四十話 関わり方
弥代ちゃん、などと自分のことを呼ぶ者は限られていると返しはしたものの、言った当人である弥代自身が実際のところ、自分をその様に呼ぶ者はどれぐらいいるのか、と。ふと、そんな事が気になってしまった。
だから四、五人ぐらい居た気がするな、と親しい間柄からあまり面識はないが名前を呼び合うぐらいの付き合いしかない相手等を含めて、思いつきではあったが数を数えてみることとした。
しかし、指折りは親指に始まるも、二本目を曲げたところで早々――人差し指を曲げた後には止まってしかった。そこからは浮かぶ顔と名前に、そもそも普段自分は相手はどういった風に呼んでいたか、と疑問が浮かび、次第にそちらに思考を割くのに時間は費やされてしまい。
『弥代ちゃんはお顔がとっても広いのねぇ?』
いつの間にか、話を振られたばかりの時には立っていた湯気が落ち着きを見せていた。
湯呑みの縁に軽く胡座を掻いた膝頭が触れてみせたとしても熱いと感じない、やっと舌を火傷せずに済むまでに冷めてくれたと口を付ける頃になって、眼前の女がそんな言葉を投げ掛けてきた。
緩く結い上げられた、肩よりも少し長さがあるかな、といったぐらいの髪は全く、どこぞの女ほど長くなんてないというのに、その言葉選びであったり、自分のことを同じように呼んだりするのがあるものだから、弥代はあまり――、
『それ、止めてくれねぇかな?』
「――そうなの。だからね、私自身はあんまり乗り気じゃないんだけど、やっぱり西条家に生まれたのだから、って勧めれずにっていうのは難しい話なのよねぇ?」
頬に指を添えて溜め息を零す姿は随分と子どもらしく、幼く映ったのだが、今年で十五と名乗っていたのを思い出せばそれも年相応というやつなのではないだろうか、と弥代はそれ以上触れるのは止して手元へと意識を集中させた。
「もぉ、ちゃんと聴いてよ!」
「いや、ちゃんと聴いてよって言うけどもう何回目だよその話、ってぐらいには俺聞かされてるんだけど? あんま覚えてねぇけどさ、どうせまたこれから…………なんだっけ一昨日、だかに顔合わせしたっていう、上に兄ちゃんのいる、大和かどっかから来たって言う坊ちゃんがどうのこうの、って話が続くんでしょ?」
知ってんだからね、なんて続けたのがいけなかったのだろうか。膝頭に肌触りが矢鱈といい長い袖が触れ。次の瞬間にはよりによって利き側である弥代の左腕は絡め取られた。
「嬉しいわ!」
「直ぐ引っ付くなって何度も言ってんだろ、ねぇッ⁉︎」
距離を詰められる。
なんの為に座布団もない固い縁側に腰を下ろして胡座を掻いていると思っているんだ、と文句を溢してたりたくなったが、ふわり薫る、嗅ぎ慣れるのにはまだ時間が掛かりそうな香に気を削がれてしまう。
袖に腕を通す前にわざわざ着物に対し焚いた香の匂いを移して、焚き立てよりも柔らかい印象の香りを身に纏うのだとか、なんとか。
手間が掛かる割にそんなに長く香りが保つことはないそうで、弥代からすればそんなのはわざわざするだけ無駄だ。
しかし彼女は、自分のような何の面白みのない相手に一々絡んでみせる、西条百合は珍しい女であって、そして――、
「まったく……、弥代さんは本当に素直になれない御方なのですね。仲良くしてもらえるのが嬉しいぐらい言えなくてどうするのですか!」
「いきなり会話に入ってくんじゃねぇって言っただろう⁉︎ 何しれっと割り込んでやがんだテメェはッ‼︎」
思わず肩に力を込める。それまで居もしなかった相手に知った口を叩かれる、横槍を入れられること以上に、今の弥代を逆撫でるものはありはしない。
左から擦り寄ってきたというのに右肩にまで腕を伸ばし、頬をくっ付け甘えた態度を隠しもしない、これでもかという具合に懐いてくる相手は今は放っておくものとする。
