三十四話 解釈
ゴツン、なんて大層な音が響いたわけじゃない。それでもそんな風な音が聞こえそうな、なにか硬いものに頭がぶつかった、というだけで。
「…………え?」
けれども弥代は声を漏らさずには、ただ居られなかった。
痛い、わけではない。
どちらかといえば後にぶつけた額なんかよりも、先にぶつけたつま先の方が若干痛い。
進めるのが当たり前だと思って足を踏み出したところでぶつかってしまったのだから、まぁ当たり前といえば当たり前。勢いを殺すこともなく当たってしまったのだからそちらの方が痛くて当然といえばそうなのだろうが、それでも一々屈んでつま先に触れるよりは、届きやすい額の方でどうにか済ませようぐらいの話。
しかしいざ触れてみると、まだ切り揃えられてそんなに経っているわけでもないから短めの前髪から覗く平らな表面が、手の甲よりも本当に少しだけ熱を持っているように弥代は感じられた。額に限らず、きっとつま先も同じように熱くなっているやもしれない。
「……。」
上半身を後ろに逸らすのに合わせて、一歩、体も一緒に下がってみるが、視界に映るのは遠のいた分だけ見える景色がちょっと広がった程度で、それ以外は特段なんの変化もありはしない。
(気の所為……か?)
いや、気の所為であるのなら今しがたのぶつかった感触は何だった、額はどうして熱を持ったというのか、その説明がまるで付かない。
「どうかされましたか弥代様?」
思わず首を傾げずにはいられない。
その場で腕を組み、開いていた足を揃えて唸り声を弥代が漏らし始めて、先ほどから半歩うしろを付いてきていた髪を結いている彼――隆棋が不思議そうに声を掛けてくるのに時間は掛からなかった。
「えぁ……、い、いや……よぉ、きっ、気の所為かもしれねぇんだけど、なんか今……、」
「えぇ、今……どうされたのですか?」
組んだばかりの腕を解いて、左腕を前に倒し弥代は何があったのかを彼に伝えようとしたが、あと少しで出てきそうだった言葉をグッと飲み込んで、いや、と二文字をはっきりと口にした。
「な……なんでもねぇよ。」
「そう、ですか。」
弥代が一言、そんな事を口にすれば、どうかされたのか?などと訊ねてきた、初めに口を開いた当人はあっさりと、何の疑問も抱くことなく身を引いてみせた。これで本当に気の所為で、もう一度挑んでみたらそれで何もなかったとなったら変に自分は恥ずかしい思いをするのではないか、と弥代は考ずにはいられなかった。
これがもし、昨日今日知り合ったばかりの相手でなく、榊扇からの道中を共にしている残り三人のうちの誰かであったのならすんなり持ち掛けることは出来た(特に掛川宿があって以降ということもあり、相良相手であれば悩むことなく助けを求める、声を掛けることが出来たであろう)はずだ。
それに、何がどうしてそんなことになっているのか弥代は相変わらず思い出すことは出来ずにいるが、絹から聞いた話の限りでは、どうやら彼は弥代に対し並々ならぬ恩義を感じているらしい。
大津宿を出て二刻程は経つが、ここに至るまでの道中で相良がそうなのではないか、と助言をしてくれた通りであれば、彼が自分に恩義を感じるに至った経緯をまるで思い出すことが出来ない弥代からしたら全くもって気色の悪い話だ。
自分が覚えていない、身に覚えのないことでそんなものを抱かれて慕われるなど性に合わない。
溜め息を一つ溢し、今度はしっかりと組んだ腕を解く。否、思うところがなくなった、疑問が解消されたわけでは一切ないのだが、いつまでもこんな場所で突っ立っているわけにはいかない。だってこの場所は近江国と山城国の間に位置する関所で、近江国に限らず、山城国より東側の国々からやって来る者は此処――逢坂関を通らねばならないそうなのだ。
坂下宿を通過した先にあった鈴鹿峠ほど急なではなかったが、それでも鈴鹿峠同様に峠と呼ばれるのに納得がいく道のりであった。
かつては鈴鹿峠にも関所があったとされる、というのも頷ける、鈴鹿峠ほど険しく人の手が加えられていないというわけではないが、細い道が一本しかなかった辺りなど正しくといった具合だ。
