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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
中篇・菊花開、霽月の徒路(全50話)
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四十四話 鬼神

 誰も酒が()めないなどとは一言も言っていない。

 好きか嫌いかと()かれれば、どちらかといえば好きだ、と弥代は答えることだし、味の()い、甘塩(あまじょ)っぱいお(かず)なんかが並べられた飯時なんかに、(そそ)がれたモノを差し出されたら素直に喜んで受け取りだってする。

 それぐらいにはまぁまぁ好き、な方ではあるのだが、しかし――

「ンでぇ、志朗(しろう)(せがれ)のくせして酒が呑めねぇなんて事ぁある(わきゃ)ねぇだろうが!

 山城(やましろ)のお偉ぇさん方がそんなモン許したってなぁぁ、大阪育ちの俺がぁンなの許しゃしねぇぞ坊主ッ! いいかぁ、酒が呑めねぇ男なんざ多少(ツラ)が良くたって女にチヤホヤなんてされねぇんだぞ。女にモテたちゃ酒の一杯や二杯……、十杯や二十杯……。男を見せるってんならいっそ、一升瓶(いっしょうびん)からそのままグイッと、(から)に出来るぐれぇ見せつけてやんなきゃならねぇ。

 ……あぁん? なんでぇ坊主、お前まだ喉仏(のどぼとけ)も出ていやしねぇのか? ははーん、だから小せぇ頃の志朗みてぇに首元隠すようなモンに袖なんか通してやがんだな。そうかそうか、そんなんじゃ酒もまだ早ぇか。ハハッ、そいつは悪ぃことをしちまったなぁ……なんて、そう簡単に問屋(とんや)(おろ)せる(わきゃ)ねぇんだよっ‼︎ そんなんなら(はな)から餓鬼相手に酒なんか勧めっこねぇ話になんだろうがよぉおッ⁉︎

 なぁなぁ、いいだろう坊主?父ちゃんが帰ってくる前に一杯……いやぁ、一口でいいんだ、呑み仲間のいねぇ可哀想なおじちゃんに付き合うと思ってちょいと……、お駄賃(だちん)やっからさ……な? 」

「いやっ、だから呑まないって、俺、言って……、」

 支離死滅にも程がある。

 (いや)、なにも全く無関係の話がいきなり始まる事はないからある程度は関連のある、そういった(たぐい)の延長であるということぐらいは弥代にだって分かるには分かりはするのだが、だとしても酷いもの、だ。

 後はそう、酒を呑むのが好き、と、酔っ払いが好きというのは全く別の話、と。

 つまるところ弥代が言いたいのはそれに()きるのだが、まぁ言ったところであまり意味がないこともまた、弥代は理解出来ていた為にグッと(こら)えてみせた。



「えぇ、それでは度々(たびたび)で申し訳ございませんが、此方(こちら)(あら)めてお願いします。」

 読み終えた(ふみ)を落としてしまわぬ、()くしてしまわぬように折り(たた)んだ(のち)相良(さがら)はそれを(ふところ)(おさ)めた。

 決して人の目に触れてはならぬ書状(内容)というわけではないのだが、だからといって知らぬ者の手に渡ってもいい代物(しろもの)では(だん)じてない。

 事情を知らぬ者が目を通したところで、それが意味するところなど分かるわけがないのもそうなのだが、だからといって()くしてしまったり、手放してしまってもいいわけがない。

 今の用事を済ませ、西条(さいじょう)()の別邸に戻り次第とはなるが、屋敷の広さの割にそれほど人数のいない、女中の誰かしらに処分するように渡すのが確実であろう。

 賓客(ひんきゃく)として手厚いもてなしを受ける立場にあるからこそ、屋敷の外で面倒事を起こすような、事を荒立てるような事はしてはならない。西条家の名に泥を塗るような真似は許されない。

(まぁ、いくら気に掛けたところで未然(みぜん)に全てを(ふせ)げるわけがないことぐらいは分かっていますとも。)

 町飛脚(まちひきゃく)のように風鈴を鳴らさずに静かに(ふみ)を届ける、文使(ふみづか)い屋に(あて)がないかを店の者に(たず)ね、店にまで足を運んでもらったのもその為、だ。

 それほど古い(つく)りをしている、という事はない店ではあるが、日々繁盛しているのだろう。店の者が頻繁に行き来をしている為に多少床板(とこいた)が音を立てる。

 しかし、人が歩けば僅かだが(きし)む音を立てる廊下だというのに、それさえも上手く(ころ)しでもしたのか、音を立てることなく、相良が気付いた時にはもう目の前には文使い屋の姿はなかった。