引っ付いて来るな、と言いはしたがなにも引っ付かれたものをわざわざ引っぺがす様な気は起きない。余計な口出しをせずに大人しくして居てくれるのならそれで、後は今はどうとでも良い。
「なっ⁉︎ ひっ、贔屓です! そんなのは狡いです‼︎
私とつゆ殿の何が違うというのですか弥代さんっ⁉︎ している事は大体が一緒でしょう!」
「一緒だァ、阿呆吐かしてんじゃねぇぞ絹さんッ‼︎
百合さんのどこがお前と一緒だって
「|つゆり> 、、、》、よ弥代ちゃん?」
「つ…………つっ、つゆりさんのどこがテメェと一緒だってんだおいゴラァァア‼︎」
相手の出方を伺うよりも早く言い放ってやればそれで急激に割り込んできた相手・三ツ江絹は分かりやすく半ベソを掻いたような、いっそ態とらしくさえ見えるぐらい鼻をグズリと鳴らし口を開いた。
「ひ……、酷い、ですこんなの。私はただ御二人が仲睦まじくお話をされているから、そこに自分も入って一緒に楽しく昼の一時を過ごしたかったという、そっ、それだけなのに……。」
普段から目付きが悪い印象をどことなく与えてみせる寄り気味の眉間ではあるものの、深く皺を刻んでみせるようなことは滅多にない。
が、それが分かりやすいぐらいの深い皺を刻む、というのは釣り上がりがちな眉尻が鼻筋までもギュと寄せて下がってみせる、というのが彼女にとって何であるかを屋敷の女中らから教わったばかりである弥代は、百合の体を左手で支えたまま、空いている方の右手を口元に軽く添えて―――
「絹さんがサボってまーす!」
弥代は、屋敷の敷地内に響く声量を披露してみせた。
菊花開、霽月の徒路 十五話
西条家の前当主・西条銀嶺が暮らす、現在弥代らが身を寄せている屋敷というものは西条家がいくつか保有している土地のそれであるらしく、家と呼べる場所が一つだけでなく複数存在するという感覚は弥代の知らぬもので、そんな説明を百合から受けた時、弥代は我慢ならず首を大きく傾げてみせた。
弥代の知る屋敷、というものは扇堂家のそれや、春原討伐屋のそれ。あるいは先の冬に北へ赴いた際に世話になった、彼の生家であるそれ、で。
大きさや造りが同じ、なんてのはありはしなかったが複数の屋敷がある、というのは聞いたことも目にしたこともない事。なんなら何をもって屋敷などと言うのかすら、その線引きやら違いがあるのかすら分からず疑問は増える一方だ。
(相良さんが居たら教えてくれたんだろうな?)
少なくともそう思い付くぐらいにはここ最近の弥代は、相良に何かと自分が知らぬことをどんな些細なことでも小忠実に質問を投げ掛けていた。
振られた相良は相良で、嫌な顔の一つでも浮かべてやればそれで、いくら弥代でも多少遠慮というものは回数を重ねていく内に多少は学べるだろうに、そんな顔を一切見せることはなく。
挙句、広げられる話の中で弥代が知らぬことがあれば更に、と質問をどれだけ重ねたって、やはり望むがままに自身の知る限りを惜しむ事なく答えてくれた。(勿論、聴き終えた後は話し終えた内容を弥代が忘れていないか、といった確認を怠るような事はなかったのだが。)
けれども、そんな弥代が望むままに多くを教えてくれる、なんとも都合のいい存在の相良は、今は訳あっていつの間にか傍にはいない。件の話の中に出てきた、此処とはまた別に西条家が保有しているという、いくつかある屋敷――別邸で一時を過ごす流れになっていた。
ただ、
「いやよ、別にそれは良いんだけどさ? なんつーか相良さんが戻ってくるまでの間、俺とアイツは何してりゃいいの?って話でさ。
