四十二話 迷子
首元が詰まるのが自分はきっと得意ではないのだろう。隙間を作るのに指を引っ掛けた格好のままに弥代はその場に立ち尽くし、そんな事をふと考える。
否、なにもそんな事に考えを割き尽くす気はないので、考えたといっても勿論そんなのは頭の隅の方での話、だ。
本当なら今はただ、左手に持つ、つい先ほど百合と絹が買ってくれた、とろりとした甘塩っぱいタレがこれでもかというぐらいに贅沢に絡められた、“みたらし団子”なるものを心ゆくまで堪能したく。
あぁ、でも……、
よく噛んだものを飲み下す時に首元が詰まっているのは、やはりどうにもいただけない。
「んぅ……ぅ、」
釦、というものがあまり好きではない。
顎を軽く逸らし、そもそも外したりの指先の動作がそれほど得意ではない、どちらかといえば不器用な方の自覚がある弥代は、前にあっても後ろにあっても見えっこないそれをどうにか緩めようと指を立てるも、分かっていた事ながら出来そうな兆しは見えず唸り声を絞り出すことしか叶わない。
両手を使えば片方で抑えられる。そちらの方が絶対に簡単に釦を外せるだろう事ぐらいは、流石の弥代でも分かっている。しかし、分かってはいるのにそれをしようとしない、というのはただ。……ただ、団子をちょっとの間でも手放したり、といった事をしたくないという、大変くだらない理由から来るもの、で。
否、分かっている。
それが本当にくだらない理由だという事ぐらい弥代だって分かっている。分かっている、のだ。でもやっぱり、それでもどうしてもこの“みたらし団子”なる美味い串を、ほんの一時であっても絶対に手放したくはなく、って。
だから弥代は、
「絹さん、手ぇ貸して?」
前方の絹へと、そう声を掛けた。
客人である、山城国で生まれ育ったのではなく余所からやって来た“色持ち”の弥代から見て、昨日の御遣いの道中はどうであったか?と、百合の傍に控えていた屋敷の女中に訊ねられ、何も特に変なことはなかったと弥代は返してみせた。
前もって屋敷の遣いの者が店に対し、用意して欲しい品を伝えていた。西条家の遣いを名乗るものが改めてこの日に訪れる、とそんな根回しが入念にされていたようで滞りなく目当ての品を店で受け取ることが出来、帰り道もなにも面倒な相手に絡まれるということもなかった。
皆がみな、各々のすべき事で手一杯、それほど他人に興味があるわけでもないような、目先の事に集中をしている様子が窺えた、とも言葉を続ければ、「そうですか」と短い返事が一つ。
それほど離れているわけでもないのに、百合に耳打ちをする声は弥代には届くことはなく。しかし、女中のそれを受けた後の彼女は表情を綻ばせ、分かりやすいぐらいに声色を弾ませてみせ。
『絹ちゃんと三人で遊びに行きましょう、弥代ちゃん!』
『んぁ……えぇ?』
弥代の手を取り、そんな事を言い出した。
それが今朝のこと、だ。
「――ほんと、さ。そういう事は前もって言ってほしいもんだよ。……えっと、ほら心の準備、ってもんだがあんだろ?
