二十五話 始めの一歩
本当はずっと前から、目が覚めた時から弥代は分かっていた。
でも、それを認めてしまうのが、それを受け入れてしまうのだがどうしても、嫌、で。
だから、踏み出すのがすっかり怖くなって、しまった。きっと、それだけだったんだ。
だからそれは言い訳、……だったのかもしれない。そう……だったのかもしれないと、今になって弥代はやっと思えた。
踏み出す勇気が底を尽きてしまったというのも嘘じゃない。ただ、今の今までどうにか頑張り続けてきたものが、当たり前に抱えてきたものの扱い方ひとつ忘れてしまったような、たった一歩進むだけでとても、それらが全部とても重いものに感れた。
息を、するだけで胸が苦しい。まともに言葉を紡ぐことすら思い通りになってくれない。これまで自分がどうやって歩んできたのかも、どうやって保ち続けてきたのかさえ、全部が全部、分からなくなってしまったんだ。
だというのに、そんな状況だというのにまるでお構いなしに弥代を取り囲む状況はどんどんと、弥代の気持ちなんてお構いなしに目紛しく、これぽっちも待ってなんかくれずに変化しく。縋り付くだけで手一杯、だった。
なのに、いくら頑張っても訳も分からぬまま責め立てられるばかり。
なんでもういない彼女一人がそうまでして責め立てらるような事を言われ、この場に居るわけでもない相手の肩ばかりを持つようなことを知った仲である二人に言われなくてはならないのか、それらをすんなりと受け入れるなんて、絶対にしたくなかった。
お前に関わることなんだから耳を傾けろと言われたって、結局なに一つ話を理解することは出来ずに気持ち悪くなるだけで、挙句、弥代が救うことが出来なかった彼女の罪を被され、里から出ていけとまで言われた。
弥代がどれだけ理解出来ず認めたくないと、受け入れられないといくら結果を拒んだとしても、それらは何一つ変わってなんかくれず、その内、全部がどうでもよくなり、起きていることすら億劫に感じるようになった。
それはいつだったかに抱いた、雪解けと共に終えることが出来たら、という願いにどこか近いものがあった。
夢を見ないぐらい深く、深く眠りに落ちるのはとても楽だった。これ以上何を考える必要もない、このままで済むのならそれで構わない、二度と目を覚まさなくてもいい、とすら思えた。
でも、それは叶わなかった。
何をきっかけにそんな事を考えるようになってしまったのか、それを訊かれてしまうと返答に困ってしまうのだが、いつの頃からかその考えに至ることで、それまでと比べものにならないほど心は、否、少なからず軽いものになったのは紛れもない事実だ。
それはどこか、居もしない誰かにやや強引に促されるように、それを果たすためにもお前はいつまでも寝てなんかいられないぞ、まるで強く背中を押されるかのような感覚で弥代の中に突如として芽生えた。
それは、あの女を殺すという事。
燃え盛る炎を直接その身に纏ったかのような、そう錯覚してしまいそうになる程の、鮮烈な髪をした、あの女を。あの晩、届くことのなかった切先を、その身に突き立てて、彼女の――詩良の仇を討ってやらねば、と。
その考えがある時は、ひどく頭は重かったがそれでもこまめに目を覚ますことが出来た。
他のことにそれほど意識を傾ける余裕はなく、けれども一時などと言われはしたものの里を追い出される身になったのだから、もう気に掛ける必要もないと半ば自暴自棄にもなっていたのやもしれない。
諦めて、しまいたかった。
長い間ずっと勘違いをしていたのだから恥ずかしいったらありゃしない。何一つ持ってやいやしなかった。何一つ、弥代は持ってなんかいなかったのだ。
得られたと思っていたものは全部、全部あの女が自分に与えてくれたものでしかなくって。
それならいっそ、未練も何も断ち切って、早く、一人になってしまいたくって。
その筈、だったのに――、
「なんでアンタはそうやって……、そうやって俺を見捨ててくれねぇんだよっ‼︎」
力の限り、弥代は叫んだ。
つい先ほど解かれた指先に、まだじんわりと熱が残っている。それがどうか消えないでくれと、心の奥底では僅かに願っている――自分が望んでいることぐらい嫌というほど、弥代は分かっていて。
でも今は、ありったけの声をもってしてそう叫ぶことしか出来ない。
