二十六話 学び
「そうですね、指で一から順に数えるのは簡単な和算でしたらよろしいかとは思いますが、それも桁が増えてくるとややこしくなってしまうので。手と足の指を全て駆使したとしても二十が限界でしょうし、指折り数えてなど手は出来ても足先までもそれほど器用に一本一本折るのも人によっては難しい事です。
ですのでここで役立つのが弥代さんも見たことは何度かありますでしょう、商人であったりが小さな珠を弾いたりしているアレです、算盤の出番になるわけです!
数に馴染みのある方々でも複雑になってくるとあれば良しと重宝するものです。寺子屋でも扱い方を、計算術に幅広く使えるものですから教わる、と。汎用が高いので覚えておいて損はないことでしょう‼︎」
「……ん、…………おっ、おぅ?」
既に頭は追いついていない。なんだったら自分がいくつまで数えていたのかすら分からなくなってきた。今さっき折り曲げたばかりの右の人差し指を伸ばしたところなので、両の指を全て折り曲げてそれを十とし、それを逆さまにしているわけだから順通りにいけば十に二で十二になるはずなのだが、左隣から掛けられる声に気を取られ、それさえも自信を持てなくなってくる。
助け舟……を、求めるべきだろうか?
否、これは弥代の理解力を測るために、と出された問いであったはずだ。弥代が弥代自身の力でどうにか解かなくてならないはずだ。なんならまだ一から十までを間違えることなく数えられているかすら正直不安なところだ。今までどれほどこれらの問題に目を向けることなく適当に過ごしてきたのかが、自身が向き合ってこなかったのかを自覚すれば一気に恥ずかしくなってくる。
「やり方さえ分かれば三歳児でもう使い熟している子もいますね!」なんて言葉が容赦なく突き刺さってくる。自分は三歳児以下なのか、と弥代は頭を抱えたくなった。
「十一、です。」
「……え?」
「右の親指を折り曲げたあと、それを伸ばされていませんでしたよ。大方折り込んでそれで満足されたのではありませんか?
算盤も追々は扱い方を覚えるのも良いでしょうが、先ずはその癖かどうかもまだ判断の難しい部分を矯正された方がよろしいか、と。
例えば―――そうですね、十まで数え終えてもそのまま戻るのは一旦なしとし、十数える度に一つ適当な石を手元に置き、指で数えるのはまた左親指から始めてみるのは如何でしょうか?
今が十一、だとして。此方の小石を一つお持ちになり、指は……、」
手が伸びてくる。
いつから持っていたのかも分からない小石を手のひらに、それを弥代の前にコトリと置いてみせる男は、意図も容易く弥代と絹の会話に割り込んでみせた。
厚みのある硝子板越しに見える眼差しは、向きによってそれを妨げることにもなると分かっているが、いざ自分の方へと一度向いたのだと分かってしまうとまじまじと目で追ってしまう。これまではなかった感覚なもので、無意識にそんな事をしてしまう自分自身にまだ弥代は慣れず、どうにも歯痒いったらありゃしない。
挙句、ほら、なんて言って伸ばされた手が折り曲げた指を優しく解いてくる。一気に気恥ずかしさが込み上げてくるものだから、くしゃり顔を顰めて弥代はやっと抵抗を示した。
「いっ、要らねぇからそういうのはッ‼︎」
「おや、なんですかその態度は? それが果たして教えを乞う側の言葉でしょうか?」
「言ってくれりゃそれで分かんじゃんッ⁉︎一々こういうのは要らないって、悪いのは分かってんけど……けどよぉ、」
「仕方のない方ですね、貴女という人は。」
渋ればそれで手は離れていく。でも、だって……なんて言い訳をついつい並べてしまいそうになるが、それはもうなるべくしないと弥代は決めたのだ。グッと堪える。
嵐に喩えるのは大袈裟だろうが、それでもそれが浮かぶぐらいにはまだ慣れていない弥代からすれば大事なのだと、去ったことに対し安堵するも束の間、左隣にいた彼女が不服そうな声を隠しもせずに漏らした。
「いま弥代さんは私と話していたというのに、いきなり会話に割り込んでくるや否や何です相良殿。此方の会話が終わるのを待つことも出来ないぐらい堪え性がないのでしょうか?