そういうの無しは止めてほしいもんだよね。俺の都合なんてあって無いようなもんじゃねぇかよ?」
「はいはい弥代さん、そういうの御自身で満足に着替えが出来るようになってから、この立派に胸を張って仰ってくださいまし。」
「ぐぇぇ……」
ただ掛けた釦を外すためだけに、裾端を一度摘んで引き寄せる必要は、絶対にないと弥代は断言することは出来ないが、それでも必要のない――業とやられているというのが薄ら分かってしまう。
……とはいえ、絹に手を貸してほしいと強請ってみせたのは他でもない弥代である為に余計なことは口走らせない。既に慣れない格好をさせられるのを本心では面倒に感じているのだ。面倒ごとを下手に増やそうという気は浮かばない。
「いえいえ、目を瞑るのは結構ですがジッとしていただかないと出来るものも出来なくなってしまうのですが?」
「えぇ、絹さん自分で器用だって言ってろ。
出来んだろうよこれぐらい別にさぁ?」
「器用であれば造作なくなんでも、という事は断じてありませんので⁉︎ 勘違いをなさらないでください弥代さん!」
「ふーん、じゃぁ出来ねぇんだ?」
「出来ないなどといつ私が言いましたか⁉︎」
笑いそうになるのを、肩が震えそうになるのをグッと堪える。
なんと、言えばいいのかはまだあやふやではあるのだが、その分かりやすいというか反応があまりにも面白く我慢ならない。
こんな関係、は。この様に他人を思うのは弥代にとって初めての事だ。
多少なりとも、どちらかといえば仲が良い方であった、春原討伐屋に属する芳賀黒介であったり、屋敷の扇堂雪那であったりに接していた時よりも近しい距離間のような、弥代にしては珍しく相手を揶揄うような言葉を絹には交わしていた。
それは絹が弥代に向ける態度が非常に好意的なものであるからが大きいのは明白だ。が、それだけで、などというわけは勿論ない。
先日の――逢坂関を越える前日に立ち寄った宿場町・大津宿において夜遅くに旅籠を出て“夜釣り”なるものに弥代を誘った際の絹なりの心境を、その背景というものを知る機会がこの数日の間にあり、その際の彼女の言葉が、「弥代さんと過ごす時間がこれが最後になってしまうと思っての、楽しい思い出作りがしたかったんです」と、いう素直すぎる言葉があったからだ。
そして、元が人の身ではない、“色持ち”の世にも珍しい人に四六時中化けるのが得意な狼、という事もあってか。確か狼は犬に近しい生き物、で。爪や牙の鋭いしっかりとした四肢というよりは、そんな言葉を漏らす彼女の姿がどちらかというと、ころりとした生まれて間もない、凶暴性の全くない、耳の立て方も知らなそうな子犬かのように弥代の目には映ってしまったから、で。
強い言葉で接する必要がなくなってしまった。気を遣わなくとも良いものだ、と受け止められるようになりつつあった、とそれだけの話、で。
だから、といってはなんだがこれまでとは違い、彼女のことを揶揄ってみる側に意図して弥代は回ってみたわけがこれが面白いことなんの。
吊り上がり気味の眉がへにょへにょに端が下がって、下唇をギュッと噛み締めながら屋敷の女中に首根っこを掴まれたまま歩かされる様など笑いをずっと堪えるのは無理な話だ。
どうやら西条銀嶺の付き人、という名目で傍に仕えたり、商いについて学ぶことはあるのだが、それ以外の銀嶺が屋敷を留守にしている間は、女中の仕事を兼任している身らしく、ただ銀嶺の孫娘である百合が絡むと事あるごとに仕事をサボって遊び呆けてしまう悪い癖があるようだ。(絹がサボっていたら教えてほしい、と屋敷の女中に弥代はそう頼まれていた)
優位に立ちたいというわけではないのだが、普段キリッとしている眉が情けなく落ちる、悔しそうに、もっと遊びたさそうに、構ってほしそうな見るからな落ち込みようであったりを見せるのが、見ていて飽きない。
なんなら一頻り揶揄い、遊び終えた後になって冗談だよ、本気にすんなよ、なんて言葉を掛けてやればそれで、それで絹の調子は瞬時に元に戻ってしまうのだ。
本当に、面白い。
そんなこんなで、春原に関すること以外ではそういった接し方の方が楽で面白いのだと分かってしまった弥代は、絹を相手に軽口を叩く頻度が増えつつあったわけだが。
「狡いわぁ、弥代ちゃん。絹ちゃんのことそうやって独り占めなんかして。」
「独り占めなんてのは人聞きが悪ぃだろうよつゆりさん?」
「本当のことだもの。」
昨日の御遣いの途中で弥代が春原と共に休んだ茶屋とは別の、しかし同じように店先に横長の椅子が出されている。店の中に入らずとも軽く外で茶を飲めるように、と立ち寄れる。あるいは店の中が客でごった返していても外で休めるように、客席を増やすのに設けられている簡単な席だ。
そこに腰を落ち着かせる彼女は――弥代が“つゆり”などと呼んだ彼女は、弥代らがこの一時身を寄せている屋敷の主人・西条銀嶺の孫娘の西条百合であり。弥代が絹に接する態度とは違い、あまり軽口を叩けるような、失礼な態度を取ることが許されない相手、だ。
