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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
前篇・蒙霧升降、風知草(全25話)
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二十四話 明月の発露







 日の()りの()()つを(しら)せる鐘が鳴ると、次に鐘の()が響くのは()()つの(こく)となっており、榊扇(さかきおうぎ)の里では夜間に鐘が鳴り(ひび)くことはない。

 暗くなると(あか)りを(とも)す必要が出てくる。ただで(とも)せるわけもないのだからそれ相応の理由がないのなら()ける意味など何処にもない。








 日中仕事を(こな)してたんと掻いた汗を、湯に浸かって流しながらその日あった事を思い出し体を伸ばす。折角温まった体が湯冷めしてしまっては勿体無いから早々に帰路につく。

 体を動かした分だけしっかりと腹を満たし()えたら、水を張った木桶の中に食べ終えたばかりの茶碗を転がして、予備があるわけでもないから朝使うのに忘れぬようになんて自分に言い聞かせる。

 それから部屋の隅に追いやっていた適当に畳んだ布団を、器用に足指を駆使して摘んだり引っ張ったり広げたりを、して。自分の他に誰が住んでいるわけでもないのに、おやすみ、なんて言葉を口にしてから(とこ)()く。

 屋敷を出て里で一人暮らしを始める際に寄越された家財道具の中には、使い慣れることはないだろうから()らないと、わざわざ直に言って断ったにも関わらず持たされた箱枕(はこまくら)がある。一人の生活が慣れつつあるものの宣言通り弥代が箱枕(それ)を使うことはなく。長年の野宿生活が身に染み付いているものだから楽な腕まくらをする。

 寝るなんてのは毎日やっていることなのだから始めから同じ体勢で横になればいいだろうに、もぞもぞと布団の中で体を(ねじ)り眠気が(おとず)れるのをゆっくりと()つ。

 と、少ししてからどたばたどたばたと、夜遅いというのにお構いなしといった様子の(せわ)しない足音と、子どもの甲高い声が隣の部屋から聞こえてきて、直接見たことがあるわけでもないのにその光景と、五つ子に手を焼く凄まじい形相(ぎょうそう)をした夫婦が目に浮かんで、寝ようと思っていた気が一瞬で()れてしまう。

 その(うち)、夜泣きが煩いだなんだと眠りを邪魔されたことに腹を立てた寅三郎(とらさぶろう)が嫁に(たしな)められながらも殴り込みにでも行くのではないだろうか。隣の部屋の長谷一家が原因で夜がそこそこ賑やかなことでここいらでは有名な長屋なだけあり、そうなるのも時間の問題だ。そうなってくると通り側に面した広い部屋で暮らしている大家が何時だと思ってんだ、怒声を上げにやって来るのまでお約束だ。

 疲れすぎて早く寝たくて仕方がない日はゴメンだと思うのに、今日は寝付くのに時間が掛かりそうだとなった晩にそんな事があると、いつもは迷惑だと感じるはずの騒ぎがなんだか弥代は楽しくなってきてしまって、笑いを(こぼ)す。

 そして、明日も変わらないをきっと送るのだろう、と何の確証があるわけでもないのに思えてしまって。こんな日々がいつまでも、いつまでもずっと続けばいいのにな、とそう願わずには()られなかった。






「子どもが責任を語るんじゃありません。」

 それは、それまでと全く違う。

 やたらと声を張り上げている時とも、一定の穏やかな喋りをする時のともまるで違う。駿河で一対一で会話をした時にも聞いた覚えのない、でもたった一度耳にすればそれで、これは怒っているのだという事がよく分かる、そんな声色(こわいろ)をしていたものだから、おそるおそる弥代は顔を持ち上げた。

 弥代とは違う、間違ってばかりの弥代とは違って正しいことばかりの男に、相良志朗に怒られるのは気分のいいものではない。ましてやこれが、この会話がおそらくは彼との最後になると思っている弥代にとって、最後の会話がこんなで()えるなどというのは嫌だった。今から挽回のしようが何処にあるというのだろう。ありっこないの弥代自身が一番分かっているというのに、それでも弥代は顔を持ち上げずにはいられなかった。

 しかし、いざ弥代が彼を……、相良志朗をその視界に納めてみると、彼は弥代の予想に(はん)しとても穏やかな表情を浮かべていた。

 そして、その口から紡がれる声はどれも、どれも弥代がよく知る普段の彼のものであり。

 だから、だから弥代はその言葉を深く、今まで以上に深く聴き入った。耳を――、傾けた。

「何も……ありゃしない……よ、」

「少なくとも、私はそうは見えませんでした。」

「なに……なんの、何を……言って」

「ゆっくりで構いませんので思い出してみて下さい。

 屋敷を()つあの晩、貴女に声を掛けてきた青年()の、ことを。」

「…………ぁ、」






 鬼ノ目 六節

  前篇・蒙霧升降(ふかききりまとう)風知草(かぜちぐさ) 二十四話






 ()()つを(しら)せる鐘が鳴り響いてから数刻。夜間(やかん)は時報が鳴らされることのない榊扇の里は一斉に静まりかえる。

 半刻もすると日中に往来を練り歩いている影が一つも見当たらなくなるのはよくある事で、出歩く者なんて里の北側――扇堂家の屋敷の周辺なんて特に、だ。

 更に此度の、七月二十日に起きた騒動より既に半月近く時間が経っている中、(いま)だに屋敷周辺の規制は解除されておらず、ここら一帯は正しく人っこ一人いない、(もぬけ)の殻といった状態だ。

 賑わっている大通りの様子しか知らない為か、階上(かいじょう)からそれを見下ろす弥代の目にはそれがとても不気味に映り、そっぽを向くにしても他にしようと(かぶり)を振るって、背を向けるのに振り返った。

