に掛けるだけの余裕はなかったものだから、まぁ……その、
「好き好んでってのは無ぇだろうって話、なんだわコレは……さ。」
縁側で膝を折り深く屈み、地面に目を向ける。
やたらとテカッている、偶に触ってもいないのにフツフツと小さな穴が空いたと思えば、その穴の口が息でも吸っているかのように動いたり。
こんもりと盛り上がった土の間に溜まった雨水だと、それこそ小さな水貯めみたいになって、映り込むのだってそんなに大きくはないのだが上の景色をちょっとばかし映したり。
ぬちょぬちょとしたあの、肌にまとわりつく感覚は思いだそうものなら直に触れていないのにぞわぞわと背筋を一気に駆け上ってくるものがあり。肌寒いわけでもないのに、少しばかり弥代は身を震わせた。
(なんで態々ンなもん見ちまったんだろう、俺。)
折角絹の機嫌が直ったことで弥代の気分もいい方向に進みつつある、調子がちょっとずつでも戻りつつあるというのにこれは良くない、と屈めていた体を持ち上げた。
そんなに長いあいだ同じ姿勢でいたというわけでもないのに、折り曲げていた体を伸ばすというのは中々に気持ちがいい。小さく体を折って窮屈な場所に籠るよりも、広い畳の上で限界まで体を伸ばす方が圧倒的に気持ちがいいのときっと同じだ。
人目がないのをいいことに、縁側の淵ギリギリに立って、弥代は体を大きく動かしてみた。同じぐらいの感覚で並んでいる、少し太めの柱と柱の間で、腕を伸ばしてもぶつかりっこないのを良いことに胸をこれでもかというぐらいに逸らしてみたり、もう曲げられないとなるぐらいまで腰を思いっきり捻ってみたり、肩を――
「――ッぶねぇ⁉︎ 加減間違えて肩外しそうだったぞ今俺⁉︎」
冷や汗が一気に吹き出す。体を大きく伸ばした後、その調子のまま逆に体を一旦内側に逸らしてをしようとしたところ、危うく肩の関節を弥代は外す際の格好に近付きつつある事に気付き、閉じかけた体を開いた。
外した感覚はないし、痛みもやって来ないのだがビクビクと怯えた様子で、恐る恐る自分の肩周りへと手を伸ばす。キチンと、動く。縄抜けであったり狭い場所なんかを通り抜けたりする際に肩幅が邪魔をする時には肩を外してしまった方が勝手の良かったりすることがこれまで幾度かあったもので、いくらか外し癖が付いてしまっている自覚はあった。
でもこの頃、は。昨年の春を機に、榊扇の里での暮らしが始まってからだから、かれこれ一年以上はもう外すような事に巻き込まれたり、といった事、は。
「…………。」
それは、なんと言うか。
運がいいとでも言うの、だろうか?
否、恵まれている、縁遠いもの、と言う、か。
雨の後の泥濘んだ土と同様に、好き好んでいる事ではないのでそういった事に巻き込まれていない、面倒事で酷い目に遭っているわけでもないのだから十分すぎるほど今は穏やかな日々を弥代は送れている、という事、で。
「…………考えんの止めよ。」
折角よくなった気分が再び悪くなってしまう、気持ちがどんよりと澱んでしまいそうな気がして、弥代はそれ以上を考えるのを止めた。
止めて、そうし、て―――。
「…………。」
「……。」
いつから其処にいたのだろう、か。
庭に立つ男と目が合った。
一人で過ごそうものならふとした拍子に、今しがた考えるのを止めた事柄をまた思い出してしまいそうな、折角目を逸らしたというのに何れ意識が向いてしまうだろうと。それがとても不快で、気分のいいものではない事を、それぐらいの事なら自分でも分かるのだと弥代は自分に言い聞かせ、そうしてこの場でそれから逃げる為に、いつから其処にいたのかが分からない彼の、春原千方のいる方へと足を向け近付いた。勿論、縁側から地面には下りぬように、だ。
縁側を進み、春原が立つ位置の一番近くで弥代は足を止めて、そのまま春原を手招いた。
弥代の言う事に対し耳をよく傾け、弥代の望むように(悪い言い方をしてしまえば弥代に対しとても都合がよく)動くのが春原千方という男、だ。
弥代が手招けばそれでコクリと小さく頷き、庭のど真ん中から弥代が足を止めた縁側の淵まで距離を詰める。
「何してんの、お前?」
「稽古を、していた。」
「けい……こ?」
「竹刀を借りた。これを振っていた。」
「あー、素振りな?」
言いながら軽く持ち上げられる春原の左手には刀ではなく、竹で出来ている刀で、字もそのまま“竹”に“刀”と書いて“しない”と呼ばれるものが握られていた。
