三十九話 見返り
『ごめんください。』
立て付けがきっと悪いのだろう。
勝手をそれほど知らぬ戸を開けようものかを男は一度は悩みはしたが、しかし戸越しに聞こえてくる、まだ姿も見えはせぬ相手ではあるのものの、その声のか細さと頼りなさに。
良からぬことであろうというのは分かってはいたが、一度外れかけた箍を締め直すだけの時間を作る余裕があるはずもなく、浅い引手に指を引っ掛けた。
そうして、声の主であろう、自身の胸ぐらいまでしか背丈のない、年端もいかなそうな子どもを静かに見下ろした。
『あ、灯りが遠くから見えたもので……そっ、その……』
ジロリ、その姿を頭のてっぺんから爪先まで見下ろす。
近隣にでも暮らしている子ども、という風には見えない。
袖の付け根であったり、装いの所々には解れがありはするものの、子どもがするにしては上等すぎる身なりをしているのが窺えた。
『あのっ、えっと……』
そう、見られることを初めから見越してでもいたのか、切り出しに多少吃りは見られはしたものの、そこから先は既に何度か口にしたことがあるのだろう、とそう感じずには居られない程の、流暢な説明が始まった。
曰く、自分は商家の倅らしく。父に付いて周り商いを教わる道中、この頃やけに続く雨によって緩んだのだろう小さな土砂崩れに運悪く巻き込まれてしまい、父と逸れてしまったそうだ。
身なりを始め、言葉遣の他にも同年代の子らを思い浮かべても随分と品のある、落ち着きの見てとれるその姿はどこまでが誠であるかを男の程度では見極めきることは生憎と叶いはしなかったが、そうであると言葉を並べる子どもの、その口振りを全て疑うことはなかった。
『一晩で……いいのです。
どっ、どうか。どうか……中に上がらせてはもらえませんか?』
胸の前で組んでいた指がスルリと解かれる。そうして濃ゆい袴越しの下肢を緩く、細く色白い枝木が擦りながら降る。
『足を、挫いてしまったよう……でして。』
そうして捲り上げられる裾から覗く足首は、赤黒く腫れ上がっており。相手が年端もいかぬ男児であると分かるなり鳴りを潜めたはずの、そこまで自分はまだ落ちぶれてはいやしないと高を括ったはずの、良からぬことと分かっていたはずの考えが、じわじわと頭の中を侵食しいていく感覚を男は味わった。
否、もう当の昔に自分は落ちぶれていたことだろう。追い詰められていたからこそ、今回のような凶行を、人の道理に背くような真似を、手を、染めてしまったのだろう。
声を耳にしたその時、女であるのなら等の考えがほんの少しでも過った時点で、既に手遅れであることを、その覆しようのない事実を、認めざるをえない然るべき行いを、その罪から目を、背けようとしていただろう自身の浅はかさと愚かさを、男は時間を置いてやっと向き合った。
が、そこに自身が悪いという考えは微塵も、これぽっちもなく。一度犯した罪に対し、人の道理に反した行いをどれほど重ねようとも、それがそう簡単に、易々と消え去ってくれぬ事ぐらい分かり切っており。
だからこそいっそ、償うことになったとしてもそれは、全てが露見してしまうとは到底思えず。今回同様に後処理を怠るようなことがなければもしやバレることもきっと無いのでなかろうか、とそんな事を考えてしまった。
だか、ら―――、
『あぁ、外は寒いだろう。早く中に入るといい。』
血の匂いがまだこびり付いて離れない、縁がなければそれがなんの匂いであるかも分からないだろうと、足を怪我した子どもを自分のモノではない家の中へと、招き入れた。
「落ち着かれましたか?」
はたして自分はいつからこの場に居合わせていたのだろうか、それを明瞭にする事さえどうしても儘ならぬまま、しかしながら横に並ぶ男の問いにぐらいはせめて答えればならぬ、と頭を働かせ、小さく言葉を返した。
「度重なる無礼を、誠に申し訳ございません。」
「年寄りというものはどうにも世話を焼きたがるものなのです。私が好きでしているだけですのでどうかお気になさらないで下さいまし。」
「……はい。」
似たような事を、ここ最近耳にした覚えはあるのだが、なんなら同じ相手の口から発せられていた気がするのに、それさえもどこか……、それが何時であったのかすらも思い出せない、記憶はとても曖昧だ。
