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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
中篇・菊花開、霽月の徒路(全50話)
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三十六話 舞い上がり

元禄(げんろく)の頃、世人(せじん)犬公方(いぬくぼう)と呼ばせた方が()られたのはご存知でしょうか?

 庶民を中心とし、ありとあらゆる文化が開花したとされる、元禄文化と呼び親しまれまし、(おおよ)そ百年は続いたとされております。動乱(どうらん)の世が終わりを迎え、刀などと物騒なものに触れることなく生涯を終える者も増えつつあったとされる太平(たいへい)()

 主に上方(かみがた)――畿内(きない)を始めとします一帯(いったい)和泉国(いずみのくに)摂津国(せっつのくに)河内国(かわちのくに)大和国(やまとのくに)。そして最後にこの地、山城国(やましろのくに)を中心に広まったと聞きます。

 しかし元禄文化が花開くに至った、文化人の活躍の背景には――そうです、そこで出てくるのが犬公方こと、かの五代目将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)公というわけです。

 父の影響か、幼少の頃より儒学(じゅがく)愛好(あいこう)し、儒学者をわざわざ登用(とうよう)し、臣下(しんか)らに教えを説くだけに(とど)まることを知らず、儒学復興(じゅがくふっこう)に力を注いでみせ、そうして後世に多くその名を残す学者らが輩出(はいしゅつ)されたわけにございます。その中に()られたとされるのが越前国(えちぜんのくに)より山城国に辿りついたとされる、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)歌舞伎(かぶき)といった多くの脚本を一から仕立ててみせた近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)。そして伊賀国(いがのくに)が生んだ俳聖(はいせい)などと今もその名を広く知られる松尾芭蕉(まつおばしょう)といった文化人であり、彼らの存在があった事により、より一層花開いたとされるのが元禄文化であり――」






 二歩進んだかと思った矢先にどことなく一歩下がっている。延々と舌が忙しなく回り続けているものだからきっとその内に舌の根っこが乾ききってしまって、油皿(あぶらざら)に油を差さない(足さない)(とも)していた火が消えてしまうのと一緒で、放っておけばいつかは勢いがおさまってくれる、どれぐらい()ってくれれば()りが収まってくれるかは分からないけど、それでもいつかは終わるだろう、(など)と。そんな心持ちで居座ってからどれほどの時間が経っただろう、か。

 苛立っているわけでもないのに、虫の居所が悪いわけでもないというのに眉間が時間が()つに()れて(せば)まるのを感じつつ、これまでとは違い行儀悪く胡座(あぐら)()くことなく、腰を落ち着かせた状態で膝の上に置いた拳を見下ろし始めてから大きく見積もっても半刻以上は過ぎているのではないか、と弥代は予測を立ててみた。

 何故ならそれは、膝を折って姿勢を(ただ)してみせる正座というまだ中々慣れない座り方をして、座り始めたばかりの頃は感じていた足の痺れであったりが徐々に、(まった)く感じれなくなってきたからで。

 足の痺れがなくなるまでずっと正座を続けるというのは、なんやかんやこれが初めての事、で。だから、多分……恐らくはきっと、どれだけ大きく見積もっても、(いや)、どんなに少なく見積もってもかれこれこの部屋に踏み入ってから、食事の席に腰を落ち着かせてから半刻程は過ぎている、と。絶対にそうだ。

(なんと……言った、か。)

 襤褸(ぼろ)が出る、なんて言葉がある。それは確か、どれだけ立派な(よそお)いであったとしても着続けていれば次第に、(すそ)の方からどんどんとボロボロになっていく(さま)なんかを意味していて。それを服だけでなく人もまた同じある、と見立てた(れい)として掲げてみたりする物の(たと)え、で。

 そう、である。絹の詰めの甘さを一緒に過ごす時間が増えていくにつれて目に余る(付く)ようになってきたと相良に話題を振った際に(いわ)れを含め教えてもらった言葉、で。