弥代が知る多くの人は弥代が左利きであるのに対し、反対の右利きである事が多いのだが、いま弥代の目の前にいる春原という男は弥代や弥代以外の多くの人とは違う、右も左も関係なく物を扱うことが出来てしまう、“両利き”というらしく。
その時にならねばどっちの手を使っているのか、というのは分からぬ事が多いのだがほんの気持ち程度。なんだか弥代と接する際の春原は弥代に合わせてでもいるかのように左に物を持つ機会が多い気が弥代はしてならない。
思いかえそうとすれば確かに、以前からずっとそうだった気もしなくはやはりないのだが、但し如何せん弥代がその事にそうかもしれない、と気付くことが出来たのはつい最近の事。
そうだったのか?と仮に弥代が訊ねたとして、春原千方という弥代を何かと常に気に掛けてくれる、弥代が素直に言葉にすればそれを、弥代の望みに応えてくれるような男なので教えてはくれるのだろう、が。万が一、彼が意図せず自然とそれをやっていたのだとして、も。
……否、それはそれで別に弥代は嫌な気になんてなりはしない。寧ろ、多分きっと、気付かずにずっとそんな風に弥代に対して前々から接してくれていたのだと知れば嬉しくないわけがない、のだが。
(こういうのが全部分かっちゃ面白くないとか、そういうのが確かなんか合った気がすんだよな。)
それらは良い意味で伏せる事とした。
「いや、そうじゃなくって!
えっ、えっと……い、何時からいたんだよお前は、さ?」
「何時、から……?
…………弥代が彼処で体を大きく動かしている時から、だ。」
「最初から居たってこと?」
「弥代、何やら地面を見ていたのは知ってる。」
「それはもう全部なんだよ……っ、」
急に恥ずかしさが込み上がってくる。誰もいないのを良いことに始めたからなのもあったろうが、それを見たからといって自分から何を言ってくるでもない、下手に揶揄ってくるというわけでもない春原相手に淡々と、そんな事を話されるのはとても気恥ずかしい。
彼を悪いと言っているわけではない、と弥代は彼が誤解をしてしまわないように声を掛けた。
「気ぃ、悪くした?」
「そんな事はない。弥代は優しいな。」
「……んぅ。」
地面よりも縁側の方が高さがあるのは当たり前のことなのだが、なんでこんな儘で喋ってるんだろう、と弥代はそんな気持ちにならざるを得なかった。
と、いうのも相変わらず弥代は縁側の上、建物の内側の高さのある部分に立ち。春原といえば庭において竹刀で素振りを続けていたもので、多分この後もそれを続けるのだろう、草履を脱ぐことなく庭に立った儘で。
いつもある程度弥代の方から見上げる事が多い、自分よりも上背のある男を、どういうわけか今は軽く見下ろせるぐらい自分は高さのある場所にいるわけ、で。
(素直だよ、な……本当に春原。)
浮かび掛かった感覚に弥代は覚えがないわけではない。でも流石に違いすぎるだろう、と心の中で首を横に振る。
傾げるだけでも済んだものを、これでもかというぐらいに横に振る。まさか、まさかよりによって桜を前にすると勝手に湧き上がってくるものが此処に来て、春原を相手に浮かびそうになるなんて思ってもなかった。
それはいくら何でも気の所為だ、と。それは多分、いつまでも慣れない向き合い方をしてる、見上げ慣れているはずの相手から見上げられるなんていつもとは違う状況が初めてなものだから変に感じてしまっているだけで、と言い聞かせ、そうして。
「とりあえず座ったら?」
「分かった。」
弥代は春原をその場に座らせることに成功した。
「竹刀ってさぁ、実際の刀とじゃやっぱり持った時の重さとかが違ぇじゃん? 素振りってただ振るだけだけどさ、そんな重さが違ぇの振るっても、なんつーの、感覚……とか? 変わったりするからあんまりしても意味とかないんじゃねぇの、意味あんの?」
前々から気になっていたのだ。
刀の扱いに関してであれば春原よりも絶対に相良の方が多くを知っているだろうし、何がどうしてそうなったのか、といった弥代だけでは何があっても知る機会はなかった事だろう背景というものを含めて色々な事を教えてくれたろうが、そんな相良が帰ってくるのは今日ではなく明日だ。
なら明日になって相良が帰ってきてから、どうしてかな?と訊ねても良いのだろうが、敢えて弥代は今日この場において春原相手にそんな疑問を投げ掛けてみることとした。