昨日呑みすぎた、歯止めが効かずに手を伸ばしすぎた酒が、あれから丸一日経っているというのに未だに抜けきらず、それで調子が悪いだけではないのか、と自分に相良は言い聞かせることでどうにか平生を保とうと、目を瞑れば……少しでも気を緩めようものなら息を吹き返しそうになる記憶が、今まで以上に鮮明になって呼び起こされてしまいそうになるのを免れようと幾度も幾度も、試み続けていた。
だがそれも、それ自体いつからそんな風に過ごしていたのかも分からぬぐらい、少なく――とも、西条家で振る舞われた朝餉以降なにかを口にした覚えはなく。
だというのに既に辺りはどっぷりと暗く更けっており、暦の上では秋とはいえども、まだ日中に照りつける陽射しに夏の容赦のなさを思い出さずには居られない、日が暮れた後の風を心地よく感じずには居られまい頃合いとを迎えており。その経過を素直に受け入れざるをえなかった。
「……頂戴、いたします。」
「えぇ、どうぞ好きにお使いください。」
静かに差し出される、十分すぎるぐらいよく絞られている、相手がどこから出したのかも分からないよく冷えた手拭いを受け取る。
それでも指が、掌が触れていた部分にはじんわり……と。人の肌が触れていたことを証明する名残りが、熱がどうしようもなく滲んで、おり。これ以上……、これ以上この相手に対し礼を欠くような真似を働いては、いくら気にしないで下さいと言わせた後であろうとも、決して、ならぬ……のに。
今の今までそんな事で紐付くことなんてこの二十年間で一度もなかったと断言が出来てしまう程だというのに、込み上げて来るものを押し込める事が出来ず、相良はその場で深く嘔吐いてしまった。
もうどれほど堪えきれずに吐き出しただろうか。食に当たったのだと、やはりいっその事、昨晩の酒が良くない今のような結果を齎してしまったのだと、そんな風に結論を出してしまうのが今この時ばかりはいくらか気の持ちようは楽で。でも、此処に至るまでの自身の歩みがどうしたってそれを、その様に目を背ける、向き合わずに逃げようとする姿勢を、他ならぬ自分が誰よりも許せる、わけがなく。
当にきっと限界を迎えているのだろう、だからこそぐるぐると頭の中に長い間かれこれずっと居座り続けている、それら全てにこうまで苦しめられてい――
「私が触れてもよろしいでしょうか?」
ふと、影が落ちる。
何かと目を向けようとした時にはそれはもう遅く、反応が遅れる間に、届いた声の意味を相良は身をもって知った。
布越しに背を摩る手は、先ほど受け取った手拭いの温もりよりもはっきりと、正しく人肌をそのままに相良に感じさせはしたが、その動きがあまりにも相手を労わろうというものに見え。
それが、何時であったかまでを今は思い出せるだけの余力はありっこなかったのだが、それでもその手付きがかの薬師がしてくれた事のあるそれに、あまりにも似ていると気付けてしまい、同時に、今の今まで揺らぎを目にすることのなかった、相手が纏う【気】に小さな揺めきが見つけてたことで、それが自身のよく識る【人】のその在り方に重なり。やっと、目を向けた。
「気配りが足らず申し訳ございません。」
「いえ、その様なことは決して……、」
言い渋りしたものの次の句がどうしたって浮かばない。普段であれば紡ぐことが出来る、その場に適した言葉も出てくる兆しはまるで見えず。
今の自分の有り様にひどく、憤りと同時に不甲斐なさを相良は感じずには居られなかった。
しかし――、
「相良殿――と。私も絹さんに倣いそのように、お呼びしても構いませんでしょうか?」
「……は?」
呼び方を、脈絡もなく突如として問われた。
掛けられた言葉の、その意図を汲もう頭を働かせるにはやはりどうにもまだ余裕はなく。それでもいくら歯切れが悪くなろうとも一旦は構わない旨を相良は伝えた。
「いきなり可笑しなことを訊ねてしまいましたが、どうか大目に見てください。昨晩の相良殿はひどく酔っておられましたので覚えては居られない事でしょうが、貴方様のことをどう呼べば良いのか、といった答えを私はいただく事が出来ませんでしたので。」
「……え、ぁ」