後、先ずは、なんて言いながら結局は珠を石に見立てているだけで算盤とやっている事は一緒ではありませんか? どの口が一旦なしとし、などと仰ったのでしょうか、甚だ疑問ですのでお答えいただけますでしょうか?」
「いえいえ、そのような事をわざわざ喋々しく仰られずとも、私はただ弥代さんが困っているように見えたので少しばかり……、本当に少しだけ手を貸して差し上げただけなのは貴女も隣で見て居られたでしょうに。
算盤の扱い方に関しましては、あのような数が多く、扱い方を覚えるのにも時間を有すものよりも遥かに扱いやすい、手頃なもので済ますことが出来る小石に置き換えた方が弥代さんの為になると考えて提案させていただいただけでございます。
今の言い草は些か言い掛かりに近いものに私は感じましたが、気を悪くさせてしまったようでしたら申し訳ございません。」
何とも性格の悪さが態度にありありと出ている。
計算であったり四則なんたらに関してはからっきし。なんなら店で何かを食った時、大して懐に余裕があるわけでもないのにわざと釣りが来るように勘定に金を出す、細々とした額を自分で全部出したことがないまま避けてきたもので得意ではないのは当然と言ってしまえばそうなのだが、言葉であったり相手の態度、言い表し方や含んだ意味などには敏感に、教えてくれる人はいなかったなりに覚えてきた弥代でも分かってしまうほどひどい返答だ。滲み出すぎにも程がある。
しかしそれでいて、相手の要望に対し理由まで述べた上でキチンと返してみせるのだから言葉が上手い事実は変わらないのだから困る。
弥代に関わることなのに弥代が会話に入り込む余地のないまま置いてけぼりを喰らうのは、何も相良の相手が絹であるからと、限られたものではない。相良が同席する、居合わせた場での会話というものは大抵置いてけぼりを喰らってしまう。先月の暮れにあった、扇堂杷勿と相良の間で交わされたやりとりなど、まったくといっていいほど頭に入ってくることなく、聞き逃しが多く知らぬ事ばかりでお手上げ状態にまでなったぐらいだ。
それと比較すればまだ目の前でいま正に行われているやりとりは分かりやすいものだが、結局は弥代が苦手とするところの計算の話であることに変わりはなく、見ているだけにしても気持ちのいいものではない。し、徐々に弥代さんの頭ではそれが理解出来る出来ないの、なんなら今しがた三歳児でも出来るという絹の発言で突き刺さった見えない傷がズキズキと痛む。気の所為であってほしいものだ。
「……いやっ、あの……さ。
え、えっと……も、もぅ良いから? 一旦……、一旦落ち着かねぇか二人とも? ど、どっちも大切なんだろう、それぐらい俺分かるからさ……、分かっから、そろそろ終いにしねぇか? あの……その、さ……人の目もあること…だから、よぉッ!」
「いいえ弥代さんッ! こんなところで引き下がってなんて誰がやるものですか‼︎ 隠していたわけではありませんが私以前よりこの御方とは肌が合わないと感じていたのですよ。それがここに来て確信に変わったというだけの話です‼︎
大体―――、自分の分だけでも払うことが出来ない、それをあたかも仕方がないからと言い訳に縋るように伸う伸うと胡座を掻くかのようなその態度ッ、腹立たしいったらありゃしませんッ‼︎」
「いや……っ、だから……っ‼︎」
「胡座を掻いたことなど覚えはないのですが、しかし絹さんの目にはその様に私が映ったというのは紛れもない事実なのでしょう。本人が直接そのように感情的になってまで口にする言葉を疑う余地などどこにもございません。ですが元を辿りますとそれは、絹さんの御判断――都合で私共が想定していた道から外れ、東海道を行かねばならぬこととなった、それが原因ではございませんか?
私にもいくらかの落ち度は御座いました、それは認めて然るべきです。しかしあの晩、それに責任を感じられ、それら全てを肩代わりすると、変わりに払うと言い出したのもまた貴女ではありませんでしたか絹さん?