……いや、良いんだよ? 帰って来ないとか、いつまで経っても戻ってこないとかそういうんじゃなきゃ別に構いやしねぇけど、よ。でもさ……けど、さ。なんつーの、本人の口からってーのかな? そ、そういうのも無くってのはさ、その…………、わ、分かるよな隆棋?」
「えぇ! 弥代様のその御気持ち、隆棋は痛いほど分かりますとも、どうぞ御安心を!」
まったく良くなんかない。心の底から良くなんて思っていないからこそ口を開く度に頭に余計な、無意識の内に意識しすぎてしまってが故にか、勝手に滲み出ている言葉すら、自分がなんと発しているかすら全部を把握しきれぬまま愚痴同然にそんな事を溢す、も。そういえば居たな、なんて視界の端で見えた高い位置で一つに結われた、男のくせして髪が長い彼の名前を口にし、雑に話を振ってみた。
が、意外にも。得られたのはこれまでの弥代であれば中々得ることのなかった賛同的な反応で。痛いほど、などというのは振っておいて多少大袈裟だな、と感じつつはあったがそれでも、弥代は自身の口角が微かに緩むのを自覚しながら小さく腕を組んだ。
否、相手が出会ってからというもの自分を相手に、やたらと美化した評価を、過大評価を繰り返しているものだから、きっと弥代がなにを言ったって大抵のことは肯定的な言葉を返してくるのだろう、とそんな気があるのは否めない……、否定するのはとても困難ではあるのだが。
まぁ、何はともあれといったところだ。どうせ得られないだろうと諦めていた賛同を得られて少しばかり自信がついた。あまりにも単純すぎないか?と問われればそれまでだが、この頃の弥代はこれまでと違って前向きに物事に取り組む姿勢というものを、少なくとも自分でも出来ている、と思えるぐらいには出来るようになっており。
だから、どれだけ背中を押されるような気持ちを味われた言葉が薄っぺらかったとしても、これぽっちも中身の無さそうな上部だけの言葉であったとしても(真偽は勿論弥代が知る由もない、当人しか知りえぬ事、だ。)、弥代は堪らなく、単純に喜びを顕にして、そうして――
「って事だからさぁ、その別邸って何処にあるのか教えてくれよ百合さん?」
「うふふふふふ、駄目ー」
「なんでだよっ⁉︎」
正直、これが既に何度目かは分からないぐらいには似たようなやり取りをしているのだが、隆棋の言葉で調子づいた弥代は性懲りも無く再度挑んでみたのだが、やはり、といった具合に百合を相手にあっさりと往なされてしまった。……というよりは、全く相手にされているようには思えない態度を弥代は目の当たりにした。
強敵、ではなく単純に手強い。
これはやはりどう足掻いても、どれだけ挑戦したとしても勝てっこないのではないか?と、畳に前のめりに倒れ込みながら弥代は小さく身を震わせるのだが、ふと差し出した覚えもない頭を優しい手付きで撫でられる。この場で自分にそんな事をする相手など一人しかいない。
「百合じゃなくってつゆりって呼んでくれないからよ?」というのは後出しにも程がある。が、彼女は他人を撫でたり、といったのが得意、らしく。つい身を捩りたくなったとしてもそれは別に不快というわけではなく、ただこそばゆい、からな、だけで。
今の今のやりとりで惨敗を決めた後なのに、そうすんなりと呼んでやるものか、と相手の我儘に付き合ってやる義理はないぞ、と弥代は意気込んでみせたわけ、だが
「………つ、ゆりさん」
髪を逆立てられるように撫で上げられるのはどうにも心地よく、容易く口を割ってしまう。
チラリ、天井を見上げるように頭を動かせば、弥代を柔らかい表彰を浮かべ見下ろす百合と視線が交わる。
「うふふ、嬉しいわぁ。でも、教えてはあげられないの。
ごめんね、弥代ちゃん。」
「いっ、今の流れで断るのはおかしいじゃんかよ?」
「何もおかしくなんかないわ?
