三十一話 夜釣り、にて
なにもこれが初めてというわけではない。
もう既に一度呼んだことがあるの名だ。知らぬ相手ではないのだし、それを馬鹿みたいに拒む理由も弥代にはありはしない、難しいことなんてありはしないのに。それ――でも。
「…………、」
言い、澱んでしまう。
薄暗い、光源の見当たらない締め切られた部屋の中、よく目を凝らさねばぼんやりとしか捉えることも出来ぬ状態だというのに、視線がかち合っているのかもはっきりと分からないと儘だというのに、彼がいると目星を立てた場所から目だけでなく体そのものも背けて、そうしてまたしても弥代は、逃げの姿勢を見せてしまった。
着替えは寝ている内に勝手に絹が澄ましてくれたものだが食事がまだであり、なんなら汗を流すのに湯浴みに関しちゃ済んでいやしなかった。
結局畳まず終いでただぐちゃぐちゃにしてしまった布団だけではなく、春原もそのまま放置し一旦部屋を出た弥代は、早々に廊下の向かいにある欄干に手を掛けて、自分が居る位置と真向かいの部屋に見慣れた二人の後ろ姿を見つけて移動を始めた。
今宵の宿は随分と、これまで世話になった旅籠とは全く違う構造をしているようだ。敷地の真ん中が大きくくり抜かれたように一階には中庭が広がり、二階、三階部分には吊り橋のようなものが幾重にも掛けられている。二階建て以上の高い建物というもの自体中々に珍しいと、相良がいつだったか話していたのを思い出しながら弥代は距離を詰めるように、廊下を大回りして対岸を目指した。
二人の後ろ姿を見た座敷にやっとの思いで弥代が辿り着くなり、春原はどうしたのか?と相良も絹も揃って訊ねてきたが、弥代が答えづらそうな態度を示すのを見てどこか察したような反応を見せ、二人ともそれ以上深く詮索をするようなことはなかったが、目を覚ました客人の分の夕餉が遅れて到着する頃になって、遅れて春原も座敷にやって来た。彼も食事はまだであったようだ。
寝ることにおいては三日に一度十分休むことが出来ればそれで済む男であることを知ってはいるが、飯を食わずに過ごすことは出来ないのを弥代は知っている。食わずに、という点では人の身でない弥代だってどうにか我慢しよう、堪えようとすれば出来なくはないが進んでしたくはないことだ。
寝ずか食わずかどちらか選べ、と言われたら空腹を凌ぎ、眠気を我慢する方を弥代は選ぶだろう。つまりは自分であっても腹を満たす方を優先するというのに、という話で。自分だって我慢出来ないことを彼に強いた挙句、部屋にそのまま置いてきてしまったことを申し訳なく弥代は感じずにはいられなかった。とても居た堪れない。
前日のやりとりも踏まえればどうしたって気にしてしまう。チラチラと様子を窺うのに視線を送ってみたってなにも変わりはしない。食事中に相手が此方に気付くはずがないと分かった上で自分はそんなことをしているだけなのかさえも分からない儘、弥代は春原ばかりを見ていた。
だからどうにも、味に集中が出来なかった。
「夜釣りに行きましょう弥代さんっ!」
東海道随一とされる宿場町は琵琶湖が近くにあるため港町としての側面もあり、などと相良が話しているのに耳を傾けていた覚えは薄らあるのだが、どこまで話を聞いていたのかが残念ながら思い出せない。明日になってもいいから時間のある時にもう一度続きを教えてほしい、とそんな事を思い浮かべながら湯浴みを終えたばかりの弥代が部屋に戻ってくるなり、絹がそんな事を言い出した。
先駆けてある程度寝てはいた身であるが、腹も膨れ、汗を流し体を清めた後となればもう後は床につくのみである。何を言い出すのやら、と訝しげな視線を送りつつも、此方の出方を窺うような姿勢を見せるだけでその場から動く様子は見られなかったので警戒はしつつも、弥代は先刻同様に敷かれた布団の間に無言のまま体を滑り込ませて言ってやった。