違う、んだ。分かっている。ここまで来て、こんな状況にまでなって、分からないわけがない。それが分からないほど弥代は馬鹿ではない。彼が、相良志朗という男がこうまでして自分に向き合ってくれる、その【意味】が、分からないはずがないのだ。
「見捨ててほしい方がどうしてその様な顔をするというのですか? 逆にお答えいただきたいものですよ弥代さんッ!」
払われてガラ空きになった胸元に手を掛けられた。そのまま掴まれ引き寄せられるのも束の間のこと、目が合ったと思った直後には弥代は地面へと転がされていた。
いつのかのように、背に体重を乗せられることも、抑えつけられることも決してなく、ただ彼は息だけを乱して弥代を見下ろしてくる。
「わっかんねぇよ……アンタみてぇな、自分のすること全部が正しいみてぇな頭してるヤツなんかに、俺の事ッ、分かられてたまるか――ッ‼︎」
それが堪らなく、弥代は嫌だ。
「分かられてたまるか……、分かられてなんか……やるもんかよ……ッ!」
この男が諦めが悪いなんてのはもう嫌というほど弥代は、身を持って理解している。でもそれは、それは弥代が刀を返してもらう、とあの女を殺すという目的を諦めていい理由には断じてならない。
引き際は目の前にあるというのに、差し伸べられた手をただ取ればそれで済むなんてのは分かっている、頭では分かっているというのに弥代はそれを受け入れることが出来ない。
だって、だってこんな、今になってこんな簡単に、呆気なくそれらを受け入れてなんかしまったら、今までの……今までの事はなんだったんだ、と思わずには居られないのだ。
なかった事になんて出来ない。間違っていると分かった上で、正しさを知る機会に恵まれなかったことを言い訳として、それを正すことなくこんな場所まで弥代は来てしまった。もっと、もっと早く気付くことが出来ていたら、こんな結末にはならなかったんじゃないか、とそう思わずには居られない。だったらいっそ、いっそこのままこれまで通り突き進んでしまうのも、間違っていると分かったまま突き進んでしまうのだって許されていい、選んだっていい選択のはずなんだ。
なのに、それなのに相良はそれを許さない。許してなんかくれない。弥代が望んでいるわけでもない言葉を、全く響くことのない言葉を延々と張り上げ続けて、刀を取り戻そうとする弥代の手を払い退け続ける。
「――――アンタはッ!」
『私を見捨て、ないで……、
私を見て、
私はお母様の代わりなんかじゃない……っ、
私に、失望しないで――ッ‼︎』
正直弥代は、扇堂雪那がどうしてそうまでしてそんな言葉を口にし、泣き崩れたのかが理解出来なかった。
でも理解出来ないなりに言葉を返したつもりだった。
弥代はこれまで彼女の周りにいた、身近な誰かではなかったから、彼女がそこまで言うのならと、その手を取った。自分みたいな、これまでの彼女を知らない者であれば一からどうにか出来るんじゃないか、と思ったからだ。
深く関わることを避けてきた、関わったところで手を離してしまった過去があるから、ずっとその手を引き続けることが出来なかったものだから自分にはそんな資格はない、とだから見捨てられるという感覚が分からなかった。
見てほしい、という感覚も、誰かに重ねられて見られるその辛さも、期待をされていたというのに目を逸らされるという全てが。
でも、それが今なら少しだけ分かった気がした。
『――――ゆい』
自分ではない誰かを重ねられて見られていたんだと分かった時、ひどく寂しかった。堪らなく堪え、きれなかった。俺を、見て……ほしかった。
居ていいと言ってもらえる、場所を得た。ここにどうか居てくださいなんて縋られて、それで良い気になっていた。やれるだけのことをやってやったつもりでいた。良かれと思ってやったことはいっぱいあった。常に気に掛けてやっているつもりで、自分のことを後回しにして彼女の為に動いたことだって何度かあった。
喜ばれたかった。笑って、ほしかった。
否、違う。そんなもんじゃない。そうじゃなくて、ただ弥代は彼女に――扇堂雪那に、
「ぁ」
手を、取ってほしかった。
それは、詩良にだって同じだ。
あの日、あの瞬間、どちらかの手しか取れなかったとしても、欲を言うのならどちらとも一緒にいたかった。してしまった事は、奪ってしまったものは元には戻らないと分かっていても、それでも弥代は、
『弥代、さん』
――――なのにッ!