自分の行い一つで、百合の機嫌を一つでも損ねててしまうようなことがあれば最悪の場合、西条家から弥代に限らず春原や、暫くの間は別邸の方で世話になっているという相良ですら追い出されかねない、と弥代は考えていた。
否、彼女に距離を急激に詰められ、一緒の部屋で布団を並べて寝たりと、四六時中とはまではいかないがそれなりに近くで過ごす内に、彼女がそのような事で機嫌を損ねたり、弥代を怒ったりなどするような事はないだろう。どちらかといえば温厚そうな、おっとりとした印象であるから無いだろう、とは思いはするのだが。
(読めねぇん、だよなぁ百合さんは。)
そう、だ。
西条百合はどうにも読めない。
まだ出逢って数日しか経っていない、というのに。昨日か一昨日にも似たようなことを弥代が考えたのと同じ通り、出逢ってそれほど経っていないというのに妙に馴れ馴れしく、弥代のことをあまりにも自然に「弥代ちゃん」などと呼んでみせたり。
『呼び方をね、誰かに決められるのは好きじゃないの。
だからごめんなさい、これだけはどうしても譲れないわ。』
相手が女であったものだから偶々被ってしまった、というのもあるのだろう。
あまりまだよく知らない相手に、勝手に彼女を重ねてしまったのは失礼だった、と。それを謝ろうとしたのも束の間。弥代が謝罪の言葉を述べるよりも早く、彼女はやけにハッキリと自分の意志を、決して曲げてやる気はないのだと言いたげに言ってのけてみせた。
『百合は子どもながらに昔からどうにも我慢強く、大人に我儘を溢す……特に二人には迷惑を掛けまいと中々言いたい事も言えずに育ってしまった、難なんを抱えている娘こなのでございます。』
どこが、我慢強いものか。
その日の夕暮れ時の茶室で銀嶺から聞かされた孫娘の説明に対し、不満を言ってやりたい気になった。
というかそもそもの話、両親二人に対し迷惑を掛けまいとするのなら、家を出るなんて事をしなきゃいいのに、というのは――
『だからよろしくね、弥代ちゃん?』
「…………。」
串に付いたまま取り残してしまった団子を余すことのないよう舐めとろうとするも、ただ舐めるだけでは思う通りに取れない。軽く串に歯を立てて、横に引けばそれでスッキリと取ることは出来たが、
「じゃあさ、つゆりさんも絹さんに外してもらったら釦?」
中々気の利いた提案ではなかろうか、と弥代は自分を褒めたくなった。
菊花開、霽月の徒路 十七話
今更ながらとても変わった格好だな、と思う。が同時に、何も似た様なものを目にするのはこれが初めてではない為に、物珍しさというものを弥代は感じれず。どちらかといえば自分がこれに腕を通すような事になるとは、といった気持ちで改まってマジマジと、絹の手によって緩められた首元の裾を小さく摘み、ついでに自分の姿を見下ろした。
着物、だ。あまり袖周りであったり、袂と呼ばれる垂れた部分が広い造りをした物は動くのに邪魔になるから軽い羽織でもなければ着ようと弥代は思わないものだ。
元の地の色は白、だろうか。視界で見える限りだけではなく、後ろの見えない部分まで同じような柄模様が施されているようで、とても手間の掛かっている――値が張っていそうではないか。
袴に至っては昨日の朝、春原と御遣いに出る前、屋敷の衣装部屋で絹のお下がりとして、着丈を合わせる為に、とその場で針と糸を用いられ裾上げが行われたりという事もあっただから分かるのが、上ほど上等な物という事はない。解れであったりがまるっきり無い、というわけでもないが、卸したての真新しい固い袴とは違って歩くにしても動きづらいという事はあまりない。
帯に関して、は……。まぁ、言うまでもない。
昨日がそうであれば今日も同じ、こと。着替えの際に絹や女中らにあれよそれよと巻かれてをされたものなので自分でどうにか結び直したりというのは出来ない、他と同じ状況だ。
先に絹の手を借りたりの、着物の下に着込んでいる、襦袢といわれる肌に直接触れるのの代わりをしている首元が詰まったそれもやはり似た様なもの。
訊ねてみたところ、どうやら襦袢の代わりに着ているそれは、山城国よりも遥か西側から流れついた風変わりなモノ、で。“京の着倒れ、大阪の食い倒れ”などという有名な言葉通り、扮装道楽というものが山城国では洒落た格好や、年若い娘が着飾る文化がそれなりに広まっているらしい。
流行りにとても敏感なのだそうだ。
先の冬期や、この旅路で扇堂家が弥代の為に、と用意してくれた、襦袢代わりの腹掛けよりも着丈そのものは短いがしっかりと全体的な丈があり冷えにくく思える。
見た目であったりが重視されている、というがこれならこの先の道中に似た様なものを、洗わねばならなくなって着るものがなくなってしまった用を一、二枚ぐらい持っていても、それほど荷が嵩張ることもないだろうから良いのではないか、とそんな風に思えるぐらいには実のところ弥代はそれを気に入っており。
まぁ、何よりも……
(相良さんのと、似た様な感じ……だよなぁ?)