「おやすみ。」
「待ってください、待ってくださいッ‼︎それは幾らなんでもズルいですっ! 折角の誘いをそんなあっさりと断らないでくださいッ‼︎」
「付き合ってられるか阿呆が。俺は早いところ寝てぇんだ、早いところ休ませてくれ。」
二枚布団の間に体を滑り込ませた側から、掛け布団を鷲掴みにされる。本気で付き合いきれない。
寝る気満々、もうとっとと休む気でいたというのに……と叱言が漏らしてしまうぐらいは許してほしいものだ。そんな一心で弥代は必死に抵抗を示したというのに、やけに強引に此方を引き留めようとする姿にもしや何か他に理由があるんじゃないか、とそんな事を考えてしまう。極めつけはやたらと小声だ。声を絞りながらも喚くなんて面倒な真似をしてまで、そうまでして自分をどうにかして誘いたい理由が、他に何か事情があるのではないか、とそんな考えが脳裏を過ぎる。
否、だからなんだ、という話にはなってしまうのだが、しかし相手は絹だ。この旅の道中、自分と同じく人の身でない、女であり“色持ち”という共通点もあり頻繁に声を掛け、常に気に掛けていてくれた、そんな存在だ。
夕餉の際に相良の口から、明日には京入り――山城国に辿り着けると聞かされた。彼女・絹と共に過ごす時間ももう間もなく終わりを迎えてしまうかもしれない。
「……ちょ、ちょっとだけ……なら。」
「や、弥代さんっ!」
弥代は仕方なしに小さく頷いてみせた。
そして――、
「で、なんだっけ。よ……よづり? 何すんの、それ?」
「夜に釣りと書いてそのまま夜釣りです! 」
「釣り……ってーと、アレか。なんか道具使うんだろ?川魚なら素手でなんとかなるけど、湖だっけ?」
「浅い川でしたら確かに裾を捲ってそれでどうにかなりますね。ですが仰られました通り、琵琶湖は湖です。それもかなり深いそうです。湖の底まで潜ることも出来ませんし、先日の宮宿より桑名宿までの距離と同じか、あるいはそれ以上。北国諸藩から海で獲れた品が陸上げされて大津や塩津の方へと運ばれる品が多いのです!
そうです、大津が正しくこの大津宿です! つまりは、もうお分かりですね弥代さんッ‼︎」
「あ、いや……、ゴメン、俺そんな頭良くねぇから何のこっちゃサッパリだわ?」
「弥代さんッ‼︎」
ただ名前を口にしているだけなのに愉快すぎる。たった一言、一呼びに込められたであろう背景を想像すると、気を抜こうものなら堪え切れずに口角は間違いなく持ち上がってしまっていただろう。弥代は耐えねばならぬ立場にある。……堪えねばならない。
言わずとも本気で伝わっている、弥代は分かっているものだと思っていたのだろう。思いがけない返答に絹は一気に調子を崩し、あたふたとし始めるが、それでも横並びの歩みを止めることはない。
寧ろ弥代よりもいくらか背丈がある分、歩幅を合わせてくれる、それは一切乱すことなく歩みを合わせてくれるのは有難いものだ。
「で、何? 夜釣りにその、話したってのは関係があるんでしょ。どう関係あんの、教えてよ。」
「あ……、ふっ、フフフそうですそうです、実は、ですね――」
そうして、弥代は耳を傾けた。
弥代さんは刺身を甘いと感じたことはございませんか?などと言われて弥代はそもそも生魚を刺身にして食べたことはあまり無い、と返した。
というのも、弥代のよく知る調理方法はやはり火で炙ってみせたり、鍋越しに食材に火を通して、といった具合ばかりだ。火を通せばある程度のモノは食えるようになる。火を扱うのはやはり得意な方ではないが、飯の支度をする為の火を扱うぐらいは全く気にならない。