 (よう)するに、どれだけ立派に見える相手であっても一緒に過ごす時間がながくなればなるほど、相手の駄目な部分が少しずつ目に見えてくるようになる――誤魔化しが()かなくなって()くとか、なんとか……そういう……、そんな、言葉、で。

 自分で振った話題ではあったものの、少し言い過ぎじゃないかな?なんて風に弥代は捉えていたのだが、教わってそれほど日も経たず、教わった言葉の意味をよりによって教えてくれた当人のそれで知ることになるとは思ってもなかった。そう。思っても、なかったのだ(当たり前だ)

 (いや)、なにも知らなかった、ということはない。だって春原討伐屋にこれまで数えきれないぐらい出入りをしてきた(なんなら扇堂家の屋敷を出て以降のみで考えれば、屋敷に上がらせてもらった回数なんかよりも討伐屋に足を運んだ回数の方が遥かに多いぐらいだ)弥代にとって、討伐屋の面々がどんな連中であるかなんて情報は、なんなら覚えられないぐらい知りたくないと思っていても、実際に()の当たりにしたわけでもないのに勝手に頭の中に残っていて。その中でも特に、本人を(のぞ)いた面々がまるで(あらかじ)め口裏でも合わせていたかのように口を(そろ)えて「あれは酷い」などと言うものだから特に――、説くによく覚えていた部類()であったという、だけで……で。

 しかし言い方は三者三様。一字一句同じ、なんてことはなかったものだから態々(わざわざ)合わせるなんてことはしていないのだろうが、そうなんだね、目の当たりにすることがあったら教えるよ、ぐらいの本当に軽い気持ちで受け取っていたわけだ、が―――

「……ひど、過ぎるッ」

 (いや)……、(いや)ッ、なにもそれほど、そんなに言うほど酷いことをしている、おおっ(ぴろ)げに醜態を(さら)している、というほどでは断じて……断じて、ない。ない……の、だが、しかし……しかし(いく)らなんでも、何事も限度があるだろう、とそんな風に思えてしまう、思わざるをえない状況になりつつ、あって。

 な、なにも……なにもそれらはここ最近度々弥代が相良に強請(ねだ)ることで彼が聞かせてくれる知識であったりとそれほど大差はない内容のはず、なのに。歯止め、が。その勢いが(おとろ)えることは決してなく。

 だから、だからなんやかんもうずっと、相良は――、

「――であり、そうして世に知れ渡る、江戸の頃に庶民の多くが触れる機会を得たのが、万葉集(まんようしゅう)徒然草(つれづれぐさ)といった和歌集でして。中に(しる)されている歌には、酒とは実にいいものだ、といった内容が多く()まれており。中でも私が好きなのは徒然草に出てまいります、

 “百薬(ひゃくやく)(ちょう)とはいへど、(よろづ)(やまい)は酒よりこそ(おこ)れ。(うれ)(わすれ)るといへど、()ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ()でて泣くめる。後の世は、人の智恵(ちえ)を失ひ、善根(ぜんこん)を焼くこと火の(ごと)くして、悪を増し、万の(かい)を破りて、地獄に堕つべし。”といった、(ほとけ)()いたとされるとても深い御言葉にございます。

 ……いえ、このように酒に口をつければ歯止めが効かなくなってしまうが為に、自制も儘ならなく、出来なくなってしまうような男のどの口から出てくるのだ、と(おっしゃ)りたい気持ちはとてもとても分かります、とも。ですがしかし、()()く、死後は地獄に堕ちる、などと言われましても、この酒というものは大変()(がた)い、そうだと頭では分かっていても手を伸ばさすにはいられない、大層魅力的な、そういった代物(しろもの)なのです。えぇ、困ったことに。ですが、そもそもこの世にこんなものを生み落としてしまったのは一体何方(どなた)なのでしょうか? このようなものが生まれてこなければわざわざ(ほとけ)はそのような教えを説くこともなかったと思われませんか? 悪いのは心が弱く、駄目だと分かっていても手を伸ばしてしまう愚かな人なのでしょうか? もし本当に心弱き私共に罪があるというのでしたら(あま)んじてその罪を、受け入れましょう。酒を飲んでろくな事がない、ですって? そんなの分かりきってこちとら好きで飲んでるのですがーーッ⁉︎ 開き直りなどでは決してございません、これは(いさぎ)く己の罪を認め、それにただ真摯になり向き合っているのであり、この相良志朗、いつ何時(なんとき)であろうともお酒に対してだけは嘘を吐くことはございませんッ‼︎ 酒に罪などないのです!

