三十八話 綻び
所用で出る、と言って出ていった父が玄関から出ていって半刻と経たずして帰ってきたもので、庄助は驚きを隠せなかった。
なにもそれは、普段であれば二刻程は家を留守にする事の多い父が、半刻と経たずに帰ってきた事に対する驚きだけに限った話ではなく、一代にして商売を成功させてしまったが為に商売敵――余所者である自分の事を目の敵とする問屋の亭主がいる為に同業者にあまり親しい顔をするわけでもない父が、最近であれば人通りの多い場所であれば日中であろうとも掏摸が横行し、と何かと物騒だと囁かれるようになろうとも、付き人も付けることなく、他者をそう易々と懐に入れることのないようなそんな父の傍らに、見たこともない男が並んでいた、からだ。
所用……といっても一本通りを挟んだ先に構える別邸で暮らす母の御機嫌取りに赴いた帰りで、どうやら母自身が他所へ外出中であり、帰りがいつになるか分からなかった事から門の前で粘ることなく、キリよく切り上げてきたのだと、品のない鳴き方を野山に暮らす、庄助があまり得意としない鵞が泣き喚くかのように、かつての妻を下に見るかのような言葉を並び立て……。
腹の中に吐き出し方も碌に知らぬ、単に憤りと片付けてしまうことすらきっと違う、そんなものを悟られる――家長である父に気付かれてしまうことのないよう、表に出すことを決して許さずに、平静を取り繕い。
それ、で――
『―――なるほど。
わざわざその様な話を私のような余所者を相手にする程までに庄助殿の選べる術というものは限られてしまっているのでしょうね。
この様な時、御気持ちを……と言葉を添えるのも一つの手でしょう。ですが貴方が真に望まれているのは一時の救いなどではなく、肩の荷をしかと下ろすことが出来る、そういった方法であるのでしょう。
……えぇ、私はこういった畏まった事はあまり得意ではないのですが、救いを求めている方を前にし、それを払い除けるような事はどうにも出来ません。
ですのでそんな、背をわざわざ正すだなんてせずとも、これより私が話しますのはただの……そうですね、まぁ何事も肩維持を張ったりなどせず、どうぞごゆるりと。』
屋敷の者が用意してくれた朝餉を有り難く頂戴してから、昨晩寝泊まりをしたのとは別に茶が用意された部屋へと案内し半刻ほど過ぎた後、屋敷の主人である西条銀嶺から茶会の誘いを、とかなんとか女中が声を掛けられた。
茶――というと、いつだったか榊扇の里で彼女と彼女の付き人をしている藤原和馬の三人で、普段足を運ぶ茶屋よりもいくらか敷居の高い店に偶には行こうと誘われて赴いた事がいくらかあるが、茶の良し悪しなど分かりきっていることだが弥代が分かるわけもなく。
話が盛り上がってしまい、湯呑みの茶が冷めきろうとも菓子にいつまで経っても手を付けようとしない彼女の分を、勿体無いからと自分の分を平げてから手を伸ばしたところ、普段の店なら軽く注意を受けるだけなのに、手袋越しでああるものの手の甲を一々叩かれる、なんて事が一度や二度でなくあったのを思い出す――、他じゃ滅多に味わえないようなやたらと旨い茶菓子が食える、ぐらいにしか弥代は捉えていなかったのだが……、
(やっぱりそういうんじゃ、ねぇんだよな。)
否、そんなのはわざわざ順を辿らずとも、考えずとも最初から分かっていて当然の事であったはずだ。
二日酔いが今になってぶり返したのやもしれぬ、等という言い分が通じるわけもないと分かっていて尚も、そうとしか他に言葉が浮かばなかったのだろう(それほどの、何か弥代が知らぬ理由があると思う)、短い感覚で息を吸って吐いてを繰り返す相良の、自分よりも大きな背中を摩りながら、血の気が失せた表情を隠すという頭もないのだろう相良の顔を、悪いとは思ったが覗き見た。
「大丈夫、相良さん?」
少し意外、――だ。
弥代の知る相良という男は、やはり直接の関わりを持ったのはここ最近になってではあるわけだが、そうでない頃を加味したとしても、ここまで見るからに調子を悪くする、といった様子を目の当たりにするのは、言葉通りこれが初めて、で。否、もしかしたらこんな様子になるのは何もこれが初めて、ということはなく、ただそんな事があってもそれを弥代が見ようとしなかった、相良に対し関心がそれほどなかったから知ることがなかった一面、であると言われれば納得が出来てしまう、もので。
屋敷の中庭にあるのだという茶室に招かれ、中に入って腰を落ち着かせ二、三言を交わして程なくし、相良は口元を急に抑え立ち上がり、茶室から出ていってしまい、現に、自分と同じように目の当たりにした彼・春原は――、
『相良、』
何が起きたのかも頭が追いつかぬまま、ポカンと呆け顔をする弥代とは真逆に、普段はどうにも動きの遅い男だというのにあっという間に茶室を後にした相良を追ってみせた。
そして、そんな彼は今も……、
