二十一話 類似
春の霞に、秋の霧。
どちらも意味するところ、指す事象は同じであるというのに名が異なる。
また、霞はたなびくものと記すのに対し、霧はたちのぼるものとされ、逆となる霞にたちのぼる、霧にたなびく、などと記されることはないそうだ。
「それが、どう関係あるってのさ。」
横並びに腰を落ち着かせる。
話したくないというのなら、視線の先にある焚き火にだけ意識を向けていればいいというのに、適当な相槌でもあればそれだけで相良という男には十分であることぐらい知っているだろうに、わざわざ弥代は口を挟んできた。まごう事なく、弥代自身の言葉で。
数日前まで揺れ動いていたモノへ、目を呉れる余裕すら今はないのだろう。自身が内側に抱える感情で手一杯になっている。一々視ずとも分かる。
二度とそれが表へと出てくることを、弥代に影響を及ばぬことを願わずに相良は居られないのだが、願うなどと他人任せは良くない。
「弥代さん、」
言葉を尽くすことを、相良は誓った。
毛頭無理な提案だったのだ。
弥代では、相良の望む結果を得ることは出来なかった。そもそも以前から相良を相手に、弥代は彼の期待に応えれた覚えそのものがない。よろしく願いますなんて頼まれたって、任されてくださいなんて頭をいくら下げられたって、弥代だけの努力で終わらせることが出来たことは一度だってない。
だと、いうのに。
湯に浸かり終え、布団が用意された部屋に戻ろうとした際、宿屋の廊下にて呼び止められた。
また、なんて言い出す前には頭を垂れて、なにやら謝るような言葉を並べていたが、特別何かをされた、というわけでもない弥代は何故に相良がそんな言葉を口にするのかが理解できなかった。
だから、それが何なのか?という意図で言葉を返したのだが――
『明日の晩、また私とお話しをしてはいただけませんでしょうか?』
これ以上、彼は自分と何を話す気でいるのだろうか?そう、思わずにはいられなかった。
そして少しばかり形が変わった言葉に対し、彼は、
「俺と向き合って話がしたかったんじゃないの?」
自分の左に腰を落ち着かせた、いっそ寛いでいるようにも見てとれる相良へと疑問を投じる。
「おや、私の前に来て目を合わせて会話をしてくださいますか?」
「ヤダよ、アンタの顔見ながらなんて。絶対腹立たしいもんよ。」
「随分と手厳しいことを仰られる……。どこにでも居そうな普通の顔をしていると思っていたのですが、そんなに変な顔ですか私?」
「いや、顔だけじゃねぇよ。……なんだろ、話し方とか、表情とか……諸々ひっくるめて全部が悪ぃんじゃねぇかなぁ。」
「そう……ですか。」
目を合わせることなく、相手の表情を気遣うこともなく、なんなら瞼を閉じてしまって、今まで言いたくても言えなかった些細なことを無遠慮にぶち撒けるのはなんとも気が楽だ。
嘘は言っていない、全部本当のことだ。
弥代は正直あまり相良と目を、顔を合わせて会話をするのが好きではない。此方からは相手が何を考えているのか分からないのに、相手側は此方が何を考えているのか、それが手に取るように分かるような、なんていうのは公平ではないし気持ちのいいものではない。
弥代なんかよりも多くの物事を知っている大人である相良はそれなのだ。
そして何より、常に弥代の気持ちを見透かして、弥代が出来もしない事を押し付けてくる。馬鹿である弥代だが、それでも自分に出来る出来ないぐらいの分別はそれなりに付く。
なのに、弥代が出来っこないと手放したそれを相良志朗という男は、弥代が手放したはずのそれを大切に抱え上げ、どこからやって来たのかも分からない、弥代自身の事であるというのに当人の全く覚えのない根拠を、あたかも知ったような口で語り、自信満々に胸まで張って差し出してくる。
正直言って、嫌いだ。