 強く()れない人の罪で(あがな)わせていただきたい‼︎ (みずか)ら進んで受けれましょうとも、是非ともッ‼︎」

 不思議と、頭が痛くなってくる。

 頭が痛くなる時なんてのは大抵首後ろの付け根か、天辺(てっぺん)の自分じゃどうなってるかが手は届いたとしても目の届かない辺りが多いから我慢するぐらいしか手立てがないというのに、今回は余裕で手が届き、手鏡かなにかがあれば前髪を払えばそれで見ることが出来て。だというのにどうにも……、どうにも見たところでどうしようもない、防ぎようがないのだから嫌になる。届けばそれでなんてきっと意味はないのだろうなんて思わされるだけだ、こんなのは。

 湯浴み後の脱衣所に当たり前のように用意されていた(きっとこの屋敷の女中らが、弥代が湯に()かっている(あいだ)に、気を遣い無言で置いていきでもしたのだろう)、浴衣に袖を通してからまだ半刻程度、とし。先刻までは皺一つなかった生地にくっきり、不自然なぐらいに皺が寄っている。こんなのは……、やはりこんなのは駄目だ、と膝上に置いていた手を、そこに無意識の(うち)に込めていた力を時間を掛けながらやっとの思いで弥代は抜いてみせ、そうして、天井を見遣った。

 あぁ、本当におかしな話、だ。

 疲れ切った体であったが十分すぎるぐらい、それでもギリギリ逆上(のぼ)せあがってしまわないぐらいに、湯にあまり長く()かりすぎてしまわないようにと意識して、そうしてあまり長湯にならないように気をつけて済ましたものだからやはりそれが原因で頭が痛くなる、なんて事は間違っても……間違っても起こりっこない、という、のに。なのにこんなにも頭が、痛い。いっそ涙が出そうなぐらい、だ。


 (いや)……、(いや)、自分が話し相手をしていないだけいくらか状況はマシ(、、)、だろ、う。

 これで今の彼を……、相良を弥代が相手しなくてはならないとなったら、同じ部屋の中で、離れた位置にいるというのに彼から(はっ)せられる声だけで、その姿を視界に収めないように頑張っても心身に支障を(きた)しているのだから本当に、幾分かはマシ、なのだろう。でも、(いや)、で……でもッ、

(つ……、(つら)い―――ッ‼︎)

 こんな感情は初めて、だ。

 なんだろう、はっきりとは分からない。これまでの弥代であれば(えん)がない、今まで通りであったのなら知り得ることもなかった、どれぐらいであるかも押し(はか)ることも難しい、程度さえも分からない、得体(えたい)()れないにも程があり。

 出来るなら、願わくばどうか、一刻も早くこの場からどんな手を駆使してでも退出したい程で、でも、でも弥代のどうしたって(とぼ)しい頭では、既に現時点でいっぱいいっぱいで余力のありっこない状態ではこれっぽっちもそんな、この場から(だっ)する(手立て)なんてのは浮かびっこ、なく、って。

(いつまで続くんだろう、これ……)

 ぐずり、鼻から音が漏れた。

 (すす)ろうと思って啜ったわけではないというのに、不意に聞こえた音に皮切りに、弥代は顎を()らすのを()めた。

 そうして手の甲を鼻と口(まわ)りにやや強く押し付けて、先ほど(うつむ)いていた際との(あいだ)を取るように、前に目を向けたの、だが――

「――だったというのに、それでまた絹さんの詰めの甘さには道中散々調子を乱されることが多々ありましたが、とはいえ彼女なりに諸々気を遣ってのこともあったことでしょうが、しかし目を(つむ)るにも限度というものがありやはり………………あ、」