「水を貰ってきた。……飲めるか?」
「ありがとう……ございます。」
慌てている様には到底見えない。驚く、といった様子もなく淡々と、屋敷の者が用意したのを手渡されたのだろうそれは湯呑みではなく、何故だか手桶と柄杓、で。
「……、なんで手桶と柄杓?」
「……どれほど飲むか分からなかった。」
「ん……あっ、そう。」
思わず指摘せずに弥代は居られなかった。
否だがしかし、と頭を振るうのは早く。今は、とそれから目を逸らす。それからいつぞやの、宮宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの舟に乗った際に、舟酔いをした絹がやっていたのと似たような、筒ではないものの手桶から掬いあげた水で額を相良は濡らしてみせた。
「手拭いは要るか?」
「えぇ、あるのでしたら是非。」
求められるや否や、脇に予め挟んでいたのだろう手拭いを春原は相良に差し出すのではなく、手桶に深く沈めるも、持ち上げるなり手早く絞った。
「…………。」
その動きの澱みの無さは、正に先ほど、弥代が見ようとしたことがなかっただけで実は、と考えたほぼ答えに近く。誰に直接言われたわけでもないのに、ふとここ最近の自分の振る舞いであったりを、何を意識したわけでもないというのに思い出してしまい。
自分……より、も。
自分、なんかの手ではどうにか支えきる事も出来ない、背中を摩るだけにしたって摩りきれるわけでない大きさを今まさに身を持って実感をしてしまい。
なのに、そんな相手である筈なのに、彼にも――相良という人にもこうして、まるでこれまでの自分のように誰に打ち明けるでもなく時に膝を抱えてしまうようなことがあるのか、と。そんな……、そんな事を弥代は考えてしまった。
多分、それ、は―――。
(俺よりも、頼りになる……)
変な話、かもしれない。
否、弥代からすれば全くこれぽっちも、変な、なんてことのない、至って真面目な、真剣な話だ。
それを初めて目の当たりにした、直接身を持って知ったのはやっぱり、そう、駿河で追っていた相良とどうにか運よく合流を果たす事が出来た、その時に違いなく。
『相良、どうして帰ろうとしない?』
二人、は――。
弥代が二人と初めて会った昨年の春から数えて一年と三、四ヶ月程度だが、相良と春原の二人が過ごした時間というものは、弥代のその時間の二倍や三倍以上なのだろう。駿河の際にも何かのやりとりの時に、以前芳賀がそんな事を教えてくれた、と思い出すことがあり、確かそれは芳賀が春原討伐屋に加わったとされる四年……なんかよりももっと前、春原が十五やそこいらの頃だった、とか。
(五のあとは六、七……)
広い背中に回しきることは叶わなかった、右肩に軽く添えていた指先をほんの少しだけ折り曲げて、一、二……と数える。案外、五の先の数字なんてものはそれほど苦もなく覚えることが出来てしまい、こんなに簡単であったのならもっと早くに数え方を知っておけばよかった、と思えた程、で。
(あ、でもアイツが今年で確か二十二の……、コイツは一個上って、同い年だって言ってた和馬がそんなこと話してたから、じゃぁ八年……か。)
八年、なんて時間は少なくとも、名も知らずに別れることとなった老夫婦と過ごしていた頃から換算してまだ六年の、あの荒屋で夫婦と過ごした頃からの事しかまともに覚えていない弥代が知るわけもない長さをして、おり。
そう、思い至れてしまえば仕方がないのかな、とも浮かぶのだが、それ、よりも。
自分が、相良と春原の間にあるのだろう、なんというのだろうか……血が繋がっているわけでもない、親子、というわけでもないその関係性をどうにか表せたとして、それにどうしたって及べるわけがない、と。
どこかそれは、彼女と藤原和馬の間にある、幼馴染という関係を、時間の積み重ねによって重みを増した、早々に覆りっこない関係を遠目ながらも羨ましい、と。いいなぁ、なんて目で見ていた時の感覚にとても似ており。その間柄を、二人の関係に当て嵌まる言葉を弥代は勿論知らぬわけだが――、
「…………。」
自分に今出来ることなんて、きっと相良の背中にさえ満足に手を伸ばして摩って、気分を落ち着かせてやることも、気を紛らわさせる事も出来ない、役立たずで意味なんかこれぽっちも、なく、て。
相良の右肩に添えていた自分の右腕を、その掌にポツリ視線を落としてから、瞬きを一つ挟んでみせてから視界の真ん中で弥代が捉えたのは自分の爪先、で。
どうしようもないと分かっているのに、それでも本当にちょっとだけ臍が曲がってしまった。
菊花開、霽月の徒路 十三話
「もう調子は戻られましたか相良殿?」
朝餉後に案内された部屋に戻ることのないまま、茶室を出た先のいくらか距離が離れている石で出来た道から少し逸れた先で相良が蹲ってしまいどれほど経ったろうか?