そうでしたか、と返すことしか出来まいし、そう言われてあまり頼りにならない、先ほどまでと比較すればある程度は落ち着きを余裕を見せつつある頭を働かせ、今もまだ多少なりとも朧げな記憶を辿ってみる、と。……言われてみればそんなやり取りを挟みはしたものの、碌に自分は相手の望む回答をしていなかったのを思い出してしまい、痛みを覚える額へとまだ幾分かひんやりと冷たい手拭いを押し付けた。
「もっ、申し訳ございませっ」
「いえ、なにも謝ってほしいわけではないのです。こうして言葉を交わす上で互いにどのように呼べばいいのか、というのを私はとても大切にてしているのです。
ですので昨晩、貴方様が私の事を“銀嶺殿”と呼んで下さり、対等に在れれば、とそう考えた次第です。」
対等――、とはあまりにも難しい提案である。しかしながら相手がその様に望むのであれば、相手の庇護下に一時とはいえども居座っている立場の自分がそれに意見をする事は難しく思えた、のに。
「……ふふっ。いえ、等というのはただの建前、にございます。そう真面目に受け止めてもらう必要はありませんので、どうぞ肩の力を抜いて下さいませ。」
「…………え?」
目を、見張る。
意味が、自分の隣に腰を下ろし目線を合わせてくる相手の腹の内が読めぬ。調子が優れぬのをいつまでも言い訳に、引き合いに出すのは話が違う。既に二、三言以上言葉を交わしているのだからいい加減切り替えれば、相手の言葉に意識を傾けねばならない言ぐらい相良は分かっているのだが、そうと分かっていても未だ中々に難し、く。
「絹さんが“相良殿”、と呼ぶのが面白そうでしたので、それを私も真似てみたかっただけなのでございます。」
「面白そう……?」
「えぇ、弥代様の事は“弥代さん”、と親しみを込めて呼ばれるのに対し、貴方様やお連れの青い瞳の彼の事を、相良殿、春原殿と呼ぶのがとても分かりやすく、乗じてみたくなっただけなのです。」
「……ん? ……ぁ、えぇ……はぁ?」
相手は山城国においてその名を広く知られるという(否、なにもそれは山城国に限った話ではなく、周辺諸国にもいくらか知れ渡っているなどと、京までの道中で、まるで自分のことのように自慢げに胸を張り、絹が話していた)、大小数多ある、十や二十では到底足らぬ様々な青物屋を長年纏め上げてきたとされる手練れの商人である。
家督を娘夫婦に托し、表舞台に立つ機会は減り隠居生活を送っているという割に、商人としての手腕に衰えが窺える、といった風には、不調である今の相良からしても、とてもじゃないが見えなかった。
ただ言葉の節々に、冗談めいたものであったり、揶揄ってやろうといった、歳を重ねているというのに随分と子供染みたもの、で。
否、もしかすると彼は、ただ自分の事を気遣い、此方の気を和らげようという意図があった上で、敢えてそのような態度で接してきているだけではないのか、とそんな事を少しずつ考えられるぐらいには、徐々にではあるが相良は余裕を取り戻せつつあり、そして――、
「何故、弥代さんだけ“様”とお呼びするのでしょうか?」
そう、振り返してやる事とした。
菊花開、霽月の徒路 十四話
あの晩から数えてもまだ八日しか時間は経っていない。 となってくると、榊扇の里を出立したのが八月十日であり、全てを足したとしても未だ半月も経っていやしない。いやはや……、時間の流れというものは感じる方がずっと長く、実際に過ぎ去った方は案外短いものだ。
もっと経っているのではないか、と何も事実を捻じ曲げたいわけではなく、ただすんなりと受け入れたくない現実に目を瞑ってみて、見て見なかった芝居もしたくなる。
普段であれば自身の胸の内に留めるに努めてみせ、態々口に出すことでもないと、それで納めるものを珍しく、如何にも愚痴っぽく溢してみせ、そうして隣の。
拳二つ分ほどの間を空けて、縁側で左隣に腰を落ち着かせる、立派な髭を貯えた彼・西条銀嶺に談笑のつもりで話を振ってみせた。
「えぇ、分かります。
私も若い頃は似たような思いをよくしたものでございます。日が登るに合わせて体を起こしはするというのに、次に体を横たえる事が出来るのは、日が沈んでくれればそれで早々、というのは中々に望めず。