 屋敷の門を潜り、少し先に見える御堂までには石畳が続いており、その脇には同じように石造りの灯籠が立っているが、夜であるというのに灯りが(とも)されることはない。広い屋敷の敷地内も、ぐるりと見渡す限りは灯りらしい灯りは一つも(とも)されておらず、夜目(よめ)に頼らざるをえない。

 ただそれでも、弥代が立つ位置よりも御堂に近い、左手に数人固まっている場所だけは小さな光源があった。それも蝋燭が一本だけ、という状況だ。

 これから屋敷を出て討伐屋までの移動の段取りやら、その後の明日だけではなく今後の流れであったりの確認でもしているのだろう。自分が寄ったところで話を理解出来るとは思えない。何よりも今はそれほど他人と関わりたいという気持ちは湧かない。だからこそわざわざ距離を取り、他にすることがないものだからと大して面白みがあるわけでもない真っ暗闇が広がるだけの階下を見下ろしていたのだ。

 あとどれぐらいで話し終えるのかも分からない、目処が立たないといった今、立ちっぱなしも楽ではないのでいっそどこかに身を寄せて腰を落ち着かせようという考えも浮かんだが、仕立てられたばかりの着慣れていない服を初日から汚してしまうのもどうかと思い至りそれは止めた。

 だからといって、やはりする事がない、手持ち無沙汰であるのに何も変わりはなく。状況はそのまま、これは座らずとも何かしらに寄りかかりでもして終わるのを待つことにしようと、その為に一歩を弥代が踏み出した時、だった。

「弥代ちゃん」

 聞き、間違えるはずがない。

 聞き慣れた男の声に、弥代の意識はそちらへと向けられた。



 弥代ちゃん、などと自分のことをちゃん付けで呼ぶのは、この榊扇の里において――弥代が知る限り二人しか存在しない。

 一人は弥代をそう始めに呼び出した女の方で、もう一人は女の、扇堂雪那の口にする呼び方を真似してきた、藤原和馬である。

 藤原和馬は以前から扇堂雪那が時折口にしていた、二人いたという幼馴染の内の一人であり、昨年の秋から訳あって扇堂家にその身を置いている、本来は扇堂家と因縁がある家――藤原家の()だそうだ。

 弥代はあまりそういった家同士の関係、というのに首を突っ込むことはなかったが、過去に扇堂雪那(彼女)が東の離れに十年近く引きこもるに至った事故の、それ以降中々会うことが出来なかった相手である彼女に対し、長年打ち明けることが出来なかった思いを逃げることなく伝えることが出来る、誠実で心の強い持ち主であると彼のことを評価していた。

 そんな彼は今は彼女の付き人としての役目を貰い、彼女を(かい)す形とはなるが弥代も頻繁に顔を合わせる機会を得ており、全く知らぬ赤の他人、という仲ではないのだがそれでも。……それでもやはり、彼女がいない二人きりの時に、彼女が自分を呼ぶのと同じように、弥代ちゃん、と呼ばれるのは多少なりやはり抵抗があった。

 というのも、出会ったばかりの頃の扇堂雪那は弥代のことを【男】として見ていたらしく。((いや)、そう見られた方が楽だという理由でそのように振る舞っていたものだからそれは正しいのだが)途中から女であると正体を明かしたあたりから弥代さんという他人行儀な呼び方から親密な……、それこそ親しい間柄(あいだがら)に聞こえるようなちゃん呼びへと変わったのだ。

 彼女の呼び方にはそうした経緯が存在するから良いのだが彼は、藤原和馬はそうではない。

『弥代、ちゃん……やっけ? 初めましてぇの?』

 顔を合わせて直ぐ、馴れ馴れしくにも程があるといった具合で弥代のことをそう呼んだ、のだ。

 当時の彼は確か、他になんという(ふう)に呼べばいいのか分からない、雪那ちゃんがそう呼ぶんだから同じように呼んだ方が混ざらなくて分かりやすくいいだろう、とそのような事を言っていたが、以降も彼は同じように弥代ちゃん、と弥代の事を呼び続けた。

 混ざらなくて分かりやすいなんて言っておきながら、彼女がいない場で他の者達がいくら弥代のことを弥代さん、と呼ぼうともお構いなしに、だ。

「なんか用かよ?」

「えぇ、随分と素っ気なくない?

 傷つくわぁ。ワイ……、見送りに来てやったのに。」

 見送りなんてされる仲ではない。

 弥代はそう返してやりたかった。でも、それは出来なかった。あの晩から一度も顔を見ていない彼女の存在が脳裏にチラついてしまったからだ。

 誰も一言も、彼女も一緒だ、なんて言っていやしないというのにそれでも、それでももしかしたら彼女が近くにいるんじゃないか、と探してしまう。

 会いたい、顔が見たいわけじゃない。じゃぁ何かと、聞かれればきっと、きっと一目あの顔を見たら多分それだけで弥代は怖気(おじけ)ついて逃げ出したくなってしまう。だから、だからこれはいないよな?というあくまで確認であって。彼の言葉に即座に返すことなく辺りを軽く見渡して、彼よりも上背のない彼女がその背中に隠れているというわけでもない事を確認してからやっと、やっと弥代は安堵出来た。

「なんかあったん知っとるのに連れてきたりせぇへんよ?」

 それにもうすっかり夜は遅んやから寝とるよ、と言葉が続いた。

「…………そっか。」

「うん。でも、ワイはちゃんと見送りたかったからこうしてちゃんと起きとったんよ。」

 褒めろ、とまでは言いはしないが、こんな時だというのに少々胸を張って自慢げに鼻まで鳴らしてみせるのはとても可笑しく映る。もしや自分のことを元気づけようとでもしているのだろうか、とそんなことを考えるのだが、しかし同時に彼が弥代に優しく()ったことなんて、それなりに顔を合わせる関わり合いのある仲であるがこれまで一度もなかった、と断言が出来てしまうので、そんなわけがないと弥代は自分に言い聞かせた。