春原が屋敷の者から貰ってきた、とそんなでこの場まで持ってきた手桶と柄杓の、激しく揺らしてしまえばそれで簡単に溢れてしまうのなんて見れば誰でも分かるぐらいまでいっぱいいっぱいの水が汲まれていたというのに、覗き込もうと思えばどれぐらい残っているのかは分かるだろうぐらい(少なくとも弥代の位置からは残りがどれぐらいなのか分からない程度には)減っており、手拭い一枚を濡らして絞ってを繰り返していたとしてもそれほど一気に水嵩が減るとは思えず、それなりに(多分)時間が過ぎていたのではないか、とそんな事を三ツ江絹の呼び掛けによってやっと弥代は気付いた。
柄杓で水を飲むなんてのはそこそこ器用でないと胸元を濡らしてしまいかねない。短い呼吸を繰り返して血の気の失せた表情を見せながら、これまで見たこともないような様子でその場に蹲っていたというのに、呼び掛けでハッと弥代の視線が持ち上がった時には相良も当に落ち着きを見せてから時間が過ぎていたのやもしれない。
絹を前にすれば態とらしい言葉を並べることが少なくはないのを弥代はよく知っているのだが、ご心配をお掛けしました、と彼女にすんなりと言葉を返す相良のそれは一切飾り立てられたような言葉ではなく。
黙って、弥代はそれを目で追ってしまう。
「先ほどは西条様を前に失礼を欠く真似をしてしまい、大変申し訳のないこと、を……、」
「いえいえ、どうかお気にならないで下さい。銀嶺殿はなにも、そのような些事を気にされるような御方ではございません。
逆にこういった場に慣れてないお客陣をいきなり招いてしまったものだから緊張をさせ過ぎたが故にこのような……と、そちらの気に掛けてしわれる様な、誰かを特別責め立てるようなことは決してしない、大変御心優しい主人なのです。」
「左様……ですか。」
「です、ので――」
(ですので?)
それは、弥代でも直ぐにピクリと反応が出来るぐらいには不思議な言葉選びで。
「この後の席には私も同席させていただきますのでどうか御安心いただければ、と!」
「……は?」
同じ音が一瞬ではあるが、確かに重なった瞬間であった。
「というわけで本日はこの私、三ツ江絹もこちらの席に同席させていただく事となりました!
そして先に謝っておきます、申し訳ございません銀嶺殿! 私、こういった作法というものは招かれた事がこれまで一度もなく、なにか粗相をしてしまってもどうかこの席に限り大目に見ていただけると助かります!」
「えぇ、今の若い方はあまりこういった席を好んだりはしないのは存じておりますとも。百合にも何度か……あぁ、百合といいますのは孫娘の名前になります。先ほど絹さんからお聞きした話ですと、弥代様は今朝に百合と既に顔を合わせておられる、とか。」
「ん…………、あぁっ!
絹さんと一緒に部屋に来てたあの人のことか!