 客の事情であったりを変に詮索(せんさく)しないのは大変助かりはするが、声を掛けずにいつの間にやら居なくなるのは――、

 相良は目を伏せた。

 そうして一息(ひといき)を吐きこぼした(のち)、頭を切り替えるついでに大きく(あご)()らしながら、首後ろに手を伸ばした。

 あの手、の。(はなし)に長く耳を傾ける、同じ姿勢のまま意識を集中させるというのは随分と久方(ひさかた)ぶりの事だったもので、しょうしょう肩が()り固まってしまっている。今晩はしっかり揉み(ほぐ)しておかねば明日に響きかねない。

 直近(ちょっきん)に酒による失態をした身であり、今日の外出にしても西条銀嶺(ぎんれい)から(すす)められたとしても外で呑むことのないように、釘を刺されているものだから間違っても手を伸ばすことはないものの、相手が相手であるものだから早々に帰れる、此度(こたび)の席をお(ひら)きに出来る自信が相良はあまりなかった。

 いっそ、見た目だけなら十やそこいらに見えると言われていた弥代を上手いこと誘導し味方に付けることで、それを盾にしとっとと要件(本題)を済ませ、立ち去ろうかを考える、も。

『し、ろう……? 志朗じゃねぇかお(めぇ)さん? な、なんでぇ、随分デカくなりやがって見違えたと思ったら餓鬼まで(こしら)えていやがんじゃねぇかよ、えぇ?』

「…………。」

 相良は小さく(かぶり)を振るった。



『そうなんだよ!

 俺ね、今日は(きぬ)さんと百合(ゆり)さんの二人と一緒にぶらぶらしてたんだけどさ。ちょっと……だよ。ちょっとその、目を(はな)した(あいだ)にえっと、二人とはぐれちまって、さ。

 でも……そのっ、同じ場所でいくら待ってても、二人の姿が見えなくって、それで、その……ね、』

 先の道中、店を移動する際に弥代が相良を相手にそんな事を言っていたのをふと、思い出す。

 店に態々文使い屋を呼んだのも、元々は銀嶺の孫娘である西条百合と、西条家に(つか)えている三ツ江(みつえ)絹と屋敷から出ていた処ではぐれ――迷子になってしまったからという事情説明があったから、だ。

 てっきり一人で勝手に出歩く許可でも貰い、浮かれて街をウロウロとしていたのだろうと相良は考えていた為に度肝(どぎも)を抜かれたものだ。

 騒ぎを起こすわけにもいかず、表面上はそうでしたか、とだけ返事をし、内心はひどく(あせ)らすにはいられなかったのは言うまでもない。

 (あに)弟子(でし)に当たる男が山城国(やましろのくに)で仕事をしに来る際はいつも世話になっているのだという店に案内(着く)なり、相良の行動は早いものであった。

 そしてつい先ほど、最初に相良から(ふみ)(いや)、文と呼べるほど大層な内容ではないが)を出してから一刻と()たずしてそれは(かえ)ってきた。

 それは、外出をしていた孫娘と絹から弥代と(はぐ)れてしまったという、案の定のもので。しかし続く文面は、こちらを気遣うものとなっており。帰りが遅くなる場合は屋敷から遣いの者を送るので、またその際は文を出してほしい、地の利をそれほど理解していない余所者が陽が沈んでから出歩かせるのは不安である、といった内容であった。

 簡潔にしたためた自分と違い、腰を()えた上でしたためられたであろう字は、明日には処分されてしまうのが思わず勿体無いと感じてしまうぐらいには落ち着いた、大変(ととの)った、綺麗な形をして、おり。

「んぁあれぇえ、相良さんお酒好きなんでしょう? なんで呑まねぇのぉ?」

「そうだぞ志朗(しろう)ぉ、テメェの餓鬼が()いでくれる酒なんてのはなぁ、それに(まさ)るモンなんかありゃぁしねぇってモンをお前さんはよぉお、こんな親孝行もん中々ぁ()ねぇぞ馬鹿野郎がッ‼︎

 ありがてぇ()って呑んでやれよッ‼︎」

「……帰りたい。」

 どうしてこんな事になってしまったのだろうか、相良は考える。考えるも、(いや)、そんなに長く席を外していた、というわけではない。なら、何故か。

「…………。」

 腰を下ろした座布団の前、盆の更に奥の一升瓶を手に、とり――

「……ッ、」

 珍しく、舌を打たずにいられなかった。






 古く、講談(こうだん)に限った話ではなく落語(らくご)もまた、室内で口演(こうえん)ではなく、野外(やがい)にて(おこな)われていたものだ。

 室内にわざわざ演者(えんじゃ)(まね)き入れ、高座(こうざ)(しつら)えるようになったのは江戸の中でもかなり後期の事であったらしく。

 講釈師(こうしゃくし)、見てきたような嘘をつき、などという言葉という有名な言葉が存在している(ある)ぐらいには、まぁ室内に設られるようになったきっかけまでが嘘ではなかったにしろ、口車(くちぐるま)に乗せられた結果の上書(じょうしょ)があったとか、なかったとかだったと相良は思い出す。