「う……、ぁ」
視界が、今になって滲む。
顔についた泥を雑に手の甲で拭ってみせて、でもそれぐらいじゃ全然拭いきれないモノがあって。生温かい、熱を持ったモノがボロボロと、いくら擦ろうともこれぽっちも止まってくれそうになんかなくって。
「ぁあ……ぁうあ……あぁ」
その場に、蹲った。
熱はそう簡単には冷めてくれない。
ボロボロになって、訳が、分からなくて。
こんなことで、こんなことで泣いてる暇なんて、そんな余裕は弥代にはないはず、なのに。
(あぁ……、だから、……だから、俺は、)
弥代は、分かっていないがらも分かった気になっていた。彼女の、扇堂雪那のことを少なからず理解した気になっていたのだ。もうずっと、彼女と出会った、彼女と言葉を交わしたあの夜明けの時から、ずっと。
「なん、で――――、」
本当は、分かっていた。
全部、分かっていたはずだ。
でも――けど、それらをただ認めてしまうのを、弥代はもうずっと、ずっと前から怖かった。怖くなって、しまったんだ。
弥代はただ、ただ寂しかった。それが悲しかったんだ。間違っていると分かっていながら正しさを知ろうとしなかったのと同じで、認めてしまうのが嫌だった、とそれだけの話で。
「貴女は何故そうまでして膝ばかり抱えてしまうのでしょうか?」
分からない、自身のことであるはずなのに弥代には何一つ分からない。
だって、だって弥代は何も知らない、から。
でも、とけどをずっといつまでも繰り返して、何も残りっこないなんてことぐらい、それぐらい分かっている。それでも、いつもいつも繰り返してしまうのはきっと――――、
「――――ですから、ご迷惑をお掛けしたと、私はもう十二分すぎるほど頭を下げていると思うのですが、これ以上何を要求するおつもりなのでしょうか絹さんは?」
御者台はややゆったりとした造りをしている。二頭の馬に引かせることを初めから想定された造りであるのは馬が引く荷台の大きさからしても見れば分かるというもの。ここ数日は一人で悠々自適に我が物顔で御者台に腰を落ち着かせていた絹であったが、今日になって相良はその隣に腰を下ろすように言われ、かれこれ半刻ほどはぐちぐちと叱言を漏らしてくる絹のそれに付き合わされている。
よくもまあ、まだ知り合ってそれほど時間も経っていない相手に対し延々と愚痴を零せるものだと、更にはその内容が愚痴を聴かせている当の本人であるというのに面と向かって出来るものだと関心せざるをえない。が、彼女が何度も何度も飽きることなく懲りずに口にする愚痴のどれもは、相良自身日頃から自覚のある自身の欠点として捉えているものであった為に、棚にあげて受け流すことは出来ず、正面から浴びせられているわけでもないのにばつの悪い、歯切れが悪い返ししか上手く返すことが出来ずにいた。
と、いうのも彼女がこうまで機嫌が悪いをの顕にし挙句まだ見知って十日経たない相手に対して言いたいことをズケズケと言うのかというと、原因は相良自身にあった。否、相良と弥代にあった――と、言うべきか。
昨晩のことである、相良が弥代と泥まみれになったのは。
「全く……朝起きて出立が出来ると思ったのにいつまで経ってもお二人は姿を見せませんしで、心配して辺りを探してまわったというのに、まさか全身泥んこまみれになって帰ってくるなんて、どうすればあんな状態で帰ってくるのかを教えてほしいものですね。
挙句弥代さんに至っては寝たままで起きる気配はないですし、相良殿はこんなに問い詰めているというのにまるで口を開く気配はありませんし。
…………あっ、いえ春原殿はどうぞそのままでいてくださいまし。余計なことはせず、どうか大人しくそのまま、で。」
「私のいない間に何か御座いましたか?」
目が合う、それはもう言葉通りしっかりと。
「話し疲れましたのでどうぞ御本人の口よりお聞きください。」
「…………そう、ですか。」
表情でそう雄弁に語るもので、それ以上その話題に相良は触れるのを止めた。そして話し疲れたというのが嘘でなかったろう態度を絹は見せた。御者席から早く退くように手を軽く振った。