忙しなくも、身を持って感じる時の流れというものは何もない時のそれと較べようもないほど長いというのに、次の日にアレで一日しか経っていなかったと分かった時の気の滅入りようというものは本当に、いっそ夢であったのならと願わずには居られぬものです。」
「そうなのです、アレはとても堪えるものです。」
「その御歳で大変苦労を、」
「ははっ、いえ、進んで引き受けているのは他ならぬ私自身ですので、それほど苦などとはこれでも捉えてはおらず、慣れたものか……、と。」
不思議な、ものだ。
交わす言葉、その節々には多少なりとも距離感、互いの立場であったりを考慮した上での、決して砕けきった言葉遣いはあまり姿を見せていない、というのに。そう、と意識をしているわけでもないの乾いたものではなく、自然と笑い声を相良は漏らした。
これまでのやり取りの中に、肩の力を抜くように、などと掛けられたものだから、その言葉が今になって無意識の内に作用したかのよう、に。これまでであればそういった言葉は相良が相手の様子などを見定めた上で振るものであったから、誰かに振られる、という経験は殆んど無いに等しく。
そういった言葉というものは投げ掛けた直後は逆に意識しすぎてしまい、どちらかといえばその後の関係であったり、一旦は別れてから後になってからの接し方に影響を与えたりというのが多いものであると。特にこの頃は常に肩に力を入れ過ぎていた、気を張り巡らせすぎていたからこそ程なくしてそう作用しただけではないか、という考えが浮かびはしたのだが、
「…………。」
ふっ、とそれは意図して小さく漏らす。
今この場における彼とのやりとりの中にそれはとてもじゃないが要らない、正しく無用の長物といったモノだ。
だから、相良……は、
「――そうですか、では相良殿にはその、館林殿と伽々里殿といったとても頼りにされている御二人が居られ、」
「いえ、何も春原さんや芳賀さんを信用していない、というわけではありません。ですがやはり、歳があまり……、と言ってもまぁ五つほど離れている――、まだあまり世を知らぬ方ともなると、どうにも振れるものも限られてくる為。
なんでしたら大人のあまり綺麗でない部分の話というものはまだ若者の耳に入らぬようにしてやりたい、と。……まぁ、ただの我儘だとは分かっているのですが。」
自分のことを事細かに話すなどという事、勿論ながら相良にとっては滅多にない事だ。
なんならそこに自信がどう考えた上でそんな答えに至ったのか、など。いつもであればそれを順繰りに辿るのは難しいことではないが、今はあまり気乗りせず省く事とした。
否、聞かせる……、話す相手がそれほど存在していなかった、と言われればそれまでではあるのだが。
だから、こんな話しをするのはこれで三人目だ。
そして、
「さぞ、この道中は大変でしたでしょう。」
「まぁ……それ、なりに」
大変、であった。
相良のこれまでの人生の中において、これほど手が掛かる、常に気を張り巡らせておかねばならない旅路というものは、大袈裟に言うわけでもなく此度が初めて、だ。
……否、それは討伐屋などという一門を立ち上げる以前であれば然程気にもならない、過酷なものとは感じなかったやもしれぬ。
一時の余裕を挟んだことでそれまで長年培ってきた、築き上げてきたものが、その積み上げ方を、振る舞い方を、どのように過ごせばいいのかの術を上手く、感覚を掴みきれぬ尽、ただ、疲れてしまったという。実のところはきっと、そんな程度でしか、なく。
だが、
「……いえ、本当に大変でした。」
かつて芳賀に道を示してみせたという結果が自信へと繋がった、ということは決してなく。それを驕り、同じように手を差し伸べることが出来る、などと考え歩み寄ったわけではない。
長年向き合うことが出来なかった、ずっと自分の中で消化しきれずにいた過去にほんの少しでも目を向けることが出来はしたものの、だからといってそれに紐付く全てまでを受け入れることが出来たわけでもない。
元々、既に自分の懐の、誰かを受け入れることが出来る許容量というものは殆んど限界を迎えており、そこに弥代という存在を加えるような、かれこれ長い間その歩みを意識せねばならなかった為に知らぬ間柄というわけではないにしても、手を伸ばせば届く位置にいるにも関わらず渋り続けた程だ。