 多く物事を知っていると、その知識の幅を評価される機会は少なくはないが、そのどれもが幼い頃に祖父から聞かされたものが大半である。

 祖父と共に過ごした時間と、祖父が亡くなってからのこれまでの歩みでは遥かに後者の方が長くはあるが、生きる為に得たモノと、自ら関心を抱き覚えるに至ったモノは、同じ知識であっても(まった)くの別物だ。幾ら多くを知っている、と言われようとも相良自身のそれは浅く、到底知っていると胸を張るのは難しいものばかり、だ。

 だからこそ今後の旅路に(さい)し、知れる事柄があるのなら、と行動に起こしたという、のに。

「い……いやぁ、その……さ。

 べっ、別にその……ち、違んだよ相良さん、あの……あのね、俺だって駄目だなって、嫌だって断ったんだよ。ちゃんと断ったの。で、でもね、その南亭(なんてい)さんがどうしてもって、そのしっ、しつこくって、断るに断りきれなくって。ちょっと、ほんのちょっとだけ……これぽっち、本当にちょっとだけ、なんだよ呑んだのなんてさ。

 そんないっぱい……いっぱいなんて全然呑んでなんかないんだから……ね?」

 嘘、である。

 嘘を()くにしても最初から最後まで全てありもしない虚言でいっそ(つらぬ)(とお)した方が楽である、ということすらきっと知りもしないのだろう相手に相良は()やかな視線を送る。弥代に対しそんなものを送るつもりなど持ち合わせていなかったのに、まさか送る日が来ようとは。

 頭が痛くなるを通し越して(あき)れすぎて最早なんの言葉も出てこない。

 下手な嘘だ。前もって筋書きをいっそ用意してくれていた方がマシに思えたろう中途半端で不出来な嘘。(いや)、どちらかといえばただの言い訳に近いかもしれない。オマケに口にした(そば)から視線が右へ左へ行ったり来たりを繰り返し、しどろもどろになる。どうにも見るに(たえ)えない。

「それで、どれだけ呑んだのですか貴女(あなた)は?」

「ひゃっ⁉︎ ……い、一杯は一杯、だよ?」

「なみなみ、の間違いでは?」

「……こ、これぐらい?」

(ふち)ギリギリとなみなみの違いは何だと言うのでしょうか、答えられますね弥代さん。」

「きっ、気持ち?」

 相良は頭を(おさ)えずには()られなかった。






「いやぁ、悪ぃなぁ志朗(しろう)

 ちょいと羽目(はめ)(はず)しすぎちまったわ、許してくれ!」

 (まった)く悪びれてなどいない、自分が微塵も悪いことをしたなんて思っちゃいない謝りと、許しを()う態度を、少なくとも弥代は初めて目にした。

 相良が席を外してる(かん)、今日の今日初めて会ったばかりの、相良曰く兄弟子の旭堂(きょくどう)南亭(なんてい)という“講釈師(こうしゃくし)”の男に酒を(すす)められ、駄賃に買収されて酒を(あお)ってから半刻ほど。

 昔からなにかと酒を()んでも割と()ぐに酔いが()めてしまう弥代は既にいつも通りに振る舞えていた。怪我の(なお)りが早いのに起因(関係)しているのやもしれない。

「許し(がた)いです。なんですこの酒は? 薄めもせずこんなモノを、よりによってこんな年端(としは)もいかぬ子どもなんかに呑ませて、貴方という大人は……、」

「ん、相良さん? 俺、そんな餓鬼じゃ」

「貴女は少々黙ってなさい弥代さんっ‼︎」

「……んあぃ、」

 分かりやすく怒りを(あら)わにしている、目くじらを立てて声を張り上げる。以前にも似たような様子の相良を弥代は見ている。

 あれは確か、春原が自分で歩けなくなって、弥代と藤原和馬()が屋敷の療養室に運んだやった際に、それを(しか)りつけていた時で。弥代自身に向けられたものではなく、自分以外に向けられているものだからか自然と、見えるのはやはり後ろ姿で。ちょっとだけ蚊帳(かや)の外にいるような気持ちになった。

「大体……志宣(ゆきむら)、貴方という方はそうして昔から――」

(……ゆき、むら?)