だってお祖父様に口を酸っぱくして言われているんだもの、訊かれても教えてはいけませんよ、って!」
「ぐぅう……」
やはり一筋縄ではいかない。
百合のご機嫌取りに成功出来たのなら、恐らく手っ取り早く相良が何処に居るのかを知ることが出来るのではないか、と弥代が気付いたのはつい先刻の事だ。
銀嶺が隠居生活を送っているというこの屋敷内において、一応は女中という立場、仕事を任されている身でありながら客人と主人の孫娘と呑気に談笑に更け入ろうとした不届き者――サボり魔を女中らに売り飛ばした後の事である。
どうしてそんな事に気付いたのか?と訊ねらたところで、別に根拠だとか確信に至ったそれっぽい立派な理由だったりというのは今回の弥代にはなく。
なんとなくふとそう思ったから、というのかが何よりも大きい。だから度々弥代は彼女の、百合の機嫌を取ろうと少々躍起になっていた、答えを教えてもらおうと幾度か粘ってみたわけだが、
(初めから言うなって言われてるモンはそりゃぁ言えねぇか……)
前のめりに畳に倒れ込んだ体勢からゴロリ、今度は頭だけではなく体ごと大きく捻ってみせればそれで、額を相手に差し出す姿勢を見せた。
するとまだ聞き馴染んでいない、どちらかといえば控えめには聞こえない、うふふ、なんて笑い声を彼女は漏らし、そうして弥代を自分の頭を自分の膝上へと手招いてみせた。
西条百合――という女は本当に掴みどころがない、というよりは分からぬ相手、だ。
数えで今年で十五を迎える、西条家の現当主の娘だそうだ。
十五を迎えた事でやっと縁談やら見合い話に本腰を入れられるようになったと、両親の勧めで頻繁に見知らぬ男と顔を合わせて会話をしなくはならない。
そんなのをここ最近はずっと繰り返しており、両親を困らせたいわけでは、迷惑を掛けたいというわけではない為に断ることも出来ずに我慢に我慢を重ねてきたのだが、それが少しだけ当人の中の限界を越えてしまい、
『……まぁ、ちょっとした家出、に近いのかしらねぇ?』
茶の良し悪しなど弥代が知るわけもない。
でも、折角茶室などという随分と手の込んだ、洒落た場所に招かれたというのに点てられた茶の一杯も口にしないのは勿体無いから、と祖父を真横に。
『百合は子どもながらに昔からどうにも我慢強く、大人に我儘を溢す……特に二人には迷惑を掛けまいと中々言いたい事も言えずに育ってしまった、難を抱えている娘なのでございます。
相良殿が戻って来られるまでの短い間で構いませんので、もし弥代様がよろしければ百合の話し相手になってはいただけませぬか?』
教わったというわけではなく見様見真似で覚えたというだけの動作をする事で用意してくれた茶を弥代に差し出しながら、身内を前に隠す素振りも見せずに心の内を教えてくれ、続いて百合の祖父である銀嶺の口から直接、そんな事を弥代は頼まれたのは昨日の事だ。
一昨日の、相良や春原と三人で中庭の茶室に招かれた時は結局真面目な話というものはこれぽっちも行われることはなく、ただ絹や西条銀嶺を交えての談笑に時間ばかりが過ぎていった。
途中、一時は調子が戻ったものだから、と臨むに至った相良が再び体調を崩したような反応を見せた時は本当に大丈夫なのか、と弥代は心の底から心配をしたのだが、昨日の朝に部屋を訪れた時には、そこに居る筈の相良の姿はなく。
相良と同じ部屋を用意されていた春原を後ろに引き連れる事で全体の造りを知らない屋敷の中をぐるり回って相良を探して、なんて事があった、その日の昼時の事。
別邸に相良を案内し、自分だけ弥代や春原を相手にその説明をする為だけに戻ってきたのだという銀嶺に、前日とは違って一人茶室に呼ばれたのが弥代のみ、であった。(勿論、春原には部屋で大人しく待っているようにと釘はしっかりと差し忘れることはなく。)
西条百合という女は、弥代達がなんやかんや今、この山城国において身を寄せることを受け入れてくれる、居座る事を許してくれる、そんな西条家の、前当主で今は隠居生活をしている西条銀嶺の孫娘、だ。
簡単に言ってしまえば、今まさにお世話になっている恩人の、その身内、ということになる。無碍に、扱っていいわけがない。