少なくとも嫌々払っている、という風には見えませんでしたね。弥代さんに恩を感じている貴女が、弥代さんの為になるのならと寧ろ自ら進んで払っているように御見受けしました。
立替をしてくださる方に対し、強く出れるわけがありませんでしょう。私はあくまでも貴女が気持ちよく勘定を済ませられるように、と礼の言葉も毎度毎度言われては気持ちのいいものではない、逆に負担に感じてしまわれる事さえありうると控えていたのですが―――、そうですか……それらが胡座を掻いているように見えたと思われていたのでしたらそれに対し謝罪せねばなりませんね。誠に申し訳ございませんでした。」
「俺でも分かる火に油ーーーーーーーッ‼︎」
喚きたくもなる、立ち上がりたくもなるというもの。間に割って入って、それで止められる自信なんて弥代にあるわけがないのだが、それでも自分がどうにかしなくてはいつまでも終わらない。
いっそこのまま見なかったフリをしてこの場を離れたって許されるんじゃないか、と思えてならないのだが、今ここで二人から距離を取るわけにはいかない。
何故なら弥代たちはこれから此処――東海道五十三次の中でも随一とされる宿場町・宮宿の船着場において船がやって来るのを待っているからだ。
鬼ノ目 六節
中篇・菊花開、霽月の徒路 一話
島国の東と西の行き来が盛んな時代であっても日に船が渡る数は限られており、というのは相良の言葉で。今の時代はある程度の荷が揃わないと早々簡単に船が出されることはない、機会を逃せば船を待つよりも陸路での移動を強いられもするそうだ。
ただどうしても、ここで船に乗れないとなったとしても宮宿から岩塚宿、万場宿、神守宿――と、尾張国を佐屋街道を介し横断した後、佐屋宿において船に頼り七里までとはいかぬが、三里の渡しで水路を下り、東海道・桑名宿――伊勢国まで渡らねばならない。
「ただですね、やはり貨物の行き来を目的に造られた船であるもので、それ以外――人や馬であったりの運搬――輸送費であったりというものは安く設けられているものなのです。荷で十分過ぎるほどの稼ぎは見込めるが故の相場なのでしょうね。」
「陸路の七里と海路の七里は距離は同じであってもまったく異なるものです。日によってそれは大きく変化するものではありますが、船そのものの大きさもそれなりにあります故、早々簡単に転覆してしまったり、という心配はなく。海路――と言いましてもそれほど陸地より離れているわけでない、ハッキリと見える日の方が少ないでしょうが見ようと粘れば見るこが叶う程度の、それほどの距離をものの二、三刻で行き来が出来てしまうのは足の速い品を扱うことの多い商人からすれば有難いことこの上ないでしょう。
……まぁ、それとは別に、この旅で弥代さんも身をもって知れたかと思いますが、東に海の道、と字で記す通り、海に通ずる箇所が多い、東の海に沿うかのように道が続きます、此度のように船に乗り海路を介すことまでが含まれるのがこの東海道という道の特徴なのです。」
「………ぁ、うん?」
途中までは分かった。でも字の下りに入った途端にまるで話が分からなくなった。更に耳のみで聴き入れるだけで済まない、目の前で宙に向かって指先を筆に見立てて見えない字を書く相良に、聴くか見るかどっちに集中すればいいのか分からなくなった時点で弥代は置いてけぼりを喰らってしまった。だって本当にどっちを気にすればいいのか分からなかったのだ。その前に絹の短い説明もあったものだから慌ただしく意識を向けなくちゃいけないのが難しかったのも言ってしまえばそうだが、多分それぐらいは出来るようにならないといけないのだろう、弥代はそう思う。
「……気負い、される必要はどこにもありませんよ弥代さん。」
「いや……だって、」
やはり表情に出やすいのだろう。堪えようとしも難しい。そしてその表情を見て弥代が何を考えているのかを手に取るように理解し、相良は言葉を投げ掛けて来る。隠し事が通じない、全てを見透かされているような気分を弥代が味わうのはこの男を相手にしている時ぐらい。
その頻度がこれまでに比べて格段に増えたのは言うまでもなく。ただ、それは弥代自自身が自分の意志で望み、相良を頼った結果であり、これまで向き合わずに来た細々とした問題に向き合う、その術を誰よりも知っていきたいと、知らぬままただ後悔をしたくないと声を張り上げたのも弥代だ。