だと、いうのに、
「断じて、それが嫌であったと言うわけではないのです。ただ私は、どうにも他人をそう簡単に信じたり、というのが得意ではない……ようで、して。」
紫みがかった、深く青い瞳は無邪気に、屈託なく細められる。
誰がどう見ても人と疑うことのない姿を模ってみせる、何も“色持ち”に対し理解のある地で生まれ育った、というわけではないのに、自分の生みの親でもない者を間違っても疑うことなく、愛情を一身に受け育ったに違いない。
但し、言いたいと思ったことはハッキリと口にしてみせる、恐れ知らずの豪胆さは狭い世界で育った結果に過ぎない。
華やかなさと鮮やかさを損なう事を知らぬ山吹の瞳もまた、自分を取り囲む環境を、そこで育まれた価値観を疑うことを知らない。
誰かの為になることを、他人に尽くすことにやり甲斐を見出す。他者をそう簡単に蔑ろにすることなく、寄り添い敬うという事がどういった事であるかを熟知している様が心底眩しく映る。
距離が縮まりつつある相手に目を向けなかった、というわけではない。ただ相良は自分に向けられる、自分と同じように“色”を持って生まれたはずであるのに、信じられぬほど純真なその姿勢に、【在り方】に向き合ってやることが出来なかった、という。それだけ、で。
『相良さん!』
否、なにもそれは――、それは、あの子どもの、これまでの歩みに自分に似たものを感じた、という、そんなわけでは、なく。
「貴方様は、どうやら物事を深く考えすぎてしまう癖があるのでしょう。」
何もそれが悪いというわけではなく、と穏やかな声が続く。
「先の御二方と出逢われてからこれほど、長く顔を会わせないというのはこれが初めてではありませんでしょうか?」
「…………えぇ、言われてみると確かにそう、ですね。」
片時も側にいた、というわけではい。
『――えぇ、でしたら私が貴方を守ってさしあげましょう。』
同じ場所に留まる事なく、先を進む彼の背中を追うばかりの日々を送っていたのが一変したのは彼女と十数年越しに再会を果たした時であった。
あの時の恩を返したいのだと言い、【人】の姿をして突然自分の前に姿を見せた【神】を目の当たりにし、北の地に伝わる、江戸の頃に書き記され広まったという民話を思い出し、冗談かなにかであろうと軽くあしらうことで(しかし相良の目に映る女が纏う【気】というものは、【人】のそれとはあまりにも掛け離れており)逃げ果せようとしたのだがそれが叶うことはなく。
人の道理が通じぬ、奇怪な、到底理解の及ぶことのない施しを、いやいっそ、神からの寵愛と述べてしまった方がいい加護をその身に受けたことで、帰る場所を相良と彼は得るに至った。
『いえ、自分が用がありますのはアンタではなく、そちらの坊ちゃんにでございやす。』
下がり藤の追手を気にすることのない生活が始まって間もない頃、道の往来で不審な“色持ち”の男と相対することとなった。
自分は彼の血筋にかつて仕えていたという一族の生まれであり、彼の行く末を見届ける役目を托され、手掛かりも碌にない中、遥々上野国から途方もない旅路を続けてきたとのだと、男は名乗ってみせた。
当時の相良からすればそれは、彼女の加護を受けることで得られた日々に、熱りが冷めた頃になってからやっと姿を見せただけの、図体と見た目が多少恵まれているだけのぽっと出の、他人の手柄を横から掻っ攫いでもするような意地汚い、山猿のように見えた。
だというのに、歳が同じであると知ったのは何がきっかけであったろうか。彼の世話役を名乗る自分と、彼の目付け役を名乗る男との付き合い方は意外にも、互いの得意とする分野でそれぞれ手を貸しあった方が遥かに楽であると分かった方が早かったやもしれぬ。
自分のような人間がどれほど頑張ったところで、どれほど努力したところで到底手に入ることのはないだろう、と、そう思っていたものが、人並みに得ることが許されるものを、その居心地の良さを、知ってしまった。
気心が知れた、互いに信頼を寄せ合える存在の大きさを相良は、知らずとも良かったものをずっと遅れて知ってしまった。