以前、榊扇の里で飯に誘われ立ち寄った店屋で、何やら衣と呼ばれる薄いものを野菜に纏わせて、それを熱々の油の中を泳がせることで出来る、揚げ物なんていう贅沢な品があり、それが大層絶品であったのをよく覚えてはいるが、そもそも熱々の油なんてのがどんなものかも想像がつかない。
八月の暮れぐらいになると立派な南瓜が里の商店に並ぶようになり、それを同じように調理すれば頬が落ちそうになるぐらい甘いのだとか、なんとか。そんなの聞いてしまったからには是非食べてみたいものだ!なんて返したこともあるぐらい気にはなるが、自分の手で味わえるとは到底思えない代物だ。
天地がひっくり返っても弥代には無理だろう。
そんなものだから絹の言う、“刺身”というのがイマイチどんなものであるか分からない。
素直にそう返せば、続けて彼女は意気揚々と口を開いた。
「いえいえ、口振りからしてきっとご存知ないだろうな、とは分かっていましたとも! ですが弥代さん、弥代さんはもう既に一度刺身を口にされているのです。そう……、今宵の夕餉に並んでいました、弥代さんが興味津々そうに見ていた、一切れ口にするも味がぼんやりしていて分からないと言って、相良殿が横から掻っ攫っていったアレですッ‼︎」
「…………え?」
あー、なんて声を漏らしながら弥代は思い返した。
言われるまですっかり忘れていた、そんな事もあったなぁ、と頭の隅に追いやっていたことだ。
そうだそうだ、そうである。宿が用意した飯の中に、何やらやけにツヤツヤとした水気の多そうな品が盛られた器があった。
弥代はそれを何だろうと思いながらも一切れ箸で摘み口に含んだが、絹が言った通り「味がぼんやりしていて分からない」と言って、二口目を口に運ぶことはなく、他のおかずに箸を伸ばしたりしていた。「あったな、そんなこと……」
「えぇ、あれは刺身の味を分かった上で横取りをしてくる悪い大人です。美味しいものを独り占めして、その良さを教えてくれないなんて卑怯です!」
(卑怯なのか、それ?)
肩に担ぐ道具を一度担ぎ直す。その上でグッと拳を作り声を挙げるのだから絹からすると余程のことなのだろう。
だがしかし、弥代はたとえば自分だけが知る美味いと感じるものがあったとして、それをわざわざ誰かに分けてやろうなんて事を考えることはない。どちらかと言えば、ではなく絶対に独り占めをしてしまう質だ。だって美味いものはいっぱい食いたい。誰かがその美味さを知らないなら、その誰かの分も自分が味わいたい。
……否、時と場合にもよるが。
「ふーん……、で何? その、だから俺がその、刺身の美味さを……なんだっけ? だからそもそもさっきが初めてだったろうから、甘く感じたことがあります、だっけ。知ってるわけがねぇんだわ。それで……えっと、何だ? 絹さんは俺にその、甘く感じる“刺身”ってのを食わせたいわけ?」
「仰る通りです!」
「…………そう。」
旅が間もなく終わるということはやはり絹と過ごす時間もそろそろ終わるということだ。
それを勿体無いと、もう少しこんな日々が暫く続いてくれたっていいじゃないか、という気持ちが少なからず(いや、目を逸らせないぐらいにしっかりと)あるものだから眠いのを我慢して彼女の言う夜釣りに付き合うためにここまで来たのだが、その理由が分かると途端に気乗りしない。
否、弥代に味わってほしい、という発言から弥代の為を思っての提案なのが嬉しくないわけではない。他人の厚意は無碍に扱うものではないと相良が言っていた。してはならないことなのだろう。
が、そうではなく。そういうことではなくて、弥代はもっとこう……、