 黙っていなさいと言われたばかりだ。口を開こうものならまた怒られるのではないか、と弥代は口は(つぐ)むも、しかし目の前で繰り広げられる二人のやりとりに耳を(かたむ)けることで大人しく(ちぢ)こまる事とした。



 旭堂南亭という名はあくまで講釈師としての名であり、不思議なことにそれとは別の名前が彼にはあるらしい。

 弥代がそれを知ったのは相良の怒りが(ようや)()りを(ひそ)めてからの事であり、体感にして四半刻といった(ところ)、か。

 相良がいる手前、やはりあまり得意ではないから、という理由で足を崩し胡座(あぐら)()こうものなら、頭に血が上りきっている怒り心頭(しんとう)といった様子の相良相手ではなにをどれだけ詰められるかを考え、全く予想が付かなかったので弥代は我慢し正座を頑張った。

 それが(しび)れ始める頃合いになって、やっと相良の声色(こわいろ)は普段調子のものに戻りつつあったので、やはり四半刻ほどといったところだろう。

 それまでずっと相良の背中の後ろで正座をしていた弥代だが、怒りを収めた後は相良の横に並ぶように手招(てまね)かれ、それに素直に(したが)うと弥代はやっと“旭堂南亭”の口から“志宣(ゆきむら)”という名前を聞かされた。

「講談が初めての坊主じゃ知らねぇかもしんねぇがな、俺らみてぇな芸で飯を食ってる連中ってのはな、芸をする時に名乗る別の名前があんだわ。

 旭堂南亭の“旭堂”ってのが一門の()で、そこの出だってのが分かる、芸を仕込んでくれた師匠(ししょう)からお前さんは一人前だって認めてもらったらそれで貰えんのが下の名前でなぁ。

 ……あぁ、南亭を(あた)えられる前にも別のが有りはするんだがそいつはややこしくなるだろうからな。

 まぁ、志朗が俺の事をどっちでも呼びやがらねぇ小生意気な餓鬼で、いくら呼ぶなっても、なんだ? テメェと同じ字があるこっちの方が良いとか我儘を()かしやがる、そういうとこにしか可愛げのねぇ奴だった、ってだけの話だ。

 此処は高座じゃねぇからな、志朗と同じように坊主も好きに呼んでくれて構いやしねぇよ。」

 一度口を開こうものなら暫くは言葉が続く。長ったらしいな、と耳を傾けている(あいだ)は感じずにはいられないのだが、いざ向こうが話し終えるとなにも耳心地が悪くなかったのではないか、と思えてくる。不思議な感じに包まれながら弥代は小さく、「じゃぁ」なんて切り出した。

「……南亭、さん。」

 既に一回、そう呼んだ後だ。今になって別に名前があるからという理由で、いくら教えてもらったからといって変えるのも変な感覚だ。

 そう続ければそれ……で、

「そんで、坊主の方はなんつうんだよ名前は?」

「……ぁ、え? お、俺?」

「おぅ、志朗が散々呼んでるの聞いちゃいるが、俺が名乗ったってのにお前さんが名乗らねぇってのはちょいと話が違わねぇか?」

「い、言われてみれば……、」

 ()ず怖ず、と。右手の相良を、助け舟まではいかないものの、本当に名乗ってもいいのだろうか?といった思いを込めて見遣った。

「他人の名前で勝手をするような男ではございませんのでそこだけは御安心を。」

「そこ以外も安心してくれて構わねぇぞぉー、旭堂南亭は嘘っぱちだが、志宣おじちゃんは嘘は言わねぇからなぁー」

「どの(くち)が……、」

「ハハッ、この口以外にあるわけねぇだろうが。」

「えっと……じっ、じゃぁ……」

 (たたず)まいを(なお)す。

 背筋をグッと伸ばして、今もまだ酔いが覚めきっているわけではないが、一番ひどい時と比べればその差は歴然な、そんな男を前に弥代、は

「俺、は――」



 ただ名前を名乗るだけで一旦終わると思っていたやりとりは意外にも、弥代の言葉に相良が此処に(いた)るまでの経緯であったりを続けたことで終わることはなかった。

 正直、以降は中々口を開く機会を得られずにいた弥代でも、相良が随分と多くを、これまであまり口にしていなかった諸々を含め語るもので、そんなのをこの場で話してしまっても本当に良いのだろうか?と不安に感じる瞬間は多くあった。

 しかし、すぐ右隣にいる相良と弥代は幾度か目は()えども、相良がそれで口を閉ざす――話すのを止めるといった様子を一切見せなかったので、弥代が口を挟み、それを止めようという考えが浮かぶことはなかった。

「……なるほど、旧国(きゅうこく)()まう、()鬼神(きしん)様に会いたい……ねぇ。」

 コツコツコツコツ、と畳の(へり)を一定の感覚で指の背を使い叩く。そうしていつの間にか伏せられていた瞳が、青い“色”をした瞳が緩く、その姿を見せ――、

「そいじゃぁ、少しばかし俺の知ってる話でもしてやろうじゃねぇか?」

 そうして、志宣の口は開かれた。



 江戸は後期(こうき)文政(ぶんせい)の頃の話、だ。

 その時代というものは()(くに)――海を渡った先のからやって来る奴らが(もた)らす脅威に(さら)された時代であり、それまでこの島国になかった新たな技術を多く取り込み、それらに対抗しうる手段(武器)を作らねばならなかった。