 彼が優しく接する、気遣いをするのは自分ではなく扇堂雪那に対してのみだ。彼は彼女のことが好きなのだ。それを直接彼女に伝えることはせずとも、言葉にせずとも遠目から見れば誰もが彼が彼女に心を寄せていることが分かる。

 それを隠すことなく堂々と振る舞える、恥ずかしがることなく胸を張れるのは、その様に自分のことを思ってくれる相手が一人でもいるというのは弥代からすればどちらも羨ましいったらありゃしないが、自分がそうはなれぬ事を分かっているからそこ()まりだ。その先は何もありはしない。

 ともあれ、そんな彼であるからこそやはり弥代を元気づけようなどという考えで来てくれたことはないことを再認識することができ、適当に「どうだか……」なんて返しをした。

 いや、これでいい。これが彼と弥代の間における適切な距離感だ。あくまで弥代も彼も、その間に扇堂雪那という存在がいなければ顔を合わせることも言葉を()わすこともない、他人の関係で片がついてしまうのは事実なのだからなんの疑う余地もありはしない。そう、なんだ。だから別に、そんな何かを期待なんかしていない。彼女と先日あんな会話をした(あと)だ。自分ではない、彼女の肩を常に持つ彼が――藤原和馬が自分の、弥代の心配などするわけがない。だって本当に、本当に彼と弥代は決して親しい間柄などということはなく、あくまで他人であって。だから……なのにッ、

「ちゃんと帰っといで。」

 ――――思い、出した。






「――弥代ッ!」

 腕の中に強引に収めたつもりの温もりが、いつの間にか居なくなっていて。布団を代わりに掻き抱きしめているとその(うち)に部屋の(ふすま)が開いて、廊下から顔を覗かせる眩しい彼女と目が合った。

 目が合うなり耳馴染んだ大きなハキハキとした声が自分を呼ぶのに対し、寝起きの弥代の声は自分でもひどいと思えるぐらい小さなもので。こんなものではいくら近くても聞こえやしないと、またいつぞやみたいに耳でも(つね)られたりされかねないのではないかとついつい身構えてしまうのだが、しかし弥代の予測に反して彼女――桜は慌てて口元を手で押さえると両手に抱えていたお盆を器用に片手で持ち直し、そうして部屋に入るなり弥代の前に膝をついて顔を近づけてきた。

「ごっ、ごめんなさい弥代っ! わ、私ったら大きな声で今日は喋っちゃダメって言われてたのに、弥代の名前おっきな声で口にしちゃったわッ⁉︎

 お……っ、怒られちゃう……かしら、」

 扇堂家の屋敷を出てから恐らく二刻は過ぎているだろうという頃合いだろうか。大通りから一本内側へと入った、それでもそれなりに太い通りに面している春原討伐屋の詰所の中でも通り側に当たる西側の部屋を与えられているのが桜だ。中庭に繋がる廊下とは真反対の、弥代が背を向けている窓際の方は、締められはいるのだろうがそれでもガヤガヤと声が聞こえており、道を行き交う者が多い時刻であろうというのが(うかが)えた。

「別に…………、良いんじゃねぇの。よく、分かんねぇ……けど。」

「なんでよ⁉︎弥代のことじゃないのっ‼︎これからお使い頼まれてちょっとの(あいだ)(ここ)を留守にするって聞いたんだからねっ‼︎ でもなんだかとっても大切なことだからあんまり人には……話しちゃ、ダメって!」

「ん……そう、だな。ダメなんだってよ、あんまりバレちゃあな。」

 曖昧な返事しか出来ない。どうやら彼女はあまり此度の弥代への屋敷の処遇については聞かされていないようだ。これが彼女に対してだけなのか、あるいは屋敷で一時過ごしていた弥代を始めとした相良や春原(すのはら)館林(たてばやし)といった者らしか詳細を聞かされておらず、討伐屋の伽々里(かがり)芳賀(よしか)も桜同様に共有をされていないのだろうかを弥代は考えた。だがそれも、桜が閉め忘れた(ふすま)越しに廊下から此方(こちら)(のぞ)いてくる伽々里の眼差しが答えを物語っていた。

 そして、桜が部屋に持ってきた軽い食事を済ませた(のち)、あまり踏み入ったことのない奥座敷に一人で()るようにとだけ言い残して伽々里(彼女)は襖を()じ弥代の視界から消え失せた。

 桜はまだ春原討伐屋に来て日が浅い。といっても七月が(なか)ばに差し掛かるよりも前のことで。花火が打ち上がったあの晩から八日ほど弥代は目を覚ますことがなかった為に月の三分の一ほど日付感覚というものがズレているのはそうだが、それでもまだ教えられる、伝えられる内容に差はきっと(しょう)じるものなのだろう。

 討伐屋は妖怪討伐を生業(なりわい)とする集まりではあるものの、里における立場は屋敷からの依頼を主に受ける何でも屋に近い部分があるにはあるが、あの狭い海沿いの宿屋で多くを(まな)べずに育った桜の知っていることはとても(かぎ)られていて。でも、そうだとしてもどのような(かたち)であっても共有され、何も聞かされてはいないという状況に桜がなっていなくて弥代はとても安心した。本当に、良かった。

「そっ、そうよ弥代! 見てコレ! 私!私が頑張って握ったのよっ!初めて熱々のお米なんて握ったから少しだけ……ほんの少しだけよ、変なカタチになっちゃったけど絶対不味くなんかないんだからね!