(てっきり人手がどうしても足りなくなったからとか、そういうので頼られたとか……そういうんじゃなかったわけだ。)
恩を、感じている。
相良と泥んこ塗れになって朝を迎えた、その後、言える頃合いを見計らっていたのです、なんて少し照れくさそうな顔を見せながら、絹は弥代にそんな言葉を告げた。
一日にも満たない、半日あるかないかの付き合いだ。どちらかといえば恨み言の方が出てきても不思議ではない、絹の主人であった男を、あと少しの所で弥代は救ってやれなかったのだから。
何ならあの日、あの宿で弥代が絹に自分を連れていけなどと、跨がるようなことがなければそのぶん彼女は、もっと早く主人の元へとたどり着けていたかもしれない。そうすれば救えていたかもしれない命であることぐらい弥代でも理解出来た。
だから弥代は、……弥代は絹からのその言葉を正面からは受け止めることはどうしても出来なかった。だと、いうのに――。
彼女は――絹は、伝え方を変えることにしたのかやたらと弥代に話しかける、構ってくるようになった。
宿場町に立ち並ぶ露店で串物を買って与えてくれたのも、相良と話している間に割り込んできたり、逆の時は入り込んできた相良に対し食って掛かるような態度で怖いもの知らずで応戦してみせたり。
疲れて弥代が自分の身の回りの事が手付かずになってしまっても、着替えに限らず細やかな事を手伝ってくれたりしたのも自惚れなどではなく間違いなく、言葉を素直に受け取ることが出来なかった弥代の為にとってくれた手段だろう。
ただそれでも、それでもやっぱり恨み言の方が、という思いが薄れることはなく。先の七里の渡しの際も、以降今日までも、何かとあれば弥代も、せめてもの気持ちから応えられることはしてやりたいと考えていた、だから、てっきりよっぽどの事があって、それで自分を頼ってくれたのではないか、と。そう、思っていたのに……。
「……いや、何もそんな目に遭ってほしいとかそんなわけじゃ」
「なんの話でしょうか?」
「……ぁ、いや」
いつの間にか漏れていた。
先ほどの口角が緩みそうになったのは免れたというのに、まさかここで気の緩みからか声に出ていたとは、と途中まで出かけたものを今更だと分かっていながらも掌で塞ぎ、そうして弥代は気不味くなる前に、思ってもないことを態とらしく言ってやった。
「楽しみ……だ、なぁぁ?」
「…………。」
嘘でももう言わない。
菊花開、霽月の徒路 六話
「絶対釣るぞーーッ‼︎」
「えぇ、是非釣って帰りましょうともっ‼︎ 明日は朝から刺身一択ですっ‼︎」
おーっ!なんて声と共に拳を振り上げながら弥代は絹に応えた。
自分はなんて単純なのだろう、と思わずにはいられない。ほんの少し前までは全くそんな乗り気ではなかった、やる気なんてこれぽっちも無かった、なんなら絹が満足したら早々に宿に戻って、寝る前にもう一度ぐらい湯に浸かれるのならじっくりと浸かってからそれで寝入りたいものだと考えていた程だ。
それが何故、手のひらをこれでもかと言うぐらいに返したような勢いで、拳まで握り振り上げるまでになったかと訊かれれば、それはまぁその……弥代からすれば仕方がないことだ。
初めて目にする刺身をそのまま口に運び、一口でその食材の良さというものが全くわからず、味がぼんやりしてて何が良いのか分からないとそれ以上手をつけることを止めた、挙句横から相良に掻っ攫われてしまったものだ。だが絹の説明によればあれは山葵醤油に浸す、あるいは少量の塩を身の表面に気持ち程度塗し、それがじんわりと溶けるのを待ってから口に含むと、塩はしょっぱいのが当たり前だというのに何がどうしてそうなるのかまでは分からないが、本当に何故か甘く感じることがあるのだという。