「ぃあ……、」

「弥代さんではありませんか!」

 目が、合った。

 その瞬間、弥代の体は跳ね上がった。腹の奥を中心に、一瞬の内に他に何をした、というわけでもないのにただ力が籠っただけ、で。そして次の瞬間には、それまでは涙が出そうだったり、鼻を啜り音を立ててしまうような事はあった割には落ち着いていたはずの脈が、急激にバクバクと、耳元で短い感覚でドンドンと太鼓でも叩かれているのではないかと錯覚師そうなぐらい急激に大きく、感じれて、それ、で――、

 伸びてきた腕が、スルリと左肩口から右肩までを滑った。

「もぉ何時(いつ)からこんな(ところ)()らしたのですか、気軽に声を掛けてくださり良かったのですよ。ハハッ、あぁご覧下さい銀嶺(ぎんれい)殿、此方にいらっしゃいますのが先ほど話しました弥代さん、です。えぇ、そうなのですお話しました通り、髪と瞳にこれほどの“色”をお持ち(ゆえ)、大変な苦労を享受してきた身なのです、それはもう本当にっ!

 挙句知っていることに大変(かたよ)りがあり、それでも長い時間この身一つで苦悩してきたのがこの弥代さん、でして。だというのに、まぁ本人たらこの通り顔で普段はっもっと目付きが悪いんですけども、(けわ)しい顔をさせれば大人顔負けの形相(ぎょうそう)を見せたりなんてこともあるんですが、なんとも憎みきれない顔をしてるのですよこれがまた! 悪ぶった態度を見せるくせして(まった)く、全然これぽっちもも非道に走りきれていないのです、もう本当に意地らしい方でしょう、私、弥代さんとはそれなりに長い付き合いにはなる方なのですが、この人が悪態なり、悪ぶってみせる、虚勢を張ってこの見た目で肩意地まで張ってしまってをする(たび)、遠目で内心っもう笑いを堪えるのにずっと必死だったんです。だったというのに、それがなんだか最近になって色々が偶々なんやかんや重なって、以前よりもそんな弥代さんが私に心を開いてくれる事となりまして……、あぁ、いえ流石(さすが)に酔っている、酒が入っていたとしても話していい、話してはいけないの線引きというものはこの相良志朗!なんと出来てしまうのですねこれがーーっ! ッハハハ、いえいえ話が逸れてしましましたが、まぁ要するに色々あって弥代さんが私に(なつ)いてくれるようになったわけなんですけど、いやもぅその変わりようったら本当に笑い転げてしまう(ほど)なんです。以前までなら私の名前なんて一やりとりがあっても一、二回呼べばいいほうだった、呼ばれない時はアンタだの雑な呼び方をしていたというのに、今じゃ相良さん相良さん相良さんなんて目を輝かせて呼んでくるものですからもう……、もぅ本当……、こっ、これだから子どもという……もの、はっ」

 そんな風に思われてたんだ俺、だったり、なんだか他にもいっぱいいっぱい、言ってやりたい事がこの一時(ひととき)で一気に浮かび上がってきたという、のに、それが喉から出てくることはなく。

 これ以上借り物の浴衣をぐちゃぐちゃにしてはならないと、皺を作るのは止めておこうと掴むのを一度は()めたはずなのに、また膝上に乗せた拳を中心に、先ほどが生温(なまぬる)く感じるぐらいの、それはそれは深い皺を刻んでみせ、て。逆に眉間はこれぽっちも狭まることはなく、代わりに表情は死んでしまったのかと錯覚しそうになるほどピクリとも動くことは、なく。