 その一つが、“反射炉(はんしゃろ)”と呼ばれる装置だ。

「反射炉ってのは一度に大量の鉄を溶かすことができるっつー代物(しろもの)だ。

 そいつを使えば青銅(せいどう)なんかよりも()の張らねぇ辰で、鉄砲玉なんか目じゃねぇ大砲玉が作れて、海を渡って来やがる船を丸ごと(しず)めてやる事が出来るなんて言われてやがったみてぇだな。

 上手く撃ち込めりゃぁ船をどうにか出来ちまうってだけで、とんでもねぇブツだってのは分かんだろう。」

 船、と言われて弥代が思い出すのはつい最近、宮宿(みやしゅく)桑名宿(くわなしゅく)を繋ぐ、七里(しちり)(わた)しなどと呼ばれる海路と、実際にそれに乗った際の事だ。

 船着場(ふなつきば)で乗船が出来るまでの(あいだ)、ただ見上げただけでは天辺(てっぺん)までを見ることは出来ずに、それを視界に収めようとするのに十歩近く後退(あとずさ)りをせねばならかった程に大きく。横幅に関しては扇堂家の屋敷の端から端までと同じぐらいは長さがあるのかといった程、で。

 それを、そんな大きさのある船を、当たりどころが良ければその、大砲だかでどうにか、出来てしまう、と。

「とんでもねぇ……んだな、それって。」

 船が沈む、というのが具体的にどんなであるかまで想像はつかないが、あの大きさのものが海の上で沈んでしまう、というのは大変だという事に違いはない筈、だ。

 しかし――、

反射炉(それ)と旧国の鬼神に、一体どのような関係があるのでしょうか?」

 相良が口を挟む。

 そう、だ。それは弥代であっても分からない、自分が今目指している、旧国という地に()まうとされる鬼神に、どのような関わりがあるというのかが全く分からなかった部分だ。

 が、自分などよりも多くを知っている、頭のいい相良が同じような疑問を抱き、それを直接口にまでする、という事は、

「そう()かすんじゃねえ、物事にはキチンと順序ってもんが大切だろうが。いきなりオチだけ教えたって、どうせあーだこーだって()きやがるのが志朗(しろう)、お(めぇ)さんの悪い(ところ)だ。

 そいつを少なくする為にも俺は話すのを選んでやがんだ、耳の穴だけよーくかっぽじって聞き漏らさねぇように()きやがれってんだ。」

 この島国で最初に作られた“反射炉”というのが、弥代らが目指している旧国――肥前国(ひぜんのくに)佐賀藩(さがはん)築地(ついじ)反射炉(はんしゃろ)と呼ばれるもの、だ。

 洋式と呼ばれる大砲が鋳造(ちゅうぞう)されるに至った要因が、その旧国という地に()(くに)と呼ばれる地の者達が操縦する、船が侵入してきたから(ゆえ)らしく、それらの侵入を(ふせ)ぐ為に(つく)り上げられたとされる。

「それから十年と経たねぇ(うち)に、伊豆国(いずのくに)の方に二つ目になる、韮山(にらやま)反射炉(はんしゃろ)ってのが出来てな。佐賀の築地よりも、伊豆の韮山の方がいい働きをしたって聞いたことがある。」

「えっと、じゃぁその……、伊豆の方で出来たの、その大砲ってのが?」

「あぁ、それまでの青銅で出来た砲身(ほうしん)じゃねぇ、鉄による破裂がし(づれ)ぇ、砲弾(ほうだん)さえありゃいくらでも撃てちまう、とんでもねぇ代物が生まれちまったらしいぜ。」

 事実、それは外つ国に対する牽制としての役割を見事果たした。更には当時の政権を掌握していた幕府が崩御した際に起きたとされる内戦にも(もち)いられもし、それによって多くの兵の、人の命が散ったそそう、だ。

「海の向こうの奴らを相手にするのに(つく)られた武器で、同じ島国の連中の命を五万と奪った以上に笑えねぇ話を俺は知らねぇし、それ以上のモンを知りたいとも思わねぇな。」

 そして――

「まぁ、そんな危ねぇ代物だが……志朗と坊主は確かついこの(あいだ)東海道(とうかいどう)でこっちまで来やがった()ってたなぁ。街道沿じゃねぇが、そんな代物があるなんて話し、少しでも耳にしたか?」

「……ぇ?」

 それはとても大きい造りをしている、と説明を受けたばかり、である。

 伊豆国といえば、まだそれは弥代が相良の事を見れるようになる以前、箱根の関所を超えたばかりの頃ぐらいに通過したぐらいだった筈、だ。だとすれば自分の事で手一杯で、ろくに周囲を気に掛けられるだけの余裕のなかった弥代が、覚えているわけもなく。

 だから弥代の目線は自然と、相良へと向けられた。

「き、聞いたことある、相良さん?」

「いいえ、ありません。

 伊豆国ですとかなり昔に、伊豆七島(いずしちとう)までではないですが立ち寄る機会はそれなりにありましたが、そういったモノが韮山(あの地)()った、という話自体、聞いたこともありません。」