「一度停めてはいただけませんか?」
「何方のせいで出立が遅れたかお忘れでしょうか?今日中に浜松宿には着きたいと考えているのです。大旅籠屋でしたら馬屋の用意もある場所が多いですから、今宵は左吉と右吉を屋根があるところで休ませてやりたいのです。」
「………そう、ですか」
昨晩立ち寄った掛川宿が信濃国へ続くだけでなく、秋葉山へ分岐する参詣者も多いことで知られており、表町に限らず裏町、横町と宿場が多い地において馬屋を借りられなかったことを悔いているのか。あるいは家族のように扱っている二頭に大きな宿場町であるにも関わらず野宿を強いてしまったことか。どちらにせよそれらを隠すことなく悔やむ素振りを見せつけらてしまえば端から分かりきってはいたものだが、絹の中の優先順位というものが相良は垣間見えた気がしてならなかった。答え合わせに近いものだ。
荷馬車が停まることはないものだから揺れが収まることはなく。それでもここ数日体感した揺れと比べれば幾分か落ち着いた、荒々しくない揺れは、初日のそれにとても近かった。一昨日に至っては速度を出しすぎて体が追いつかずに我慢出来ずに吐いてしまう程だったというのに、雲泥の差だ。
というのも何故今日に限って絹が落ち着いた速さで馬を操縦するのか、その理由を相良が知らぬはずがなく。後ろ手を安定させてから御者台から荷台へと視線を送る。
「まだ、目を覚まされませんか?」
「……分からない。」
「そうですか。」
昨晩はひどかったものだ。夜半の間に終わると思っていたものが終わったのは、結局空が白み始めた頃であった。交わした言葉は数えきれず、一生分は泣いたのではないかと他人事のように見る自分がいたほどだ。それほどまでに一晩中、弥代は泣き喚き散らかしていた。自分がどれだけ目を逸らしていたか、頑なに認めようとしなかった自身が抱いてきたはずの感情に目を向けて、これ以上の間違った道を選んで、それで後悔をしたくない、と叫んですらいた。
聞くに堪えない、子どもが描く絵空事のようにしか思えなかった。
述べるのは誰にでも出来ることだ。それを望むのであればそれ相応のことを身に付ける必要がある。弥代のこれまでは、それらから逃げ続けた、知り得る機会があったとしても背を逸らし続けた結果だ。
それらの道を、ただ正してやるのは簡単なことだ。相良はその術を少なくとも知っている。しかしそれは、ただ正すだけは弥代の為にはならない。だから、だから相良は弥代が目を覚ましたその時は改めて、弥代とキチンと話そうと決めていたのだが、宿場町に戻るよりも前に眠気に抗えなかったのだろう、倒れるように眠りについた弥代は陽が傾き僅かに傾き始めた頃になってもまだ目を覚まさない。
「変わりましょうか?」
「…………必要ない。」
「そう……、ですか。」
絹の叱言に付き合うためもそうだが、相良が出立から暫くのあいだ御者台に腰を落ち着かせていたのは、荷台の方で弥代を休ませるためだ。
大人が左右に向き合う形で鮨詰め状態になったとして、縦に三人、横に二人が限度の、しかし長旅が出来る荷台としてはそこそこ積載が可能な大きさではあるが、足を伸ばして寝る分には三分の一にまで減って二人が限界だ。
元より人をついでで運ぶのを目的としていない、乗合馬車とは訳が違うのだから仕方のないことではあるが、あれも足を伸ばして寝ることは想定されていなかったはずだ。
ともあれ、朝方から目を覚さないままでいる弥代の体をゆっくりと休ませる為に、恐らくは絹もその為に相良をわざわざ横に呼んだりという事をしたのだろうが、もう十分すぎるぐらい休めたであろうに弥代はまだ目を覚さないという。
「足は痺れませんか?」
「気にはならない。」
「それは痺れはあるけども、という意味に違いありませんね。やはり変わるべきです、無理はよくありません。」
「い……、要らない。」
「春原さん?」
「………ん、」
揺れは変わらず収まらないものの、それでも多少であれば荷台の中で立ち上がり動きにも融通が利く。