狭い急な山道を進んだ先に見えてくる関所。今は偶々他に人がいないから急ぐ必要はそこまでないだろう、後ろが閊えるということはないだろうがそれでも長居をしていい場所では間違いなくないだろう。し、そんなに時間は経っていない、足を止めていたわけではないが、先に関所の門を潜った荷馬車に追いつかねばなるまい。
といっても、どうせ中で扇堂家が予め用意してくれたという手形なりを見せて、と門番とのやりとりに多少時間が掛かっているだろうから、そんなに急いで後を追わねばならないという理由はそんなにありはしない、のだが。
「アレだよ、なんとかは急げって言葉があったよな―――ッ‼︎」
今しも関所の門番とのやりとりを終え、絹や稲葉家の嫡子を除いた、自身を含む春原、弥代の三人が山城国に立ち入る許可を得られた矢先の出来事だ。
門を潜って暫くが経つというのに一向に後ろにいたはずの弥代の姿が見えぬもので、その姿を探しに踵を返したところ、聞くに堪えない呻き声が聞こえてきたのだ。
不審者かあるいはは関所で騒動を起こして許可なく踏み入ろうとする不届き者が現れたのかもしれない、と。箱根関の倍以上の門番が駐在している、今の時代でも山城国の防壁として名高い逢坂関の門番の動きはとても日々訓練されているものと、賞賛に値するものであった。
呻き声の主が弥代であると相良が気付くよりも早く、彼等の動きは早く。相良に続き絹が通行手形を出すその場に者らは動くことはなかったものの、小屋の階段を駆け降りてきた者や、門と小屋の間に控えていた者らは早々に近江国側の門の外に向かい駆け出していた。
春原にこの場から動かぬよう、仮に面倒事が起きていたとして火種を広げてしまわぬように手早く釘を差してから相良も声のした方へと駆け出したのだが、門番の間を縫うようにして門の外へと駆けつけたの、だが―――
「ちっ、違ぇもんッ⁉︎ 俺、なんも悪いことしてねぇもんよッ‼︎」
真っ赤な額を晒す、弥代が其処には居た。
「どういうことかご説明いただけますか?」
何が起きたというのだろうか、相良は頭を抱えたくなった。
「だっ、だから違ぇんだってばっ!
おっ俺なにも悪いことしてねぇんだってば、信じてくれよっ⁉︎」
一瞥。
「はい、弥代様はなに一つ悪いことなどしておりませんでした。私が一部始終を見ておりました、間違いございません。」
また少し、目をくれる。
「そうだよなぁ、俺なんも悪くねぇよな隆棋ぃいっ⁉︎」
この場においてやはり話を進めねばならないのは自分しかいない。先の自分同様に小屋での門番とのやりとりを済ませたのだろう絹が、小屋から出てきて近付こうか近付かまいかの様子を見せている、視界の端にチラチラと簪の手の込んだつまみ細工が入り込んでくることがあるのだが、そちらに目をくれてやる余裕はない。
「いえ、そういうのはもういいですから早く何があったのか説明なさい、どちらの口からでも構いはしませんので。」
門の外、左手で正座をし稲葉の嫡子相手にこれまで見せていた距離感が嘘に思えるぐらい、縋り泣きつくような様子を見せる弥代に言いたいことはそれなりにあるのだが、今はそれには深く目を瞑り、相良は山城国に多く見られるという“色持ち”の中でも珍しい双眸と目を合わせた。
どちらの口でも構いはしないと言いはしたが、今の状態の弥代ではまるで会話が成り立ちそうにないと判断した上で、だ。
「では僭越ながら、私が変わりに事の顛末をさせていただきます。」
そうして、彼は口を開いた。
稲葉の嫡子曰く、弥代は門を潜ることが出来なかったという。
「潜れなかった、というのは弥代様が直接なにかをしたから、というわけではございません。門を潜る……丁度いま正に相良殿がお立ちの辺りで、見えぬ壁に弥代様は阻まれた御様子でした。」
「見えぬ壁……、ですか?」
「えぇ、恐らくは山城国に施されております結界によるものではないか、と考えられます。」
【結界】昨今では耳にする機会も減った言葉に違いはないが、どちらかといえば相良にはいくらかの縁がある、決して馴染みがないということのない言葉である。
それは相良の知識の源である知識人であった祖父から聞かされ事柄に含まれていたからなのもあるが、人ならざる存在――人と関わりを深く持ちたがるかの薬師や、榊扇の里にて多くの民草より信仰を集める存在である水神関連で知る機会があった側面が強い。