『美味い……のか?』
『えぇ、それはもう……絶品ですっ!』
弥代よりも絶対に多くのものを口にしてきている絹が力強く、自信も持って勧めてくるのだ。なんならここ数日で絹が弥代に買い与えてくれた串物だったりじゃ比べものにならないぐらい、美味であるらしい。
弥代は、甘いものが好きだ。
しょっぱいものにもそれなりに美味い、良さというものがあるのだろうが、好んで口にしたい、と思えるのは甘いものばかり、茶菓子なんかは特に、居合わせた相手がたとえば食べぬ、手を付けぬというのなら断りを入れて多く食べたいとなるぐらいには大好きだ。
でも、いくら好きなものでも限度というものがある。正直な話をしてしまえば扇堂雪那と出会い、榊扇の里での暮らしが始まってからというもの、屋敷で世話になっていた頃も含めてだが、頻繁に甘いものを口にする機会はあった。これは言い過ぎかもしれないが里の、屋敷がある北側の甘味は殆んど味わい尽くしたようなものだ。
里の南側に足を運ぶのはやはり距離もあり、時間も掛かるのでこれまであまり機会はなかったが、なんなら先日立ち寄った飯屋の、天麩羅の美味しい食べ方に、衣を纏ったネタをツユに浸して食べる食べ方以外に、先ほど絹が話してくれたのと同じに、塩を塗すという食べ方があると和馬が話していたのを弥代は思い出した。
あの、やたらと美味かった薄く切られた天麩羅が、ツユに浸しただけでもじゅわりと口の中に甘みが広がった天麩羅が、ツユを浸す以外にも美味く食べられる方法に、塩を塗す、などというのがあるのならそれは……それはつまるところ、同じように薄く切られた魚の切り身に、塩を軽く塗し……など。
『なにより、魚は締めた直後が一番美味しいのですよ!』
『――ッ⁉︎』
耳打ちは卑怯だ。
もう既に関心が向ききっているというのに、そんなのはあまりにも、あまりにも追い討ちが過ぎた。
そして、絹が言うにはこう、だ。
先日弥代達が船で揺られた距離と大体同じぐらい離れた、東海道が面する南の海とは真逆に位置する、北国諸藩が面する北の海から水揚げされた魚が、活きのいい状態、締められることなく船で運ばれてくるのだそうだ。
そしてその魚が此処、大津の港に陸上げされる際、やはり活きのいい魚であるため、稀にそれが水の中へ――琵琶湖に落ちてしまうことがあるのだという。
『そしてなんと! 昨日正に港に陸上げされる際、船からいくらかの魚が水の中に消えていってしまったというのです‼︎』
『じゃぁ……じゃぁよ! そ、それってまさかその、すんげぇ美味い魚がそのままこの先の湖のどっかにいて、それがこの釣り竿で釣れちまったらさ、その締めた直後が一番美味いっていうのに、それにその……し、塩なんかを掛けてめっちゃ美味い状態のを食えるって……そういうこと、なの……か?』
『流石です弥代さんっ!とっても冴えてらっしゃる‼︎』
『なんてこったッ⁉︎』
こうしちゃ居られない、と大声で弥代は駆け出してしまった程だ。食には――美味いものを食べたいという欲求にはどうしたって抗えなかった。
そんなこんながあったものだからもう弥代は何がなんでも魚を釣り上げて帰る気満々だ。絹がご丁寧に用意してくれた二本の釣り竿のうち一本を意気揚々と受け取って、二、三言扱い方を教えたら、それを水面目掛けて大きく振るってみせた。
それを見た絹といえば、勿論――
(弥代さんとっても楽しそうっ‼︎)
心の中まで浮き足だちだ。もう誰にもこの勢いは止められない。表情が堅いものだから冗談で言ってるのか本気で言ってるのか絹ちゃんは分からない時があるわね、なんて銀嶺の暮らす西条家の屋敷に住み込みで働く年配の女中らによく指摘を受けたことがある絹だが、一々触るまでもなく今自分の表情は明るいものに違いないという自信があった。