 だから、多分――、弥代は限界、だ

「相良」

 陽気なお喋りを一瞬にして打ち止める、声が一つ。呼び掛けに、舌が乾くことをずっと知らぬ調子であった相良がピタリ、その動きを止めた。

 声のした方に目をくれればそれは弥代の右隣に腰を落ち着かせていた男・春原千方であり。

 それ……で、

「先ほどから弥代は顔色が(すぐ)れない。食事にも、箸をつけていない。調子が悪い……かも、しれない。休ませる、べき……だ。」

「………ぇ、」

 それはあまりにも意外すぎる口添えであった。

 相良を相手であれば他の者以上に春原が口を開くという感覚に慣れつつはあったが、その大半のやりとりというものは両者(かん)のみで(かた)がつく、他の者の名前が出ることは滅多にないと弥代は記憶していた。その為、まさか彼の口から相良を相手に降る話の中に、自分の名前が出てくるとは思ってもおらず。

 ただ、でも何よりも、今はそんなのがどうでもいいぐらい、普段なら間違いなく気にしたろうに弥代は、

「春原……?」

 彼が輝いて見えたのだ。






『先ほどから弥代は顔色が(すぐ)れない。食事にも、箸をつけていない。調子が悪い……かも、しれない。休ませる、べき……だ。』

 春原がそんな言葉を持ち出して割とすぐ、弥代は広い部屋を出ることが(かな)った。

 言い出した彼からどうにも目が離せないでいる(かん)に、何時(いつ)の間にやら肩に回されていた相良の腕は他所(よそ)へ行っていたし、「調子が優れないのでしたらどうぞ無理はならさずに。」等々の言葉を同じ場に居合わせていた鼻下に立派な白髭を蓄えた西条銀嶺なる、先刻自分たちを屋敷の中へ迎え入れてくれた老人の助言を受けたりという事があった。

 自分同様に初対面、ではあろうが相良の様子を横目に見つつ、春原に席を外すようにと提案をし、春原に手を引かれる形で弥代は廊下へと出ることが出来たわけ、だが。

「え……えっと、」

 大きい背中が邪魔をして前方が見えない。それでも彼を乗り越えたその先に、恐らくは屋敷の女中がいるのは間違い無いだろう、姿を拝むことは出来ないが部屋まで案内をするという声が聞こえてくる。だから春原に手を引かれるまま大人しく弥代は、彼の足取りをそのまま追うこととなったが、けれどもそれもそんなに時間は掛からなかった。

 広い屋敷の庭沿いに続く長い廊下を、暗くよく見えないが尻目(しりめ)に進めば庭の端っこまで辿り着くよりも前に廊下のつき止まりにあたり、(かど)を右へと曲がればそれで用意された客間に無事に辿り着くことが出来たのだ。

 そして、やっと廊下で横並びになったことでそれまで姿を拝むことが出来なかった屋敷の女中と目が合ったが、屋敷の主人のお客様を相手に馴れ馴れしくは、などと言って早々に彼女はその場を後にしてしまい、弥代は春原と二人、客間の前に取り残されるに至り、

「と、とりあえず……部屋ん中にでも入るか?」

「弥代だけ入るといい。」

「…………え?」

 障子の引手(ひきて)に伸びた手が思わず止まった。

 またしても思いがけない、予想だにしていなかった言葉に弥代は妙な焦りを覚えた。

「な、なんで?」

「俺はただ、弥代を部屋まで送るように言われただけ、だ。中にまで入るようには言われていない。」

「ぇ…………あっ、うん。そ、そうだった……け?」

「そうだ。」

「そ、そっか。」

「あぁ。」

 確かに、ちょっと前にいた部屋での西条銀嶺から持ちかけられた提案は、あくまでも弥代は部屋で休むよう、春原はあの場から席を外すように、のみであった気がする。思い出せば彼が言っていることは何も間違ってはいないようにも思えるのだが、

「……もっ、戻んの?」

「いや、席を外すように言われた。戻りはしない。」

「部屋ん中には入らねぇの?」

「あくまでこの部屋は弥代に用意された部屋だ。俺と相良の部屋は別にある……らしい。」

「場所どこか()かなかったの?」

「訊く……暇がなかった。」

「女中さん探して訊きに行く?」

「…………あまり勝手にウロウロするんじゃない、と相良に釘を刺されている。」

「そ……、そっか。」

「そう、だ。」

 ポツリ、ポツリ……、と。

 弥代は短い言葉を、問い掛けを幾度か重ねてみた。そうすることでやっと、やっとちょっとずつだが彼がどうして此処に居るのかが、それを理解するに(およ)ぶ材料をいくらか手に入れることが出来た。