そしてなにより、後者の水神絡みであれば実際に相良は、弥代が見えぬ壁、【結界】によって立ち入るのを禁じられて跳ね返されたりする場面も目の当たりにしたことがある為に合点がゆく。
扇堂家の屋敷に踏み入ろうとした際、屋敷を出ての里での生活を始めたばかりの頃――武蔵国より相模国へと春原討伐屋が移ってくるのと同じ頃合い、七代目当主への謁見で屋敷に赴くにあたって、その場面に遭遇した回数は一度や二度ではない。
ただ、里でのそれらは全て、あくまで神仏・水虎の機嫌が悪かったがために起きた事でしかなく、榊扇の里から百里以上離れた、扇の威光が届いているわけでもない山城国において弥代が、【結界】によって拒まれるというの、彼が口にした言葉通り、山城国に施されているという――つまり、は、
「現人神様によるものですか。」
「はい、この地には現人神様であられる祈々様による結界が張られ、人ならざる類、害なす存在が立ち入れぬようになっているのです。」
「人ならざる類……害なす、存在ですか?」
「えぇ、そうなのです!」
祈々様はとても凄い御方なのです!なとどハキハキと彼が申すもので、相良は心の内が漏れぬように必死に、どうにか押し留めてから「そうでしたか」なんて言葉を一つ吐き溢して、それから少々お待ちを、と言い残して門の内側へと戻っていった。
そして――、
「どういうことでしょうか絹さん? 山城国は貴女のような存在は立ち入ることが出来ぬと今しがた話を私は伺ったのですか?」
「ぞぞぞ存じませんがそのような事っ⁉︎ げ、現に私は今普通にこうして門の内側に来れておりますし、これまで何度か逢坂関は行き来で使ったことはございますが、通れなかったなどということは一度もなく――ッ!」
「では何故弥代さんは阻まれているのでしょうか?関所で足止めを喰らったとしても多少強引にどうにかすることは出来ましょうが、そうではなく門の外でなどど……どうしろと仰る?」
「おっ、落ち着かれてください相良殿っ⁉︎ 言葉がどこか変です!いつもの相良殿いったい何処……どちらに行かれたというのですかっ⁉︎」
まったく予期せぬ事態に直面した。流石にこんなのはどうしようもない。隆棋の前ではどうにか平常心を保っていたが、彼の姿が視界に映り込まなくなって一瞬で相良の調子は崩れ去ってしまった。
否、違う。
何も原因は今回に限った話ではない。榊扇の里を出てから十日といくらか。ずっと気張っていたモノがここにきて気張れなくなって、保ち方を忘れてしまった。本当に世話が焼ける、手が掛かる。
当の本人は力技でどうにかなるんじゃないかと、額が真っ赤になるまで壁に向かってぶつかって、を繰り返したみたいだが、初めはそんなに痛くなかったというのに幾度か続けている内に痛みを我慢できなくなったようで泣き喚くような状態であった。(隆棋の手によって腫れた額を撫でられ情けなく泣く姿は思い出すだけで頭が痛くなる)
いや、本当にどうしたもの……か。
が、なにもこの状況を打開する手が一つもない、というわけではない。何か特別なことをしているわけではない、と本人は言いはするが、現に人ならざる存在――妖の類である、人に化けることの出来る狼である絹は問題なく山城国の【結界】を通り抜けることが出来ている、のだから。
(何か……アレですか? 何かしらこの国の物を身につけるであったり、繋がりのようなものがあれば阻まれることなく弥代さんも内側に入れることが出来――)
いや、しかし、だが今は何よりも、そんなこと……よりも、
再び慌ただしく相良は踵を返した。
そんなに幾度も行ったり来たりを繰り返しているわけではないのだが、どうにも焦りが、波が引きそうにない。
「やっ、弥代さ―――」
だと、いうのに……
「――なんだ坊主、昔山城国で何か悪さでもしでかしたのかぁ? 餓鬼のくせして度量がある奴じゃねぇか、嫌いじゃねぇぜ俺らはそういうの!」
「し、知らねぇよ! 前に来たことがあったとしても俺……覚えてねぇもんよ、」
「おーいっ、誰か座れるもんと茶持ってきてくんねぇかー? いつまでも立ちっぱもしんどいだろ、脚の短けぇやつでも構わねぇからさ!」