相手の都合なんか考えちゃいないのだ。自分の思う通りに事を進めるようと、その為に言葉を尽くす、誰かの信頼を得ようとしている。相良志朗という男は、きっとそんな人間で。弥代はそう、そういう風に思い込むことにした。だってそうでもしないと、そうでもしないと期待してしまいそうになるから。どうしようもない人間なのだと、そうやって自身の中で思い込むことで、これ以上どんな事があっても、心を委ねてしまわないようにする。
どこまでが本当の彼で、どこまでが弥代が都合よく思うことにした彼なのか、その境界がもっと曖昧になってしまえばそれで、きっと――、
「正しさに、そこまで貴女が固執する理由はなんですか?」
弥代は、相良を諦められる。
蒙霧升降、風知草 二十一話
「正し……さ?」
「えぇ、そうです。
これまでなんやかんやあって、貴女と私は話す機会もそれなりに……と言っても、それらは最近になって、ばかりとは思うのですが、それでもやはりそれなりに多かったと思うのですよ。
同じ屋根の下で暮らしている、家同士が近く足繁く通うような仲、というわけでもありません。とはいえ、討伐屋に仮にも席を置く、自分では面倒を見きれないからと判断をし、ご自身が大切にされたいと思っている彼女――桜さんのことを私共に委ね、と。他人、と呼べてしまうような素っ気のない、味気ない仲では決してありませんでしょう。」
「……何の、話だよ。」
「えぇ、ですから私と弥代さんの――」
「――正しさって何の話だよッ⁉︎」
弥代が体を捻ると、既に相良は弥代の方に体を向けて、弥代をジッと見ていた。
「何です?」
その声色はつい先ほどまで自分と軽口を叩き合っていたものと何ら変わらない。淡々と冷えきった声などではないはずなのに、最近になってすっかり聞き慣れたはずの相手の声に違いない、のに。それが逆に、いや一層強弥代を取り乱させ、そして言葉を詰まらせた。
「おや、威勢がいいのは最初だけなのですね? いえ、威嚇というのは最初が肝心ですものね。生憎と私はその手のことが得意ではありませんのでこれ以上をどうと言えはしないのですが……。」
肩に、手が置かれた。
浅く繰り返される呼吸に反し、激しく上下する弥代の肩に手を置き、ゆっくりと息が整うのを、弥代が落ち着くのを相良は黙って待った。
時間が経つに伴れ、頭が沈んでいく。短く切り揃えられた前髪によってやがて赤い瞳が見えなくなり、最終的には頭頂部に位置する旋毛を相良の眼前に差し出す頃になって、漸く弥代は落ち着きを見せた。
「すみません、順序を見誤ってしまいました。」
薄い背に腕を回そうとすると、首元まで覆う造りをした腹掛けの、首裏に位置する釦が覗けた。
前髪同様に同じぐらいに切り揃えられた後ろ髪の、その中線から若干だが右にズレた位置で長い毛束を括る赤い髪結紐はとても窮屈そうに映る。
「――んで、」
強引に、襟を掴まれる。
「なん……でっ、」
片手はいつの間にか両手になり、静かに見下ろしていた旋毛はまた姿が見えなくなり、それと打ってかわり相良の視界いっぱいいっぱいには、怒りを顕にした弥代の表情が広がった。
「なんでアンタにそんな事、訊かれなきゃなんねぇんだよ――ッ⁉︎」
そんなの分かりきっているはずだ。
相良はまだ、弥代を諦めてなんかいない。
『いや、間違ってんだろソレ?』
大から小まで、何かにつけて弥代は間違いを指摘する言葉をよく口にしていた。
ただそれは他人にだけ向けられるものではなく、時に自身の行動をふと顧みて挟むこともあり、口癖に近い、ふいに口を衝いて出てくる大して意味のない言葉なのではないか、弥代と直接関わりを持つ以前は捉えた。
しかし、教え子である芳賀もまた、度々弥代が口にする、間違いを指摘する発言には違和感を覚えていたそうだ。
『結構些細なことまで言うんですよねぇ?