掛川宿での一晩を経て、弥代がそれまで苦手としていた相良を頼り始めてから既に三日が経過していた。
早朝の霧で見通しが悪くなり進めぬということも、海が近い港町であるために一寸先さえも手探りで凌がねばならない濃霧ということもない、それでも頬を撫でる空気はひんやりと冷たく心地がいい。
朝日が昇るまでまだまだ時間は掛かりそうな時刻に宮宿の手前まで丸一晩掛けて小休止を挟みつつも弥代達が移辿り着けたのは、鳴海宿で明日の朝、宮宿から桑名宿行きの船が出るという情報を耳にしたからだ。
先ほど絹の口から語られたように、どうやら今の時代というものは船の数がそれほど多くはないようだ。
相良の説明の中にもあったように、陸路で掛かる日数分の宿代や飯代など、その荷を運ぶ人数でも大きくそれらは変わってくる、道中に体調を崩してしまったり、怪我をしてしまうなどの不慮の事故が起きれば更にそれらが嵩む――上乗せされるというのは、弥代の頭でも理解出来る話だ。
それらが一度の船渡しに運良く乗れるとなれば掛かる費用が一気に浮くというのも、船であれば金さえ払っておけば荷を多く運ぶことも出来るというのは手間を大幅に省くことが出来て良いことづくめなのだろう。
一度に聞かされてたもので整理するのに時間は掛かりはしたが落ち着いてまとめることでやっと納得が行く。長ったらしい話に追いつけなかったのもそうだが、やはりこの手の話は理解が及ぶとつまらないと感じることはない。
何よりも希少な船旅というものを体験することが出来たのが弥代はかなり嬉しかった。
『船に乗る値は変動が珍しくはないのです。』
それは鳴海宿で旅籠を利用せずに出立することを決めた際、絹が言っていた言葉で、弥代がその言葉を理解したのはいざ宮宿の船着場に船がついてからだった。
「値次第では船に乗るのは見送ることもありますので視野に入れておいてください。」
そう言った表情はとても渋いものであった。
さっきまで、「船に乗れる機会は少ないから私もこの機に乗るのが楽しみです!」なんて言っていた様子が一目見て分かるぐらいの変わりようを見せるので、どうかしたのか?と弥代が声を掛けたのは言うまでもない。
直前の船がつくまでの間に相良と聞くに堪えないやりとりをしていたものだから、それで臍でも曲げてしまったのか?と失礼なことを一度は考えてしまったが、どうやらそうではなかったようだ。
『なんでしたら旅籠を利用するのも控えた方がよろしいかと思われます。』
『え、そうなの? ……なんで?』
『そ……、それは……ッ、』
「―――まさか、使いすぎで底をついてしまいそうなどと、商人ともあろう御方がお恥ずかしい限りですね、絹さん?」
「うぐぐ……ッ‼︎」
「それ以上はもう止めたげようよ相良さん?」
宮宿の船着場につくと、まだ日も昇りきっていない薄暗いというのに弥代達と同じように宮宿より今日出る予定の船を早くから聞きつけてか、船がやって来るのを待っているであろう影がちらひら。弥代達がついた後もぞろぞろと同じようにやってくる者は中々後を断たず、列から抜けようものなら後ろがどこまで続くかも分からない長蛇の列を再度並び直し、最悪の場合定員というので待ったのに乗れなくなってしまう可能性すらあるというので順番が来るまで待っていようと決めた後になって振られた会話――中に乗り込むまでの時間を有効活用するために振られていたと思う。
それがいつの間にやら、まさかまさか絹の持ち合わせ――懐が心もたなくなっているのがその場で発覚しようとは誰も思っていなかったはずだ。
「いえ、私は遅かれ早かれもう間もなくそういった頃合いになるだろうと予想はついていましたのでまったくもってこれぽっちも驚くなどということはございませんでしたが、当人がそれに気付くのがあまりにも遅いことには驚きを隠しきれませんでした。
仮にも商人の端くれで、あられる絹さんが、まさか御自身の懐事情を把握しきれずに頭を抱えることになるなど、掛ける言葉も浮かびませんね。」
(めっちゃ喋ってんのに浮かびませんってどの口が言ってんだろう)
船に乗ったばかりの時は二人してまたしても弥代に色々と聞かせてくれた、教えてくれたというのに時間が経つにつれて絹の様子が悪くなってきた。