「気にすることねぇぞ東の坊ちゃん。偶にあんだよ、お前さんみたいな目立つ“色”した“色持ち”が入れねぇって事はな!」
「守衛の馬に空きあったか誰か見て来てくんねぇか?」
「ンなしょげた面してんじゃねぇよ! ほら、甘ぇモノでも食って元気出せって!」
「…………これは、一体どういうこと、ですか?」
菊花開、霽月の徒路 九話
「おや、相良殿は御存知ありませんでしたか?」なんて切り出したのはこの場においては遥かに相良よりも多くを知っているだろう、やはり稲葉家の嫡子である稲葉隆棋であった。
最早ここまで来てしまうと、説明であったりを全て彼に丸投げしてもいいのではないか、という考えに胡座を掻きたい気持ちが湧かないことはないのだが、しかし自身よりも十以上若い歳下相手にそれらを委ねてしまうのを相良が気乗りするもなく。
自身の知識が及ばぬが故に彼に説明を乞う、歳下を相手に頼まねばならぬ状況に申し訳なさを感じつつもそれでも足らぬものを埋める為に頭を下げた。
「えぇ、構いませんよ。弥代様が御不便をなさらない為にも、きっと相良殿は知っておいた方がよろしい、頭に入れておいて損のない事かと思いますので!」
「ありがとうございます。」
何故に、弥代に対し“様”で、相良に対し“殿”であるのかは触れぬこと、とする。
稲葉隆棋の説明曰く、どうやら山城国において“色持ち”とはそのものが信仰の対象とされているそうだ。他所では“色持ち”は迫害の対象とされている、その正反対、まったく異なる扱いが近年は特に山城国では浸透しつつある、という。
「――といいますのも、今や私のように“色”を持って生まれる存在はこの山城国では稀少な存在なのです。
そして山城国に君臨する現人神様にお仕えすることが許されているのは、伏原の血筋以外ですと色を持って生まれた者のみ。色を持ち生まれるというのはこの国にとって祈々様に近しい存在として丁重な扱いを受けるものなのです。」
特に――、そう言って自身から逸れた、色を持つ眼差しを相良は追う。
「弥代様ほどの、あれほどの鮮やかな“色”を持たれた御方は大変稀少です。髪と瞳、どちらかを持つことを軽視するわけでは決してございませんが、どちらもというのは本当に限られております。
資格を――、“色”を持ち祈々様にお仕えする為に、多くを学ぶための機関として今も残る崇光堂に身を寄せる同年代もそれほど多くはない、髪も瞳もどちらも、などという存在は今やこの山城国において祈々様以外に居られないのではないでしょうか。」
それは、相良の知らぬ思想だ。
長年……とはいってもたかだか二十九年。半分で割ったとしても十五に満たぬ、大人として認められる年齢に届かぬ程度しか生きていないが、それでも歳が近いものに比べればそれなりに多くの事柄を知っているという自負があった相良であっても知らぬモノであった。
が、思い返してみると自分は幼い頃より祖父に手を引かれ、本土の方々に赴くことはあっても、直接その土地の者と言葉を交わすことは殆んどなく、大半は祖父にその地に纏わる話として教わることばかりであった。
ただ、祖父の識る多くにはいくらかの偏りが見られ、特にやはり、相良氏の再興に重きを置いていた為、少しでも権力者に取り入ろうと、力を得ようとする動きは、幼いながらの相良の目から見ても顕著であり、だから―――。
「…………そう、でしたか。」
思考を、区切る。今は触れずともいいモノである。
余白があれば余計な方に考えが傾いてしまいそうになるものだから、どうにか隙間を埋めようと日頃から頭を働かせていたというのに。それで過ぎってしまい強引に切り替えるなど、あまりにも情けない話だ。
「ありがとうございます、おかげで知らぬことを知ることが出来ました。これより暫くの間は山城国に滞在することとなる上で念頭に入れておくこととしましょう。」
「えぇ、その方がよろしいかと。他所で“色持ち”の方々が山城国とは違い、非道な扱いを受けているというのは知っています。下手に気にされる、肩に力が入れすぎて良いことなんて大してありませんので。」
「いざという時に取っておくべきでしょうね。」
「はい、その方がよろしい、かと。」
十七の青年に諭された。
「隆……よし、さん……だっけ?