その前の日から既に顔を合わせたり、名前を互いに名乗り合うというのをせずとも二、三言葉を交わしてはおり。今朝に至ってはやっと当人の口から名前を教えてもらったり、というのがあった仲では少なくともあり。……とはいえ、弥代が彼女に取ったそれまでの態度というものは、決して“良かったもの”、と呼べる代物ではなく。だというのに百合自身が直接、弥代様と仲良くしたいのだと申しておりまして、などと弥代は銀嶺から言われてしまったものだから断れる機会を失ってしまった。(否、もしかせずともそんな機会は端から自分には与えられていなかったのやもしれぬ、が)
なに、も。弥代は別にそんな、相手に好感を抱かれるような、そんな態度を一切合切彼女にした覚えはない。
というのに、どういうわけか彼女はやけに弥代に対し距離を度々詰めてくるような、まるで以前から面識があったかのようなそんな態度で接してくる。
本当に分からない女、だ。
『弥代ちゃん、』
どこぞの女のように、弾ませた声色で自分のことを呼ぶ。ゆるく取った一房を頭の後ろでまとめあげる、それ以外の髪はそのまま落としてみせるのなど、そこに分かりやすく目を惹く“色”はなくとも、視界に姿を収めた時に見えるぼんやりとした輪郭はどうしようもなく弥代の、弥代の数少ない友人である、扇堂雪那と被って見えて溜まったモンじゃない。
眠たくなるまで一緒にお話しをしましょ、なんて言って女中に布団を抱えさせて、弥代が与えられている六畳に押し掛けてきた昨晩の出来事には特に弥代は肝を冷やしたものだ。そしてその場で、出来るのなら“弥代ちゃん”と呼ぶのを止めてほしい旨を弥代は百合に対し、キチンと伝えたつもり、なのだが――
『嫌よ?』
呼び方を誰かに決められるのは好きじゃないの、とそこだけはどうしても譲れないのだ、とそんな風なことを言ってのけた。
『百合は子どもながらに昔からどうにも我慢強く、大人に我儘を溢す……特に二人には迷惑を掛けまいと中々言いたい事も言えずに育ってしまった、難を抱えている娘なのでございます。』
夕暮れ時の茶室で、彼女の祖父がそんな事を言っていたのを思い出す。両親に対してのみ遠慮気味な、言いたい事もまともに言えないという姿をいっそ見てみたいものだ、とそんな事を考えてしまうぐらいには少なくとも、西条百合は豪胆でとても我儘な、自分のしたい事を相手に強要してくる、どう見たって強引で、自分が引くという考えを恐らくは持ち合わせていない。
間違いなくそれは最初、弥代の癪に障ったのはそうなのだが、しかし、自分に対してそんな風な接し方をしてくる強情な彼女の態度だったりがどことなく弥代には、今はもういない詩良のそれに少しだけ重なって見えてしま、い。
ゆったりとした所作や、軽く肌を掠めていく細い指先、その動きというものは、数少ない友人のそれよりも、今はもういない彼女のそれにどこか、似ていて。
香り、にしても。
長い髪の手入れの際に使われているという香油によって香りを纏う友人とは違い、焚き物にわざわざ火を点けて、香りを纏った服に袖を通すことで体に移らせているのだという、以前一度だけ教えてもらった事のあるそれを思い出せばそれで……、弥代はそれであっという間に百合を相手にあまり強く出ることは出来なくなってしまったわけだ。
否、というのはきっと、建前、で。本当はただ……、ただ……
(撫でられるの、めっちゃ気持ちいい……)
痒いところに手が届く、という言葉があった気がする。それとはきっとワケが違うということぐらい弥代だって当然分かっているのだが、それ以外に似たような、上手く当て嵌まってくれる言葉がどうにも浮かばず。誰に話すなりをしてそれを違うと指摘をされるわけでもないのならそれで、自分の中でだけで済ませられるのだったらそれで別にいいや、とそんな。そう、自分に言い聞かせることにした。
「つゆり殿、もしよろしければやり方を伝授いただけないでしょうか?」
「フフフ、隆棋くんは本当に弥代ちゃんが好きなのねぇ?」
「えぇ! 今後とも長くお仕えし、お傍に居りたいとそのように考えている次第です!」
「…………。」
弥代は聞こえなかったフリをした。