 そして、そんなこれまでした事もないような事を初めて、してみて少し、だけ。

「…………。」

 初めてだ、と感じずにはいられなかった。

 ……(いや)、今がそんな場合、そんな事に考えを割いている余裕があるわけではないのは分かっている、このままではいつまでも自分の部屋が分からないまま、彼はまだ八月とはいえども夏の暑さが薄れつつある、もう秋に片足を突っ込んでいる時節(じせつ)の、どこか肌寒さすら感じつつある特に夜に、初めて訪れる他人の家の敷地内で(ほと)んど迷子同然の状態で一人過ごさねばならなくなる。

 気に掛けられ、わざわざ一緒に部屋の前まで連れてきてくれた相手をそんな、当人が断るという理由だけで外にほっぽり出すだなんてのは、あまりにも可哀想だ。

「え、えっとぉ……」

 何も言葉を()わしたのがこれが初めて、なんていうわけではなく。ただこれまでと違い、途中いつも頭に血が登ってしまって最終的にいつも弥代は彼を相手に(わめ)いてしまうばかりなのだが、そうならずに落ち着いて聞き出す、知りたかった事を上手に知れた、というだけで。

 その事実を良かった、と思いつつ。それよりもやはり、なんというか、西条家の屋敷に着くまでの道中のやりとりも踏まえ、ここに来てやっと弥代は、なんというかその……、彼の、春原千方の純粋さ、というか、そういった面を、あまりに実直(いや、実直……は多分違うかもしれない)さを垣間(かいま)見てしまった気が、して。

(ち……違う、)

 そう、だ。

 彼はなんというか、その……弥代なんかよりもずっと大きい、上背だけでなく肩幅もしっかりある、立派な大人、であるはずなのに、その言動であったり、自分に向けられた言葉だったりに対する受け答えがどこか……、どこか、無垢な子どもみたいに、とても素直、で。

 でも、子どもなんてのはもっと自分本位で我儘でいるものな筈なのに、なんだか彼――は、春原は自分のことはてんで、自分自身にそれほど興味がないような、そんな態度も度々(うかが)え、て。

「…………ぁ、」

 鴨居を、跨ぐ。やや力を込めた掌に、片手にあっさりと背中を押されることで弥代の体は部屋に踏み入ってしまい、でも―――、

千方(ちかた)っ!」

 ビクリッ、と肩が大きく跳ね上がったのを弥代は見た。

 挙げ句、驚きを隠せない様子で恐る恐るこちらを振り向くその表情が、いつぞやに遠目(とおめ)に見たことがある、相良を前に肩を(すく)めて萎縮(いしゅく)していた時のそれと、よく似ており。別に(しか)ったり、怒ったりをするわけではないのだと、そんなではないと少しでも安心させたくて腕を伸ばし、自分が着ているのと同じ模様をした浴衣の、その(すそ)に指を引っ掛け、引き寄せた。

「き、訊きたいことがあるからさ、部屋……寄ってかねぇ、か?」

「……?」

 無理があった、だろう、か。

 相変わらず重たい前髪の隙間から覗く瞳が、(しき)りにぱちぱちと瞬きを繰り返して、いて。

 だが、

「……わ、分かった。」

 春原は、小さく(うなず)いてくれた。






 以前の自分ならやはり、目の前の相手が正座をしているからと気に掛けて、自分も同じように姿勢を(ただ)すなんて気にも()めずに胡座を掻いていただろうが、今は違う。

 向き合う相手が見せる姿勢があるのなら、自分も合わせることとする。相良が自分にしてくれた、様に。

 長い庭は中腹辺りまで月明かりで出来た陰のせいだろう随分暗かったが、廊下の付きあたりを曲がることでそれまでよりも(そそ)ぐ月明かりが強い、ということは屋敷の中でも客間が位置するのは東、あるいは南側になるのやもしれない。