手を伸ばしているわけではないが、姿勢を正したまま、真上から見下ろすように弥代の顔を、恐らくは相良が絹と肩を並べていた間もずっと見下ろし続けていたであろう春原にこれ以上は止すように声を掛ける。仮に今までの状況のまま弥代が目を覚ましたとして、寝起き早々に何かしら弥代が喚き、焦り狭い荷台の中で小さくだが暴れ始める姿が不思議と目に浮かぶ。そうなってくると落ち着かせようと絹が荷馬車をわざわざ一度停めるなどして、そうでなくとも遅れている旅路が余計に遅れてしまいかねない。となってくるとまたこの調子では絹の愚痴に付き合わされる矛先は間違いなく相良に向くであろう。これ以上の面倒ごとを被らねばならないのはごめんだ。
そうなる得る可能性が少しでもあるのなら起こり得るまえから摘んでしまえばいい。御者台まではいかずとも前方の隅に身を寄せて大人しくしているように声を掛ければ、若干渋りはしたものの春原は首を縦に振って、言われた通りに動いた。そうして相良は意識のない弥代の体の向きを少し移動させてから弄り、自分の膝を枕に見立てて寝かしつけた。
腕の中に抱えるのは広さ的にも難しいものだが、膝の上に頭を転がしてやるぐらいは出来た。
(本当に……、手の焼ける方ですね、貴女は。)
声に出すことなく、顔色を上から覗く。時々揺れが強くなると、その揺れ一つでうっかり荷台の後ろから外へと放られかねない。そうはならないように、自身の腹に顔を向けるようにしたからこそ、逆光によって表情は見辛くあったが、それでも眉間には、ここ最近見慣れていた皺が一つもないのだけは分かった。険しさと無縁な、きっとあどけない寝顔を浮かべているに違いない。
「まだ、話し終えてなどいませんよ、弥代さん。」
相良は、弥代が目を覚ますのを静かに待った。
話し声が聞こえて、弥代は薄く瞼を持ち上げた。
全く、直前まで自分が何をしていたのかも思い出せなかったが、随分と居心地が悪い場所に頭を預けている、置いているような感覚には違いなく、そのような場所で眠りについた覚えは一切ないものだから、話し声よりも今いる場所がどこであるかの方に意識が逸れた。
けど、視界いっぱいに映り込んできたのは、幅のある恐らくは帯、で。そんなものを最近見た記憶はないものだから何事か、と体を起こそうとしたのだが、ふと頭上から振ってきた声にそのままあっさりと名前を呼ばれたことで上手い機会を逃してしまった。
「遅いお目覚めですね、もう日は暮れ始めていますよ?」
「ぇ……、あっ、うん?」
聞き慣れた穏やかな声に話し掛けられる。状況がやはりあまり飲み込めずに弥代はいたが、しかし次の瞬間に頭の下に見えない側の手を差し込まれ、体を起こすのを補助される。
「あり……がと、」
「いいえ。……お加減は、どうですか?」
「え?」
柔い声色に、目を向ける。と、ほんの少しだけ。ほんの少し、もういない彼女とこの男が本当に一瞬だけ重なって見えてしまった。きっと、気の所為だ。
似ても似つかない、男と女どころの話じゃない、どれを持ち出しても似ている部分なんてありっこない、のに。でも、
「……目、」
「はい?」
「あ……、いや、」
口を突いて出てきてしまったのだろう音に気付き、慌てて口を閉ざす。なんだか、無性に気恥ずかしい。顔を見て、目を見て、やっと少しずつ、少しずつ目を覚ます以前、眠りにつく前に自分が何をしたのかを弥代は思い出しつつあった。なんてことを自分は口走ったのだろう、いくらなんでも度が過ぎている。そう、思わずにはいられない言葉の数々がじわじわと浮かび上がってくる。
狭い荷台の中ではあるが、この中でも一番小柄である弥代はいくらか自由に移動をすることも出来る。寝入るのに足を伸ばしたりと幅が必要であったから、それを作る余裕もなかったものだからきっと頭を置かせてくれていたんだ、きっとそうだと。でも目が覚めたのだからもう用はないだろうと、そんな風に思い、逃げるように弥代は相良に背を向けようとしたのだが、しかし相良がそれを許すことはなかった。
「弥代、さん。」