昼餉の支度が出来た、と女中まで顔を見せたのはそれから少しして、だった。
昨日の晩や今朝は絹が声を掛けにきたものだから、また彼女が顔を見せるのかと思っていたのだがそうではなかった。やって来たのは三日前にこの屋敷に上がらせてもらった、春原に腕を引かれる弥代を部屋に案内をしてくれた時の女中と同じように見えた。
「……俺、はさ。その、知り合いがデカい屋敷に住んでるんだけど、そこの女中……下女連中とはまぁまぁそこそこ顔を合わせる事が多い方だったとは思うんだけども、なんていうかその……、違うモンだね色々、と。」
屋敷の主人の客人として扱われる立場と、屋敷の主人の身内の客人として扱われる立場というだけでそれほどの違いが生まれるとは到底思えない。
この屋敷の女中さん達はしっかり者が多いんだね、なんて言ってみてやっと、そうか自分はあの下女連中の事をしっかり者とは見ていなかったのだろうな、と弥代は納得した。
そして、汁物の上に小さな葉が沈むことなく、ちょこんと浮かんでいる三つ葉と、その下に小さく浮かぶ、箸で摘んでみれば随分と柔らかそうな、ふにふにとしたそれを軽く持ち上げて、なんだろう?とは思いながらもそれを口の中に運んだ。
「…………。」
「……。」
「…………、」
あまり、なんと……いうか、歯ごたえがそれほどある、というわけでもない、見た目通り、箸で摘んだ時の感覚のまま柔らかく。それで、いて。それほど噛み締めても味がする……というわけでもなく。
「……、」
ズズッ、と少しだけ音を立ててしまったものの、しっかりと塩気のする汁を口に含み、それが口内に十分に行き渡ってから、上書きしてみせてからやっと飲み下した。
(俺、これ苦手だわ。)
一度口の中に入れたものを、いくら客人として招きいれられている立場とはいえども吐き出すような事は多分……。否、絶対、してはいけないことだろう。それぐらい言われずとも弥代でも分かる。
普段から何かと顔に出やすいと指摘をされるが、今回はきっと顔に出すことなく上手くやり過ごすことが出来ただろうと謎の自信を胸に。しかし口角は隠しきることは出来ず、なんなら喜びを噛み締めきれず肩が小さく弥代は震わした。
「……そろそろ触れてもよろしいでしょうか弥代さん?」
「え……、あっ、うん? ど、どうかした?」
「振ってそれほど経ってもいないというのに振った当人がお忘れになることがありますかっ⁉︎」
「んぇ? …………あ、うん。なっ、何だっけ?」
杓文字を片手に絹は腰を浮かせたのは一瞬の事。弥代がなんだったかなぁ?と自分の発言を思い出すのに軽く斜め上を見上げているその反対側で、絹は今しも横に控えている屋敷の女中に浮かれた腰(臀部、を)叩かれたわけだが、そちらを見ていなかった弥代が当然知る由もなく。
「あぁー、ええっと、アレだろ? さっきの、女中さん達がーっていうヤツな。わっ、忘れてねぇし。ちゃんとお、覚えてるし?」
箸を揃えてお盆の上へと戻す。箸置きなる狭い部分に食べ途中、また使うのに戻していいんだったか?と悩むも一旦置くだけだから大丈夫だろう、とそれ以上を気に掛けるのは止めた。
「いや、だからさ。俺の知ってる屋敷で住み込みで働いてる連中とじゃ、何とか何とかの差、っていう言葉ああるだろ、アレみてぇだなぁって思ってさ。」
「“天と地の差”、ですね。」
「あー、それそれ! みんなすっごい丁寧っていうかさ、なんていうかこう、すっごい姿勢が低い、っていうのか? 一歩引いてて、ひ……ひ……、」
「品がある?」
「そうそ、それだよ百合さ……、つゆりさん!」
「弥代さん、出来ればそれ以上口を開かれない方がよろしいかと? 無理に開かれるのは大変その、見るに耐えません?」
「は、何の話?」
折角楽しく話せていると思っていた矢先、弥代は急に水を差されたような、暫く寄っていなかった眉間に小さな皺を刻んでみせた。
「見るに耐えないって何の話だよ? 褒めたつもりだったんだけど、俺なんか違ぇこと言いでもしたか?」
「いえっ、褒めてらっしゃる、それに何も変わりはないのですが今の……、その後の発言がいくらか、いくらか……そのっ!」
「ンだよ言いてぇことあんならハッキリと――