ゆり……さん、ってたっけ、つゆ……なんとかって名乗ってたと思ったけど。てか、なんで部屋まで来たのか分かってなくてさ俺。」
それは――、と拍子よく、途切れる事を知らぬままトントンと会話が目の前で繰り広げられてゆく様を、相良は目の当たりにし、少しばかし目を見張らずにはいられなかった。
一人、先ほどまでこの場に居なかった者が招かれただけで、自分が変に重苦しく、要らぬことを思い出しそうになるに至った原因ともいえよう相手の雰囲気を含めた全てがガラリと一変した。
茶道、などと礼儀作法がどうしたって付いて回る、格式張った、古くから続く伝統を重んじるが為に儀式に近しい席であるものが、どういうわけか他愛もない、明るい談笑を交える場へと変貌したのだ。
驚きを、隠すことさえ忘れてしまう。
否、だがしかし、先ほど自身が間違いなく感じた、この屋敷の主人であり、茶室の亭主たる西条銀嶺が纏ってみせる、生きとし生けるものは誰しも纏っているのが当たり前の【気】というものはこの後に及ぼうとも、会話に幾ら花を咲かせたりといった様子を見せながらも寸分とも揺めきを見せるような事は、一瞬たりともなく。
断じて、見逃すまいと見張ったわけではない視界において、瞬きをこの一時忘れてしまったかのようにその人を納めた上で見遣るのだが、やはり――、
(なんとも得体の知れぬ相手だ。)
それが、人の域でありながら至ることが出来得るものと、相良には思えなかった。
それはあまりにも……、あまりにも人が人としての生涯を終えるまでの時間で至ることが出来る、会得する事が出来る在り方から逸脱していた。
山城国における青物問屋の発展に長く貢献した、父の代より受け継いだ家督にただ胡座を掻くことはなく、父を遥かに凌ぐ実績を、多くの功績を築き上げていたと、そのように此処に至るまでの、前日までの道中で度々絹の口から、西条銀嶺なる人がどのような人となりであるのか、といった内容を聞かされてはいたが、並々ならぬ経験を積み上げてきた、数え切れぬほどの多くの人と関わる中で決して揺らぐことのない芯とも言えよう【在り方】を定めてきたのであろうが、それらを踏まえていたとしても、それでもひどく、いっそ畏怖の念を抱きそうになるほど、その【在り方】はあまりにも、自らの枷を嵌めてまで人との関わりを求めてしまった、まるで【母】たる、彼女を思い起こさせる、
「――そうなのです銀嶺殿、弥代さんはこう見えて甘いものがとてもお好きでして、どれほど滞在されるかというのは分からぬものですがもし機会があるのでしたらツユ殿と私の三人で京の案内を兼ねて甘味巡りなど、秋の味覚に舌鼓を打つのもよろしいのではないか、などと考えておりまして。」
「それは百合も楽しめることでしょう。最近は顔合わせが多く、あまり外に出ていないと聞いております。良い息抜きになるかと。
では、私の方でいくつか店を見繕って――、」
「そういうのって当人を前にしてすんもんなの⁉︎ いっ、いいよそこまでしてもらわなくっても、なんか別にそんな事されるような真似したわけじゃねぇし…………ねぇよな、俺?」
「年寄りが若い方に何かをしてやりたくなるのは何も珍しいことではありませんので、勝手に私が弥代様の為にしたい、とそれだけの事ですので、嫌でないのでしたら是非に。」
「そうです弥代さん、こういったモノは、受けとれるモノは素直に受け取っておいて損はないのですから!」
「ふふ、どうやら弥代様は絹さんにとても懐かれていらしゃるのですね。」
「こ……っ、心当たりがあんまりねぇから困ってんだけどな!」
「…………。」
目を、伏せてしまう。
思考をまとめたいのに未だに目の前で繰り広げられる会話が、そのあまりにも緊張感と無縁そうなやりとりが、耳に入ってくる何か意図があっての会話なのではないか、と勘を必死に潜るろうと意識を集中するからこそ余計にはっきりと分かる、実に中身のない話が、徐々に徐々に、それが長引けば長引くほど、気を張り詰めるのが無駄であるかのような、そんな風にどうしても聞こえて、しまい。
それがあまりにも酷、く……
「ねぇねぇ相良さん、甘味だって……、俺行ってきてもいい?」
「…………は?」