呼び止められる。
距離を、ただ取ることすら許しはしないとでも言いたげに、羽織の裾を押さえつけられる。
「隣に、」
弥代は、相良の横に腰を下ろした。
荷馬車の揺れは、弥代が考えていたものよりもずっと穏やかなものだった。
今日で五日……、いや六日目になるのだろうか?十日までは行かないがそれなりに長く絹が操縦する荷馬車には世話になっているというのに、こんなにも落ち着いたものであったなんて、弥代はまったく知らなかった。
「夜風は心地のいいものです。まだ日中は陽射しが強く、暦の上では秋であるというのが信じれないほど照りつけるものですから、早く日が暮れることをついつい焦がれてしまいます。」
「何の話だよ、よく分かんねぇよそれ?」
すっかり暗くなった東の空はそれ以上何もなく、なんの面白味もないので、視線を落とすと丁度、顎を逸らし高く空に目を向ける相良を弥代を見た。
すると、彼の目線よりも高い、その先にまだ暗く染まりきっていない空が微かに見えて。多分、今ここで振り向けば荷馬車が目指す方角には、山か何かの間に挟まったかのようにゆっくりと沈んでいくお日様でも見えるのだろう、と弥代は考えるのだが、目を、呉れてやる余裕が今はなかった。赤は、弥代があまり得意とする色ではない。嫌なものを好き好んで思い出したくなど、
「そういえばですね、弥代さん、」
彼の言葉に、考えが遮られる。いつの間に俯きかけていたのかも分からない、視線を呼び掛けられたことで再度持ち上げる。左隣の、彼を見る。
「私、まだ貴女に訊いていないことがあったのを思い出したのですよ。」
「……何、それ?昨日散々、朝になるまで嫌になるぐらいアンタと話したと思うんだけど俺。まだ、それでもまだ話し足りないとか、訊き足りないとかいうの? 冗談は止してくれよ相良さん。」
「いいえ、冗談などではございませんよ。
私はただ、知りたいのです。」
「知り……たい?」
「えぇ、貴女がどうしたのかを、私は訊いているのです。教えてください弥代さん。誰でもない、貴女だけの言葉で。」
「……何、言って」
いつの間にか膝の上で握りしめていた拳に、力が籠った。
「何だよ……それ? 言ったじゃん今も。もう十分話しただろ、って俺。それを……それなのに、俺がどうしたいなんかなんてアンタの方が俺なんかよりもずっと、ずっと分かってんじゃねぇのかよ? なんで……だって、」
目を、逸らしたいのに、逸らすことが叶わない。逸らすまでもなく目を瞑ればそれで、それで見ずに済むということだって、それぐらい弥代は分かっているのに、それさえも、出来ない。
「えぇ……それでも、です。」
相良は続ける。
「私は、」
相良は、
「弥代さんの言葉で知りたいのです。」
相良は真っ直ぐ、弥代を見てそう言い放った。
「昨夜は、少々熱が入り過ぎてしまいました。ああいった時の言葉とは、冷静さを欠いたものも、思ってもないことをつい口走ってしまう、ということも少なくはないものです。ですからこうして、キチンと貴女の言葉を私に訊かせて、ください。貴女自身がどうしたいのか、を。貴女はこれからどう在りたいのか、を。」
「俺……は、」
その目を、弥代は見る。
分厚い硝子板越しであるというのに、歪むことなく真っ直ぐ向けられるその眼差しの、ずっと奥に自分の姿を見る。
弥代はどうしたい、のか。弥代はどう在りたい、のか。そんなの、そんなの一々言葉にする必要がどこにあるのかが分からない。本当にこれでいいのか、という考えがどうしてもある、拭い、きれない。不安で仕方がない。
「本当にそれでいいなんて、微塵も思っていないでしょうに。」
揺れ、る。激しく、揺すぶられた気持ちになる。
そうだ、このままで――このままそれでいいなんて弥代は思っていない。だって、だって彼が、この人が教えてくれる、とそう言ってくれたから、
「俺……はっ、」
弥代は、
「変わり……、たいよッ!」
弥代は堪えきれず、その場に立ち上がった。
「このままで、それでいいなんて思っちゃいねぇ……思っちゃいねぇよッ!