それは由比宿近郊を絹の荷馬車で移動していた際に、弥代はどうしてそんな事になったのかまでは分かっていないが、揺れだかに堪えられずに吐いてしまった時の相良の様子に近いというのに、吐くにまで至れきれずに血の気の失せた顔色で絹はぐったりとしている。見るからに辛そうだ。
弥代が背中を何度か摩ってやれば、それで幾らかマシに思えると言葉が返ってくるもので、とりあえずは手が空いている内は付きっきりで面倒を見てやるつもりではいるが、絹がそんな様子になっているというのにも関わらず相良はまだ先ほどのやりとりを引き摺ってでもいるのだろう、棘のある言葉が未だに垣間見える。
なにも二人の間に何かそういった目に見える軋轢があるという風には見えないが、弥代が何かしら噛んでいる会話となると度々(気付いたのは本当にここ二日、掛川宿を出た翌々日からなので日はまだ浅いが)見掛ける。性格の問題なのだろうか、相性があまりよろしくないのは誰がどう見ても一目瞭然だ。
しかし、
「水をいただいて参りましたが飲めそうですか?」
無理はせず、なんて一言が更に添えられつつ、膝を折って絹の目線よりも低い位置から、所々が濡れている竹筒――水筒を相良は差し出した。暫く静かだと思っていたが、まさかどこからか水を持って来るとは思ってもみなかった。
「小間物屋の商人らしき方が居られましたので声を掛けてみました。やはりあの手の方々は売れる――値がつくものであれば払うものを払えばこういった場であっても恵んでくれるものです。
多少値が張るのは仕方のないことですが、それで絹さんの調子が良くなるのでしたら安い買い物と致しましょう。」
「……こまもの、や?」
「ちょっ、頂戴いたします……、」
曰く、自身の腕で揺れの予測であったりが経験則上ある程度把握が出来る、いうて舗装がされた街道を進むだけの荷馬車での移動と船の揺れはまるで訳が違ってくる。
長旅で徒歩が多い手練れの商人であっても、それだけはと船を避けて陸路を進む者も一定数は存在するのだと相良は続けた。
「私はそういった意志の疎通というものが出来るわけではありませんので、絹さんの仰います左吉殿や右吉殿の件もございます、そういった面を踏まえての調整であったりというのは得意なのでしょうが、ただ身を委ねることしか許されない波任せなところも多少なりともある海路での移動というものは、あまり適さなかったようですね。
今後のためにも知れて良かったではございませんか、まだ絹さんは商人として歴が浅いのですから。」
「言ったそばからッ⁉︎」
「おや、何か仰られていましたか弥代さん?」
「え……ぁ、いや、」
性格が悪い。相良は弥代の考えていることが手に取るように分かっているというのに、こういった時になると知らぬ顔をして弥代が直接口にすることをどこか強要してくる。
言わねば分からぬ、言えば伝わるものも言わぬままなら一生伝わることがない。言葉にすることを、それを述べることは大切であると、向けられる眼差しが強く物語ってくる。
だが、
「いや……だ、だからっ、ど……どの口が言って……んのかな、って、」
「どの口、とは?」
「だから……、その、かっ、掛ける言葉も浮かばねぇって、さっき、言って……た、から」
「それはあくまでも御自身の懐具合を把握していなかった絹さんに対し、の掛ける言葉であり、船酔いに関しては今後の商人人生でどうぞ役立ててほしいという思いから言葉を絞ったに過ぎませんのでまた別の話ですね。」
「そ……そうなの?」
「はい、そうです。」
普段はいなんて滅多に言わない、ええという返しの多い男の、はいなどと分かりやすく断言をするのだからまったく信用出来るわけがない。しかしここで少しでもそれに触れようものならネチネチと余計なことまで引っ掻き回して言われかねないのをこの三日足らずで既に何度も身を持って経験してるものだから、これ以上その話題に触れるのを弥代は止めた。
「絹さんに限らず、弥代さんも気分が少しでも優れないと感じられましたら気負いすることなく仰ってくださいませ。悪くなってからずるずると引き摺る方が何倍も手間ですので。」
「……おぅ。」