「あ、弥代ちゃんっ!」「弥代様、危なっ」
いつの間にか裾を踏ん付けていた、らしい。また最近は、扇堂家が用意してきれた新しい着物に袖を、丈の短めな袴で過ごすのにばかり慣れていたものだから、暫くはこの屋敷で世話になることが決まったのが昨日の夕暮れ時の、今日になって屋敷で用意された着流しを当たり前に受け取って袖を通したものだからどうにも、長い裾丈であることを弥代は忘れていた。
そして、胡座を掻くことを叱られるようなことも昨日今日はなかったものだから、覚えたとはいっても慣れた格好で過ごす方が楽だから、と膝を立てたりしていたの、だが。
絹に近付こうとした腰を、中途半端に組んだまま立てていた足を直そうとした矢先、着流しの裾に足が絡まった。
百合と隆棋が高い声を洩らす、それが弥代の耳に届く頃には自分一人ではどうも出来ない状況となって、おり。これは畳の上に転がってしまうことだろう、と瞬時に弥代は腹を括ったのだが、
「……大丈夫か、弥代?」
「……ん、…………ぁ、おぅ?」
傾きかけた体勢のそのまま、弥代の右肩は随分と大きな手によって支えられた。そうしてそのまま、グッと力が込められればあっさりと元の、胡座を掻いていた状態へと戻る。
「……あんがと、」
「怪我がないのならそれで良い。」
「ぁ、うん。」
あまり良くないとは分かっていながらも、弥代は着流しの中に下履きを履き込んでいた事を思い出し、長い裾の端を摘んで、それを腰帯に挟むこととした。
「さて、話が途中になっちまったなぁ絹さん! 今さっきの続きだ! 言いてぇ事があんならハッキリ言ってくれなくちゃ俺は困
「いえいえいえいえいえいえッ⁉︎ 弥代さん違うっ‼︎ 弥代さん絶対に違いますッ⁉︎ なっ、…………なんで、どうしてっ‼︎」
絹と百合の決定的な違いなんて言うまでもない事だが、敢えて今の弥代がそれに触れるのなら、そういうところだぞお前、と舌打ちを隠しもせずに言ってのけてやったことだろう。
だというのに肝心な、弥代が言ってやるという気になった今この時、今朝に耳にした、「私とつゆ殿の何が違うというのですか弥代さんっ⁉︎ している事は大体が一緒でしょう!」という、そういった趣旨の発言は出てこない。否、なにも一字一句同じことを言ってほしいわけではない。それっぽい、それに近しいことを言ってくれればそれで、多少なりともそれで弥代が今まさに腹の中に抱えている憤りといくらか、その鉾先を収めることが出来た、だろうにとそれだけ、で。
「アレではあまりにも春原殿が可哀想です‼︎」
「なぁ、そろそろそれ黙れねぇかな絹さん? 俺にもさ、あんだよ堪忍袋の緒っていう分かりやすいヤツがさ?」
「またまたぁ御冗談を弥代さん! 照れ隠しだという事ぐらいこの三ツ江絹、誰よりも存じておりますとも。」
「テメェのその無駄な自信は本当にどこから来やがんだ? 俺が日に日にテメェに対してだけ口が悪くなってるのもしかして気付いてねぇのか? 馬鹿なのか、救いようのねぇ馬鹿なのかおい?」
「弥代さんが素直になれない御方であるのぐらい絹は分かっていますとも。そうまで虚勢を張らずとも。……いえ、長く関わっている内に弥代さんのそんな部分がなんだか本当に少しずつではありますが段々と、可愛く見えそうになってきている自覚はあるのです。不思議なものですね、心って。」
「女中さーーーーん! 絹さんがまたサボ
「どうしてそういうことをするんですか弥代さんんんんッ‼︎」
これはもう手に負えないと分かるや否や、今朝も使った手でどうにか上部だけでも黙らせようと声を張り上げれば効果は覿面。なんなら身をその場で屈めて、人であれば何もない頭頂部に両手を乗せて、本来の姿であればそこら辺にあったろう、耳を折り曲げて悄気たような反応を見せる。
「本当にもうすんなよ?」
「ううううううう春原殿の為にも三ツ江は諦めませんッ‼︎」
「――き
「分かりました!分かりましたからぁああッ‼︎」
溜め息を吐かずにどうしていられよう。
何も派手に体を動かしている、というわけでもないのにドッと疲れが一気に押し寄せてきたかのように体が重い。