 嘘じゃない本当なんだから!食べて……みて?」

「分かった……分かったからそんなにがっつくなよ。」

 なんやかんや、桜を前にすると弥代はいつも押され気味になってしまう。それで別に気分が悪くなる、ということは決してないのだが、自分をこうまで直接近くで振り回すことが出来る、自分などに構ってくれる桜は明るく、誰にでも優しい子なのだろうな、とそう思えてならない。

 そして、そんな優しい彼女とも、もしかしたらこれが最後になってしまうのかもしれないと思えば、少しだけ胸が苦しくなった。



 榊扇の里において、“色持(いろも)ち”の事情に精通している、なんなら桜がこの里へやって来るに至った件を一枚どころかかなり噛んでいた相良が属する討伐屋が一番信頼がおけた。弥代自身に他に思い当たる相手がいなかったと言われればそれまでなのだが、討伐屋が信らいのおける場所である事実が揺らぐことはなかった。

 何よりもいざとなれば自分同様に人ならざる存在であるが、人に(ふん)し、人の生活に(まぎ)れる薬師様(やくしさま)なんどと尊敬される伽々里という存在もいる。弥代なんかよりもずっと人というものを熟知していて、誰かを導くことが容易に出来てしまいそうなぐらい多くを知っている彼女だ。討伐屋がなくなる、というのは流石に言い過ぎかもしれないが、そうなったとしても伽々里(彼女)に好かれていれば桜の身の安全は保障されることだろう。何の心配も()らない。

 奥座敷に呼び出され、明日の簡単な流れを相良の口から説明を受けた弥代は、そのままその場に同席をしていた伽々里に対し、それらの(むね)を口にした(あと)、深々と頭を下げた。普段の弥代なら絶対にしないことだ。

 だからだろう、当然のように伽々里は驚いた顔をしていた。((いや)、伽々里だけではない。話しを終えたばかりの相良もまた分かりやすく驚いた表情を浮かべていた)

 だから、「俺がもし帰ってこれなくても絶対に気にすんなよ」なんて、弥代は伽々里に言った勢いのまま桜に言って、そしたら頬をすぐさま力強く(はた)かれたのを思い出した。



「――ンぐっ」

 肩を震わせながらも小さな声を漏らす男を、弥代は信じられないモノを見るような顔で見た。

「…………なに、笑ってんだよ?」

「いっ……、いえ、そんなだっ、誰がこのような状況で笑うなど、とッ」

「笑ってるよな……、これで笑ってねぇは無茶があんだろ?」

「わらっ、笑いませんよ……いえ、その……っ、はっきりと覚えているというだけでして、まさか……まさか貴女、堂々とよくあの様な事を言えるものだと、私はただただ感銘を受けただけ、でして……っ、そ、そんな……この状況を考えてください。どっ、どううすれば笑えますでしょうか?」

「…………。」

「た……ただの、冗談ですってば。」

 しかし、事実だ。

 あの日、討伐屋で桜に(はた)かれたのは紛れもない事実だ。以前藤原和馬に遠慮なく頬を拳で殴られたことがあったが、弥代の記憶が正しければ先日の桜の方がずっと強かった。拳、じゃない平手(ひらて)で、だ。

 彼なんかよりもずっと小さい、けど自分よりは少しぐらい大きいだけ。扇堂雪那の身の回りを常に気遣う付き人という立場であり、暇を見つけては体を鍛えることがある彼とは違い、これまで宿屋で小間使い同然にこき使われる事ばかりで、働きに見合った食事も満足にさせてもらえない、筋張った細い腕の一体どこにそれだけの力があるというのか、信じられずに(はた)かれたことで熱を持つ頬を抑えて呆然とすることしか弥代には出来なかった。

『馬鹿っ‼︎ 弥代のすっごい馬鹿ッ‼︎』

 痛みの方が深く印象に残っていたため、そもそもどうやって痛みを貰ったのかを弥代はあまり覚えていなかったが、ここに来てやっと、ゆっくりと時間を掛けることでやっと思い出してきた。

『どうして……っ、どうしてそんなこと言うのよ?

 なんで……、なんで帰って来ないみたいなことそんな風に言うのよぉぉおおッ‼︎』

 泣いて、いた。桜は泣きながら弥代の胸を何度も叩いていた。弥代はただ……ただそれを、桜の気が済むまでさせてやることしか出来なくて、だから……だからなんで彼女があの時泣いていたのかもよく、弥代は知らない、分からない、ままだ。

「おやおや、ここまで思い出せておいてまだ分からないなどと(おっしゃ)るのは何かの、……ご冗談でしょうか?」

「…………ぇ?」

「話している(うち)に私がなんと貴女に(たず)ねたのか、それをお忘れになってしまったのですか?」

「わっ、忘れて……なんかッ、」

 

『ねぇ、弥代さん。本当にそうなのでしょうか?

 私は、……私は貴女ではないので分かりませんが、貴女の今の言葉は何も、貴女があの里に居ていい理由が他に一つもないと、その様に聞こえました。

 はたして――』

「はたして、本当にそうなので、しょうか?」

 相良は、(たず)ねる。

「本当に何も、貴女は何もないと言い切ることが出来るのでしょうか?」

 その言葉は、先ほど耳にしたのよりもずっと、ずっと優しく、

「本心からそう、お思いなのでしょうか?」

 それは紛れもない、光だった。

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「なりませんか、あのお二人は貴女があの場所に帰ってもいい【理由】に。」

「り、ゆう…………」

 貴女が言ったのですよ、と相良は続けた。

「言った……、いえ【理由】というのはあくまでも私がそうと言葉を選んだだけに過ぎませんので、貴女が言った、というのは嘘になってしまいますが。

 では、【意味】でしたら如何(いかが)でしょうか?」

「……よく、違いが分からねぇよ」

 しかし言ってから、直ぐに相良は訂正を(はさ)んだ。はたして、これが本当に正解であるかを、相良自身分かっていない。やれることをやったつもりだ。自分に出来そうなことをなるべく(つと)めた。その中で、昨日の除いた二日間の弥代とのやりとりにおいて全く弥代の心が傾かない、此方(こちら)を見ようとしていないことにやっと気付けた。

 見てくれるわけがないのだ。だってそもそも相良が見ていた弥代は弥代であって弥代ではない。今相良の目の前にいるたった本人ではなく、自分以外の誰かから聞かされた話で(かたど)られただけの弥代、であったのだから。