くいくい、と裾を引っ張られたと思えばそこには見知った顔が当然のことながらある、のだが、それが、何故だろうか今の相良には全く知らぬ相手の顔のように、冗談などではなく見えて、しまうぐらいにはあまり……にも、あまり――にも。
それは、“色”が青であったのならキラキラと燦く水面の様だと譬えることが出来そうなのだが、生憎と東の“色”ではなく南に見られる、自身の瞳よりも若干鮮やかに見えるぐらいの、秋の紅葉のような“色” で。そんな“色”が燦くだなんて滅多なことを生憎と相良は知らず、自分に心を許した――懐くで大きく開く機会が分かりやすく増えつつあった瞼が、自分に向けられるのなんかよりも大袈裟なぐらいに、返事を期待に満ちて待つようなその仕草がどこか……、どこか癪に触り。
「弥代、さん……」
「……へ?」
それに、意図せずとも不意に手が伸びてしまったのは、今この場においては、こんな状況に一人追い詰められている相良からすれば、否、相良自身からすればその行為はそれほど、そんなに自分で悪い、とは思える行動では、最早誰に何と言われようともそんなわけがない、と言い張れる域に達してしまったもの、で。
相良は、弥代の頬を摘み、それを横に引っ張った。
「……ッ⁉︎ ……ぁ、いひゃっ、痛い痛い、っぁい……んぁ⁉︎」
「御自身の立場を弁えなさい、と昨晩お伝えしたのをお忘れですか貴女という方は……ッ⁉︎」
「んぇぇええッ、痛いってばぁあ……ッ‼︎」
「相良殿っ⁉︎」
「仲がよろしいのですねぇ?」
「……相良、弥代が痛が――
「どうぞお静かに春原さんっ‼︎」
「んっぇぇええ、ごへんひゃさぁああいいッ‼︎」
なんだかとてつもなく、相良は疲れてしまった。
結局のところ碌に、招かれた茶室においてする事となるだろうと身構えていた話は全くもってこれぽっちもする事はなく、途中これまで切れるような事があまりなかったはずの堪忍袋の尾のようなものが切れてしまって、感情に身を任せて頭に血が登った状態のまま、誰かに手を上げるだなんて、したこともないような事をしでかましてしまった。
礼を欠くような真似を既にしてしまった後だ。畏まったりなどせず、などと前置きが添えられていた事にまともな安堵の仕方――肩の力を抜く術も分からぬまま度合いを間違ってしまった、計り間違てしまった行動、として、時間が経った今であるからこそ思い返すことはまぁまぁ出来はするのだが、ただそれだけ、である筈は当然ながら無い。
そう、だ。そんな簡単な話では断じてない。
度合い、なんて言葉で説明しきれるわけのない、これまで自分の中に確実に存在していた筈の、箍のようなものが何かをきっかけに壊れつつ、あるかのような。
感情を、一度昂ってしまったそれの、納め方が分からなくなって、しまった。否、もしかせずともそんなものは、これまでの相良の中には端からなかったモノ、であったかもしれない、そういった話だ。
『何をしているんですか、貴方はっ‼︎』
そしてそれは、自然とあの日に振るってしまった、見知らぬ相手に対し振りかぶった拳を、自然と思い出させた。
引いたはずの熱が、再び勢いよく湧き上がってみせる。それは鳴りを潜めた、と安堵しかけたばかりのものであり。
だという、のに頭のどこか隅の方は厭になるぐらい冷静にまるでその事態そのもの遠く見下ろす――俯瞰でもしようとしているかのように。別人だ、と囁いてくるというのに、そうであると分かりきっている、混合など断じてしていないというのに、でも、自分の体であるというのにその動かし方を、主導権でも奪われたかのように勝手に、抑えが利くことなく動いてしま、った。
掴んだ、その肩をただただ力任せに、人になど振るったことがある筈がない加減をどうするのかも分かっていない、そう思えてしまうほどに深い、皺を刻み。そうして、“暴力”と呼ぶ以外に適切な言葉が浮かぶことのない、目も当てられないような波に、激しく呑まれる。
顔を、頭を必死、細く筋張った腕で庇うようにして、嗚咽混じりの、なにも悪いことをしたわけでもないのに許しを乞う声を、喉を震わし絞り出す。その姿あまりに痛々しく、自分は貴女をこれまで痛め付けてきた彼等とは違う、貴女を傷付けたりなどしない、とそう飽きるほど語り掛けて、少しでもその傷を、表面からだけでは到底見えぬ、内側でぐずぐずになってしまった傷口を癒して、それを塞いでやりたい一心で、肩に、その小さな躰へと手を、伸ばすのに。