…………や、別にそれが悪いとは思いませんけど。まぁ、間違ってるなんて思うんなら直せばいいのにと思っちゃいますけどね。』
芳賀の言う通り、相良の目が届く限り、弥代のそういった言葉を口にする時は決まって、後の結果を良くしようと努力をする姿勢は一度も見たことはない。
癖というものは自分でも気付かぬ内にしてしまうものだ。そういう相良も勿論、物事を深く考え過ぎてしまうとのめり込み、普段は見えることが出来る簡単な事にさえ目を遣れぬことが、視野が狭まってしまうことがどうしてもある。
それ等を相良は悪癖であると自覚し、身近な誰かしらが居合わせている時は指摘を受けることで少しでも意識し、良くしようと心掛けているつもりだ。
自覚すらなく繰り返してしまうのなら、いつか気付けたその時、それからどうするかを考えればそれで良い、と相良は少なくとも考えていた。当然、あくまで自分の中で、だ。他者に自分のそれを強いるようなことは何があってもしてはいけない事だという、考えを持っていた。
だが、弥代のそれは違った。
相良の視界には他者の視界には映ることのない、生きとし生けるものがそれぞれ個々に纏う、相良の言葉で言い表すところの【気】というものが見える。
これを持ってして先の冬、弥代が島国の北端に位置する地において、掛け替えのない存在を失ったことを知ったのは春のことだ。
相良が会ったことのない、しかし揺れ動く【気】から感じずにはいられない強い後悔の念に、その頃になってやたらと言い訳を多く口にするようになった弥代を見て、北から連れ帰ってきてしまった亡き相手の、それの齎らした影響であるのかと当初、相良は捉えていた。しかし、実際はそうではなかった。そうでは、なかったのだ。
『じゃぁ俺はっ!どうすれば良かったんだよっ‼︎』
駿河で初めて直接弥代と向かい合ったあの晩、弥代はひどく狼狽えた。
『そのままではいつか、救えたはずのものさえ、貴女は足元を掬われ救えなかったと後悔することになるでしょう。』
そんな事を相良が口にした後、弥代の態度は急変した。それまで寸でのところで留まっていた、ギリギリの場所で踏みとどまっていたそれを。どうにか保っていたはずのモノを全て無に帰すように、今までの必死になって積み重ねてきたものを強く地面に叩きつけるかのように声を荒げた。
「そうです、ですから私はあの時、貴女が日頃より口にする、間違いを自覚しておきながらも結局何をするわけでもないその姿勢がなんであったのかの、一つの結論――いえ、仮説に至りました。」
前にも、こんなことがあった。意図せず、気が付いた時に弥代はもう既に相良の胸ぐらを掴み上げていた。
相良は弥代に対しなにも酷いことをしようとしたわけではない。取り乱した弥代を気遣い、弥代の調子が元に戻るのを傍で見守ってくれた、それだけだ。(ただ、弥代が取り乱すに至った要因は相良の発言によるものではあったが)
だったというのに、横並びになって軽口を叩きあっている時は全くそんな素振りを見せなかったというのに、彼の言葉に弥代は反射的に動いてしまった。体が勝手に、動いてしまった。
相良が、相変わらず何かを言っている。目が合う、それを真正面から、腕の長さほどしか距離がないものだから間近で見ているはずなのに、彼が何を言っているのかを何があっても聞き逃すことが出来ないほど近くにいるというのに、だというのに弥代は彼の、相良の発する言葉が、その節々が上手く、聞き取れない否、耳を傾けているはずなのに聞き入れることが出来ない。
なのに、それなのに彼が今どんなことを話しているのかの検討はついてしまうのだ。止めて、ほしい。それは、それはずっと、本当はずっと自覚があることなのだ。でも……だって、だって他に弥代は上手い術を知らないから、そうでもしないといざという時に耐えられないから仕方なく……そう、仕方なく重ねてきた、
「弥代さん」
そうじゃないとっ、そうしなくちゃ前に進めない、進まなくちゃいけないと分かっているのに進めなくなってしまう
「貴女のそれは――、」
どうしても必要だった、欠かせなかったこと、で
「ただの【言い訳】、ではありませんか?」
息が、詰まった。