でもそれは、それは同時に詩良とのそれとも似た、ようなものである事も意味して、おり。
(…………。)
弥代は考えるのをそこで止めた。
「そういや、隆棋とアイツは?」
今日も来てたよね、なんて言いながら軽く弥代は辺りを見渡した。
百合が立ち寄りたいといった、この頃になって店で取り扱う簪の種類が増えたという風の噂が流れている小間物屋の店先の事である。
簪などというものは髪の長い者がそれを纏め上げるのに使っている印象で。髪が長い、となると男か女でいれば女の方が付けているのが圧倒的に多いのだが、そういえば一つ高い位置で結いている隆棋の髪も女のように長かったな、とそんな事をふと思い出したついでに出てきた疑問、であった。
「稲葉の彼でしたら今日は春原殿と一緒に留守番をお願いしておきましたのでどうぞ御安心を弥代さん! 女子水入らず、というヤツです、存分にまだまだ羽を伸ばしましょう!」
「え、なんて? なんでよりによってアイツと一緒……?」
全く聞いていなかった、これぽっちも想像していなかった事態に弥代は大きく首を傾げずにはいられなかった。
なんでよりによって、なんて一々言葉にした後だというのに二度同じ質問を絹に投げ掛けてしまうぐらいには、といった具合だ。それほど奇妙、というか合わせてもいいのか?と不安になる組み合わせに、どちらに対しても、この場に居るというわけでもないのに少しばかしの同情の念を送りたくなる。
「いえいえ弥代さん、そんな事よりも私は弥代さんが春原殿の事をそんな素っ気なく“アイツ”など、と呼ばれる方が大変気になります。
何も恥ずかしがることはございません、二人きりだとお呼びになっているではありませんか。昨日だって仲睦まじそうに肩を並べられて、挙げ句お団子を分け合って、千方、なんて呼び捨てにされて笑って居られたではありませ
「なんでお前がそれ知ってんの?」
弥代の額に青筋が浮かんだ。
「もぅ、だから口の開きすぎには気を付けてって、いつも絹ちゃんには言ってるじゃないの!」
肩を落とすに留まらず頭も横に項垂れてみせる、分かりやすく落ち込んだ様子を見せる絹を尻目に、口振りだけなら叱っているように聞こえなくもない言葉を形だけ百合は並べつつも、しかし怒っているわけではないのだという意思表示を兼ね、自分よりもほんの少し上背のある彼女の項垂れた頭を優しく撫でてやった。
背丈が近い、という事もあって並んで歩けば歳が近い、あるいは同い年のように見られる事が多くも、絹が普段かくしているその正体というものを祖父から直接聞かされている百合なので実際の生きた年数を考えれば“妹”のような感覚で見てしまう事の方が多い。
弁が立ち、経験が浅くも知らぬものが少ないということはないちぐはぐであべこべな、中々珍妙な来歴をしているものだから、見た目に引っ張られて勘違いをしそうになることは決して少なくはないのだが。言葉を交えてみれば自然と分かる純朴さが、人の悪意であったり、悪い部分をあまり知らなそうな具合が、像をとてもその在り方を物語っており、放っておくことはいつだって出来そうにない。百合にとって絹はそんな存在だ。
といっても知り合って日はそんなに長くはない。絹が西条家に身を寄せたのは昨年の、正しく今と同じぐらいの時節のこと、で。出逢って直ぐに百合から声は掛けはしたものの、彼女の方から百合に率先して話し掛けてくれるようになったのは、祖父が足を負って東の国の方から帰ってきた後のこと、だ。
人ならざる存在。それが人の姿を象り、人と同じように歳を取るなんて、本当に変な話だ。
何よりこの世に生を受けてまだ十年経つか経たないか、といった具合。四足で人なんかよりも遥かに早く野を駆け巡る、鋭い牙と爪を持った非常に凶暴な、危ない存在だと、いうのに。
人の身体が脆く弱い、獣よりも劣る存在であるというのを分かっている筈なのに、主人として今は仕えている、付き人の真似事のような事をしているの怪我を、それを負わせてしまった、原因は自分にあるんじゃないか、と膝を抱え落ち込んでみせる姿は全く、恐ろしい存在からかけ離れており。
百合は絹を慰めてやらずには、彼女が気に病むのが落ち着くまで傍にいてやらずには居られなかった。
心根が、綺麗だ。
何より百合は綺麗なものが好きで、もっと好きなのは形に留めておくのが難しいもの。