水滴が伝う水筒を受け取り、それで喉を鳴らすだけに留めず、額であったりの広い面に側面を直接宛てがい、気を少しでも紛らわせようとする絹を尻目に、そんな気遣いの言葉を投げてくる相良と目が合う。
弥代にとっての天地がいくらひっくり返ろうとも一生読むことが出来ぬと思えてならない男だ。相手は弥代のことをよく分かっている、それはどこまでも一方通行でしかなく、弥代は相良のことを何も知らない。
これまでの、里を出る以前も引っくるめて弥代が相良に取ってきた態度というものは、やはりあまり学のない弥代であっても傍から見たときに酷いものに違いはなかったはずだ。だというのにその態度を直接強く直せであったり、失礼だからと叱ってくるようななかったと記憶している。弥代が感情的に叫んで初めて、それに歩みをわざと合わせるかのように声を張り上げられたことがある程度だ。
だから、本心から出てきている言葉だけにはどうにも思えない。どうしても、その裏というものがあるのだろうと思えてならない。あんなことを、あれだけ言葉を尽くしてくれどうしようもなかった自分の手を取ってくれた相手に対し、時間を置いてそのようなことを考えてしまうのはそれこそ失礼に値するだろうが、それらがあったからこそ改めて、ほんのちょっとでも心のどこかに余白が生まれると弥代はそんなことを考えてしまう。
信じたくない、わけではないのだ。寧ろ、信じたい。
信じたいと思うからこそ、少しでも知りたいと思う。だから、だから彼が提示してくる些細な問いであっても、投げ掛けてくる他愛もない会話であっても、それを拾おうと、知れればと意識を傾けるのだが、先は見えないぐらい遠い。
(―――でも、)
船に乗って少し落ち着いてからやっと、相良が投げ掛けてきた問題の答えを弥代は出すことが出来た。同時に、仮ではあるが目的地として据えていた京まで、滞りなく進めたとして早ければあと三日もあれば辿り着いてしまうことだろう。
旅の初め、箱根宿の関所を通過したあの朝、朝餉の際に相良が提示した十日という日数とぴったり合うぐらいだ。金に余裕がないと、なのに弥代の世話を焼く意味が分からない、とそんな事をあの日の相良は言っていたと思う。(正直、細かいことはそれどころじゃなくてよく覚えていない)
十五日、三日前の晩のことがあり、翌日の夕暮れ時のやりとりであったりがあったのだから、約束の十日を迎えたとして相良が自分を置いて、何事もなかったかのように去っていくというのはどうにも考え難いのだが、そんなはずがないと言い切れるだけの自信が――確証が弥代にはなかった。
『弥代さんの言葉で知りたいのです。』
(言えば、答えてくれるのかな?)
言葉を、求められている。弥代自身がどうしたいのか、それを知りたいと相良は述べていた。
それを紐付けるのは多少無理があるだろうが、それでも言葉にせずに内に秘めたものさえ、指摘を受ければ隠したままにしておくのは難しいのだ。
それならいっそのこと、言われる前に自分から訊ねてしまった方が楽なのではないか、と弥代は考え至った。
絹に寄り添う形で腰を落ち着かせている今、絹ではなく自分に向けられた眼差しの、弥代がいま何よりも知りたいと強く思っている相良を意図して目を合わせる。
「相良さん、俺――」
「おや、そうでした弥代さん。私、先ほどの商人から貴女に丁度良い品を一緒に買って参りまして。」
「―――ぇ、」
言葉を、遮られた。
いま正に決めたばかりの薄い答えではあったかもしれないが、それなりに思い悩んでいたことだ。知りたい、と弥代の頭で思いつく最悪の可能性を払拭するためにも、もっと彼の言葉に集中して意識を傾けることが出来るように、とその為にも知っておきたかったことだというのに、それが遮られてしまった。
「えっと……、その?」
それだけ、と言われれば本当にそれだけなのだが、それでも急に怖気ついてしまう。腹の奥から一気に熱が失せてしまったような、そこだけひんやりと心なしか感じる。言葉が詰まって、相手は視界に収まっているだけなのにそれも急になんだかゆらゆらと揺らいでいるように見える。船の揺れもあるのだろうか、先ほど相良が言っていたように気付かぬ間に実は弥代自身も気分が優れなくなっていただけかもしれない。きっと……、きっとそうだ、と強く自分に言い聞かせる。