 庭に繋がる廊下に面する障子を閉め切ったとしても薄い紙越しに、直接浴びるよりもずっと柔らかい印象の月光(げっこう)が八畳程はある、暗くとも旅籠(はたご)屋なんかよりも綺麗な造りをしているのは一目瞭然、部屋の隅々まで掃除の行き届いている室内に優しく(そそ)がれる。

 あまり部屋の奥、四隅の(ほう)へ行ってしまうと暗く、相手の顔が窺えなくなってしまうから、と多少強引に、此処に座ってくれよ、なんて言いながら障子格子(しょうじこうし)の影が伸びる、位置に春原を座らせ、弥代はその正面に腰を落ち着かせた。

「え、えっと……、あっ、ありがと、な。さっきは、その、声掛けて……くれ、て。」

「礼を言われるような事はしていない。」

「お、お前は言われるようなって思うのかもしれねぇけど、俺はそれで(げん)にいくらか助かったんだよ。その、嫌じゃなきゃ、だけど……、うっ、受け取ってほしい、みてぇ……な、そういうアレ、だよ。」

「そういう……アレ。」

 そうか、と聞き慣れた三文字が短く紡がれる。

「分かった、弥代がそう、望むのなら。」

「……ぁ、うん……あんがと、」

 廊下のやりとりにはもっと余裕(ゆとり)があった筈なのに、面と向かって顔を突き合わせて話すというのはどこか緊張してしまう。それは妙実(みょうじつ)に、発する言葉の節々であったりに分かりやすく現れており、誤魔化す(すべ)はどこにもない。しかし相手は春原だ。

 これがたとえば相良であったのなら、先の席で自分に(から)み口走っていた酔っ払いの戯言が事実だったとすれば、まぁ内心面白おかしく笑っていた部分なりは多少なりともあったという事だろう。が、春原が相良と同じように弥代の知らぬところで弥代の事を笑う、なんて事はどこか絶対にしない。そんな気がする。

 だから今更、今になって変に彼を――子どものように無垢な、着飾ったりした言葉を発したり、周り(くど)かったり、濁した言葉であったりも通じることのない彼を相手に、言葉に限った話ではなく態度も含めて変に(つくろ)ってみせるのは愚策でしかなく。

「…………足、やっぱ崩してもいいか?」

「……? 構わない。」

「ん、あんがとう。」

 以前の自分なら、なんて(くだり)は要らなかったじゃないか、と一人で勝手に肩透(かたす)かしを喰らったような気分を味わう。そうして姿勢を崩し、背を(かが)めて、折り曲げた膝から先を、つま先を体の中心に寄せて土踏まずの部分に親指を()える。

 足袋(たび)を履いているわけではないから裸足(はだし)になるのだが、実は里での暮らしの中で足袋なんて物は皆が履いているのを見て(まぎ)れる為に真似をしていただけで、弥代自身は好き(この)んで履いていたわけではなく、素足に指を這わす、布越しでない方が好きで、おかげで気が(やわ)らげた。

「えっと……、そんで、なんだったかな。俺、お前に訊きたいことがあったんだけど、ちょっと抜けちまったわ。」

「……構わない。急ぎの用があるわけでもない。弥代が思い出すまで付き合おう。」

「ッハハ、なんだよそれ。

 お前、本当になんつーかよ、俺ばかり優先しすぎじゃねぇか、前々から思ってたんだけどよ。」

「……そう、だな。弥代が望むのなら、俺はそれに常に(こた)えたい、と。そう、考えている。」

「変……なの。」

「……変、か?」

「ん、すっごく変。」

「そう、……か。」

 目が、微かに伏せられる。

 こうして一対一で向き合うことで初めて……本当に初めて目にする彼の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくが、言葉数の少ない、どちらかといえば口下手な方であろう彼に変わり、言葉なんかよりもはるかに雄弁(ゆうべん)に―――、

(なんだっけ、前に相良さんが言ってなかった、っけ?)