 口元に指が添えて、相良はそう溢した。

 先ほど同様、相良も知らぬとなればそれまで、だ。が目の前の、旭堂南亭という講釈師は相良もまだ知らないような事を多く、その内に抱えているのだろう、と。弥代の知る限りでも一番多くを知っているだろう相良のそれを(ゆう)に上回るだけの事を知っているのだろう事だけは(うかが)えてしまい、それを恐ろしく感じずにはいられなかった。

「あぁそうだろう、そうだろう。そいつはもうそっちにはねぇ代物だからなぁ?」



 反射炉、というものは()のみでは意味を()さない。隣接する、それらの近くには必ず水辺――河川(かせん)がなくてはならぬ上、燃料となる炭に鍛冶場と幾らか建物があることで機能する、鋳造工場なのだそうだ。

「中々場所も取りやがる立派なモンみてぇでな。まぁ、勿論俺はそれを直接見たことがねぇから知るわきゃねぇんだが……そうだな。長屋が四棟(よんとう)分あっても足りねぇぐらいの大きさはあったんじゃねぇかな? まぁ、要するに兎に角デカかったそうだ。

 そんな代物がよ、全く何がどうしたらそうなるんだって話だがな、前の晩はちゃんとその場所にあったもんがまるっとな、次の日の朝には無くなっちまうような事件(騒ぎ)が、その昔に起きちまったそう、なんだわ。」

「…………は?」

 声を漏らしたのは弥代ではなく、相良だった。



 そういった特殊な()が存在していた、という事実を相良が知らぬわけがない。

 祖父が教えてくれる話の中にそれらもあったからだ。

 し、先の志宣の問いにも答えた通り、伊豆国(いずのくに)にはやはり祖父に手を引かれ(おもむ)いたことはそれなりにある。

 かつて天領(てんりょう)であった伊豆国には、やはり権力を持つ者が多く、相も変わらず祖父はそれに取り入ろう、と――っ、

「……、」

 目を、伏せる。

 今はそちらに意識を傾けられるだけの余裕はない。強く意識し、目を逸らす。今は、今は触れるべきではない。

「大丈夫か、志朗?」

「申し訳ございません。ですが気にせず、どうぞ続き、を願います。」

 相良は、続きを求めた。






 それはある日、突然の出来事だったそう、だ。

 ()(くに)の脅威が去り、外敵に怯えることのない時代が訪れた。幕府が崩御した(のち)に島国の中で起きた(いくさ)も落ち着きを見せた頃。

 大砲などと、一度に多くの命を奪う兵器を(つく)る必要ももう無いだろうと考えられた、韮山反射炉の活動が徐々に終わりを迎えようとしていた頃に、それは起きた。

 伊豆国から旧国までの距離を考えれば、到底一晩で行き来が出来る距離ではない。

 脚に自信のある飛脚だって一人で行き来をするわけではなく、その距離ともなれば十人以上で繋ぎやっと、どれだけ早くとも最低でも四日は見ねばならぬほど遠く離れている。

 鉄屑を()かす為の頑丈(がんじょう)な、それを丸ごと。たった、一晩の内に、だ。人間業であるはずがない。

 そして、一度に多くの命を奪えてしまう、恐ろしい兵器(道具)を生み出すことが出来る炉を保有し、今この寛明(かんめい)の世にでも稼働させているのが、旧国と呼ばれる地だ。

 



 講釈師なんてものは、あたかも自分が実際にその目で見てきたかのように物を言う。自分の身に起きたことでも、それを目の当たりにしたわけでもないというのにそれを、過去にあった出来事をありありと言葉(たく)みに述べてみせるもの、だ。

 だからこそ、高座(こうざ)でもなんでもないこの席において、(おとうと)弟子(でし)にあたる相良志朗という男を前にし、小憎(こにく)たらしい可愛げのない奴を前に口を開くのは、あくまでも、講釈師・旭堂南亭としての言葉ではなく。志宣という、最後に顔を合わせたのは二十年も前だというのにも関わらず、昔と何一つ変わらずに接してくる弟分の、その信頼に応えたいから、という気持ちから来るものであり、余計なお節介であるという自覚はあのだが、けれど、も。

「だから、な――志朗。」

「旧国に行くってのは()めてくれねぇか?」

 そう、(こぼ)さずにはいられなかった。



「お前さんら側に込み入った、どうしようもねぇような事情があるってのは、最初の方にしてくれた話で重々分かってんだ。

 でもな、お前さんらが会いてぇ、会わなきゃ……話をしなきゃなんねぇ()う、鬼神様ってのはな、その名の通り人間じゃねぇんだ。

 造るのにどんだけの時間と人手が掛かったと思う? そんな代物を、動かしようもない、壊すにしても時間が掛かるってんでそのままそこに残しとこうって話になったモンをよ、たった一晩で……どんな手を使ったか分かりゃしねぇけど、旧国にそっくりそのまま持っていってしまうような、意味の分からねぇような存在なんだよ。