だってこんなに楽しそうな弥代を見るのはこれが初めてだ。掛川宿での一件以来、やはり弥代の様子は良くなっているのは一目瞭然であったが、それでも難しい表情をしていることが多かった。
昨年会った際のように眉間に深い皺を刻む頻度も少なくなり、目頭の部分にまでギュッと寄っていたものもすっかりなくなったのだが、逆に口元であったり、眉尻が下がる回数が増えた。
その理由を作っているのが、今や弥代が教えを分かりやすく乞うようになった相良以外にあるはずがなく。これまで知らぬことを知らぬままずっと放置してきたと自分の口で話していた弥代が、やっと目を逸らしてきたことに向き合う覚悟を決めて知りたいという姿勢を見せるようになったのは良いことなのだが、ずっとそんな調子が続くのは良くない。根を詰めすぎても良いことなんて絹の知る限りありはしない。
だからちょっとでもいい息抜きになってくれれば、という軽い気持ちで誘ったのだが、結果は上場すぎるぐらいに功を奏した。
感謝の言葉を述べても居心地が悪そうに受け取ってもらえなかった、何かと気に掛けたり声を掛けたりしても変に意識させてしまう事が多かったものだからどうすれば良いのかと少なからず気にはしていたものだから、そういうのを全て抜きにして、そんなのを全て取っ払ったような年相応、外見相応な子どもらしい表情を見せる弥代を前にして絹が喜ばぬわけがなかった。
「釣れるといいですね弥代さん!」
「そうだな絹さん!」
そして絹は閃いてしまった。これはもしや、イケるのではないか?と。
「と……ところで弥代さん。つ、つかぬことをお聞きしたいと考えているのですが、よ……宜しい、ですか?」
「つかぬことをお聞きしたいーってのは偶に聞くけど、なんだよつかぬことをお聞きしたいと考えてるって、すんげぇこんがらがってねぇかソレ? よく分かんねぇけどさぁ!」
「フフフ、いえいえ別にそんな全くこれぽっちも大した質問ということはないんですけども、えぇその……、き、昨日から私とても気になってしまいまして!」
「もぉ、そんなの聞きたいって言ってるようなもんなのに変に遠回りしてんじゃねぇよ! 俺に聞きてぇことがあんだろ、早く訊けばいいじゃん! 昨日……昨日ってーと、なんかあったか?」
「えぇ?ほ、本当に訊いてもよろしいんですかぁ?じゃぁそのぉ……」
「うんうん、そのぉ?」
「えっと……、」
――春原殿についてなのですが、絹がそう口を開こうとした刹那、背後から大きな音がした。
開き掛けた口を閉じ、何事かと絹が振り返ろうとした次の瞬間には、何やら自分と同じぐらいの大きさをした塊が勢いよく、自分たちの方へと迫ってくる。
「や、や、弥代さ……んッ⁉︎」
弥代は気付いていない。湖に反射する月明かりのおかげで灯りを点さずとも相変わらずニコニコと笑みを浮かべている弥代の横顔がくっきりと絹には見えているが、今の状況の弥代にまともに届きそうな言葉が全く絹には思い浮かばない。
「えっ………ぁ、あ……あっ、」
という間もなく、次第に塊の距離が迫っている。弥代の顔がくっきりと見えるんだからしっかり目を凝らせばそれでもしかしたらその塊の正体が何か分かるのではないか、正体が分かりさえすればそれを弥代に伝えてどうにかなったするのではないか?と絹は考え塊に目を遣るのだが、何やらゴロゴロと何かが勢いよく転がって、やっぱり此方に向かってきているということしか分からなく、て
「や、弥代さーーーーーーーんッ‼︎」
「もぉ、だから何だってさっきから訊いてんだろう絹さ」
弥代の体が宙を舞った。