 と、そこで思い出す。

 いつの()に忘れてしまっていたかも覚えていない、訊きたいことがあると話を振ってから然程(さほど)時間は経っていないというのに、なんだか随分と気が抜けてスルリ抜け落ちてしまっていた、そもそも彼を部屋に誘い入れる為の、そのきっかけ、を。

「……えっと、まぁその、話は変わるんだけどさ、その……、うん。……あー、えっとぉ、相良さんってさ、いつもあんな、なの? あの、酒を呑む……と、さ。」

 ほんの一時(ひととき)のやりとりではあったのだが、それがあまりにも心地よくて終わらせねばならないのを()しむ気持ちが、当然のように弥代にはあった。

 でも、ただ自分が居心地がいいからと、途中で仮に思い出せたとしても本題を切り出さずに彼をこの部屋に拘束し続ける、縛り続けるのはあまり気乗りしなかった。(いや)、そもそもの話をすれば彼の寝泊まりをする客間が何処にあるか分からないから、八月とはいえどももう夜の風が肌寒く感じる時節になりつつあるというのに、夜に外にほっぽってしまうのが、自分だけ夜風に晒されることのない室内で()()うと(くつろ)ぐのが嫌、だったから、であり。

 だからそういった目的で部屋に誘い入れただけなら正直、肝心の誘うに至れた訊きたいことを触れずに、時間だけを潰したりだって出来たはずだが、

『……構わない。急ぎの用があるわけでもない。弥代が思い出すまで付き合おう。』

 そんな事を言ってくれた相手に、思い出せたのに訊ねたことがあるからと誘った相手の気遣いを無碍(むげ)に扱おうなんていう気持ちが湧くはずがなかった。

 そんな考えで弥代は、腹を(くく)って。もし彼を誘うに至った本題を訊ね()えたとしても、今しがた()わすことが出来た他愛のない話を、時間が許す限りはずっと、純粋な話し相手にでもなって欲しいとかなんとか言ってそれで、彼には悪いが相手をしてもらえばそれ、で。

 それでどうにか、一緒に居れないものか、と(ずる)いことを弥代はどうしようもなく考えてしまったのだ。

 ――が、

「……なに、その顔?」

「……どんな顔を俺はしている?」

「ど、どんな……って、そりゃぁ……」

 白髪(しらが)頭の彼が時折見せる、下唇をこれでもかというぐらいに強く噛み締めてみせる、納得がいかないことや、腑に落ちないことが起こった際の表情にとても似ておる。

「眉間以外は和馬みてぇ、な。」

「…………そう、か。」

「お前にも嫌なことってあんだな、その、……ゴメン。」

「……いや、構わない。」

 これはもしかしなくとも思い出したとしても振るべき話題ではなかったかもしれない、と弥代は思わずにはいられなかった。

 そして――、

「――相良は、」

「いや、あのっ、いいよもう相良さんの話は、その、俺が悪かったからさ、あの……っ、えっと」

「…………相良の酒癖の悪さは、」

(ぁ、えっと……?)

 珍しく……、少なくとも弥代の知る限りの範疇でしかないが、弥代がもう要らないというのにそれでも彼喋るのを止めないというのは、これが初めて、で。

 なんだか今日は随分と初めてのこと()くし、だった気がしてならない。

 そして彼が、弥代が要らないとまで途中で遮ったにも関わらず話すのを止めようとしないのは、あくまで恐らくという憶測に過ぎないが、彼――春原もまた、その恐らくは……



「―――だから、相良は酒を呑んではならない。」

「……うん、もう分かったよ。」

 彼が、春原がこんなに喋るのを、弥代は初めて知った。

 そして、だからこそ

「……もう少し、さ。他のことでも話さねぇ?」

「……分かった。」

 グズリ、鼻を鳴らしたのははたしてどちらであったか。

 自分の誘いを拒むことない春原に、弥代はもう少しだけ甘えることとした。

  

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