 俺ら人間の、そもそも道理が(つう)じっこねぇ、理解の範疇を超えちまってる、神様なんだよ其奴(そいつ)は、さ。

 そんな奴にどうしてもつって、会いに行くなんて馬鹿げてる。山城国(やましろのくに)現人神(あらひとがみ)様も、あれは人間じゃねぇ、旧国の鬼神様と同じ存在、鬼や神様の(たぐい)だってのは有名な話、だ。

 知ってるか、志朗? 現人神様もなどんな手を使っていやがるか知らねぇが、妖だとかの類がこの国に入って来れねぇような立派な結界だとか、そんなわけの分かんねぇ代物、を――、」

「えぇ、(ぞん)じております。」

 十も歳の離れた赤の他人、である。

 それでもその男を相良が信用、頼りにするのに今日こうして足をわざわざ運んだ、二十年ぶりに顔を合わせるかに(いた)ったかは、ただ使えるものは使おうという考えがあったから、だ。

 偶々(たまたま)、だ。

 西条銀嶺が暮らすのとはまた違う、多少こじんまりとした別邸に(うつ)って三日目の事。大和国(やまとのくに)講釈師(こうしゃくし)が半月ほど前から山城国(やましろのくに)高座(こうざ)(ひら)いていると、そんな話を耳にした。

 聞くところによると旭堂一門の、旭堂南亭という男、で。上方(かみがた)の芸人ではあるが瞳に東の“色”を持つ、という。(あずま)(くに)の生まれとの事。

 旭堂一門にはかつて、一時期ではあるが祖父と共に世話になった事があった。そして、旭堂一門の弟子の中に青い瞳をした男がいた事を、相良が忘れるわけがなかった。

『志朗ってぇのかお(めぇ)。俺もよ、お前ぇさんと一字だけ同じなんだわ。(こころざし)なんて書いて、読みはえれぇ違うんだけどな!』

 その出会いは(ここの)つの頃の事、で。共に過ごした時間など、大きく見積もって一年あるかないか程度の、何も長いあいだ一緒にいた、ということはない。

 だというのに、志宣という男はなにかと、いつだって余所者である相良を、いつ祖父に連れられて出ていくかも分からない幼い相良を常に気に掛けてくれ。

(兄の様だと、見ていた。)

 相良にとって、家族と呼べる存在は、自分が唯一頼ることが出来る、身を寄せることの(かな)う、守ってくれる存在は長いこと祖父以外には存在しなかった。

 これからもずっと祖父に手を引かれ、長く一つの場所に(とど)まることなく、したくもない事を()いられる。そんな日々がずっと続くのだと、なにも(うたが)うことなく生きてきた。

 だから祖父以外の者と、親しく接する必要など相良にはなかった筈、なのに。

 易々と、それが当たり前に生きてきた相良の内側に、土足(どそく)で踏み込んできた挙げ句、それまで築き上げてきたものを踏み荒らしたのが志宣という男、だ。

 五つになる頃には親に売られ、金に()えられた。“色持(いろも)ち”の子どもなんていても何もいいことはない、せめて腹の足しになるぐらいの金になってほしいものだ、とかなんとか。人買いの前に差し出され、(つば)を掛けられながらそんな言葉を浴びさせられたという男は、しかしながらそれを笑い(ばなし)として述べはするも、恨み言を(こぼ)しはするものの、それらは全て軽口、で。

『俺ぁ、頭で覚えんのしか取り柄がねぇがなぁ。一字一句言われたモンをしっかり覚えておいてやるんだ。そんでいつか、大人になってえれぇ一人で稼げるようになったら、俺のこと売りやがった親を探してやってな。

 お(めぇ)らが二束三文(にそくさんもん)の金に変えた餓鬼は立派になったもんだぞ、って足が痺れて使いモンにならなくなるぐれぇ長ったらしくて嫌気が差すような話を聞かせてやるんだよ!』

 なんとも馬鹿らしい。頭がいいのならもっと他にだって考えつくだろうに、と呆れずにはいられない、そんな馬鹿げたことを胸を張って言ってのけてしまうのが、その男のいい所、で。

 大人になったら、など考えたこともない。これから先の自分の人生など想像もしたことのない相良が、呆れて口を効く気も失せる一方で、ほんの少しでも先の事を考えるきっかけを与えてくれた、彼はそんな男でも、あり。

『だから、な――志朗。』

『旧国に行くってのは()めてくれねぇか?』

 講釈師という生き物が(かた)らう、飯の種にするは過去の話ばかりだ。あたかも自分が直接それを見てきたかのように、居合わせた客にそういう風に聞こえでもするかのような芝居を、芸を見せてくる。