 当事者よりも物事の是非を当事者以上に判断する言葉に岡目八目(おかめはちもく)というものがある。

 自分はどうしても人と違うものが()えてしまうものだから判断材料に余計なものが(くわ)わり、それで本質を誤って捉えてしまうこともあるものだから、と。自分に見えるものだけに頼ることなく、身近な信頼のおける相手や、関わりを持つ相手の言葉にもよく耳を傾けるように過ごすことがこれまで多かったと思うが、まさか逆にそれで見誤ってしまうことがあろうとは思ってもなかった。

 そういう点を(かんが)みてみれば、やはり自分はまだまだ未熟だ。知見(ちけん)がどうにも浅い。

 そもそも、元を辿るなら弥代を今の状況まで追い詰めてしまった非は相良にある。藤原和馬との件については遠目ながら目にした、偶々話し声が聞こえてきた程度ではあったが、討伐屋において桜とのあんなやりとりがあった(あと)に機会を完璧に見誤ってしまった。

 里を出る前に手離させることが、弥代から預かった方がいいという考えが今にして思えばあまりに焦りすぎていたように思えてならない。

 頃合いをもっと見定めるべきだった。なんなら屋敷を()つ前にゆっくりと時間を掛けて説明を行うべきであった。それさえあればこの様な、こんな周り(くど)いことに時間だけでなく労力や気力を(つい)やすようなことにはならなかったろう。

 しかしながらそれと同時に、これら全てのやりとりがなかったとして、相良は弥代を今後も含めて一生深く()ることは(かな)わなかったとも思えてしまうのだ。

 それは――それは(けっ)して自分が見誤った、自分の非を素直に認めたくないから出てくる【言い訳】というわけではない。断じて、違う。そんなわけではなく、本当に心の奥底、本心からそう、思うのだ。

 こうして日を跨ぎ、何度も向き合う機会を、それらを(こころ)みたが(ゆえ)にやっと、やっと相良は弥代を()った。誰かから()いたばかりで(かたど)られた弥代ではなく、弥代という【人】がどのような相手であるかを()ることができた。

 これで今後の懸念される要素はある程度を取り払うことが出来たのじゃないか、とそう相良は考えた。

 だから、だから相良は弥代のその手を取った。いつまでも相良の服を掴んだまま離れない、縋り付くだけだったその指を一本一本丁寧に(ほど)いてやる。大丈夫ですよ、とどこか言い聞かせるように。貴女がそう捉えていただけで、貴女にはキチンと帰る場所があります、と言葉を声にして。

「貴女は、大丈夫で――」

「なに勝手に終わらせようとしてんだよ?」

 声が、聞こえた。






 視界に一瞬にして溢れ出す荒々しい波を前にし、相良は目を見張った。目の前で何が起きたのか、一体全体何がどうしてそうなったのかがまるで理解出来なかった。(いな)、そうではない。それは、その光景はあまりにも相良の理解の範疇を越えていた。

 弥代の体が纏う【気】がここにきて、激しい揺らぎを見せたのだ。その波長は、大きいなどという言葉では表現しきれぬ程、ひどく不安定な形を()して()く。

「弥代……さん?」

 相良は手を、その手を離してしまった。

 掴んだばかりのその手を、(ほど)いてやったばかりの幼い、彼女の、手を。

 それは癖に近かった。その全貌を把握しようと、視界にそれが映り込んだ瞬間、慌てて距離を取ってしまった。ほんの、数歩。後ろへと遠退(とおの)いてそれを視界に収めようとした。しかし、それは(かな)わなかった。それはあまりに荒々しく、しっかりと見えているはずの弥代の姿が霞むんでしまうほど色濃く、まるで弥代を呑み込もうとでもしているかのように、相良志朗の目には映って()えたのだ。






「……よく、違いが分からねぇよ」

 弥代は困ってしまった。

 なんだか急に、いろんなことがここに来て不安になってしまった。どうして、どうしてそもそもこの男は今更、今になって弥代に対してこんなにも懇意に接してくれるのだろう。全くその意図が分からない。

 意味、だとか理由、だとか。そんなもの、そんなものを差し出されたってただ困るだけだ。

 でも、けれども光を見た、気がしたのは嘘ではない。

 いいんだ、と思った。まだ俺、あそこに帰ってもいいんだ、と思えた。何もないと思っていた。自分には何もない、彼女が、扇堂雪那が自分に与えてくれたものしかあの里にはないのだと、ずっとそう思っていた。けど、相良に言われた言葉を皮切りに、そうでもないんじゃないか、と思え、たんだ。彼女が与えてくれたものだけじゃない、その関係になんと名前を付ければいいのかさえも弥代は分からないけど、それでもあの里には彼女を(かい)するんじゃなく、弥代自身に帰ってきてほしい、と弥代が帰ってくることを心の底から望んでくれる、そんな存在がいるのだということを知ることが出来た。

 それだけで十分だ。一人、じゃなくて二人も()てくれるなんて、なんて心強いのだろう。帰りたい。早く帰りたい。帰って、今ままで二人から言われたことはまだないけども、その声でおかえり、なんて出迎えてもらって、それ――――で、

『おかえり、弥代。』

(――――――ぁ、)

 どう、して……だろう。今の今まで、弥代は忘れていた。相良と話すようになったここ数日は特に、その存在をいつの間にか忘れてしまっていた。忘れて、忘れてしまっていいはずがない、何があっても忘れてはならない、絶対に忘れちゃいけない存在、だ。

『弥代?』『やし……ろ、』『……弥代。』『弥代っ!』『弥代』『やーしろ!』『や、しろ?』『ねぇ、弥代…、』『弥代……弥代ってば!』『弥代ったらもぅ……』『弥代?』『弥代……。』『弥代』『やし――』

「本当に馬鹿なヤツだねぇ、お前は?」

 声が、聞こえた。

「もうちょっとだったのにねぇ、救いようのないお馬鹿さんだ。あんまりにも愚かなものだからさぁ、いつかその(うち)愛着が……、なんてことがあったりしたりするのかなぁ?