刀の扱いならば確かに相良の方が多くを知っているだろうが、心なしか。これは日頃実際に振るっている春原の方がよく知っているんじゃないか、という考えからだ。
後は純粋に、春原相手にちょっと話がしたかった、と。それだけだ。
「そう、だ。竹刀は刀よりもずっと軽い。これだけでは軽すぎて好きではない。」
「へー、やっぱりそうなんだ!」
「……そうだ。だからこの部分、に。……柄、握るこの辺りにこうして、輪になっているから下から通し、錘を付ける事で重くし振るう。」
言いながら手元の竹刀を実際に、弥代が見やすい位置にまで軽く持ち上げてみせて春原はあれよこれよと手を動かした。
「輪になっている、他にも帯のように竹刀に巻きつける錘もある、と聞く。輪の方が嵩張らない、邪魔にならないから、と相良が用意したものを使っている。」
「それってこの錘だけじゃなくって、竹刀も相良さんが用意してくれたモンなの?」
「……いや。竹刀は屋敷の者に言ったところ用意された物、だ。」
「ふーん、じゃぁこの輪がピッタリ嵌まるって事は竹刀ってのはどこのも大体おんなじ様な太さをしてるからって事だったりするのかな?」
「…………考えたこともない。」
「え、本当に?」
「弥代はやはり頭がいいな。」
「……ん、いや? そ、それほど……でも?」
心の底からそう思ったのだろう。
説明であったり、なにかを誰かにそうやって伝えたりというのがあまり得意とはいえない方であろう春原が、弥代に訊かられたからという理由で慣れぬのに色々を、多少言葉を詰まらせながらも紡ぐのは、不器用ながらも頑張ろうという姿勢なりが感じられた。
やはり口数がそれほど多い男ではない。だというのに、自分が話し掛けるものだから、他でもない弥代相手だから多分、それはしてくれた事に違いはなく。
だって、重たい前髪の奥の目尻がちょっとだけ緩むの、だ。「俺では考えつかない事だ。」なんて言いながら、自分が口にした言葉に納得でもするように、小さく頷いてみせる。
二度目ともなると否定が難しくなってしまうなんてのは、きっと誰にだって覚えがあるのではないだろうか。だから弥代は、桜を前にした時に感じるそれを春原を相手にも感じた事を、今度こそすんなりと受け入れてみた。
「――では、もう調子は戻られたのですか弥代さん⁉︎」
「だからンな大袈裟な……他人に心配されて良くなるもんでもねぇから気にするなって俺言った……、アレ?
……いや、言った。…………ア、直接言ってはねぇか?」
「流石弥代様です。御自身の問題を自身だけで片付け、剰え他者への気配りも出来てしまうなど、隆棋は涙で前が見えませ」
春原と広い庭に面した縁側で談笑に耽り始め、暫くが経ってから絹が百合と隆棋の二人を引き連れて姿を見せた。
そういえば厨の前の廊下で別れた後、近くにいてくださいなんてのを弥代は言われた記憶が、薄っすら、あるかないかで言えばあったわけだが。言い訳なんかを全て取っ払ってしまえばすっかり忘れていた。
それよりも春原との談笑にいつの間にか熱中してしまっていたのだが。……まぁ、一々それを説明する必要はこれぽっちも有りはしないだろう。
はいはい、なんて軽返事を繰り返し、それほど振られる話だったり、聞き慣れた隆棋からのよく分からない褒め言葉を遇らってみたり。
春原との一対一のやりとりというものは、回数を重ねていく内に、彼の間の取り方だったり、言葉を紡ぐまでの時間だったりという感覚を掴めるようになればそれほどまで苦ではなかった。
が、その場に居合わせる人が一気に増えるということ、口数は少ない方の春原に一人で向き合うのとは全くといっていいほど訳が異なる。
一人を捌くのも手一杯。西条家で世話になってから幾度この三人が居合わせる場において弥代は頭の整理が追いつかず、苦い思いをさせられたものか……。
しかし途中から弥代は気付いたのだ。馬鹿正直に全てに返す必要なんてどこにもないのだ、と。
ある程度、たとえば隆棋は弥代の事をなんだか色々と言いはするものの、弥代がそれを聞き入れることを望んではないし、なんなら返事が欲しいから口にしているわけではない。
あくまで自己満足。口に出すことに意味がある。だから好き勝手言わせておけばそれ、で。
「ねぇねぇ弥代ちゃん。私前々から気になっていた事があるんだけど訊いてもいいかしら?」
「訊きたいこと? 何さつゆりさん。」
「ウフフ、あのね――」
春原様と弥代ちゃんって、どっちの方が強いのかしら?