『嫌、だ。』
そんなつもりなどなかったというのに、目を一瞬たりとも離しなど自分はしていなかった、というのにいつの間にやら目の前にいた筈の、あの赤い髪をした“色持ち”の少女の姿は、拒絶を示す言葉が相良の鼓膜を揺らした次の瞬間には、どういうわけか姿が変わっていた。
それは紛れもなく、相良が償うことを誓った、救う機会はいくらでもあったというのに自分の身可愛さに手を、取ってやることが出来なかった、深い水底を思い浮かべずにはいられない、青い瞳をした少年の姿へと変貌、し。
瞳に翳りを作る、その双眸に近しいとも思えてしまう、どことなく青みを帯びたような髪をして、おり。伸ばした手は子どものそれとは思えぬ力で払い退けられてしまい、しかし、それでも相良は、その場に跪き、先の赤髪の子がしていたかのようにまるで少年に許しを乞うように縋り、元の色さえも忘れてしまったような、本来の彼の身分にはとてもじゃないが削ぐわない、寝巻き同然のそれを力の限り握りしめ、て。
しかし、彼は――
『離……せッ、』
「ちがう、のです……っ、私はただ、ただ……、貴方をッ‼︎」
息が激しく乱れる。激しく動き回ったわけでもないというのに、漏れ出た息はひどく、荒々しく。
耳奥に聞く、やけに大きなその音にいつの間にか他の音は呑み込まれ、やがては自分の声すらも呑まれ、他の音が何一つ、届かなくなってしまう。
なのに彼は今も、その強張りきった表情を苦しそうにどうにか歪まえて、拒絶を顕にし、言葉に起こすのは決して得意ではない、とそんな事は他の誰でもない、相良が一番分かっている、というのに。それなのに彼の努力が、その苦しみの元凶たるものを相良では、相良志朗では取り除いてやる、救ってなどやれるわけもなく。
そうだ――、と。そんなのはもうずっとずっと、ずっと昔から、償いの為にその背中を追い始めるよりも前から、分かっていた筈、なのに。
……と、それまで暫くの間、耳奥に響く大きな音に掻き消されていた、他の音が、聞くに堪えない呻き声が彼の鼓膜をしかと揺らした。
縋る、目の前の彼から目を、逸らしてなどいい筈がないのに、でもあまりにも悲痛な叫びに、それに目を向けたところで自分がひどく後悔をすることなんて分かりきって、いるのに。目を向ける、視界に収める必要なんて本当はどこにも、どこにもありはしないと、見ぬ選択をすることだって本当は自分には、目を瞑る権利ぐらい、耳を塞ぎ、事が終わるまでその場に小さく蹲ってしまうぐらい、したって許された筈、なのに。
『――だから、志朗。』
ぺたんっ、とその場に座り込むことしか出来ない、立ち上がり方を、自分がこれまでどうやって歩んできたのかも今となっては思い出せない、振るった拳が果たして何を庇い、守ろうとしたのかも。何を思い、何のために彼の背中を追い続ける旅路を、長年培ってきたものを全て手放してまで選んだのかも。
『――志朗、』
肩に置かれた手は、その全てを見たことはないがもう、ずっと。変わり映えのない、皺まみれの、自分の肌と並べた時にその浅黒さに、自分以上にいっぱい生きてきた、苦労をして来たのだろう、というのが分かる、木に見る年輪のような、重みを、纏って……おり。
『ご覧、志朗。』
地べたに四肢を投げ出した、浅い溜まり池に身を沈めでもしたかのような、青い髪を赤く染め上げることでやっと、“色”を持たぬ彼等に近しい髪を装うことが叶ったかのような、しかし時折ピクリとその体が跳ねあがる事はあっても二度と――、二度と動くことはないのだろう、という結末を、その終わりを察して、しまい、込み上げてくるものを抑えこむことは叶うことなく、その場に、舌を突き出しながらぶち撒けてしま、い。留める術なんていくらかもう、相良は自分の身を強く抱き締めて、登りきってきたものが時間を掛けてゆっくり嚥下してみせることぐらいもう出来る、いつまでもあの頃の幼いままの自分では、ないのに。
地に着いた手が、日に焼けることをまだ知らぬその薄い色が、示すものがなんであるかに気付いて、それが意味するところを理解して、しまい――。
「……………………ァ、」