 これ以上がない僕が?と分かってはいるつもりだけども少し、興味が湧いてきてしまったよ。ねぇ――弥代?」

 解かれた指に、声の主のものであろう指が、音もなく重ねられる。

「僕を選んでくれないの?」

 ――ち、がう。

「僕なんかよりもこんな男がいいの?」

 ――そうじゃ、ない。

「違くないだろうぉ? だって現に僕じゃなくてこの男に手を取ってもらえて、いっぱいお話きいてもらえて嬉しくなっちゃったんだからさぁ?」

「そんなんじゃない――ッ‼︎」

「だったら証明してみろよッ‼︎」

 耳元で大声を出されたのに驚き、強く弥代は目を瞑った。でも次の瞬間には直前とは真逆な、優しい声にほら、と(うなが)され、言われるがままに素直に閉じたばかりの瞼を開く。

「刀、だ。」

「お前が後生大事に、でも長年自分の意志ではどうしたって抜くことが出来なかった刀だぞ。僕……僕には分かる。あの唐変木のような男のものもあの男が預かっていたなぁ……でも間違いない、間違いなく今あの男が持っている、風呂敷(アレ)に包まれているのはお前の刀だ。

 分かるか、弥代? 全部言わなくたってお前は分かるよな。お前はそれなりに賢い、馬鹿なんかじゃない、馬鹿だったらもっと、とっくにもっといっぱい失っていたはずだ。お前が最小限でどうにか、どうにか失うのが済んでいるのはお前がそれなりにこれまで頑張ってきた証だよ。だから、だからもう少しだけ見せておくれよ?お前がこれからも一人で頑張ることが出来る、その証拠を他の誰でもないこの僕に見せておくれよ―――弥代ッ⁉︎」

「――――――ぁ、ぁあ。」



 それは、それは弥代の刀だ。

 あの日、あの雪の降り頻る晩に怒りに身を任せ奪ってしまった、その命の重みが全て乗った、そんな刀だ。

 でも同時に、弥代がどうしても思い出せない過去の、大切な手掛かりでもある。

 人の命は多く奪ってしまった(おぞ)ましい刀だ。今も刀を意識して抜こうものなら、ありもしない幻影のようなものが纏わりついてきて、それで息が詰まり、まともに動けなくなってしまうことだってある。あくまでも護身用。自分の身をただ守るためだけなら鞘から刀身を抜く必要などどこにもありはしない。そんな、そんな刀である。でも、でもその刀がなくては、なくては弥代は何も出来ないのも本当のことなんだ。

 弥代、弥代には何もない。“色” なんかを持ってこの世に生まれてしまったから、女の身であり弱い立場にずっと立たされているから、家族と呼べる存在が一人も()らず誰かに頼る(すべ)すらまともに知らずにこんな、こんな遠い場所まで来てしまったから。

 でも、でもその刀が、刀さえあればそれで、どうにかなるんだ。どうにかしてきた。これまでももずっと、そしてこれからもずっと、どうにか、なる。

 それは本当に本心か?

 疑う余地など、付けいる隙などどこにもありはしない。

 でも、けど――――っ!

「刀を返してくれよ、相良さんっ‼︎」

 結局は、弥代はそういう奴なのだ。

 弱い、ひどく弱い自分を隠すのに必死だ。

 こんなことせずに居れるのなら、それ以上は何も望まない。期待なんて、絶対にするものか。







 相良はそれが――それはかの存在が弥代に齎した影響である、とそう認識した。しかし、距離を取り束の間ではあったがその様子を遠目ながら観察し、そうではないと自分の考えを、認識を改めた。

 初めは間違いなく、西の鬼が残したであろう【気】のように見てとれた。だが、違った。そうではなかった。それは、しっかりと目に見えていた。

 見るに堪えない、葛藤のようにも見えた。

 いや、違いないだろう。

 相良は弥代がどれだけ長い間それらを抱え込んでいたのかを知らない。弥代自身の発言から分かる範囲では五、六年だ。ただここで持ち込むと話は大きく変わってきてしまうやもしれぬが、弥代は人に近しい見た目をし、人の世に慣れ親しんでいる人ならざる存在――【鬼】と、呼ばれる存在だ。今の弥代が抱えている以上、弥代自身も気付いていない(かつ)て、これまでの積み重ねがあるのやもしれない。そしてそれらがあるのではないか、と憶測を立てた上でのこれは何の確証もありはしない仮説に過ぎないのだが、それらがここに来て一度に弾けた可能性を相良は考えた。

 もしかしたら相良の考え過ぎ、なんてことはよくある話だ。しかし、一概にそうではないと断言することも難しい、そう考えた方が十分に納得が、合点が行くと、いうだけの話で。

 で、あるならば、それは弥代が発露(はつろ)するそのきっかけを与えてしまった自分にやはり非がある。

 こんな重要な役割を(にな)わねばならないのは金輪際二度とごめんだと、思いはするのだが、この場における責任はしかと取らねばならない。

 相良は弥代を見据えた。

「まったくもって貴女という方は……、本当に手間の掛かる、実に面倒くさい人ですね弥代さんッ!」

「えぇ、ですから今晩は――今宵は貴女がこれまで溜め込んできたものを、どうか全てぶち撒けてしまいなさいッ‼︎」

 弥代は、駆け出した。



 弥代の目当ては明確だ。

 高らかに宣言したようなものだ。だからこそ、相良は自身が背負う、風呂敷に包んだ刀を何があっても弥代に明け渡してしまわぬように応戦した。

 走る勢いを一切弱めることなく、その勢いに乗って伸ばしてきた左腕を、自身の腕を使い払いのけ、重心が傾いた弥代の右胴に狙いを定め蹴りつけた。

 単調で短絡的な動きは見極めやすい。なによりも今宵は月がとても満ちている。ここのところあまり日付を気にするだけの余裕(ゆとり)がなかったものだから把握しきれてはいないものの、今宵の満ち具合を見るからに今宵が正に明月(めいげつ)であるやもしれない。硝子板越しに迫る手を(さば)くこと事態そこまで得意ではなく、(まばゆ)すぎる月光が時折反射して視界を遮りかねない可能性は十分にありうるのだが、そうはならぬようにと冷静に対処することが(かな)うぐらいには、今の相良には余裕があった。