畳張りとは違う、討伐屋の執務部屋のように木板が同じ感覚で綺麗に張り巡らされている、廊下とはまた違った見た目をしている床をしている部屋には、やはり討伐屋の部屋にもあったのと同じように脚の長い椅子と机があった。
相良がいつになったら“別邸”から帰ってくるかも分からぬ今、客人として招かれているものだから細々とした炊事洗濯といった手伝いはさせてもらえないことを既に弥代は身を持って理解しており、ならば暇な時間を使って字の練習でも出来ないか、と考えていた。
思い返せば榊扇の里で、佐々木利吉が開いている寺子屋で字の書き方を教えてもらった際は、畳の上に座っていたが、あれは正直なところ座り心地が悪く、弥代はあまり好きではなかったのだ。
文机と、もう使わなくなった紙があるならそれを適当にいくらか貸してもらって、それに墨ではなく穂先に水を付けて書き方を練習、して。書いたばかりの紙が乾くまでは他の紙に書いて、また乾いたのに書いてをいくらか繰り返していればそれで暇が続く限りは時間を潰すことが出来るのではないか、とそんな魂胆であった。
が、畳の上で座って書くのは、というのが気になったのだろう、それならいっそ違う座り方をされてみれば、という絹の提案に弥代は乗り、そうして案内をされたのが討伐屋でも出入り自体は何度もしたことがある部屋と似た造りをしており。
そういえば弥代は一度もその椅子に座らせてもらえる事はなかったな、と。否、なにも別に座れないなんていうわけではないのだ、座り方を知らないというわけでもないから、とそう自分に強く言い聞かせて座面に座ってみせ―――、
「…………。」
「……っ、」
「…………え、あの弥代さん降り
「は、何?」
「ぁっ、いえ?」
絹は、目を逸らした。
脚がもう少し短い椅子はないものか、と絹が部屋を出て探しに行って暫く。
どこまで行ったんだろうな、なんて壁に凭れ掛かって座り込んでいた弥代の頭上に、ふと影が落ちた。
「弥代ちゃん見つけたぁ!」
「つゆり……さん?」
昼餉が終えるなり何やら早々に広間を出て行ったきり姿を見ていなかった百合である。
西条百合、という名前があるのにどういうわけか、「つゆり、と呼んで?」とそんな事を強要してくる、なんでそんな事を言ってくるのも弥代はまだ知らない、よく分からない女である。
でも、見つけた、等という言葉が出てきたということは何か用事があって自分を探していたのかもしれない。今のところ本当にこの暇な時間がいつまで続くかは分かったものじゃないのだが、今この時は有り余っているのに違いはなく。
が、話し相手、だけではあまり面白味に欠けはするし、二人で長話を出来るほど、相手を楽しませられるような事を生憎と弥代は知らず。
いっそ外にでも出たりが出来ればいいのだが――
「弥代ちゃん、御遣いって得意かしら?」
「お、つかい?」
「えぇ、お外で買ってきて欲しいものがあるのぉ!」
「そ、外ぉ⁉︎」
そんなのは願ったりか叶ったり、というやつだ。
思わず勢いよくその場に立ち上がり、百合に一歩詰め寄る。
「行っていいの外に? 出ちゃいけないとかじゃないの⁉︎」
「えぇ、髪がどうしても目立っちゃうだろうからって心配してたけど、もうかれこれ三日も屋敷のお外に出てないでしょう? 来た時に被ってたっていう頭巾……だったかしら、それを被れば誤魔化せるんじゃないかしら?」
「おっ、俺! 俺ね、髪の毛黒く出来るモン持ってる! 持ってるからさ、それ使ったら目立ったりしねぇと思うんだ! だから大丈夫。出れる、出れるよ俺!」
「まぁ、とっても乗り気! 嬉しいわぁ!」
「へへ、俺も今すっげぇ嬉しい!」
斯くして、そんな一見するととても穏やかな、百合は欲しいものが自分が外に出ずとも手に入り、弥代は息抜きがてら外に出て体を動かすことが出来て、と両者に益しかない、得しかないような、そんなやりとりが行われたわけ、だが。
「絹さんさ、今日背中流してもらえねぇかな? ちょっと俺一人じゃ上手く出来ねぇ事があるから手貸してほしいんだけど!」
「先ほどの機嫌の悪い弥代さんは一体何処へー⁉︎」
弥代はこの時は、まだ知らなかった。
百合がどうして突然、弥代に御遣いなどというお願いを持ち出したのか、その魂胆――を。