 悪い言い方をするのなら、嘘で飯を食っているようなものだ。

 そんな講釈師としての名を、芸を持つ男が、旭堂南亭としてではなく、志宣という、相良が思わず兄という存在が仮にいたのなら、とそう。そのように思わせる男が、過去ではなく先の話をする。

 つまりは、そういう事だ。






 菊花開(きくのはなひらく)霽月(せいげつ)徒路(かちじ) 十九話






 いつの間にか、というのも可笑しな表現だろうが、弥代がまだまだ終わることはないのだろうと思っていた話は気付いた時には終わっていた。

 それはなにも区切りが良かったとか、聞きたかった話を聞き終えることが出来たからと終わったわけではない。相良が急に立ち上がったから、だ。

 (いや)、やはり可笑しな話、だ。

 あの相良が、だ。

 旭堂南亭に会う為に、話をする為に態々今日は外出したのだと(みずか)ら言っていたはずの相良が、よりによってその当人がいきなり席を立ったの、だ。

『……相良さん?』

 襖を開け、廊下へと出る。

 その後ろ姿と、今の今まで相良が話しをしていた南亭を弥代を何度も見比べるも、「坊主」と呼び止められた次の瞬間には弥代は肩を押されていた。

『志朗のこと、頼むわ。』

『……ぁ、』

 腰を浮かせる。そんなに時間は経っていない、相良が部屋を出てから過ぎていないというのに、廊下に踏み出た弥代の視界に映った相良は、もう廊下の角を曲がろうとしている、その時、で。

『相良さんっ!』

 頼まれたから、というのが大きい。でも、ただ頼まれたからというだけでそこまで焦る必要が弥代には多分、多分必要はなかった、と思う。

 静かにその背中を追えばいい。見失ってしまわないように追いかければそれで、それで済んだ、とそう思う。思うの、だが――

(俺の、せいだ……)

 相良と南亭の関係は不思議だった。

 実の兄弟、そこに血の繋がりなんてものはないというのに。それこそ歳の近い、到底十も歳が離れているようには思えないような軽いやりとりが見られた。

 それも、最後にこうして顔を合わせたのはかれこれ二十年ぶり、と。

 つい先日にも会ったばかりなのだと言われた方がいっそ納得がいく、そんな気心の知れた、相手の事を理解していると自負(じふ)が出来る。信頼以外の何物でもない物が感じられ。

 だか、ら――、


 店を後にする。

 少し席を外して、ちょっと落ち着いたらそれで部屋に戻ってまた会話をするんじゃないか、とそんな事を少なからず弥代は期待していた。

 弥代には分からない、弥代の頭なんかじゃ全く理解出来ないやりとりを二人はずっとしていたが、それでもずっと置いてけぼりを喰らったり、ということはなく。小忠実(こまめ)になにかと、二人は弥代を気に掛けるような反応を見せてくれた、から。

 なにより、この旅路というものはそもそも弥代の為のものであって相良(と、今は此処にはいないが銀嶺の屋敷で留守番をしている春原)は、弥代に付き合って此処まで付いて来てくれている、扇堂(せんどう)()からの(めい)がある仕方なくな部分は多少なりともあるだろうが。

(で……も、)

『俺ら人間の、そもそも道理が(つう)じっこねぇ、理解の範疇を超えちまってる、神様なんだよ其奴(そいつ)は、さ。

 そんな奴にどうしてもつって、会いに行くなんて馬鹿げてる。』

 山城国(此処)から更に西へ、旧国を目指し、かの鬼神に会いに行くという行為そのものは危険、なのだろう。

 (いや)、そんなの弥代は(はな)から分かっていた筈、だ。

 そう、だ。人の道理が到底通じるはずのない、弥代と同じ“鬼”と呼ばれる存在だ。古峯(ふるみね)の二人が師と仰ぐ、人智を超えた存在。結果弥代が(かな)うわけがなかった、ろくな決着すらつける事が(かな)わなかった、詩良(彼女)を手に掛けてみせた存在、だ。

 腹を貫かれたって時間が()てばそれで元通りになる、“色持(いろも)ち”の中でも異様なまでに怪我の治りが早い弥代と違い、相良の怪我の治りは人並みでしかない。それが普通だと、自分のそれが可笑しいのだと分かってはいるが、それでも時折それそのものを忘れそうに、その感覚が鈍ってしまう事も多々ある。

 忘れてはならない、忘れていいわけがない当たり前のこと、なのに。

「帰ろうって言ったら、相良さんどうする?」

 何処に、とは()えて言わない。

 でも少しだけ怖気(おじけ)()いて、そんな言葉を口にしてしまう。

 此方を見てくれない、背中しか見えない相手に届くかも分からない言葉を投げかけるなんてもしかしら意味はない、のかもしれないが。

 でも言わずにはいられない、つい口を()いてそんな言葉が滑り出てしまった。口からは出しきれない、多分(たぶん)をこれでもか、というぐらいに含み。

「……俺、は」


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