 既に、十分すぎるほど遠回りを、時間をかなり()いた。挙句、一度は掴めたと思えたその手を、あろうことか手放してしまった。意図(いと)したことではなかったとしても、それが弥代を今の状況まで、より一層追い詰めたと見ることが出来てしまう。それは、それはどうしたって許し(がた)い、享受し(がた)い結果だ。相良は誓った、弥代の為に言葉を尽くす、と。相良は決めた、弥代の手を取る、と。相良は諦めなかった、弥代をことを。

 それは(ひとえ)に、春原の為であったかもしれない。

 それは(ひとえ)に、扇堂家から受けた命令があったからかもしれない。

 それは(ひとえ)に、新しく得られた居場所を失いたくなかったからかもしれない。

 いや、違う――そうでは、ない。それだけでは決してない。

 それは、それは今になって気付き、分かったことだ。気付くのが遅なんて自分が誰よりもよく分かっている。しかし本当のことなのだ。あれから二十年以上経っているというのに、心の奥底で相良は未だにあの日の救えなかった自分と歳が同じであったという“色持(いろも)ち”の、青みの強い髪色をした幼子(おさなご)を救えなったことを後悔している。

 後ろ手で縛られ、地に膝をつくも恐怖からか身を必死に震わせる、それでも“色持(いろも)ち”であるが(ゆえ)に“色”も持たぬ大勢に逆らうことが出来ずに晒したくもない首筋を晒し、死ぬかもしれない、これから味わわねばならない苦痛を我慢しなくてはならなかった、結局最後には無惨にも奪われてしまったその幼子に、()しくも似た青い髪をした弥代が重なって見えてしまったのだ。

 だから、というのはもしかすればただの後付けかもしれない。説得力に欠ける、もしくは人によってはあまりに適当すぎる、あるいは馬鹿げていると思われてしまう可能性だってあろう。でも、それでも――ッ‼︎

「貴女は本当に手間が掛かる!

 自称していた歳はおいくつでしたでしょうか?数えで十七などと冗談は止してください!貴女なんかよりも桜さんの方が十分に物事の分別が出来ますよ!

 口先ばっかり(たい)して何も出来ないくせして……、いい加減に大口を叩くのも止められては如何(いかが)でしょうか?

 身の丈に合った振る舞いを、()ずは覚えるべきではありませんか⁉︎」

(うるせ)ぇなッ‼︎そんなの……っ、言われなくたってそんなのッ、俺が一番分かってんだよっ‼︎」

「分かっていないからいつまでもそんな調子なんではありませんか⁉︎地頭がいい胸を張ることもあったそうですが本当に地頭がいいのでしたらやるべきことが何であるかぐらい見極めなさい‼︎大口を叩くのはそれからです‼︎」

「ふざけんなっ⁉︎ムカつくんだよっ、ずっとずっとアンタのことが俺は……っ‼︎あーーーーもう本当にそういうところがさぁぁぁああッ‼︎」

(わめ)くのだけが一丁前(いっちょうまえ)で何が得られるというんですか――っ⁉︎

 付き合わされる此方(こちら)の身になってみなさい!その(うち)誰にも相手にされなくなるのも時間の問題ですよ?」

「うるせぇんだよっ‼︎俺の自由だろ、そんなのはっ!」

「えぇそれは貴女の自由です!ですが――、ですがそれだけでは貴女は一生いつまでもそのままですっ‼︎」

 いつの間にか随分と互いに泥まみれだ。そういえば昨晩は夜間(やかん)に雨が降ったらしく、今朝になって大井川(おおいがわ)川越人足(かわごえにんそく)の手を借りて川を渡る際、水の深さがどうの、と絹が対岸に渡った(あと)もその場を離れるギリギリまで彼等と何やら話し込んでいた。

 その夜間に降ったであろう雨の影響が広範囲に(およ)んだのだろう。海沿いに暫く続いていた街道であったが島田宿(しまだしゅく)を越えた遠江国(とおとうみのくに)に踏み入ってからは比較的内陸(ないりく)側に道が続いていたものだから、水気の多い海辺からも離れたことで泥濘(ぬかるみ)も少なくなってきたと思っていたがそうではなかったようだ。

 (いや)(しお)(みち)と呼ばれる信濃国(しなののくに)へと(つう)ずる道がそのまま海へと続くとする、(かつ)掛川城(かけがわじょう)によって栄えていた城下町としても知られる掛川宿(かけがわしゅく)は人の行き合いが多い分、荷馬車や牛車の行き来も同じだけ多く、大きな通りは道の泥濘(ぬかるみ)が特に酷く。それは宿場町の(かん)の街道周辺、辺り一帯に元より染み込んでいるのもあるのだろう。

 その為、分かりやすく飛びかかってくる弥代の動きを()なそうと受け流すと、そのまま泥の中を転がる。が、付着した泥をものともせずにまた馬鹿の一つ覚えのように()りずに突っ込んでくると、自分が転んだというわけでもないのに、弥代が纏った泥を間接的に相良は浴びることとなり、勝手に巻き込まれている状況に(おちい)っていた。だからといって他に手立てはない。弥代が全てを吐き出し()える、弥代の気が済むまでただ相良は付き合うというだけ。がしかし、それもいくらか続けていると流石に薄れていくもの。気が済むまで付き合ってやるなどという気概はもう少しすれば殆んどなくなってしまうだろう。それほどまでにただ、しつこい。