自分には無くていい、得る資格など持ち合わせていない代物であると、そう疑うことのなかったものであるのに、だ。
誰かを頼るなんて、そんなのはもう当の昔に、祖父が亡くなったあの日に置いてきた筈であった、のに。
「少し、距離を置かれるのは如何でしょうか?」
[newpage]
「えっ、相良さん戻ってねぇの?」
何も彼の言葉が信じられない、というわけではない。
ただでも、なんというかまぁ結構視野が狭そうな男だと、あまり同時に気に掛けたりといった器用な事が出来ないという男であるというのをそれなりに弥代は理解しつつあったので、彼の腕を支えに部屋の中をぐるりと見渡した。
春原と相良が寝泊まりをするのに用意された部屋は、二組の布団が敷かれたってそこまで窮屈に感じないぐらい、弥代が昨日一昨日と寛がせてもらった部屋よりも一回りぐらいは大きい造りをしていた。
畳の数なんて一々数えて覚えてなんかはいやしないが、でも見渡す部屋の五に三……、八、枚よりは少なかったな、と思い出す。
ただ、でも、二人にと用意された部屋であるはずなのに、部屋の中にあるのは弥代の部屋とおんなじ、布団が一組しか見当たらず、相良さんの分は?と疑問を口にした。
「屋敷の人間が持って行った。」
「屋敷の人間?」
「……そう、だ。」
腕を支えにしたまま、背を逸らし廊下を見渡す。
広い、とはいっても見渡した部屋の中には誰もいないのだ。いないと分かった部屋をいくら見渡したって何も変わりっこない。
「……弥代はどうしたい?」
「ど、どうって?」
「……?」
「……へ?」
首を傾げ合う、奇妙な時間が続いた。
「相良殿でしたら何やら銀嶺殿から学びたいことがあるとかで、暫くは別邸で過ごされるとか……なんとか?」
でしたよねツユ殿?などと傍らにいた女に向かって絹は話を振るもので、吊られて弥代は昨日の朝一度顔を合わせたキリの、やたらと上等な身なりをしている女に目を向けた。
「そうだったと思うわぁ?」
「思うわぁ?」
なんだそのハッキリしねぇ返事は、なんて文句が出そうになったが訊ねた、頼りにした手前、弥代は口を噤んだ。
しかし――、
「駄目ですよツユ殿、弥代さんはそういった答えに直ぐに腹を立ててしまうような気の短い、心の狭い御方なのです。そんなでは嫌われてしまいます!」
「おおぅ、今なんつった? 弥代さんって俺の事だよな絹さん? 目の前にいんだけど今なんつった?」
「ふふっ、御安心くださいませ弥代さん。この三ツ江絹、何があろうとも弥代さんの事を買い被るような、ありもしない事をさもあったかのように言うような、変に誤解を生むような発言は絶対に、間違っても致しませんので!」
「え、何? 俺が今ここで怒るのってもしかして可笑しいのか? え、なんでお前それを堂々と胸張って言えるわけ? どんな頭してやがんだお前?」
意味を、その発言の意図がまるで読めない発言があっという間に並べられる。挙句自信満々に、何も可笑しなことは言っていない、と弥代が突っ込むや否や隣の女と一緒になって首を傾げだす始末だ。
弥代は、自信を失った。
「それはそれはひどい目に遭われたのですね弥代様。この隆棋、お貸し出来るものは限られてしまうのですが何が欲しいですか? 慰めるにはやはり頭を撫でるのがよろしいでしょうか?」
「――稲葉隆棋っ‼︎ ま、また貴方は勝手に弥代さんの隣にそうやって並ばれっ⁉︎ や、弥代さんには春原殿という殿方がおられるのだと私は再三申し上げたと言うのに、あっ……貴方はッ⁉︎」
「あ、そういえばまだ名前教えてなかったわぁ? 西条百合っていうの。“つゆり”って呼んでね弥代ちゃん。」
「ねぇ待って? 違う違う? え、違くない? なんか全部違くないかなぁ? 待って……? は……え、駄目、かも? 俺、いや……あの、本当に駄目、かも?」
状況を、一旦整理する。
昨日の朝のように、畳に上半身を倒し額を擦りつけるようにして弥代は唸り声をあげた。
……否、だって本当に分からない。
何がどうしてこんな事になったのか、その原因がなんであるかが検討もつかない。
「だ…………、えっと、だからその、あのっ!