「そんなに傷ついたような顔をされては渡したいものも渡せませんね。」
「いや……だ、だってぇ」
再三となるが弥代のことを手に取るように分かっている相良だ。きっと言葉にしないだけで弥代がそんな反応をしたかも、そこに至った要因というのにも大方予測はついているのだろう。なのにそれに関する返答を、弥代が求めている答えをくれない、というのは、つまり――、
「本当に手の焼ける方ですよ、貴女は。」
手を出しなさいと言われて、絹の背中を摩る手はそのままに、膝の上で握りしめていた拳を解いて差し出す。
「両手です。」
「りょ……両手、」
悪ぃ、と一言述べてから摩る手を止め、肩に寄り掛からせてから相良に言われた通り、改まって両手を前に出した。
「何、くれんの?」
「使い方も兼ねてちゃんとご説明しますのでそう急かすのはありません。」
「……分かった。」
言われた通りそれ以上急かすようなことは言わずに大人しく待つ。自分と同じように今回の旅の為にと扇堂家に用意――仕立ててもらった装いは、これまで弥代が目にしてきた相良のどの装いよりも着込んでいるのを再確認する。
それに反して彼は随分と、――とそういえばもう随分と声を聞いていない気がする男の存在を思い出し、その姿を探そうと思った、いつから居たのかは分からないがずっと相良の後ろにくっつく形で彼はいたようだ。
目の前で相良と弥代だけでなく、少し前までは絹までも交えて多少なり話していたというのに、旅の同行者であるというのに会話らしい会話を、言葉を交わした記憶はない。
「すの――」
「やっと引っかかっていたものが取れました取れました。まったく……、やはりこの手の物は一時であっても楽であるからと袂に入れていいわけがありませんね?」
やけにゴソゴソと袂に手を突っ込んで、更にそんな愚痴が出てくるものだから一体どんなものが出てくるのかとそれに意識を集中させていると、相良の手には何やら細い棒が姿を見せた。
「……何、それ?」
「矢立、というものです。持ち運びの出来る筆と墨壺が一体となった物になります。これと紙さえあれば如何なる場所でも……いえ、場所は限られてはきますのである程度の、とはなりますが思いたった時に書き留めておくのに用いることが出来る、便利な代物にございます。」
「便利……な?」
「古くは戦の場において戦況を書き記すのに活躍をしていたそうですが、今の時代は行き来が多い商人や、出先でふと思いたった時に字を残しておきたい物書きなどが使ったりというのが多い印象ですね。子にこれを買い与える親も中にはいたりします。先物取引に感覚としては近いと私は考えております。」
「親が、子に……」
「えぇ、これで今後私が書いた字を、ただ目で見て覚えようとせずとも済みますでしょう。」
「…………え?」
細い棒に見えたそれは筆の柄の部分だったのだろう。しかし、ただそれだけを受け取るにしてはわざわざ両手を差し出さねばならなかったのに納得がいかない。ただただ向けられる言葉を聞き逃さないようにしていると、続いて、なんて言葉と共に何やら随分と四角く形の整った、内側に大きな窪みがある黒く重たい石を渡される。
「矢立そのもので筆と墨壺は揃っております、十二分ではありますが、本来姿勢を正し字を書く上で硯も欠かせぬものです。また字を書く上で欠かせのは紙もそうですが、紙はやはり貴重なものでございます。その時にこちらの硯をお使いになります。どれも値がある程度張るので贅沢は出来ませんが、筆先に水を含ませて硯のこちらの平たい部分をなぞればそれで、乾いてしまうまでの少しの間でしたら目に留めておくことが出来ますでしょう。
今後は字を教える時は、一度私がここに記します、それを見て形を覚え御自分でも書いてみなさい。最初から完璧に書けるようになる必要はありません。不安を感じることなく自信を持って書けるようになるまで、貴女の気が済むまでお付き合いいたしましょう。」
「…………ぁ、うん。」
それを、それを弥代は自分に都合よく、捉えてしまいそうになる。それが、それは自分の悪い癖である、と頭では分かっているのに、それでもそう捉えざるをえなくなってしまう。
いて、くれるんだ、と。弥代の気が済むまで、ずっと一緒にいてくれるんだ、と。
嬉しくなって、しまった。