目を離した隙に徐々に輪郭が変わっていくもの、なのに綺麗だな、と思わず感じずにはいられないもの。
それを手の届く場所に常に置いておきたいと思うのは、きっと人なら誰もがそう思うことなのだろうが、まぁ思うことなのだろうが、と出てくる時点で百合はそうではなく。
そういうものでは決して、なく。
ただ、でも――
(綺麗なものがもっと綺麗に見えるようにするようにちょっと手を加えるぐらいは許されていいわよね?)
弥代、という“色持ち”の存在を百合は以前から絹の口から聞いていた。
この頃とても気に掛けている、その在り方から目を離せないでいる絹自身が一方的に恩義を感じている、という存在。それが弥代、という“色持ち”だった。
『いえ、なにも弥代さんは別にそんな大それた事をされた、というわけではございません。なんならその……、まぁ、言い方は良くありませんが、弥代さんが居なければ父は……、三ツ江殿はあの晩、あの様に亡くなることはなかったのではないか、とそういう風に思わずにはいられない、もっと一緒に過ごせる時間が続いたのではないか、とそう思わぬ事はないの、です。
ですが、しかし。
……しかし、あの晩の事があったから、弥代さんが居てくださったから私は三ツ江殿から、三ツ江文左衛門という、決して立派、とは呼べぬ。それでも息絶えるその時まで、背負うべきものを最期まで背負い続けた、その生き様を間近で見届けることが出来た……、言葉を、私に向けられた言葉を、長年抱いていたであろう父の奥にあった、私への言葉を受け取ることが出来た。
そう思う事とした……のです。』
その方がずっと、楽だったからでもあります、と続くが、
『なにより――、も。』
とっても詰めが甘い。
大人を前にしているから、というわけではなく自然と。無意識の内に接する相手次第では接する態度をコロコロと変える。
本当はずっと子供ぽくって、まだまだ遊び盛りで知っている事はいっぱいだというのに深くはあまり知らない。
懐かれたら、いつもは人に化けるのが得意なものだから絶対に見えっこないのに、大きくて長い尻尾が勢いよく振っているような、そんな、とっても分かりやすい三ツ江絹という存在が百合は大好きだ。
だから勿論、絹がそうとまで恩義を感じる弥代にもずっとずっと興味があった。
だと、いうのに――
『それ、止めてくれねぇかな?』
不安気に顰められる眉間が、何かを思い出したかのように身を小さく震わせる様が、逃げようと必死に逸らされる眼差しが、それら全てがあまりにも可哀想に見えてしまった。
百合が知っている弥代、という“色持ち”の女の子は、絹が口にしていた、女であるというのに男宛らの立ち居振る舞いをし、とても嫌味っぽい事を口にする、でもそれはきっと建前や見栄を張っているだけに間違いなく過ぎない存在、で。
前持って聞かされていたのとは随分と違う。とても、弱々しく百合には見えたのだ。
期待はずれ、だった。
絹と同いぐらい、百合が絹を見て綺麗だと感じずにはいられなかった、在り方というものを弥代も持っているものだと疑わずにいたものだから拍子抜け、だった。
でも、絹が言っていたから。
まだ暫くの間は弥代さんと一緒に過ごせるなんて言うものだから、それに叶えてあげたいな、と思って。
……そう。だから最初は、少しでも知れればそれで実は、なんて自分の中の弥代に対する評価を改めることが出来たらいいな、と。あんまり深く肩入れはせずに、ぐらいの心意気でいようと考えていた。
だったと、いうのに。
屋敷の主人の孫娘であるから失礼がないように、と透けて見える態度は、あまり好ましくなかったのに。百合は見つけてしまった、気付いてしまった。
『……弥代、』
そう、次の句を紡ぐのに時間を有する、弥代に深い情を向けているとしか思えない、彼の存在、に。
だからほんの少し、百合は余計な手を加えてしまった。
否、元を辿れば先の絹の弥代に対する失言を生んでしまったのは百合の我儘を絹が叶えてくれたから、ではあるのだが。
『春原殿はあまり甘い味付けのおかずに箸が伸びない、というのは食事時の様子を見ての通りですが、どうやらあまり甘味も好みでなさそうでした。
三本ある内の団子の二本を弥代さんに譲るぐらいでしたので!』
『それでそれで? それから二人はどうなったの?』
『フフフッ、えぇそれはもう本当に仲睦まじく!