あの……さ、ちょっと聞きてぇことあんだけど、今いい……かな?」
髪と瞳の両方に“色”を持ち、東からやって来たという弥代という存在はそれだけで山城国において貴重な、尊ばれるべき存在ではあるのは疑いようのない事実だ。
山城国外において、“色持ち”と呼ばれる存在が生まれた頃より迫害の対象とされ虐げられ続けているという歴史を知らぬわけではない。それもまた事実だ。
しかし鮮やかな、誤魔化す手立てのない“色”を持って生まれてしまった弥代は、これまで数えられないぐらいさぞ非道い目に遭ってきただろうに、自身が決して泳ぐのが得意というわけでもなかったというのに、身を挺し他人を見捨てることなく寄り添ってくれた、他者を気に掛ける心が彼女にはあった。これまで自分が、山城国の主君として崇めてきた、雲の上人とは雲泥の差だ。
何もこれまで信仰をしていた現人神様に対する信仰心が欠けた、というわけではないが、昨晩の出会いがきっかけで祈々様に対する思いが、弥代に対し抱く方がほんの少し上回ってしまった、というだけで。
ただ、でも。顔さえも見ることが出来ない、機嫌を窺うことも出来ぬ主君よりも断然、弥代という感情をとても顕にする、尽くし甲斐のある主人の方が自分にはきっと合っているだろうと、隆棋は感じていた。
だから昨日今日の付き合いしかなく、信頼と呼べるものは築けてはいないだろう間柄だというのに、自分のような者に用があって声を掛けてくれたのが何より嬉しく、堪らずそれは顔に出てしまい、満面の笑みを浮かべて隆棋は弥代の傍へと駆け寄った。
「はい、どうされましたか弥代様っ!」
彼が自分に対し恩義を感じている、それに何かしら恩を返したい、というのはきっと明白で。
そうなんだろうな、というのは呼べば笑みを浮かべて駆け寄ってくる辺りだったり、先ほど門を潜ることすら出来ずに、段々と意地を張って額を何度か打ちつけたりしてをした後の腫れ上がった箇所を優しく撫でてくれたりがあったものだから疑うのが申し訳なく感じるほどだ。
どこかその姿が、討伐屋における芳賀黒介に重なって見えたのは、何かしら似通った部分が少なからずあったのだろうが、具体的にそれが何か弥代には分からなかった。(でも芳賀のそうだが、桜ぽさも感じた。つまり接せられるのがあまり嫌ではない、ということだ)
自分や絹よりも上背のある相手が、此方に目線を合わせる為にわざわざ屈んでみせる、というのはなんとも慣れない行動だが、関所に在中している門番らが用意してくれた椅子に腰掛けて寛いでいる時に、見下ろされるよりは屈まれた方が首も疲れずに済む。些細なことなのもしれないが、助かる、なんて小さく声を漏らせば、弥代が出したのの倍どころじゃない声量で「勿体無い御言葉!」なんて返事をされる。勿体無い言葉……弥代にはイマイチ意味が分からない。
『気にすることねぇぞ東の坊ちゃん。偶にあんだよ、お前さんみたいな目立つ“色”した“色持ち”が入れねぇって事はな!』
「――みてぇな事、さっきのおっちゃんの誰だったかが言ってたけどさ、アレなんなの?」
「弥代様は物覚えがとてもよろしいのですね!下々の者の言葉にもよく耳を傾けられておいでとは大変御優しい。」
「うん……? あ、ぉ…………おぅ?」
とても調子が狂う。
しかしこうも何かにつけて褒められたり、賞賛をされるなんて事はこれまで弥代はなかったことで、なんだか……
「…………いや、別にいいか。」
「ほぉ、“色持ち”の“色”が強すぎる、それが妖の類と存在が近しく弾かれてしまうことがある……と?