でも……、けど――――ッ‼︎
もう嫌だっ!知ってればどうにかなったかもしれねぇことを、もっと良かった終わりがあったかもしれねぇなんて、後になって後悔すんのはもう嫌なんだ‼︎」
『ねぇ、弥代さん。後悔というものはなるべくしたくないものですね全く。』
それは、あの日からずっと返せずにいた、弥代なりの答えでもあった。
駿河で相良と言葉を交わしたあの日、弥代は結局まともな言葉も返せぬまま、ただ相良によって半ば強引に背中を押されたことで、それでどうにか駆け出すことが出来ただけ、だった。
そうだ、きっとそれがずっとつかかっていた、のだ。あの時の返しもまともに出来ぬまま、なのに相良はずっとずっと弥代に辛抱強く語りかけ続けてきた。たった一つの返事すらまともに返せていない、答えを見つけられずにいる自分なんかに何を期待するのか、と諦めてほしいとすら、見離してくれたって構わないとすら心のどこかで、そう思わずにはいられなかった。でもやっと、やっとここに来て、弥代は返すことが出来た。駆け出せたつもりになっていて、たったの一歩さえも前になんて踏み出せていなかったその一歩を踏み出すことが叶ったのだ。
多分間違いなく弥代はこれまで多くを間違え続けてきた。正しいと思える、正しかったはずの選択を選べていたのなら失わずに済んだものは多かっただろう。
失わずに済んだものだけじゃない、一々奪わねばならなかったものも事実多い。
でも、けど――――、それでもそれらがあったからこそ今の弥代が在る。今の弥代が弥代で在る上で、どれか一つでも欠けていればそれは当然のことながら弥代ではない、別のナニかだ。それを、これまでの自分の間違った行いを正当化したいわけでも、なかったことにしたいわけでもない。開き直りなどでは決してなく、それらを含めて背負い、二度と後悔をしたくない、と弥代はそう望む。そう、在りたいと強く願う。
「――――だか、ら」
弥代は、相良を見た。
「教えてよ、相良さん。俺が知らないで、アンタが知っていること……いっぱい、」
「俺のこと、アンタが思う正しい方向に導いてよ!」
「俺のこと、見捨てたりなんかしないで引っ張ってよ!」
「俺のこと、俺が帰る場所作れるその時までずっとっ、ずっと傍にいてくれよ‼︎」
言葉を尽くす。今の弥代には相良が必要だと、相良に見捨てられようものなら他に宛もなく、救いようがないのだと。頼るを通り越していっそ縋るといった表現が合っているように思えてくる、そんな勢いで、伝わないということが決してないように、弥代は言葉を重ねた。
「見ててよ、アンタが変に期待してた俺が、どうなっていくのかをちゃんと、アンタのその目で、最後まで!」
それは、八月のこと。
明月の名残りを僅かに残す、少しばかり欠けた月が東の空にくっきりと姿を現すにはまだ時間が掛かりそう、そんな頃合いのこと。
深き霧が一段と立ち込める時節で、日中の陽射しはまだ厳しくも、朝夕に吹き抜ける風を心地がよいと感じることが叶う、秋が始まって間もない八月十六日の夕暮れ刻。
あの日、置き去りにしてしまった気持ちを、踏み出し方を忘れてしまった一歩を、弥代がやっと踏み出せた、そんな日。
しかしそれは本当にあの日からだったのだろうか、と少なくとも相良はそう思う。それは弥代が口にした、後悔という言葉に駿河での一件を思い出したからかもしれない。あるいはここ数日の間に弥代と交わした会話の中で、もうずっと、なのではないかと思わずにはいられない節々を知ったからやもしれない。
だがどちらにしても、その要因がどれであったとしても、相良は今の弥代を見た。
(無知とは、こうも恐ろしいものなのです、ね。)
だから、ありがとう――等となんのつもりで言ったのかも分からないような、まるで脈略のない感謝を伝える言葉に、頭を抱えたくなるのをグッと堪える。
だって相良は、自分以上に薄情な人間を他に知らない。
だからこれら全ての、これまでの行為は、最終的に自分の望む結果に至れるように、仕方なく取った手段としか捉えることが、この時になってもそれしか出来ない。
ありがとう、などと言われる筋合いなんてどこにもない。どこにも、なに一つありはしないのだから。
鬼ノ目 六節
前篇・蒙霧升降、風知草
これにて、閉幕。