弥代さんの歩幅を気にされるように春原殿の足取りは屋敷の中を移動される時よりもゆったりとしたものでして。やはり草履ではなく下駄をツユ殿が選ばれたのは正しかったかと。そちらもとても気に掛けていらっしゃいました!
草履と違って太めの鼻緒ですので、履き慣れない上に食い込まれて、というのが中々慣れない様子の弥代さんを気遣う言葉を事あるごとに掛けておられ――』
『うんうん、それからそれから!』
百合は、あまり外に一人で出るような娘ではない。
それは単純に、西条という家に、祖父と母が持って生まれた“色”を同じように生まれることがなかったからだ。
百合が知らずとも、百合のことを知っている、百合が西条家の一人娘だと知るものは多い。
父が“色”を持たぬ婿養子であり、父方の家の商いであったりの、利益であったりの背景が少なからずあった上で母と夫婦になったというのも大きな要因ではあろうが、母にその生を、生まれてくることを強く望まれなかったから“色”を持たずに生まれてしまったのだろう、と悪意があって出てきたのかも分からない、歳若い女中の言葉により、まだずっと幼い頃に付けられた心の傷が塞がってはくれない。
父を、母を恨むようなことはない。
そんな言葉を投げ掛けてきた女中を、恨むことも百合は出来なかった。出来なかった代わりに百合は、百合は時折自分の中で限界に感じることがあればそれからほんの一時でも距離を取る、逃げてしまう癖が付いて、しまい。
挙句、見知った人以外と顔を合わせることを極端に避けるような娘に育ってしまった。
否、繕おうと思えばいくらでも繕うことは出来る。
山城国の数百とある青物屋を、それを取り纏める西条家の一人娘が社交を知らぬわけがない。
嘘の言葉を並べて、相手の顔色を常に窺った言葉を、相手の喜ぶ言葉を一つ一つそっと摘んでみせて、それを見栄えよく並び直して、そうして円滑に事を進むように努めてみ、て。
だから、見合い話も心の底から、本当は断りたかった。そんな、誰とも知らない相手とコロコロと顔を合わせて、話したこともない相手と同じ部屋で机を挟んだだけで向かい合って、何が好きかも分からない相手の顔色を、様子を窺い続け、て。
その反動だろう、という自覚もある。
絹のような裏表を知らない心を、在り方に芯の感じれる、揺らぐことのない、どちらかといえば不器用な人の心を、綺麗なものを好むようになったのは。
(でも、)
最後に会った彼の事を、大和国で生まれたという上に年子の兄がいるという、家のゴタゴタで平穏とはあまり言えない環境で育った彼。
(名前ぐらい、部屋を出る時にもう一回だけで良いから訊いておけばよかったわ。)
最後に会った彼、と。そう告げればそれで家の者はその名前を教えてくれるだろうが、それを百合が訊ねるというのは、それが意味するところを考えてしまうと気が進まない。
……否、話が飛躍してしまった。
百合は小さく頭を振るい、やっと絹の頭を撫でるのとは反対の手に持っていた簪を、元あった棚に戻そう、と
「…………絹ちゃん、新しいものは欲しくなあい?」
「いえ、私には父より貰った自慢のモノがございますので要りません!」
「んふふ、知ってたわぁ。」
今はこれ以上触れるのは止めることにした。
「違うんです弥代さんッ‼︎ わ、私はただ御二人が慣れぬ土地でいきなりいくら御遣いとはいえども道に迷ったりしないかなぁ、とそんなっ、それを心配して後ろから様子を見守っていただけなんですぅううッ‼︎
その時にちょっと御二人の、春原殿と弥代さんがとっても仲睦まじく……私やツユ殿の前じゃ見せないような表情で春原殿のことを、ちっ千方……、などとお呼びになるものですから私、自分の事のように舞い上がって……うっ、嬉しくなってしまっただけでしてッ‼︎」
「うるせぇッ‼︎ いつまで裾掴んでやがんだ、とっとと離しやがれこの馬鹿狼ッ‼︎」
「や、弥代さーーーーーーーーんッ‼︎」
そんなこんなやりとりをした後、弥代は絹と百合と小間物屋の前で別れ、これまで歩いた道を逆に進み西条家の屋敷に戻ろうとしたわけ、だが……
(…………アレ、ここじゃなかったっけ?)