 けれども、それでも相良は言葉を返す。弥代へと言葉を送る。響かずともいい、拾われずとも構わない。それが目当てで言葉を(はっ)しているわけではない。相良はただ、ただ弥代の言葉に、それに最後まで返せる相手が今はいるのだと分かってほしい。それだけ、なのだ。

 少なくとも相良がいる(うち)は、相良が傍にいる(あいだ)はいくらでも弥代に付き合おう。今日のようにどうにもならないぐらい鬱憤(うっぷん)が溜まってしまって、それでどうしようもなく動けなく、他のことに手がつけられなくなってしまうようなことがあれば、それを晴らすために手を貸そう。

 間違いばかり覚えてしまって、何が正しいのかがわからないのなら一から時間をいくらでも掛けて納得するまで付き合おう。

 道が分からずに迷子になってしまうのではあればその手を取り、助言をして歩むべき道を指し示してやろう。

 もし踏み出すのが怖いというのなら、先に大人である自分が踏みだして、これで大丈夫だとその不安を取っ払う手伝いをしてやろう。

 帰る場所がなくて辛いというのなら、その時は――――、

「その時は、貴女が帰る場所を見つけられるように、

 貴女が帰りたいと思える場所を作れるその日まで傍にいて差し上げましょう‼︎」

「うるせぇんだよッ‼︎信じねぇぞ……俺はアンタのそんな言葉、嘘ばっか……誰が、誰が信じてなんかやるもんかッ‼︎」

「ふふっ、そうは言いますが貴女……なんですか本当に威勢がいいのは最初ばかりで、全くこれぽっちも怖くなんかありませんねぇ?まさか貴女に可愛げがあるなんて感じる日が()ようとは、(わたくし)思ってもみませんでした。」

「なん、で…………どう、してっ、」

「なんですか?言わなくては駄目ですか?

 …………そうですねぇ、()いて言うのなら――」

 私、かなり意地っ張りなんですよ、と相良は言った。

「ですからね弥代さん。私ですね、貴女に二度も買い被り過ぎだなんて言われたのに腹が立ってしまったのですよ。」

「………な、なんて?」

「いえ、ですから……(わたくし)、これでもそこそこ人を見る目には自信があるのですよ。自信があった上で貴女が出来る方だとこれまでそれなりに評価をしてきたものを、貴女程度の方に一度ならず二度までも、その評価は間違っている、と(あん)に言われたのがとても……とても、腹立たしかったのですよ。えぇ、それはそれはもう俗に言う(はらわた)が煮え繰り返りそうになるほど、という言葉が適するぐらいには、です。ですから……ね。そうなると貴女が私の思うぐらいまで成長しない限りは挽回のしようが、貴女に前言を撤回していただくのも難しくなってくるではありませんか?

 つまりは、そういうことです。」

 その手を、相良は取った。

「これからもまだ暫くは、どうぞよろしくお願いしますね弥代さん。」

「え………ぁ、え?」

 憑き物がすっかり取れたかのような弥代の表情は、これまで相良が見ていたどの弥代よりも幼く見えたのは言うまでもない。

 あぁ、そうだ。あの日の自分が救うことが出来なかった“色持(いろも)ち”の幼子に重なって見えた、というのはやはり余計であったかもしれない。それだけ必死であると自分に言い聞かせるためだったとしてももっとマシな言い分が、理由を繕うことは出来たはずだ。

 たとえば今ならそう……

「そういえばですね、貴女ずっとまともにどうせ会話は出来ていないのでしょうが、絹さんが貴女とじっくりとお話をしたいのだと嘆いておられましたよ?」

「んぇ……あ、そっか。俺、ずっと会ってからこんな、だったから、」

 旅は道連れ、世は情け、という有名な言葉ある。旅においては道連れがいることが何よりも心強く、それが世を渡る上では情けになってくるという意味合いであったはずだが、それが旅であっても世であってもどちらも同じ相手であったほうがより心強く思えるから、というのは……いや、いざ並べてみるとそれほど説得力はあったものじゃない。

 が、心強くなくともどうせなら、互いをよく知れた、()った仲の方がきっと居心地の良いものとなるだろう。

 一頻(ひとしき)りそんな事を考え()えたあと、相良はやっと深い息を()き、瞼を閉じてこれまで考えまいとしていた現実に目を向ける。

(服の泥……、ちゃんと全部落ちますでしょうか……)

 空は、(しら)み始めていた。















 いやはや、腹立たしいことこの上ないね、全く?つまり、なんだ?僕、もしくはあの子はこの馬鹿の発散に上手いこと利用されたわけだ?本当に身勝手にも程があるよな?無意識の(うち)にやってのけるものだからさ、(たち)の悪さだけなら例の……なんて名前だったかな?興味のない奴の名前覚えるの嫌いなんだよなぁ……友だちの、前髪が鬱陶しい女よりも上なんじゃないかなって、まぁそれだけの話なんだけどさ。

 いや、これも何もかも全部僕の独り言さ?なんだよ本当に……一度だってそんなことをしてくれなんて僕が言ったかい?言った覚えはないんだけどなぁ、いやだからあお前のそういうところだよ腹立たしいったらありゃしない。

 ……まぁ、でもね。やっぱり刀は必要だよねぇ?いざという時、さ。あの忌々しい女を殺すのに刀は必要不可欠だよ。だから……ね、少しやり口を変えようか?あぁ、安心しろよ?どうせ目が覚めたら何もお前は覚えてなんかないんだからさ。これまでと違って引き摺る必要は今はないんだ。そう、今は……ね。

 だからまたね、弥代。

 また、またその(うち)にでもよろしくね。

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