……初めて聴きました、そのような話。」
「えぇ、私も初耳です。ですが実際にかの現人神様にお仕えしていた経歴のある、稲葉家の者の口からそのように語られるのですから間違いないのでしょう。」
関所の門を潜った先、駐在する門番達が寝食に使う離れの、形ばかりで使われた痕跡のまったくない客間へと通された相良ら三人は、出された茶に手をつけながら一息を吐いていた。
隆棋の口から聞かされたのを含め、門番からも念の為に直接相良は話を伺ったが本当の話のようだ。
「【神】として崇められる存在、信仰が強い存在もまた山城国の【結界】に弾かれるそうです。分かりやすく伝えると、榊扇の里の神仏・水虎様がこの山城国に立ち入ろうとすると弥代さんと同じ目に遭うようで。」
「それでは“色持ち”が【神】と同等、あるいは近しい存在ということになってしまいませんか? 弥代さんは【神】などではなく、あくまで“色持ち”の……」
言葉を濁す。口にしている最中に濁さねばならないと察したのだろう。いくら部屋の中に自分たち以外がいないといっても、誰の耳が、目があるかなんて分かったものじゃない。何も疑っているわけではないが先の話が頭にあるのだろう。
仮にここで弥代の正体を絹が口にしたとして、いくら弥代の“色”がこの山城国において尊ばれるモノであったとして、山城国に君臨する現人神が弥代と同じ【鬼】と呼ばれる存在であったとしても。
人ならざるモノ、妖の類が都に立ち入れぬよう、それを目的とし張られている【結界】は、本来の役割を果たしたという事となる。
弥代がただの“色持ち”であり、且つ山城国において尊ばれる、髪と瞳どちらとも“色”を持つ存在であるものだから関所を通過出来るように、と一時的に【結界】を緩めるなりしてもらえないものかと打診に門番が動いてくれている状況の今、それらを白紙にしてしまうような軽率な発言は間違って、も。
「そ、それで……えっと、“色持ち”の“色”が【神】に通ずるなにか、がある……という話、でしたでしょうか?」
「えぇ、そうです。
絹さんは、“色持ち”の如何にして“色”などというモノを持って生まれるかをご存知でしょうか?」
「…………い、いいえ?」
目が泳ぐ。何を訳のわからない事を言い出すのだと言いたげな人の姿を真似るのが得意な狼を前に、相良は口を、
「“色持ち”、とは――」
相良は、口を開いた。
「“色持ち”の“色”は一説によりますと、子を産む母の、強い願いにより授かるもの、とされております。
子がどうか無事に産まれてくれますように、どうか産声上げてくれますように。子を憂うその思いは信仰に通ずるものがあると、それに関連しているのではないか、と以前教わったことがあります。」
「うれう……思い?」
「えぇ、我が子を強く望む、その“心”です。」
言われて、弥代はふと去年のことを思い出した。
あぁ、そういえばあの寒い地では、“色持ち”のことをなんだったか……祝福、などと、神からの授かりもの、だなんて言っていた奴がいたな、と。
「今の時代、“色持ち”が山城国では滅多に生まれなくなってしまったからといって、子を強く望む母が少なくなってしまった、というわけでは決してありません。ただ時代が、昔に比べ穏やかになった、過ごしやすくなったと、いくらかの余裕を皆が持てるようになった、と。……それだけの事なのですよ、きっと。」