な……、何? 絹さんはさ、俺とアイツがってそれがそもそも違うんだからさ、それ止めてくんないかなぁ?」
「なんです……と⁉︎ 一昨日の同衾はそれでは一体なんだったというのですか弥代さんっ‼︎」
「だからそれはっ、俺が話し疲れていつの間にかアイツの裾を掴んだまま寝ちまったから、で! それでアイツが俺を起こさねぇようにって気を遣ってジッとしていてくれてただけで‼︎」
「で、でも朝あんな体勢で……ッ!」
「だからそれも! アイツが一晩中正座してたもんで足痺らせてズッコケちまっただけで、偶々俺の上に倒れ込んじまっただけで‼︎」
「弥代ちゃんは好きでもない男の人を寝る場所に誘えるってこと、…………大胆なのねぇ?」
「いやっ、だから違くって‼︎」
「御二人はこんなにも弥代様が困っておいでなのが分からないのですか?」
「お前は黙っとけ隆棋!」
「はい、弥代様‼︎」
実に、頭が痛い。
[newpage]
そこに躊躇いなど端からありはせず、家の中へと招き入れてそれほど間もない、まだ年端もいかなそうな子どもの肩に手を掛け、昨晩の女よりも容易く押し倒すに至った。
赤い、瞳が。
その子どもが、“色”などと縁もゆかりもない人生を送ってきた自分とは違い、幼くして“色”に多くを狂わせられてきたのだろう事が、ほんの一時大きく見開かれはしたものの、どれだけ粗野な扱いを施そうとも媚びた反応を繰り返すばかりで、大人しく受け入れようといった姿勢を見せるものだから確信に至った。
あぁ、だからやけに先の所作があんなにも自分の目に止まったのか、と。妙に納得が出来て、しまい。
とも……なれば。何を我慢する必要があるのだろうか。
なにも気に病む必要などありはしない。
碌に知りもしない女を喜ばせるような言葉を掛ける必要も、不始末の心配など要りはしないのだか、ら――
だらしのない鼾を立てる半裸の男の枕元に立つなり、彼はどこからともなく出した短刀の、その柄を強く握りしめた。
そうしてそれを静かに、しかし勢いを損なうことのないようにしっかり、と。大人と較べればまだまだ短い指を交互に絡め、男の喉元へと深く、小指が埋もれそうになるほどまで深く沈めた。。
跳ね上がる、四肢になど目を呉れる余裕はありはしない。布越しの背に、自分のものではない指が突き立てられる。死に際の最期の悪あがきはあいも変わらず際限のないものだ。
“色”を持って生まれたというのにも関わらず、“色持ち”の中でも多く見られる怪我の治りが早いといった加護を得ることのなかった為に、三日前に負ったばかりの同じような背中の、治りかけで瘡蓋が剥がれでもしたのかひどい痛みに彼は襲われた。
しかし、それは強く握りしめた短刀を、その力を弛めていい理由にはなりはしない。
ジタバタと藻掻き苦しむ様はどうにも無様だ。
先刻まで自分よりも幼い子どもを身勝手に弄んでいた姿からは全く想像もつかない。
心底、嫌な気分だ。
ポツポツ、と床板に滲んだ血溜まりを見つけては、それを歩幅を狭めて辿る。
外観は随分と古い荒屋であったが、表の戸の他に、裏口があるようだ。
きっとこの戸の先には、黒く変色した血溜まりのその主が、この家の元々住んでいた者の変わり果てた姿が、どのようにか、までは分からないが間違いなく十中八九あること、だろう。
「…………いえ、」