(……え、ここを曲がったらさっきの店があるんじゃないの?)
(いや、確かここを右に曲がって直ぐ……)
(いやいや違う、違うって? なに道ぐらいで俺は慌ててんだ? ……は、慌ててねぇし?)
(……えっと、だからここを曲がればそれで、あるんじゃねぇの? いや、だからさっきのさぁ……)
「え……えっとぉ……」
はたして、これで何度目であろう、か。
道しるべとしてハッキリ覚えていた、というわけではない。それがいけなかったのか?と訊かれればそれで、多分それがいけなかったんだよ、と苦し紛れに答えられるぐらいには、少なくとも。否……、否、だからその、つまる処、現状の弥代はあろうことか、
「道に……迷った?」
――迷子、である。
……違う。否、何も違わない。何ひとつ違っちゃいない。思い返す、までもなく。昨日もなんやかんやそう、だった。
道の説明を受けたのは自分ではなく春原であったから、というのも大きいには大きいが、帰り道に弥代は度々、曲がる箇所を間違えて春原に腕を掴まれることがあった。少なくとも、四、五回……は。(しっかりと数えていただわけではないが、恐らくはもっとあった気がしなくもない)
否、なにも弥代は悪くない、悪くない気がここまで来るとしてくる。だって、何故ならこの山城国の京の都という場所はどうにも。……どうにも似たような道が多く存在し、確かそれは“賽の目”だとかいうものに似ている、とかで、この地で生まれ育った者であっても偶に道を間違えてしまうようなことがあるとかないとか、そんなことを百合が言っていた、から。だから、だから弥代は全く、これぽっちも全然……、全然悪く、なんか。
(でも、どうやって帰ればいいんだ俺?)
ポツン、と道の往来に立ちつくすのは邪魔にしかならない。行き来が多い通りから逃げるように、道の隅の方へと逃げて、建物の庇部分から地面までと、随分と大きな布が広げられている、恐らくは茶屋か何かの店先の前で、後ろに手を組んで口を噤む。
「…………。」
キョロキョロ、と人の動きが多い道の真ん中へと目を向ける。目には昔から自信があるのだ。この大通りに見覚えはやっぱりあるし、もしかしたらさっき別れた絹と百合が屋敷に戻る時に来た道を通るだろうから、その姿を見落とすことなく何がなんでも見つけて、それでその後ろを見失わないように付いていけばどうにか。……どうにか、屋敷までは戻ることが出来るのではなかろうか、とそんな事を頻りに考えながら弥代は、弥代はただ、ただ……、
「……………………。」
自信が、ない。
昨日もそうだった。いま弥代がいる道と同じような太さを、人の行き来の多い道は何本もあった、様な気がしてく……いや、する。
もしかしたら絹と百合は此処とは違う別の道を通って、もしかするともうとっくのとうに、弥代が行ったり来たり道を間違えてを繰り返してしまっている間に屋敷に帰ってしまったのではないか等。そんな、そんな要らんことがぐるぐるぐるぐると頭の中に浮かんでは消えて、浮かんでは消えてを忙しなく埋め尽くして、きて。
なんなら陽はまだ高いが、今がはたして何刻であるのかも分からない。
確か屋敷を出る前に昼餉をいただいて、それから外に出た筈だが、鐘が鳴っていかのか、それを聴いた記憶も定かである。
だから、だからえっと……、それで、だから弥代……弥代は、
「夢……、かな?」
残念ながらそれは現実だ。




